みつお記念クリニックは柏豊四季の北西部にあり特別養護老人ホーム八幡苑と有料老人ホームボンノールガーデンに囲まれた、こぢんまりした診療所で入院施設はありません。特別養護老人ホームをたちあげた先代の吉野光雄さんの記念として創設されたため、この名が付いています。
昨年のテロ事件からはや4ヶ月たちましたが、日本経済の落ち込みは激しく、医療経済も昭和60年ごろより下方修正傾向で最近はさらに加速され、月末の決算が恐ろしく、不安な日々を過ごしております。
今年は暖冬といわれながら完璧な冬到来になってしまいました。しかし、まだ1月の下旬だというのに駐車場のそばにあるイヌツゲの木に群をなしたムクドリが黒くなった実を必死につっつき、大量にあった実を全部たべてしまって次の日にはもう一粒もありません。木の実のかすを八重桜の枝にとまって下に落とすものですから、従業員の車は鳥の糞とともに真っ黒になってしまいしました。春も近いなと思わせる光景が柏でも感じとることができます。
平成11年9月よりパソコン導入で診療は手早く処理できるようになり、介護保険もなんとか順調に運んでいますし、少し時間がとれはじめましたので、道楽の話を寄稿させていただきます。内容はクラシック音楽についてです。ホームページ風に書きました。診療外で暇なとき目をとおしていただければ幸甚です。

人間が音を記録し後で繰り返し聞けるようになったのは、1877年エジソンが鑞管に空気振動を溝に彫り込み、これを再生し音を記録したのが嚆矢とされています。125年前のことで、オーディオの歴史の始まりです。この機械は眼の前で録音可能で再生できるので凄いわけですが、開発発明当初、ブラームス(1788−1895)がまだヨーロッパで生きていてグーテンモルゲンと鑞管に向かって喋った声がデトロイトのエジソン研究所博物館に残っているそうです。
その頃の日本は明治10年で政府と西郷の間で西南戦争が起こり、まだまだ不安定な時代でした。それ以前の日本は三味線、笛、太鼓の音を楽しんでいたわけですが、これを記録する方法がなく、再生して聞き直すことができなかった訳です。ここに興味深い話があります。2つ紹介します。
1つめは901年延喜元年、菅原道真は京都を追われて太宰府に流されるおり、明るい月の光の下で手箱を開き、日頃親しんでいた笛の名手に今生の別れにと1曲吹いてもらい、手箱の蓋を閉め、音を封じ込めました。そして太宰府で名月の夜、その手箱をとりだして蓋を開け、笛の音色を楽しんだという逸話があります。
イマジネーションとしてよくできた話で、耳の奥底の脳聴覚野に残っている笛の音を思い起こす、あたかも目の前で吹いてもらっているような錯覚を実話化しており、機械を使わないでのオーディオ風の話でおもしろい。
もう一つの話は陰謀の話で、984年花山天皇があの糖尿病で有名な藤原道長の陰謀話を、浄瑠璃にプロデュースした題材で芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)。
信太の森に住むきつねが、安倍の童子の母親に化けて芦屋道満と摂政藤原道長の朝廷の陰謀を企てる話の始終を、妖術で箱の中に封じ込め、わが子が長じて阿倍晴明となったとき夢枕に立って、一条戻橋の傍らに埋めてある箱を掘り起こせと告げる。この陰謀の内容が聞こえ陰謀をくいとめたという空耳のはなし。
昔から音を記録できれば旨い話はいくらでもあったのに、低レベルで恐縮だが、この間の野村サッチーの脱税工作もテープ録音していたため、ばればれでおじゃん。口は災いのもと。
さて時代は江戸末期。イギリスの医師ウィリアム・ウィルスや領事通訳アーネスト・サトーが活躍していた徳川幕府最終年で生麦事件がおこった。1862年文久2年8月21日(陽暦9月14日)のことで、事件の補償が絡み、このことから徳川幕府は急速に崩壊していくわけですが、通訳のサトーは日本に着任後、高輪の東善寺で友人のチェンバレンやアストン夫人と、ベートーヴェンの第二交響曲の緩徐楽章やシューベルトの未完成交響曲をピアノ連弾で楽しんでいたことが彼の本国宛の手紙のなかにでてきます。(遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄;朝日新聞社;萩原延壽;2001年)。
さらに日本は明治に入り、大隈や伊藤により新橋汐留から横浜桜木町まで、汽笛一声で汽車が走ったのが明治5年(1872年)のことです。地球上で科学の発展が加速的に早まった時代でもありました。
さて話をもどしまして、このフォノグラフは言葉をしまっておき、蘇らせる機械「蘇言器」として紹介されたのは明治11年(1878年)のことです。エジソンの鑞管によるフォノグラムの発明から1年後に日本に紹介されています。紹介したのは東京大学理学部で機械工学を教えていたイギリス人御雇外人ユーイングが東京商法会議所で公開したのが最初です。
医療ではまだレントゲンが発明されていませんでしたし、各県にやたら医学校がひらかれた時期でした。まだ音楽学校はなく、昨々年廃店になった十字屋が銀座にオープンしたのが明治13年で、ピアノや蓄音器を輸入し販売していたそうです。
その後、ベルリナーが1888年(明治21年)に円盤型レコードを開発し、HMVやグラモフォンといった会社が設立され、このベルリナー方式で音の記録を商売とし世界中にレコードとして売り出したわけです。
このSPレコード(standard player)の材質はラックカイガラムシという昆虫がだす分泌液が原料でシェラック剤といいます。この昆虫はインド原産です。割れやすいのが欠点ですが、いまだにインドではSPレコードを作っていると聞きました。「蘇言器」が蓄音器といわれはじめたのは明治30年からで、そのころから西洋音楽、洋楽、クラッシクを一部の日本人は盛んに吸収しはじめましたが、実際は小唄や義太夫の語りが多く発売された。
明治29年には神戸で活動写真、映画がはじまったが、このときは弁士つきで蓄音器やレコードは使われていません。明治31年には衛生学上重要な下水道が設置されています。東京村の新宿に下水道ができた頃で現在の都庁の場所に広い淀橋浄化場がありました。これを計画したのが、あの退廃作家永井荷風の父、永井久一郎であったことはあまり知られておりません。
現在でも、明治30年代研究会なるものがあり、彼らによるとこの時期に日本の近代化は固定具現化しているという(メディア・表象・イデオロギー;小沢書店;小森陽一ら;1997)。
国産のピアノ洋琴が山葉寅楠により生産されたのも1900年明治33年のことです。このことは日本のピアノ100年 - ピアノづくりに賭けた人々:前間孝則、岩野裕一:草思社/2001に詳しい。
作曲家 滝廉太郎は明治12年生まれで東京音楽学校に明治27年に15歳で入学しています。ケーベルの教授をうけ明治33年に日本最初のピアノ小曲「メヌエット」を作曲し、その後ライプチヒに留学していることは有名。その後明治後期から大正時代には「ゴンドラの唄」や三浦環の「恋はやさし」などのレコードが大量に生産販売されはじめ音の大衆化が著しい時代にはいっていきます。
大正9年(1920年)に米国で RCA が設立されて洋楽SPレコードが毎月に20組ほど発売されるほど普及してきた。大正の終わりには国内ではじめて東京音楽学校の久野久子(クノヒサコ)が女性ピアノ教授になり、ベートーヴェン弾きとして国内では有名であったが、その後ベルリンへ留学し酷評され自殺してしまったのが1924年(大正13年)4月20日、享年40歳である。このことは兼常清佐が『音楽と生活』(1935年;岩波書店)に書いている。
SPレコードをたのしんでいた輩は銭形平次の作家あらえびすこと野村胡堂、ほかがレコード芸術の前身「ディスク」なる雑誌を刊行しています。初刊は昭和5年(1930年)でこの時期の洋楽SPレコードにはシュナーベル、コルトー、パッハマンらのピアノ、コクトやサティの音楽作品やブレッヒ、クレメンス・クラウス、シャルク、クナパーツブシュ指揮のベートーヴェンがあり、クライスラー、シゲティの琴線に心ときめくレコードが大量にでまわり洋楽ファンを興奮させている。
山田耕筰が活躍しはじめたのは大正4年(1915年)で東京フィルを結成した頃からで、彼は明治19年(1868年)本郷で医師 キリスト教伝道者 山田謙造の次男として出生、明治43年 岩崎小弥太の後援で1910年ベルリンに留学、1965年(昭和40年)心筋梗塞で死亡、享年79歳でした。これは日本楽劇協会のホームページに詳しい。洋楽クラシックではブラームスなき後プッチーニ、ドビュッシー、リヒヤルト・シュトラウス、バルトーク、シェーンベルグ、ストラヴィンスキーが活躍しはじめ、クラッシク音楽も前衛的な表現が話題になりました。また話がずれてしまいました。
もどして、LP(long player)レコードになったのは1948年(昭和23年)からで回転数も78から33.33になり、これまでの数分のレコードから20分まで聞けるようになり60年のSP時代は終焉をむかえた。1957年(昭和32年)ごろからステレオとなり、1982年(昭和57年)からデジタル時代に突入、CDとなり、こんどはレコードそのものが34年間で崩壊し、SPも含めアナログレコードは94年の長き歴史に終止符をうち、いまやDVD、SACDの時代になってしまった。
もし30年前に地球をはなれているようなことがあるとすれば今の本屋やレコード屋のきらきらと虹色に輝くディスクは何物か戸惑うことでしょう。
CDソフトについては2000年から全世界各地からスペイン、スイス、アルゼンチンあらゆる地域のマイナーレーベル(375社)から月に何千発売され、これがインターネットで購入できるため、レコード屋まで出かけて棚にある在庫分をみて探す必要はなくなりました。インターネット販売をしているホームページは「カデンツア」と「アリア」の2種類をおもに利用しています。2店とも名古屋にある代理店です。ここよりソフトは充分に確保できます。充分どころか毎月溢れかえっていて選択が大変になってきました。
戦前SPレコードは月に10部程度の販売でトスカニーニやワルターなど限られた大演奏家のもののみでしたが、今はソフト情報量は4,000倍に拡大しているのが現状です。したがってヴィヴァルディ、バッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、エルガー、マーラーの時代ではなくて、これらの作曲家の間に埋もれた曲、たとえばビーバー、クヴァンツ、スタンフォード、バックス、モーラン、モシュコビッチ、フンメル、メトネル、フィンジ、ブリッジ、セヴェラック、ガーゼ、ラフ、ヒナステラなど、いままで演奏されたことの少なかった曲が、平成12年1月から大量にCD化されており、入手も簡単になりました。特に各作曲家のピアノ3、4重奏曲が響き的におもしろい。
CD発売速度は、21世紀最初の2001年アーノンクールの指揮したウィーン・ニューイヤーコンサートは1月25日にはすでに入荷していましたし、本年の小澤征爾のウィーン・ニューイヤーコンサートは歴史にのこる超名演で1月15日にはフィリップスからCDが発売され、すでに5万枚を売りさばいたとの事です。ポスターを手にいれていますので20年後には高く売却するつもりです。
これだけでも実際にオーデオ再生で音が悪ければつまらないのですが、24bitになったこととDDコンバーターの登場で俄然CDも良音質になり、アナログよりデジタル音になって20年経過で、やっと満足な道楽ができるようになったわけです。音のよさはやはり響きからすると蓄音器が最高で、これより肉声音源に近い音は不可能で電気化した状況で音は劣化し悪くなる。

わたしは昭和24年生まれなので今年で53歳になりますが、私自身の音の歴史は小学校のころからレコードをきいていて、10歳(昭和34年)の頃は大衆歌「黒い花びら」、中学生のときはビートルズやジリオラティンクエッティのサンレモ祭イタリアカンツォーネがはやりはじめ、小さなサンヨーのステレオ装置を買ってもらいドーナツ盤でLPをききはじめた。
クラシックの最初はワルター指揮コロンビア交響楽団のベートーヴェンの「運命」とシューベルトの「未完成」で3枚目は「田園」であった。「田園」は神戸大学附属住吉中学校の音楽の時間、水谷先生、男の当時60歳近い先生の指導で全員スコアを買わされ、音楽教室でダイアトーンのスピーカーからワルターの田園交響曲のレコード演奏をききながら、今何小節目かを言い当てる授業でした。これ以来クラシック音楽に填りこんでしまった。
高校は県立神戸高校で合唱部にはいりベースで3年間毎日朝7時からよる8時まで歌い続けていた。音楽はなかなか外出ができない医業にとっては手短な趣味と思う。
慈恵の医学生時代は弓道、アメリカンフットボール、と共立薬科大の女性軍とともに混声合唱団エオラス会をくんでいた。このとき後輩で入部してきた鹿児島出身の八反丸君はいまもってアマチュアテノール歌手としてオペラの歌いまくりを隣の松戸で市民活動としておこなっている。手伝いたいところだがまったく時間がない。
最終学年には学生指揮をおこない、このとき最上川の舟歌をとりあげたがエンヤコラ、エンヤコラとかけごえを繰り返すところで、男性がひとり大声でエンヤと勇み足、これがテープでのこっています。この人が精神科の恩田先生です。すばらしく楽しい青春時代でした。
卒業後は慈恵の泌尿器科教室に入局したが博士論文まで約10年間音無生活であったが、16年前柏慈恵医大勤務になって、慈恵病院の医療器材用度事務で働いている同年輩の今関さんという草加に住んでいる人と泌尿器科手術器材の購入のとき、ふと趣味の話になり、バリリ弦楽四重奏が好きでクラシック音楽、オーディオも趣味とのことで早速草加の自宅できかせてもらった。
スピーカーはボザークのモーリッシュ、驚愕音声で度肝をぬかれ、それ以来小学校からの音道楽が俄然蘇がえってきた。この時、SPレコードで常磐津を三味線できかせてもらったが、その蓄音器の音の魅力的だったことが昨日の出来事のようです。

まず蓄音器はポータブル型のHMV社の102(1928)、と卓上型HMV-130(1828)でSPレコードをたのしんでいます。これは外来の待合室で聞けるように展示しています。これらは銀座の「シェルマン」という歌舞伎座の裏手にある店で購入可能です。いつかは最高峰HMV-203を購入しようと計画中です。
LPレコードはいまのところ聞くことはなくなってしまいましたが、ターンテーブルは「ウェルテンパード」で、針はライラの「パルナス」を使用。完璧な再生音で録音が悪いLPはまったくなくなってしまいました。
CDプレーヤーはCECのLH-0でこれは昨年9月で製造中止になっています。軸の狂いがないもので、再生能力はこれも完璧です。これをイギリスdCS社のDDコンバーター、パーセルに接続して16bitを24bitに変換し、同社のDAコンバーター「ディーリアス」に通し、これをプリアンプ(マッキントシュC33)でコントロールして「ボザーク」のスピーカーで聞いています。
昨年末に24bitを1bit DSD に変換するチップを付け加えてもらったところ、音質、音の広がりがLP再生とまったく同じになり感激しまくり状態です。ダメなCDが無くなり、どのCDも居心地よい音で聴けます。付き合いのショップは吉川にある「カマニ」です。これでCDの音質はマスターテープと同じになり、超弩級にして超満足。
以前から填っている指揮者はシューリヒト、クナパーツブッシュ、ベーム、セル、ケンペ、アンチェル、フリッチャイで、10代のころはフルトヴェングラーをきいていましたが、いまはほとんど聞きません。彼の音楽が元々暗いドイツ音楽をさらに重くしているためです。
バイオリンはシゲティ、タシュナー、ヴァルガー、チョンキョンファ、前橋汀子さんを聴きあさっている。チョンは結婚して1944年生まれ今58歳でしょう。彼女のバイオリンの音色は以前のCDプレーヤーでの再生では硬質で聞けなかったが、今回のパーセルDSDで昨年の8月にラトル指揮でブラームスのバイオリン協奏曲を聞き直してみると美音で、なかなかの好演でした。
ピアニストはホロビッツとグリモーで、特に彼女は33歳フランス生まれではあるが、今は、ニューヨーク郊外に住んでいて野生の狼と暮らしている。この狼経験以後彼女の音楽表現が力強くなり、ハスキルの再来のように思える。何回かの来日公演を行っているが実演はまだ聞いたことがない。ザンデルリンク指揮モーツァルトのピアノ協奏曲23番はCDRではあるがタッチが爽やかで、テンポもピタリ、とても28歳の演奏とはおもえず、このCDRは宝物の1つです。

十念先生が約2万枚のLPレコードを保管保持されているとのこと。これを柏の芸術財産にできないものか思案中で、柏にもクラシック再生レコード音楽文化が手軽に楽しめる場所がほしい。是非十念先生には今後のことを考えてもらいたい。世界中で個人でこれだけのレコードを保持されている人はいないでしょう。
昭和28年頃でLPモノラルレコードが3,000円、当時の月給が1万円。いかにレコードは高価で、いまのCDが安いか。やすくて高度な音芸術が居ながらにして長時間味わえるのであるから音の文化の発達も猛烈である。私の現在でも探しているレコードはカルロ・ゼッキ指揮のベルリオーズ幻想交響曲です。CDでも出ていません。どなたかご存じの方は一報下さい。

人間の脳のはたらきは自然環境に影響されることは和辻哲郎の「風土ー人間学的考察」で具体表現されていますので、いまさら語ることでもありません。三島由紀夫や、川端康成の文学の世界もいいのですが、わたしは山登りはしませんが音楽と詩を語らせたら尾崎喜八以外、いや以上はいないようにおもいます。
かれの文学作品はほとんど絶版になっていますが紀伊国屋のインターネット通販で購入可能な書籍もありますので試されてはどうでしょうか。音楽への愛と感謝は毎日毎日何回も繰り返し読んでいますが、彼の本で古典音楽のビーバーのロザリオソナタを知ったのはもう随分以前のことです。
さらに昨年からシーボルトの日本での植物採取についての読み物が多数発行されはじめましたし、朝日新聞の「花おりおり」の小欄と伴に今後のたのしみがまた増えました。

昨年の暮れから急に骨董に嵌ってしまい、豆ランプ、古伊万里、江戸戯作、橘曙覧の“たのしみは”で始まる独楽吟の短歌の世界に迷入しています。今後の日本は江戸中期1820年代にもどったほうがよいのではと考える昨今です。くわしいことは次回にまわします。
たのしみは ふと見てほしく おもふ物 辛くはかりて 手にいれしとき
(橘曙覧たちばなあけみ独楽吟最後の歌)。
参考書籍
東京書籍『日本レコード文化史』 倉田喜弘/1992
誠文堂新光社『オーディオの一世紀』 山川正光/1992
朝日新聞社『遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄』 萩原延壽/2001
小沢書店『メディア・表象・イデオロギー』 小森陽一ら/1997
草思社『日本のピアノ100年ーピアノづくりに賭けた人々』
前間孝則、岩野裕一/2001
岩波書店『音楽と生活』 兼常清佐/1935
新潮社『音楽への愛と感謝』 尾崎喜八/1973
岩波文庫『黄274−1 橘曙覧全歌集』/1999
文春新書『花の男 シーボルト』 大場秀章/2001