ベルツの26年間の長き医学教師と診療の仕事を無事終えられたのはまさに内助の功、ハナのお陰である。そしてドイツ帰国時には芯の強いハナに、キリスト教の洗礼を受けさせ、明治38年(1905)6月に同伴ドイツ帰国している。
ハナはドイツ語を勉強し、完全に修得しようと努力するが、うまくいかない。ベルツ家の家族とは轗軻不遇の状態の中、ベルツ自身が胸部大動脈瘤で1913年8月31日64歳(大正2年)で死亡。その9年後の、1922年大正11年2月22日、トクとその嫁ヘレーナをドイツにおいて、失意のうちに17年ぶりに単身、日本に帰国する。その間際にトクが自分の子供の家庭教師マルタを孕ませ、今日、家をでていった事を知らされる。
ハナはマルタとその子女ゲルヒルト(現健在)のことが気がかりであったが、マルセーユからスエズ経由で神戸に帰国。住居を東京平河町石黒邸や、葉山の別荘で一人暮らしを強いられる。
関東大震災では、偶々、奈良の細原ハナ(ハインリッヒ・シーボルトの妻)の所に遊びに行っていたので、被災はしていない。しかし、家屋は崩壊し、杉並区和泉町に移転している。
ハナの最後は、従兄弟の平井忠治郎の娘青木芳子さんにみとられた。ベルツの故郷、東大病院で昭和12年2月7日73歳、胃癌で歿くなった。遺骨は下谷法清寺に埋葬され、分骨がシュツットガルトのベルツの墓に納められている。その碑にはドクトールの下に
HANA BAELZ が刻みこまれている。また、ハナの実家と考えられている豊橋市の豊川西明寺にも墓碑があり、水原秋桜子(医師)による句
「菊にほふ 国に大医の 名をとどむ」が刻まれている。
一人残されたトクも事業に失敗し、母ハナの死後、単身日本に帰国。8年後に死亡。彼の分骨は日本のドイツ大使館に納められていたが、第二次大戦終戦で米兵が爆破してしまい、木端微塵となっている。現在ベルツの子息としてはトクとマルタとの子女、ゲルヒルト・トーマさんで高齢ではあるが健在である。
クーデンホーフ・光子、モルガン・雪、シーボルト・イネなど国際結婚では男が得をして女が損をするというパターンが多い。この傾向は現在でもかわりはない。他国が近くの韓国であれ、中国、フィリピン、東南アジア、ヨーロッパ、アフリカ、オーストラリア、南米どこの他国の人との結婚生活であっても、このような悲劇の少ない国際社会になれば、真の地球平和が訪れることになるのではないだろうか。その国が近代国際社会を目指すならば、まず結婚から、その子供の育成まで共通した概念、思想を持てることが肝要である。しかし、言語も宗教も環境も相違しているため、当然、結婚観も違ってくる。これもITで少しは解決工夫ができる情報時代になってきてはいるが。
さて、医学界以外でのベルツの研究は今もさかんで、特に、草津ベルツ協会ではベルツ研究が盛んにおこなわれており、ベルツに関する出版も継続で発刊されている。今回参考にした書物は、彼のTagebucherのほか以下のごとくである。
ベルツの日記 (濱邊正彦訳;岩波書店:昭和14年,1939)
ベルツの日記 (トク・ベルツ編、菅沼龍太郎訳;岩波文庫,1955)
ベルツ花 (鹿島卯女著;鹿島出版,1972)
ベルツと草津温泉(石川善三郎;あさを社,1980)
日独医学交流の300年(比企能樹編;Springer-Verlag社,1992)
花・ベルツへの旅(真寿美・シュミット=村木;講談社,1993)
伝記・E・V・ベルツ (シュットレンダー著、石橋長英訳;大空社,1995)
ベルツの生涯(安井広著;慈恵医大昭和14年卒;思文閣出版,1995)
明治東京畸人傳 (森まゆみ;新潮文庫,1999)
ベルツ日本再訪 (池上弘子訳;東海大学出版会,2000)
ベルツ日本文化論集(山口静一ら訳;東海大学出版会,2001)
その他、横切った流星(松木明知)、赤門懐古(入澤達吉)
嬉遊曲、鳴りやまず(中丸美繪)、 河鍋暁齊画集、
鴎外全集を参考にした。
上記の文献のうち最も有名なトク編の『ベルツの日記』は、どこまで事実と符合しているか不明な箇所が多く、鵜呑みにするわけにはいかない。トク自身の体験から表現を変えたり、加えられたりしている箇所があるので、真実を伝えるものではなく、参考資料程度とする方が良策で、また、発刊当時は第二次世界大戦後であり、日本政府や天皇、皇族に関する記載が含まれているため、削除された部分も多い。
人生の大半を遠い東の国、日本で過ごしたドクトール・ベルツとハナの生涯は華々しいものではなく、悩み多き生涯でありました。
ベルツの記載している日記らを基に、医療、学術、妻、家族についての嘆き、klageを吐露している箇所を7つ選び、慨嘆として紹介する。今後の日常診察の参考にして頂ければ幸甚である。
桂小五郎が云っているが、明治の年代は七の数字のつく年に、必ず外国との紛争がおきている。明治七年台湾事件、明治十七年韓国問題、明治二十七年日清戦争、明治三十七年日露戦争である。これとベルツの日本滞在の生活は強く影響され、政治、国際問題がキーポイントになるので医療以外の事も一部転載した。

1868年が明治元年で、この19世紀後半はヨーロッパではヨハン・シュトラウス(1825-1899)やシューマン(1810-1856)、ブラームス(1833-1897)が作曲に専念していたし、ワーグナー(1813ー1883)が楽劇を創作し、ブルックナー(1824-1896)が交響曲を発表し、マーラー(1860-1911)がウィーンで活躍していた。フランスではベルリオーズ(1803-1869)の後を受けフランク(1822-1890)やドッビュシー(1862-1918)が印象派的作曲を発表、イギリスではエルガー(1857-1934)が、チェコではドヴォジャーク(1841-1904)。
ポーランドにはショパン(1810-1849)やリスト(1811-1886)がピアノ演奏を、ロシアではチャイコフスキー(1840-1893)が、絵画ではゴッホ(1853-1891)、ルノアール(1841-1919)が活躍し、ロダン(1840-1917)が彫刻を、文学ではユーゴー(1844-1900)、ニーチェ(1844-1900)、トルストイ(1828-1910)、生物学ではダーウィン(1809-1882)やファーブル(1823-1915)が研究を、医学ではウルヒョウ(1821-1902)、ビルロート(1829-1894)、リスター(1827-1912)が活躍していたころで、パリ第3回万国博覧会(1855)、ロンドン第4回(1862)、ウィーン第6回(1873)世界万国博覧会がひらかれてる。ヨーロッパ、アメリカも急速に近代化が進んでいた頃で、そして20世紀に突入していく。
日本の医学教育は明治元年から実施されてはいたが、巧く機能していない。
安政5年(1858)に開設された、お玉が池種痘所は、その後東京医学校になり、明治10年に東京大学医学部と改称されるが、当初、下谷和泉橋の藤堂屋敷を使っていた。明治元年には三条実美、山内容堂らの推奨でイギリスのウィリアム・ウィルス(1837-1894)が医学教師に任命され、医学教育が開始されていたが、イギリス医師の招聘について蘭方医の強い反対があり、また雇用のための給与、設備投資に問題が発生し、9ヶ月で政府はイギリスを断念してしまった。
ウィリアム・ウィルスは鹿児島に医学校をつくり、ここでイギリス医学を教育することになるが、西南戦争のため在日が困難になり、明治10年1877年10月23日帰国している。北アイルランドのフローレンス・コートで1894年明治27年2月14日57歳黄疸で死亡。その弟子高木兼寛(1849.9.15-1920.4.13)はイギリス、セント・トーマス病院で近代医学を修得し帰国、明治14年に慈恵医大前身成医会講習所を芝に開設している。
イギリス医学は、この二ヶ所で引き継がれることになり、東京大学をはじめ官立大学はドイツ医学を学ぶことになったのである。余談ではあるが、高木男爵は"ベルツの日記"の明治38年5月24日に華族会館でベルツの送別パーティを開いたとある。華族会館は現在の霞ヶ関クラブのことと思われる。
明治政府はイギリス以外の国からの招聘を考えたが、アメリカは南北戦争(1861-1865)後で混乱が続いていたし、フランス、ロシア、オランダは国力低下で医師派遣がむずかしい。一方、医学取調御用掛の佐賀藩相良知安や福井藩岩佐純らのプロシア(のちのドイツ)への烈しい後押しやオランダ人でアメリカ国籍の宣教師フルベッキ Verbeck の意見や、副島種臣、大隈重信らの賛同があり、明治2年1869年からドイツに医師派遣を要請したのである。
相良は「西洋医学ノ盛ナルモノハ独乙ナリ、英仏ハ害アツテ利ナシ、蘭ハ小国日々ニ衰ルノミ、蘭英ヲ斥ケテ独ヲ採ルベシ」と政府に進言している。しかし、あいにく普仏戦争がおこり、派遣延期となっている。
このドイツ誘致については福沢諭吉や大久保利通、山内容堂など土佐藩を中心にした旧士族の猛烈な反対があり、相良は明治3年1870年9月13日、この建白書を政府に提出しようと大学校の校門をでたところで突然逮捕され、冤罪で14ヶ月間拘留されている。その後、相良は完全に一売卜者で、赤貧洗うが如く、70歳で逝去した。
ベルツに世話になった石黒忠悳だけが、相安の業に報いるために、明治33年に僅かではあるが、勲五等授与に推奨している。肝心の相良自身は礼服がないため、授与式に出席していない。
相良を落とし入れた張本人の土佐人たちは、我が身の保身や栄達、名利を求める俗物になりすまし、追い打ちのごとく貢献者を騙し打ちにし、自分たちはノホホンと暮らしている。胸を痛めはしなかったのか、安らかな最後を迎えられたのだろうか。苦しく死して、地獄に落ちたと思いたい。わたしにとっても、今も、日本中で、坂本龍馬も含め、この多言無実行、大法螺吹きの土佐藩人気質には嫌悪、吐気を催し、唾棄すべき、最も嫌いな人種なのである。
普仏戦争(1870-1871)は、プロイセンとフランス間での戦争で、スペイン国王選出問題をめぐり両国間の紛争を契機として開戦。プロイセン側が圧倒的に優勢で、ナポレオン3世はセダンで包囲され、1870年9月2日同地で降伏、退位した。パリでは共和制の国防政府が樹立され、プロイセンはロレーヌ地方を手にいれ、ヴィルヘルム1世がベルサイユ宮殿でドイツ皇帝に即位、ドイツ統一が達成された。
1871年、明治4年、8月にやっと初代のドイツ御雇医師をむかえる。ホフマンが内科を、ミュレルが外科を担当し医学教育が再開された。当時学生は300名近くいたのを理想の医学教育を受けさせるため、さらに選抜され35名に限定され、8年間の教育課程を終えなければならなかった。よくぞ、ここまでと思えるが、この対処が現在の医師の社会的地位向上に役立っていることは間違いない。
明治6年にドイツ御雇教師はシュルツェ外科、ヴェルニヒ内科に交代し、その後、明治9年からベルツが内科を、スクリバが明治14年から担当することになったのである。
さて、本題の、エルヴィン・ベルツは、ドイツ南西部、シュツットガルトStuttgartの北20kmのビーティヒハイム Bietigheim で1849年1月13日、大工の父カール、母カロリーネの間の9人兄弟の3番目にうまれている。高校卒業後、かなり遠い北東部、旧東ドイツのライプチッヒ大学医学部に入学、卒業後ヴンダーリッヒ Wunderlichの教室に入り、ここで臨床医学を学ぶ。生理、病理学を基礎とした臨床医学で、現在でも使っている体温表はヴンダーリッヒの発案である。
ベルツの日本との出会いは、1875年(明治8年)ライプチヒ大学附属病院に入院していた日本人留学生、相良元貞(知安の弟)に献身的治療を施したことによる。相良はこれに感銘し、明治8年5月に帰国。失脚中の兄佐賀藩医相良知安に相談し、次期御雇内科医師はベルツがよいと直接ベルリン駐在公使青木周蔵に、その公式招聘を強く頼み込んでいる。相良弟がいなければベルツは採用されていない。日本医学が多大な影響を受けることになるなど知る由もなかったが、大正解の人事であった。
スクリバはシュルツェの後任として外科担当で、彼も明治34年まで東京大学医学部で教育にたずさわり、途中、明治31年1月(1898)にスクリバ自身の一時ドイツ帰国の際にX線装置を日本に持ち帰っている。退官後は聖路加病院で外科主任として勤務していたが、明治38年1月3日、結核と糖尿病の悪化で56歳にて死亡。この時、ベルツはまだ日本に滞在していた。その6月にドイツに帰国している。
内科担当のベルツは厳しかったが、外科担当のスクリバの無邪気な性格を好む医師も多かった。この二人の胸像(作不明)が東大校内に明治40年4月に建立されているが、ドイツに帰国していたベルツは式典には欠席した。しかし、翌年、皇太子診察のため伊藤博文の要請にこたえ再度日本を訪問した。この折、胸像を見学しているが、すでに日本は自分を必要としない時代になってきたことを痛感するのである。しかし、東京大学に五千円を寄付しベルツ基金を設立するが、世界大戦でのドイツ敗北のため貨幣価値低落で、この基金は消滅した。
さーーて、時代は遡り、ベルツに日本からの教師要請がきたとき、明治9年1月1日の日記に自らの感想を記している。
“Da nun die Entscheidung gefallen ist, fuhle ich in mir vollige Ruhe - ja eine starke Freude. Denn es steht mir ein Ereignis bevor: die eigentliche Erfullung meiner sehnlichsten Wunsche.
Dann auch bin ich berufen, an der Verbreitung und Vertiefung der abendlandischen Kultur unter einem begabten und wissbegierigen Volk mitzuwirken zu meinem Teile.”
“こうと決ってしまったからには、すっかり落ち着いた気持ちだ。一種の非常な喜びすら感じるのだ。それというのも、何よりあこがれていた希望の実現が間近いからである。それにはまた、天分の豊かな、知識欲にもえる国民の間に西洋の文化を広め、深めることに、自分の持ち分において協力するのが天職でもあるからだ。”
おそらくヴンダーリッヒのあとの教授を狙っていたとおもわれるが、若すぎた。日本人の患者に親身にしたことが裏目に出た。前任のヴェルニッヒの不評が囁かれている。そこで日本行きを決定したのが偽ざる所ではなかったか。できれば3年の任期を終えたならば帰国するつもりで居たと思われる。
母や家族、看護婦らと別れを告げて1876年4月2日にヨーロッパを発った。スイスを山越えで、ナポリに至り、ここよりフランス汽船ニーメン号でアレキサンドリアへ、アレキサンドリアからはフランス郵船会社の高級船アナディール号(客25名)で香港まで向かう。香港からは小汽船メンザレー号で横浜をめざした。
横浜に着いたのは、明治9年1876年6月8日、二ヶ月間の長い航海であった。
日記によるとベルリンで約束してあったはずの日本政府の通訳や役人など、誰も迎えに来ていない。上陸のための小舟すら横付けされていない。昼まで、いらいらしながら待ったが一行に迎えはこない。そこで甲板上にいた税関吏に掛け合い小舟を用意してもらい、ずぶ濡れで上陸した。この国は一体どうなっているのだろう。とすでに来朝を後悔してしまう。
そこには半裸体の連中が5、6人がたむろしていて、わめきたてながらベルツの荷物を税関まで運んでくれたはいいが、すぐさまチップの請求で、ペイ・マネーとせがむ。渋々、半ドルを渡し海岸先の税関アラドアーヌへ急ぐ。税関本部では、キセルでたばこを吸いまくり、ろくに仕事もしていない連中の評定を受け、ようよう市内のフランスホテルに到着した。
次日、領事館に掛け合ったところ、たまたま、ヴェルニッヒ博士と会い東京まで同伴してくれた。
東京につくとシュルツェ博士とともに食事を黒鯨亭でとった。黒鯨亭は現在、残っていないが、西洋料理専門店のようだ。先任のヴェルニッヒが、日本人の学習能力の低さ、文化の無さ、国民すべて肉体的に衰え、魂をぬかれたような人種で、こんな連中に優れた医師は育たない、諦めろとベルツに告げる。ヴェルニッヒ自身はこの3年間の滞在中、横浜と東京よりほかに出たことがないことをベルツは聞いて知っていた。
新着人ベルツにやる気を殺ぐようなことは言うとは困った先輩だ。しかし、ベルツの教育は真摯で誠実で、学生の評判もよかった。実際、生理学の授業では日本学生はきわめて優秀であることを後日、日記に記している。
そして、授業はすべてドイツ語であった。入澤達吉がのべているようにドイツ語が大流行で、たとえば再試験のことをビーコンというのはドイツ語で、wiederkommenのことである。これらは彼の『赤門懐古』にくわしい。
教育とはこういうものだ。打てば響くのであって、打たなければ響かない。そして、響かせる技をもっている人が、良き教育者である。そして仕事の引継の時には、後世畏るべし、後輩を侮ってはいけない。
それにしても、ヴェルニッヒは性格が皮肉れており、人付き合いが極めて悪い。これで医師であるとは驚くが、京都大学に配属された御雇医師ランゲックも同様な性格で、人々には嫌われるタイプで、非社会的な医師であった。しかし、二人とも学術的には相当、評価が高く、ベルツより数段優れた多くの論文を遺している。こういったタイプの医師は医学同級生に2〜3人は居たでしょう。
わたくしは、ベルツのような人間の方が好きで、心や情緒を感じる人間のほうが、臨床医に、教育者に相応しいと思う。研究者の中にも、時々、情緒豊かな天才を生みだしてきたのが、嘗ての日本でした。

西南戦争が明治10年9月に西郷隆盛の死により終結。その後12月までコレラが大流行し、東京まで波及。これに対し衛生局はベルツに対応策をもとめ、ベルツは「虎列刺病治方概略」を提出している。その後も流行はくりかえし、コレラ患者の処置は大変だったようで、ハナの『欧州大戦当時之独逸』には、ベルツが大学の講義が終わると隔離病院を回診するが、人々はコロリを恐れて手伝いにも来ない。
火葬場へ大八車で、こも包みの屍をマグロのように積んで運んでいく。先生助けてと幼気な娘を抱いた母親がすがりつく。すでに娘は虫の息であった。
ベルツは「医者など何と役に立たない仕事をしているのか」と自暴自棄になる。コレラで3万人も死亡。
講義で「みなさんは侍の子だ。危険を冒しても患者を助けるのが武士道ではないのか」、学生はきりかえす。「それは昔のことです。昔は扶持米をもらってましたが、今じゃ命は自分のもの。危険なことに携わるのはまっぴら御免です」と。病院から侍の子は逃げ出し、使用人、官吏人も逃げだし、病院にはだれも居なくなる。
疲れ果てたベルツが帰宅する。吐物や排泄物で汚れた白衣やシーツを持ち帰り、ハナは洗濯に明け暮れる。加賀屋敷に降り注ぐ太陽で乾いた洗濯物は花の香りがする。ハナの手伝いでベルツは挫けてはダメと自分に言いきかせながら診療は続いた。しかし、ベルツとハナが一緒に外出するとラシャメンといって石を投げつけられる。ベルツは全く人目は気にしないで、ハナを信じて日本人の治療にあたっていた。
当時、抗生剤など無い時代で、下水、上水の衛生整備から行わなければならないことをベルツは痛感し、衛生局を指導する。
東京の上下水の整備は永井荷風の実父、永井久十郎が内務参事官としてその任に当っていた。永井がロンドンに見学に出たのが明治17年で、帰国後、帝都に水道を設置する。新宿の淀橋浄水場から水道鉄管が敷設されたのは明治32年で、この時、水のみち、水道という文字が初めて使用されたのである。
しかし、その後100年以上経っても、上水道は完全整備されてきているが、下水道のほうは東京ですら三分の一程度の整備状況である。
コレラ自身はインドから船夫たちの腸にコレラ菌が棲み着き、これが日本上陸し、その汚物で一気に全国に流行するもので、再発防止には清潔な水の補給が重要であることは間違いないわけである。
コレラ菌は細菌学上でコッホ(1843-1910)により同定されたのは明治26年1893年で、その後、即時に医学界にコレラが伝染病であり、その原因がコレラ菌であるとは解釈されなかった。
特に当時のドイツのミュンヘン大学衛生学教授ペッテルコッフェル(1818-1901)は猛烈に反対意見をのべている。そして、猛毒コレラ菌を自分自身が服用する実験をおこない、論文まで提出している。これを森林太郎、森鴎外が翻訳し、発表している。森鴎外(1862-1922)は東京大学医学部第一回生で本名、森林太郎、入学当時、明治10年は16歳、同級に賀古鶴所、緒方収二郎、谷口謙、中濱東一郎、小池正直らがいた。ベルツに習ったわけだが、そのベルツとは13歳と大して歳は違わない。
コレラ、脚気らの発症、治療、衛生についてベルツとともに森鴎外も対応策を練っている。そんな最中の衛生学の大家ペッテンコッヘル Pterkoffer がコレラ菌を食うとの論文発表。何故流行するのか、その根拠を探るための実験で、最近のピロリー菌でも同様の実験がおこなわれている。
鴎外の訳内容とコメントをここに掲載するが、読み終えたあと、読者みずから実験内容の科学的方法のありかた、科学論文の表記方法をチェックして頂きたい。

ミュンヘン府医事週報に出でたる、衛生学の碩儒ペツテンコフエルがコレラ論
( Uber Cholera, mit Berucksichtigung der jungsten Choleraepidemie in Hamburg.)は、おほいに世人の注意を促したりと覚ゆ。いでや、その大要を左にしるさむ。ペツテンコフエルの云ふやう。コレラは人より人に伝へ、病原の細菌を食ひ、殊には水と共に飲むより起るのみなる疫なりと心得たるは、甚しき僻事なり。
試験管の中、培養板の上なるコレラ菌の状態を窺ひ得て、コレラ疫のまことに諸地方に行はるる景況には、つゆ心留めぬ人多し。コレラ疫の流行を、三つの不知数ある比例に譬へて説きしは、数年前の事なりき。三つの不知数とは、xyzを謂ふ。xとは人のゆきかふために爾蔓する特なる疫芽なり。yとは時と土とより出づるものなれば、これを時と土との感性といふ。
さて又zといへるは、いづれの伝染病にもあることにて、人々のこれに対する感性(個人性)をいふ。世の伝染論を奉じて、コレラの事を言ふものは、xをコツホが細菌なりとして、その田地をば、zを具ふる人となしたるのみにて、事足れりと思へり。zだにあらば、汚れたる指もて唇に触れ、若しくは 「コンマ」 菌ある水を飲みたる人、必ずコレラに罹らむ、とかれ等は思へり。
この見はいと入り易き見なれば、たとひ積年の流行の蹟には暗き人といへども、僅に一コレラ客の床に臨みたることある限は、たやすくこれを解するなるべし。コレラ疫流行の史乗に通ずるものは、たとひコツホが発明をば是認したりといへども、此疫の流行の理を、さる単一なるものとはえおもはぬなるべし。
天下ひとり免コレラの人あるのみにあらず、随所に免コレラの郷あるを奈何せむ。随時に又永くコレラを免るといふにあらずして、暫く四境の流行に応ぜざる地あるを奈何せむ。かかるところには、xも入るべく、zは固よりあるべけれど、つひに疫癘の毒を逞うするを見ず。こはyなきが故にあらずや。yとは土の構造、地の湿潤に関するものなり。
ペツテンコオフエルがコレラを見る眼は是の如し。此見を懐きて、コレラといふものの決して、獣を侵さず、唯々人を害ふものなることを信じたればこそ、ペツテンコオフエルは身を以てコレラを試みむとはおもひ起しつるなれ。これより下、少しくペツテッンコオフエルが本文を抄せむ。
其文にいはく。「コレラ人の糞には、必ずコレラ菌あるを見れば、此菌はコレラの事に関するものにはあるべけれど、これをコレラの唯一の因なりとし、コレラ毒なりとせむこと、識者の須らく猶予すべきところなるべし。コレラ菌は永久免コレラの地若くは一時免コレラの土にて、コレラを起すこと能はず、とわれは土地論者として思惟せり。
千八百九十二年、コレラの欧羅巴諸方に行はるるや、コレラの行はれたる漢堡(ハンブルグ)よりも、おなじ流行地なる巴里よりも、吾が栖めるミュンヘンに来つる客の数は許多なれども、又例年のとほり、十月祭といふのを行ひて、大に衆人を集へしかども、コレラは絶えて起らざりき。
ここにおいて、われは確なる便に托して漢堡より取り寄せたるコレラ菌を、わが身に種ゑ試みむとおもひ立ちぬ。吾友ガフキイGaffkyはわれに水晶膾の培田に栽ゑたるコレラ菌を送りぬ。われは此の地大学衛生部なる少年学士プフアイフエル、アイゼンロオル Pfeiffer、Eisenlohr の二人に命じて、法の如く、これを肉泪に移し栽ゑしめき。かくして多くコレラ菌を養ひ得たるをば、我口腹に投ぜむとおもひてなり。グルウベルGruber が見つるところに據れば、コレラ菌の天竺鼠(モルモット)を侵すや、新に栽ゑたる菌は、栽ゑて後数日を経たる菌より甚し、といへれば、われは孵寵中に入れてより、まだ二十四時を過ぎざる▲培コレラ菌を服することに定めたり。この▲培物を板膠田に移しこころみしに、原物の一立方珊米(センチメータ)を稀●すること千倍にして、猶無数の菌を見き。さればわれはこの▲培物一立方珊米と共に、かのおそろしき蕈幾萬をか身中に受くらむ。是れ汚れたる指頭の唇に触るる比にあらずかし。
コツホは屡々いはく。胃液は酸にしてコレラ菌を殺すものといふ。さればわれ酸胃液の、コレラ菌の大量をも減すことあらむことを思ひ、午前九時十五分、胃の虚きに乗じて服しき。われはこれを服するに先立つこと二時十五分に、平日の如く、軟熟鶏卵二個とシヨコラアデ一盞(セン;さかずき)とを飲みたりき。吾友にて生理学者たるカルル、フォン、フオイトの言によるに、この際我胃中には、零、三%の鹽酸(塩酸)を含める胃液百瓦(グラム)はあらざるべしとなり。(諸醫事雑誌及び新聞に出でしフリイドレンデル Friedlander 等の抄本には零、三%に作る。されどシュミットが人胃液の分析にては零、二%の鹽酸あり。サボ Szabo は零、三%まで見出だししことあり。
胃液は採取の際、唾若しくは飲を混じ、希薄になり易きものなれば、およそ見出したる含量中、その大なるものを正しとす、とはホツペエ、ザイレルが言なり。ここには是等を参照して零、三%と訂正す。) 我胃液はかく少かるへしと雖、われは猶これを中和せむと欲し、重炭酸曹達1瓦をミュンヘン府自來井水百立方珊米 (フランクフルト新聞には誤りて一立方珊米につくる。)に溶釋し、其盞中にかの新しきコレラ菌肉▲一立方珊米を注き入れ、これを一口に傾けつくす盡し、尚盞底に残れるコレラ菌を残さじと、五十立方珊米許の水にて盞を洗ひ、此餘汁をも飲み畢んぬ。
此コレラ飲の味清水の若きを、われは千八百九十二年十月七日の旦、証人の面前にて服しき。我此擧を知りたる人のうちには、我がために憂ふる人ありて、中には老師若し強ひて此試験をなさむとおもはば、われこそ代りてこれに当らめ、といへるもありき。されどわれは古の医諺に従はむとおもひ定めき。 Fiat experimentum in corpore vili.(試諸賤物)。われ自ら我身を顧みるに、まことに corpus vili (賤物) といふべきなり。わが身何の價かあらむ。
われ齢七十有四。糖溺の症を憂ふること年既に久し。わが口内には腹た一牙を遺すことなく威コレラ落し尽きたり。われは義歯を帯ぶれども、そは久しく明に語らむとするときのみにて、食ふときはこれを用いることなし。われはその外にも老のおも荷を負へることを覚えたり。若し我見謬れるがために、此試験によりて命を隕すことあらむか。
われはすこしも悔ゆることなく、死を視ること帰するが如くなるべし。故いかにといふに、わが此擧は軽躁にして卑怯なる自殺にはあらず。われは学問を奉じて死せむこと武士の名を重じて戦死するに同じからむ。われは健康と命数との、この世にて重んずべき寶なることを知りたり。されどそを人間無上の寶ぞと思ひたらむは、甚しき誤なるべし。
人にして獣に若かざることを恥ぢなば、理想の寶を重じて、命にも健さにも代へじとこそ思ふべからめ。さは言へ、われは此擧をさまでおそろしき事とはおもはざりき。yなきxのいかでか我身を殺すに足らむ、とわれは深く信じたりしが故なり。」以上本文を抄せり。
かくおもひ定めて、ペツテンコフエルは身を以てコレラを試み、ついに左のごとき成績を見き。其略を記さむに、十月七日よりおなじ月の十五日迄は、軽き下利ありしかど、亳も薬をば服せざりき。下利の度数は一日三五回なりき。利尿は常の如し。心身皆快かりき。食機は甚盛なりき。身温降らず。吐を催すことなし。ペツテンコフエルは事を執ること平日に殊ならざりき。
其便を膠板に種ゑたるに、コレラ菌はおびただしく膓中にて繁殖したりと覚しく、始めて出でたる稀便のも、既に許多のコレラ菌あらはれ、後には便といふ便、悉くコレラ菌の純養汁となりぬ。十月十四日にはコレラ菌数少く、十月十六日には絶えて無かりき。ペツテンコウフエルのおもへらく。われ漢堡にておなじ試験をなしたらましかば、わが身或は危かりしならむ。かしこにはxの外にyあるを以てなり。
ペツテンコウフエルは次に徒弟エンメリヒ Emmerich がおのれに継いで行ひし試験を報じるたり。十月十七日午前九時なりき。エンメリヒは証人三人の面前で、1%の重炭酸曹達水百立方珊米に、栽ゑて後二十四時を経たるコレラ菌肉▲零、一立方珊米を加へたるを飲みき。
エンメリヒはおなじ日の夕食に、鵝の灸に焦したる馬鈴薯添へたるを食ひ「コツフェルブロイ、メルチエン」 麦酒 Kocherlbrau-Marzenbier 三黎篤児半を飲みき。又其夕十一時には「ツェツチユゲ」 Zwetschge (木の実にして我国に産せざるものなり。杏子に似たり)をいれたる果子の大塊を食ひき。こは皆故意に消食機を傷ひて、コレラ菌に應援せむとてのわざなりき。
夜下利始まりて、漸く無色の汁を下し、十九日には二十度■(厠)に上るに至りぬ。二十二日には全癒したり。コレラ菌を便中に認めたるは十月十八日より二十八日に至る間の事なりき。此間心身共に快かりき。バウエル、チイムセン Bauer, Ziemssen は真コレラを知るものなるが、ペツテンコオフエルの身状を診視して、コレラ症に非ずとしたり。
さればコレラ菌たとひ人膓に入ると雖、膓中にてコレラ毒を生ずることなし。恰も是れ酵母ありといへども、糖なきときは、酒を成さざるが如くならむ、とペツテンコオフエルは喩言したり。ペツテンコオフエルは戯れて謂く。「此學をばこれより廣く(バウエル等の外)知せ難きこと勿論なり。我便中コレラ菌ある上は、このミュンヘンの府にも既に建てられたる避病院に押し込められ、国法によりて、我身と我宅との毒を消せらるるならむ。
さるに此事なくして止みしは、実に憾とすべきなり。故いかにといふに、かく消毒だにしたらむには、かの伝染論者たる諸先生は、意気揚々として、われ闔府の民を救ひて、コレラを免れしめたり、さらずば我と我徒弟とは、消毒の法を行ふことなくして、便を糞窖に落し、又水厠に流して、府民を毒しつらむをと曰はむ」 云々。
以上ペツテンコオフエルがコレラ論の大要なり。此報をば、独逸に留学したる入澤達吉君のいちはやくも一本を郵送せられたるによりて草し畢んぬ。明治二十六年一月十六日の夕、東京なる観潮楼上に筆を擱く。