ウタ(歌子)が2歳10ヶ月で感冒をこじらせて腹膜炎で急逝。明治29年2月28日のことで3歳の誕生日をむかえる直前の悲劇で、その模様をベルツの日記(菅沼竜太郎訳)の記載のままに紹介する。
 かわいいウタがなくなりました。
一昨日の朝、食事の時、まだウタは、生まれつきの愛嬌を一杯にふりまいて、わたしの側にすわっていました。お昼に、わたしが大学から帰ると、ハナは、子供が風邪をひいたようだと申しました。夜になって、重い腹膜炎を起こしたのですが、この病気はたいていは命取りになるのが常です。そして、今から数時間前に、ウタの明るく澄んだ眼は閉じられてしまいました。−−永遠に。

 子供が病気になった、ちょうどその日、ハナは少女の祭りへの招待状を書くのにかかっていましたが、この祭りというのは、母上の誕生日である三月の三日に、この日本では毎年お祝いされるのです。しかも今回は、ウタも満三歳になる年にあたりますので、特に盛大に祝うことになっていました。初めてウタに洋装させるつもりで、かわいい服がすっかり取り揃えてありました。

 ところが今、わたしたちのするのはそのお祝いでなく、あの子のお弔いです。
このような花盛りの美しい子供を、急に失うということは、恐ろしい打撃です。何しろ、誰ともかけ離れて、ウタは、今までに見た子供の中でも、全く特別な存在でした。あの子は母親から、その気質の内面的な快活さと、同時にまた子供ながらも、ある程度は認められるのですが、その堅固な性格と不屈の意志を受け継いでいました。
 特殊の魅力をもつ、あの子のとても大きい利口な眼には、誰もが驚嘆していました。そして、わたし自身がしばしば不思議におもったのは、知り合いの家族のもう大人に近い令嬢たちが、ウタにまるで夢中だったことです。
わたしがこの不審を口にだしていうと、いつも与えられるおきまりの返答がこうです。あの子は他の子供たちとはちがいますと。

 トクは臨終の時、妹のそばに跪き、涙にむせぶ声で絶えず祈り続けました。お助け下さい、どうか妹をお助け下さいと。わたしはトクを室外へ遠ざけねばなりませんでした。トク自身が病気になる心配があったからです。
 ハナの態度は、ローマの女のようでした。ハナだけは、病気のあいだ、泣きませんでしたし、その声は震えてはいませんでした。しかし、内心はどんなであったか、わたしにはわかるのです。ウタはハナにとって唯一のものであり、すべてでもあったのです。

 数週間前のこと、ハナの知り合いが集まった席上で、ある富豪がその夫人に、見事なめずらしいダイヤを贈ったという話が出ました。誰かが、そんな宝石をもっていれば、うれしいでしょうねと申しました。そのときハナは、ウタをひしと抱きしめて、これがわたし宝石です。ひとには籠一杯でも、ダイヤをお持ちになるがいいでしょう。でも、わたしは、そのような人たちの身になってみたいなど、決して思いません。私にはウタという宝石がありますもの。といったものです。
 わたしが読んだり、書いたりしている時、ハナはよくやってきていったものです。ま、ちょっと、はやくいらっしゃい。ウタが、すっかりごきげんでとてもかわいらしく遊んでるのを見てやってください。と。そしてハナもまた、わたしの友人と全く同じことをいうのでした。まるでうそのようですが、大人でさえ一日中、時のたつのも忘れて、この子と遊んでいられます。

 事実、ハナにとってウタは誇りであり、今からその将来まで、もはや夢みていたような有様でした。世の中にでて、完全に独立独歩でやれるように、ウタに学問をさせねばならぬとか、あるいは何か立つことを習わしておかなけらばならぬなどと。ですから、ハナの冷静の裏にどんな感情が潜んでいたかを、わたしはよく知っている。それだけにわたしは、最後の瞬間がきがかりでならなかったです。

 果たして、抑えに抑えていたその内部の力も、ついにその瞬間にいたって爆発し、せきを切った放流となり、あらゆる感情のすさまじい嵐が、彼女をゆすりにゆするのでした。万事休し、呼吸も心臓も止ってしまった時、ハナはあの子の小さな体をひしと抱きしめ、体温をよみがえらせようと、それから子供をゆさぶり、泣きさけぶのです。ウタ、そんな振りをしてはいけません。お前は死んでいないの。死んでなんかいるはずがないのよと。そして、自分の息を、子の口から肺へと吹き込むのでした。さ、息をしてくれ。ほんの一息でいいから、ほんのひと一息。
 明後日わたしたちはかわいい子供を葬るのです。それはたまらないことです。どんなにあの子はわたしを慕っていたことか。わたしが帰宅する時、馬車か人力車の響きを聞き、召使が日本の風習でだんなさまのお帰りと叫びますと、あの子はどんな遊びをしていても、そのままやめ、ちょこちょこと小さな足で大急ぎに急ぎ両手を拡げてわたしの方へかけよって、わたしの脚に抱きついて、わたしが高く抱き上げるまで頭をすりつけていた。高くあげてやると、あの子は特有の笑い声を挙げるのですが、いまだにその声が耳に残っている。

 ハナは一晩中ウタのなきがらの側にすわって、ウタの体をなで、ウタに話かけるのです。あさってはお前の祭りだったのよ。そして御婆ちゃまの誕生日その時お前もみたまになってみんなのとこへ戻って来てね。
 湯灌したのち納棺を閉じるときに、ハナは発狂したように悲痛な叫びとともに発作をおこしました。しかし、すぐによくなり、もう済んでしまったことと冷静をとりもどしました。
 模様のある繻子地で出来た、三枚重ねの豪華な綿入れの着物でおおわれていましたが、それは下の二枚が真紅で、上の一枚が純白という美しい花嫁衣装で納棺され、葬儀には天皇家からも弔辞を頂き、花の山となるすばらしい、しかし悲しい葬儀でした。これでまた子供トクひとりになってしまった。

人形を挟んで、おめかしのウタとトク

 シーボルトの娘イネも葬儀に出て、自分も初孫の死因不明に際し、父親の形見のメスを使って解剖しなければならなかったときの辛さを話し、ハナのウタの思いを紛らわそうとした。しかし、ウタほどかわいい子供は世界中さがしてもいないでしょう。なにせ、ウタの髪はブロンズ、眼は南の海のように青く澄み渡っているのですから。ハナが宝石以上に大切にしていたのは当然で、無くしてしまった悲しみはいかばかりか。腹膜炎はウィルス性胃腸炎と思われる。

 コッホ(1880-1910)はペッテンコッヘルと双璧の医学者で、その細菌学の業績は世界一、北里柴三郎がこの研究室で嫌気性破傷風菌を発見していることは有名。
 このコッホが婦人とともに明治41年に来朝しているが、日本側の神様のような接待ぶりに憤慨し、節操のない日本人に腹を立てている。
 1910年6月2日、コッホはバーデンバーデンで死亡。ベルツは帰国後の日記に次のように記している。

 ドイツのもっとも重要な医学者を失った。コッホはコレラと結核という、それぞれ急性および慢性の重大疾患のなかでも最も深刻な病気の病原菌を発見しただけでなく、技術的な方法の発見によって、細菌学的方法に大きな成果をもたらすことができた。そのころの彼は常に謙虚で、愛すべき人間であった。ところが最後の10年、彼は若い研究者の頭を押さえ、自分のいうことを聞く者だけを優遇した。これは再婚の女が原因である。分別ざかりの五十代にもかかわらず、素性も性格も怪しい若い女優に惚れ込み、銀婚式を祝ったばかりの夫人と離婚して、その女と結婚したころから始まった。日本に来たときにもその女とわたしもあったがいまや、此の女が世界中からの大細菌学者コッホへの弔電を受け取るのだ。

 と酷評を記している。同時代の同業者の死に対してもベルツはなかなか手厳しい。

 ハンセン病についてはベルツは伝染病とは考えず、むしろ遺伝疾患と理解していたようだ。したがって、治療として草津の湯を利用している。らい菌はノルウェーのハンセン(1841-1912)が1871年、明治4年に、すでに発見しているが、ベルツは梅毒と同じように伝染力が弱いので隔離しなくてよい。自験で8年間診ている例で、周囲の人に伝染した例はないことを繰り返し説明している。梅毒に感染しているひとを隔離する医師はいないでしょう、と。きわめて感染率の低い疾患であり、隔離は必要ないことを再三再四、告げている。病気療養で草津の湯が有効なことを突き止め、明治13年に『日本鑛泉論』を著し、温泉療養法を広めている。

 にも拘わらず、日本政府はベルツの懸命の諌止を無視し、ベルツが明治38年1905年6月10日に日本を離れるのを見届けるようにして、癩予防法を公布し、浮浪患者として収容したのである。その後、1930年、昭和5年から国立長島愛生園を設立し、懲戒検束規定により強制入院に踏み切った。
 この非人道的措置が廃止されたのは、ご存じのように1996年、平成8年のことである。実に明治から100年、昭和の隔離政策開始から66年後である。
 ここでも病気の解明、治療、正しい処置まで極めて長時間を要している。

 さらに、指揮者小沢征爾の育ての親、斉藤秀雄という指揮者がいたが、彼はハンセン病であるとの噂が絶えなかった。妻秀子は妊娠するたびに、病院にいき中絶手術を受け、オトシテキタノヨといっていたという。したがって、この夫婦には子供はいない。真実は解らないが、斉藤に対する社会の一種のイジメであったと思われる。
 このことは、平成9年日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した中丸美繪の『嬉遊曲、鳴りやまず』新潮社の追記に記載されている。

 明治に入って日本の芸術も近代化されるが、ヨーロッパでのジャポニズムには拍車がかかる。絵画は狩野派に代表される襖絵絵師から大木藤二郎の水彩画、日本画の横山大観、油絵の岸田劉生、仏師から彫刻家になった高村光雲など日本独自の芸術技法を求めて多くの芸術家が輩出している。そして、美術商、林正忠(高岡藩医次男1853-1906)がヨーロッパにわたり日本美術品の販売ルートを作る。ベルツも周囲の人々に影響され日本アジア人類学の研究とともに芸術にも興味をもち蒐集家となっている。
 ベルツの絵画のコレクションは河鍋暁齊(1831-1889)の作品がポイントである。

 河鍋は狩野派の最後を飾る画家であるが、その題材が錦絵、妖怪百景の月岡芳年(1839-1892)ほど奇抜ではないが、「米国砂漠源やの場」、「骸骨に囲まれた美女」、「黄初平図」などなど、おもしろい。伊藤博文自宅の河鍋の襖絵をベルツが見てから興味をもったようで、明治10年と初期の頃から付き合っていた。暁斎も胃癌でなくなったが、その最後をベルツが看取っている。
 フェノロサも来日当初は河鍋作品を蒐集していたが「俗眼を悦ばすのみで高遠なる精神性に欠ける。絵画のまえで拝跪するような崇高さがない。」と、嫌ったようであるが、ベルツは見て楽しむ日本最大の画家と評して、ハナや使用人の平井忠治郎と相談し多くの作品を購入している。現在、19点がリンデン、ケルン、ビーティヒハイム=ビッシンゲン市立博物館に遺され管理されている。ベルツ・コレクションの総数は約6,000点で、貴族院議員でフェノロサの新日本画奨励運動の攻撃論客、下条正雄の鑑定済みのものばかりである。しかし、平成の現在ではほとんど脚光をみない作品が多い。

 河鍋暁斎は、天保2年(1831)古河にうまれ、明治22年(1889)59歳で没。歌川国芳、前村洞和、狩野洞白に学び膨大な作品が遺されているが、その御子孫の河鍋楠美先生は女医さまで埼玉県蕨市の暁齋美術館館長をされている。
 ベルツは医学以外に人類学とともに日本の芸術についても興味を持ち研究対象としてきた。人類学についてはシーボルト以上の成績を上げているが、芸術についてはシーボルトの植物学ほどは徹底していない。その理由はフェノロサのような他国人でジャポニズムに強く興味を抱く人員が増えたことにある。林忠正の強烈な節操のない売り込みも問題があったように思う。

 そんな中で日本およびベルツにして極めて不快なことがおこった。それは、シュトラッツの「芸術と生活における日本人の体型」というポルノまがいの日本女性のヌード写真集がヨーロッパで1902年明治35年に発行されており、この説明文にベルツの日本人の人類学研究に記したものを掲載していたからである。それも写真とは全く関係のないところで、無断でベルツ文が、恰もこれを説明するように編集してあったのである。直ちに、ベルツは熾烈な糾弾文を発表している。
 シュトラッツ(1858-1924)はオランダの医師で、日本で婦人科をしておりで、その著書に女体の人種美や芸術における人体の表現などがあり、現在でもポルノ誌の分類に入り、ネットでも18歳未満お断りの世界である。シュトラッツは日本女性の裸体写真をならべ、卑猥で陰湿な性行動をもった民俗としてヨーロッパに紹介したものであるから、それも医師として、またベルツの説明文も掲載してあるので、ヨーロッパの知識人の興味はかなりなもので、相当売れたらしい。

 昭和、平成になっても世界の眼には、日本人の男女の性行動が、卑猥性の強い性行為として写る。にっぽん国民自身も性行動は卑猥で、性教育には眼も触れない、避けて通る。しかし、その性欲を隠れたところで商売として発散する。低落な行為と認識してしまっている。人間という生体の誕生に畏敬など微塵もない。
 明治も30年たつと西洋化はいたしかたないが、服装についてはベルツは西洋化、洋装化に強く反対している。特に女性はコルセットをするなどの洋装は日本女性の体格には不向きで、着物が一番よいことを説いている。

 ベルツの日記の明治36年3月24日、伊藤博文は鹿鳴館にて服装は洋式にすることをきめたことが記載されている。ベルツは何度も和式にするように、とくに女性は着物が一番体型にあっている、としている。自らも黄八丈を着ていたし、歌舞伎や能の観賞に屡々出かけている。また退官後に京都大徳寺まで出かけ、茶道の極意まで観察している。恐ろしき観察力、目利き、眼力である。

 在日中にベルツが診察し看取った人々のなかに、政界人の鍋島直大、副島種臣、井上馨 大山巌、岩倉具視らがいる。また、天皇、皇族、特に大正天皇は皇太子の時代に肺炎でベルツの診察をしばしば受けておられる。当時のベルツの教育、研究、診療がいかに忙しい状態であったかが知れる。また、滞在が長期にわたってくると、日本政治にも深く係わるようになってくる。そのための嘆きも多くなってくる。明治32年7月28日にはベルツは九州、小倉を訪問している。このことは森鴎外の小倉日記に記載されている。

 二十八日。午前山根予等を師団司令部に集へて、参謀長会議の結果を報道す。福嶋安正の演説する所の列国均勢の現況の如きは、耳を傾くるに足るものあり。午後六時ベルツを停車場に迎へて、常磐橋東の銭屋に投宿せしむ。夜又伴ひて井上中将の家に至る。夫人と長子との病を診せしめんが為なり。

 二十九日。朝ベルツ氏を伴ひて第十四聨隊に至り、午餐を師団司令部に供す。是日予も亦始て此聨隊営に入りたり。夜ベルツ氏来り訪ふ。談話中謂ふ。加藤弘之は偏頗なりと雖、定見あり、福沢諭吉はその立言に特操なしと。又謂ふ。羅馬字會の不自然なるは固より取るに足らずと雖、日本諺文の複音字は朝鮮諺文の単音字にだに若かず、何故に早く洋字を取りて以て以呂波に代へざる、漢字を雑へ用ゐんは必しも悪からずと。
此日家書至る。曰く二十二日於菟右胸膜炎に罹ると。

 三十日。ベルツ氏と再び兵営に至る。夜又共に井上第を訪ふ。途上ベルツ氏予に語りて曰く。日魯の為めに謀るに、宜しく朝鮮を二分して、日本其南を領し魯西亞其北を領すべし。韓人は決して自ら其国を治むることを得ず。支那は必ずしも分裂せず。一朝人傑の出づるあらば、彼哥老會を率て起たんも、猶外人の跋巵を禁遏するに餘あり。固より朝鮮と日を同じうして語るべからず。日本の現時の弊は金を愛するに在り、驕奢に在り。後者は殊に女子の服飾に著し。台湾賄賂公行の如きは、愛金の一徴証に過ぎず。猶日本人の為めに憂ふべきは、その朝鮮に在るものの土人を虐待する事是なり。此の如きは事微なりと雖、その影響する所測るべからず。蟻垤堤を毀つとは是の謂なりと。是日々曜日に丁る。

 三十一日。朝ベルツ氏の厳島に往くを送りて停車場に至る。夜天満宮に詣でて祭を看る。

 これは森鴎外が一度紛失した『小倉日記』の内容で、日露戦争前の明治32年6月16日から明治35年3月の3年間、九州福岡の小倉第十四聨隊に勤務していたころの日記である。ベルツに関することは上記の部分だけであるが、おそらく弟子の森林太郎から依頼をうけ、井上中将の家族の診察のために小倉にまででかけたとものおもわれる。そして、日本は明治37年2月10日、対露宣戦布告する。ベルツに、この後、明治37年3月2日、ロシアのスパイの嫌疑がかかっている。
 日本政府からもベルツの行動が怪しまれていたのである。日本周囲に戦争の危険が充満し、天皇の侍医として仕えていたベルツでさえ、結局外人として信用されない。最終的に日本社会は島国で外国人を受け入れない社会なのか。特に政治では神国日本が強調される。
 ベルツは次年、明治38年1905年6月10日、ハナとともにドイツにむけて横浜を発つのである。

 明治35年4月2日、日露戦争前、上野音楽堂にて会頭田口和美、副会頭北里柴三郎で第1回日本医学総会がおこなわれた。これに、すでにこの年の6月に退職がきまっているベルツが記念講演をおこなっている。長期にわたり教師として携っていると、学生は不真面目になってくる。それは昨年のノートを参考にできるから、教科書がでるからなどの理由で、真剣味が薄れてくる。そして管理している政府も甘えがでてくる。頭変えをしなくてはならない。
 その嘆きは遺言のかたちで講演されているが、内容はベルツの日記に記載されているので、そのまま引用する。これも、かなり長いが。

 満堂の諸君!
 日本医学大会で発言する栄誉を得ましたことは、わたくしにとりましてこれが最初であり、同時にまた最後であろうと存じます。最後と申しますのは、わたくしの日本医学との職務上の関係が数ヶ月のうちに切れるからでありまして、わたくしが、本日ここでお話いたしますことは、従って一種の遺言とでも申すべきものです。

 日本の近代医学の歴史を回顧いたしますと、いたるところ喜ばしい進歩のあとが見られるのであります。三百年前ポルトガル人が伊吹山のふもとに薬草園を作り、これがかれらの追放後に衰えて以来、そしてまた日本医学の先駆者たちが困苦欠乏に苦しみ、しかもしばしば危険に身をさらしながら、遠隔の地長崎にあるオランダの小居留地出島で勉学にいそしまねばならなかった頃以来、時代の変遷は著しいものがあります。
 当時と異なり今日では、新たに統一された国家の首都におきましてこのような会議が、しかも親しく皇室のご一員によって開かれたという有様です。以前は役人たちが不信と不安の眼で外国精神の侵入を眺めていましたのに、今日この会場では、国家の最高官吏の方々の口からこの同じ精神が歓迎されるのを拝聴いたしました。
 これは諸君のうちの古参の方々、例えば長井長義、池田謙齊、石黒忠興、橋本、その他の諸氏のようにこの激しい変動のいっさいを身をもって体験され、遂行され、従って若い世代の医師はその領域の道案内として大いに感謝しなければならない方々にとっては至極ご満足のことと存じます。

 わたくしが当地へ参りました当時は、わずかに粗末な施設の医学校が東京の下谷にあったにすぎなかったのが、今や科学の最新の要素をことごとく具備した医科大学が三つの多きを数え、他に優秀な医学専門学校が多数存在する有様であります。そして、現今の医師各位が自己の学術の進歩に深甚なる関心を寄せておられることは、今日の会議にかくも盛大なご参加を見たことにより明らかであると存知ます。

 この種の大会が有益であり、ことにこの日本では必要であるゆえんは、それが医師相互の間の重要な個人的交際を仲介するからでもありますが、またことに、このような方法によってのみ最新の知識が国内のいずれの地域へも急速に、しかも徹底的に普及され得るからであります。
 それだけにまた主催者側は、参集された医師各位にとって有益で価値ある事がらのみが議題に上るようにして、会議がその真の目的を達するように配慮すべき義務があると存じます。理論的なテーマについてここでお話することは、今日はまだ早すぎると思われますし、全然専門の領域に属する問題について詳しく論ずることも同様です。ここは疑問の存する事がらを議論する場所ではなく、完成した結果を報告すべきところであります。生成中の未来の事がらに対してせいぜい注意を呼び起こすべきところなのであります。

 しかしながら、この種の会議で最も重要なことは、わたくしの考えますところ、講演ではないのでありまして、よしんばそれが非常に優れた先生方から出たものであるとしても、そのような講演ではなく、様々な意見の活発な交換、ことに各個人の経験ーーもちろんこれは非常に多少異なる結果となるものなのですがーその経験の活発な意見交換であります。従ってわたくしは主催者の方々に、この点を特にご注意下さいまして、意見発表のため十分に、しかも特別の機会を設けてくださるようお願いする次第であります。

 この理由からまた、会議をあまり多くの分科会に分散しないよう、くれぐれもご注意いたしたいと存じます。それぞれの専門家にとっては、いうまでもなくその専門事項が一番重要に思れるのですから、他の犠牲にして特にその専門事項を強調し勝ちなものであります。どうもわたくしには、今からしてすでに、あまりにも強いこのような傾向が起りそうであるか、ないしはそれがもう見られるように思われるのであります。

 だがこのような専門家にとってこそ、日頃あまりにもかたよった仕事をしているのですから、こんな機会に全般的研究と自己の専門領域との関係を知ることは特に価値があるわけです。と申しますのは生ある有機体におきましては、個々の部分が相互に不可分に関連しているからであり、また多くの専門研究家は殆ど効果を予期しなかったような方面から、しばしば最大の成果を得ているからです。

 専門主義の問題が出ましたので、わたくしは一つの点を指摘したいと存じますが、これは日本の医師全般に関係ある事がらですから、黙ってそのままにしておきたくはないのであります。今これをわたくしは、医業における専門主義と呼びたいと思います。

 わたくしが1年間ドイツから帰国しておりまして日本に帰ってきましたら非常に驚いたことには、結核の注射療法を専門にやっている医師が多数あって、しかもその多くはかれらの薬剤を秘密にすらしていることを聞かされました。どうかこれは、過去の時代の消えかけた記録であってほしいものです。
 とにかくこれは、科学的な医師たるもにはふさわしくないことです。もしこんなことがヨーロッパに知れわたると、おそらく日本の医師たるものの信望は地におちることでしょう。この種の方法は、ヨーロッパではすべて試験すみで、無効と認めれられています。正しい根拠に基く唯一の結核特効薬たるツベルクリンですら、今までのところなんら確実な結果を示していません。

 こう申しましてももちろんそれは結局このような薬剤の発見される日は来ないという意味ではありません。事実、このような日の来ることは単に希望するだけではなく、確実に推定されるのであります。しかしながら、さしあたってわれわれは、まだそこまでには行っていないのであります。
 昨年わたくしはヨーロッパに居りまして、いろいろの病院を訪れ、その際もちろんのこと、結核の治療についても尋ねてみました。ロンドンの国際結核会議にも、やはり出席いたしました。そして結局わたしたちが見いだしたのは、以前からわたくしが日本で熱心に主張していた主義が、今日ではいたるところで重んじられているということでした。

 すなわちそれは、諸君のうちの大部分の方法がご存の通り、結核の治療で肝要な点は、一、有害なことをいっさい阻止すること、二、身体を強壮にすることの二つであるとする主義であります。こうして身体が結核菌を自身で始末すべきであり、またそれができるのであります。
 これこそ肝要な点なのですが、従来これが当国におきましても、わたくしの真剣な努力にもかかわらず依然としてあまりにも等閑に附せられていたのであります。則ち身体を幼児から強壮にすることです。
 そこで今一度わたくしは、予防医学と物理療法の重大性に、また極めて重要でありながらしばしば軽視または誤解されていた家庭医の仕事に、諸君のご注意を促したいと存じます。

 この家庭医なるものの使命は病気の治療者としてだけでなく、健康の助言者・支持者・促進者としての使命でありまして、確かに国民の身体に関する測り知れない貴重な職務なのであります。その本分は、まず病気が起こるまで待つのではなく、虚弱で危険な個所を遅延なく見分けて、これを両親に注意し、適切な助言を与えることであります。虚弱で危険な個所を遅滞なく見分けて、これを両親に注意し、適切な助言をあたえることであります。もし日本の医師が、薬でなおすことに満足しないで、わたくしが帯溝と名付けた特有の胸郭変形を遅延なく見分けて、その形成を阻止するか、早期にその手当てをしていたならば、上層階級のなん千という結核の症例は防ぎ止められていたはずであります。

 ここで、わたくし個人だけの意見をあえて申し述べる次第ですが、井上伯により麻布で立派に経営されているような学校の方が、あらゆる医薬を併せたものよりも、結核の闘病に貢献するところが大であるということでありまして、その理由はと申しますと、この種の学校では身体を鍛えて、結核菌がこれに全く手をつけることができないようにするといった工合に、問題の核心をついているからであります。
 しかしながら、医師というものが健康体を学ばず、病体ばかり学んだ経験しかない場合、どうして健康体を強壮にすることができるでしょうか。身体を強健にすること、つまり体育について、医師自身がなんの理解ももっていない場合です。大方の国々における医学教育の欠陥はこの点に存するのであります。

 すなわち正常の人体を先ず最初に示して説明しないことです。解剖学の授業は骨で始まり、生理学の授業は血で始まります。これら2つの学科は、もともと一緒のもので、その授業は立派な体格をした生きた人体の実物教示、そのプロポーションの説明、最も重要な諸運動に際しての形態変化の説明で始まるべきものなのです。学生は死んだ筋肉の状態を学びますが、生きた筋肉がどのように運動するかを一般にしらないのです。
 かれらは顔面神経や撓骨神経がどのように走っているかを正確にしっていますが、仮にわたくしが君の顔面神経か撓骨神経に刺激を与えて、相応する運動をやってみたまえと申しますと、かれらは戸惑います。医師なるものは、生きた人間を相手にするので、死んだ人間を相手にするのではないことを決して忘れてはならないのでありまして、もっとこの根本的事実の上に立脚して医学教育をうち樹てねばならないと存じます。

 臨床講義におきましても、健康な体質に最も重きをおくべきでありまして、常にわたくしが健康な脈、正常な呼吸と体温を知ることを指摘いたしまして、単に病的のそれらを知ることばかりを指摘しないように、非常に優れた素質の身体各部を実物教示の対象とすべきであります。それと申しますのも、こうしてのみ両者の区別を習得するからであります。
 さて医学教育の体制に関しては、ご承知のとおりわたくしは日頃からその実際的な臨床の面を、日本にとって特に重要であり、必要であるとして強調するように努めて参りましたが、これは理論的、学問的の面に重きをおく人々から、しばしば非難の的となったところであります。

 しかしながら、わたくしのこの観点には確固たる理由が存在するのであります。かつて、わたくしは国家試験に無事合格いたしましたとき、これでもう自分は一人前の立派な医師になったものとうぬぼれておりました。ところが間もなくわたくしは、まず病床では老練の看護婦に比べて知能、能力共に通例劣ることを悟ったのであります。この体験こそ、わたくしに当時の医学教育のかたよっていること、もっと実際的な経験の必要なことを知らしめたものなのであります。
 ところでわたくしが、この日本で経験いたしました事がらはと申しますと、それは試験で腸チフスの説明を立派にやってのけた最も優秀な学生の一人が、初めてその症例にでくわしたとき、それを見極めるのにしどろもどろであったのに、看護婦はひと目で正しい診断を下したという事実なのです。

 だがしかし、理論的、学術的な面の医学はと申しますと、とりもなおさずこの面がドイツでは特に重きをおかれているのではないかと、再三再四わたくしは指摘されたものです。ところが今やドイチュでは新しい教授制度と試験制度が採用されているのであります。では、何故でしょう。か、それは、医師の学問をあまりにも強調しすぎて、実際の経験を等閑に附していたことを認めたからです。
 理論をより少なく、経験をより多く、これが新教授制度の特徴であります。わたくしが当国におきまして二十年以上も前から懐いていた見解が、今やドイツにおいても認めるられるようになったこと、そして現在ドイツで行われている革新思想が、すでに十年以上も前にわたしの病理学各論の序言中で述べられたことは、真実わたしにとりまして大きい満足であります。

 医学は学問であるばかりでなく、技術であるということは、いくら繰り返しても多過ぎることはありません。それでは、一体なんのために医者は勉強するのでしょうか?病気の人たちをなおすためです。病人が医師を呼ぶのは、医師がうんと勉強をして、うんと知識があるからではなく、その知識を病人に役立つように応用してもらうためです。そしてこの応用こそ、すなわち技術なのであります。
 以上申し述べましたところより、あるいはわたくしが、医学の学問的な面をあまりにも軽視しているかの印象を惹起したかもしれません。だが事実は正反対なのです。その証拠としてはわたくしがいろいろと学術的に発表したものをご覧下されば、おわかりのことと存じますし、また、わたくしが昨年、ヨーロッパに滞在中だけでも、ドイツの学術的な会合で臨床問題以外に解剖学および生理学に関する六つを下らぬ題目について討論したことを挙げれば十分かと思います。

 しかしながら、わたくしが声を大にして指摘せねばならないのは、純学術的な問題と疑問の余地ある研究分野は研究所に属する事がらで、、臨床講義にはふさわしくないということなのであります。もともと若い学生たちの間にはすべての理論的な知識に対するあまりにも強い偏愛が存在するものです。しかし、ここに危険があるわけです。
 従ってこのような傾向は、これを促進せずに、むしろ抑制せねばなりません。でありますから、それでなくともすでに授業で負担過重に陥っている学生には主要なこと、有益なことのみを教えるべきであり、しかもこれを、自主的な考察と研究を促すような形で教えるべきであります。ここに、すぐれた教師の技術があると思います。さて日本の大学における医学の授業一般に関しましては、それにとってある程度の危険を意味する一つの点に、なお言及したいと存じます。それは医学の授業の不統一性であります。

 東京大学では1学年を医学の方でも、以前のように二学期ではなく三学期に分割しています。京都ではこれに反して二学期制が再び採用されました。授業と休暇の期間、課程、試験制度などすべてが別々なのです。もしさらに福岡で他の体制がとられるようになればそれは混乱をきたすばかりです。
 この変革を遂行された方々はヨーロッパ、なかんずくドイツに留学され、あちらで数年間に二校以上の大学に通学されました。このようなことがたやすくできたわけは、あちらでは二十校の大学全部が全く同一の様式で経営され、共通の課程を有しているからであります。

 今いった方々は、ご自身の本国で同胞にこの利点を享有させるお気持ちがないでしょうか?それぞれの分科大学が各自随意に万事をきめようとすることは、将来にとって非常な危険を伴うものです。要は全大学に共通の一体制でありまして、これを文部省で医科大学全三校の委員会により作り上げ、各大学はこの体制に服することであります。

 話は、わたくしが日本で公職として献身してきた医学教育の問題におよんでいますので、最後になお、日本におけるその歴史にちょっとふれさせて頂きます。この医学教育の歴史においてこそ、日本人の特有の最も良い面がはっきりとみられるのであります。すなわち新しい意図への激しい熱意、それを成就するためのいためのたゆまぬ忍耐と献身、あらゆる困苦欠乏と危険を平然として意に介しない心構えなどがそれです。
 従ってまた医学が日本で最大の進歩を遂げた部門の一つに数えられるに至ったゆえんでありまして、その結果、ヨーロッパのあらゆる学術専門雑誌に日本人の名門が再三再四見られるようになり、今や日本の医学界はもはや外人教師を必要としない有様となった次第であります。

 しかしながら、わたくしが心から期待し、希望するように、日本の医学が従来のように今後も引き続き栄えるためには、これに関与するすべての人々が力をあわせて共同の仕事を成し遂げることが必要なのです。同一精神の仕事、同一方向の仕事がそれです。事実、本日も共同の仕事がわれわれをこの会議に集合せしめたわけであります。この種の会合がなん回となく繰り返されるように、さらになお、それが日本のためにそしてまた海外までもあらゆる点において効果をもたらすように祈るものであります。

 以上がベルツの日本医療への遺言の内容です。つい昨日に講演されたように錯覚してしまうほどに、現在に通じる内容ではないでしょうか?

 ベルツの名前は Erwin von Baelz と記述されることが多いが、日独医学協会、ベーリング社の300年記念誌、ビーティヒハイム=ビッシンゲン市立文書館の資料によると、題言で示したように、
  エルヴィン・オットー・エドアルド・ベルツ
  Erwin  Otto  Eduard  Belz(eにはウムラウトがつきます)
が正しい名前の表記である。

 ベルツについて既報告文献より、その当時明治20年、30年を探ってみたが、面白いことが多数残されていて、いつまでも、その興味は尽きない。
 たとえば鴎外全集の第35巻に独逸日記が掲載されているが、明治17年ー21年のなかの明治18年12月15日ベルツがドイツ帰国の際、鴎外とベルツとホフマンとで酒店で晩餐す。とあり、その翌年の明治19年2月27日、ショイベルの家に招かれており、3月7日にはホフマンの姪ヴンダーリッヒ死亡とある。おそらく、ベルツもこの葬儀に出たものとおもわれる。
 そしてホフマンは前教授の娘と結婚している。ベルツはすでにハナと結婚していたが、まだ子供が出来ていない頃で、胸中複雑であり、祖国ドイツの医師仲間の男女関係が気になっていたのかもしれないなあ、と、ベルツの気持ちをフト察してしまう。あの世で会ったなら、本人に、肘でこづき、実際、どうだったのヨ、と聞いてみたい気分になる。

 しかし、シーボルトやベルツが単なる御雇医師とは違って、いまだにその行動を探ぐることになっているのは、彼らのその巨視的観察力の為であろうと思われる。植物学や人類学にまでおよぶ、医療範囲を超えたところまで興味をもち、正しい眼で観察し、それを保存し、後世まで伝えられるように記載物を残すことは、よほど几帳面でなければ出来ない事です。米国でのオスラーの存在がそうであったように、近代日本に果たした二人の貢献の恵みは多大で、彼らの存在を神に感謝すべきでしょう。
 医学総会に次いで、1904年明治37年、日露戦争開戦時期に第1回内科学会が開かれ、ベルツが名誉会長となった。この時点で外国人の日本での診療は不可となり、衛生局は日本の国家試験に合格し、医師免許を取得したもののみが医師法にもとづき診療が可能と発表している。日本の医療教育、診療が独り立ちした記念すべき年で、そして、今年、平成16年、2004年で、丁度100年となるのである。

 因みに第1回日本外科学会はスクリバが中心で明治32年1899年に開かれている。
 ベルツがドイツ帰国した理由の一つに、実母が84歳の高齢で再三、エドアルドに帰国してほしい書面が送り付けられていたことをハナが明治39年の『名流理想家庭趣味』で語っている。同時にトクの教育については武士道を全うするように厳重に言い聞かしてあると述べている。
 シーボルトと同様にベルツも帰国後は診療は全くおこなっていない。10年間は人類学会などの出席のための学会旅行をおこなっており、ハナ、トクとともにドイツでの生活を楽しんでいたが、1913年3月から胸部大動脈瘤からくる呼吸困難、胸部痛に悩みはじめ、ついに8月31日、今から90年前に、ハナ、トクにみとられ、充実した人生であったことを遺言に亡くなっている。

 その後、祖国ドイツも日本も第一次、第二次世界大戦に敗北し暗い時代を迎える。ドイツは国を二分されたが、1990年にソ連崩壊、ベルリンの壁はなくなり東西のドイツは合併している。ドイツの戦後復興はめざましいが、ヒットラーの汚名は永久に消えない。
 ここで日本とドイツの戦後処理で異なる点を挙げておかねばならない。日本は勝戦国米国に魂まですべてを売ってしまったが、ドイツは魂だけは売らなかった。その証拠に、1990年に象徴的なことが起っている。
 この事件を最後に紹介しておく。

 ある時計メーカーが1994年にニューモデルをだした。それも50年ぶりのニューモデルで、全く装飾は施こされていないが、正確無比で、その腕時計1機が600万円という世界最高峰、トップクラスの代物である。これぞ腕時計の王者。腕時計を知っている人はよくご存じの、その名はランゲ&ゾーネ Lange & Sohneである。

 ランゲは1945年終戦とともにマイセン近くのグラスヒュッテの工場再興をあきらめ、東ドイツから西ドイツに逃げていた。しかし、よい職人がえられず、時計づくりを諦めていた。それから50年の時が流れ、ベルリンの壁崩壊とともに故郷にかえり、時計工場の再興を考えたが、そこに、なんと、なんと、なんと、時計職人の子孫が、その技術を完璧に親から受け継ぎ、集ってきてくれたのである。マイスター、職人技が大切なことを決して忘れない、冷や飯を食っても腕はおとさない。これこそ、ドイツ魂である。それから9年、ニューモデルを出し続けている。

 日本は、というと、人件費の都合で、その技を中国、東南アジアに売り、今、戦後60年の日本はモヌケノカラ状態である。こういう状態からはもう抜け出せないので、未来は淋しく、暗いものである。そして、今や医師が刑事で拘留されたり、温泉は還流式になりレジオネラ菌対策として塩素を加える方式を政府が勧奨したり、しっかりした指導者が不在で、トラブル続きの日本国である。ベルツに教えられた江戸、明治の大和魂の復活を待つ。2004年は日露戦争開戦100年目にあたる。
 時は、われわれ人間に、何を教授し、何を遺してきたのか。ベルツではなく、時、タイム自身が人間に対し慨嘆しているのではなかろうか。未来に希望をもてるように過去の事実を考察した。

   

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