
ひとつの疑点があり、小首を傾(かし)げる程度のことなのですが、市の名称と関連があることなので、詳しく調べてみました。興味深いことが多項目ありましたので、これをまとめます。それは、樹木のカシワについてです。
最近、植物の呼称がカタカナに偏倚していたり、学術名になっていたりして、覚えにくくて困ったことはありませんか。やはり、その草木花が直ぐに目に浮かぶような名称がいいと思います。
例えば、朝顔、日々草、彼岸花、向日葵、紫陽花などはすぐに解りますし、カタカナの場合でも、ダリアやアマリリス程度なら、すぐに判ります。
しかし、シピジウムエタリスといわれても、どの花をいうのか、さっぱり見当がつきません。カモミール、メランポジューム然りです。
その草木花にふさわしい名称を考案するのはなかなか難しく、時間の経過とともに人口に膾炙(かいしゃ)し、繰り返し用いられて、その花の特徴をうまくとらえた名称はのこっていくようになっていきます。したがって、新種の場合が一番困ります。
樹木の呼称については、新種ということは滅多にありませんので、特に新たな名前になったり、学術名で呼ぶことは、まず、ありません。
しかし、その樹木の名前で、不思議なことに気づきました。柏の字がおかしい。ふしぎだ。どうしてだろう。
というのは、松やシダ類の分類名に松柏、真柏という呼称で分類されています。松などは針葉樹で、これに柏の字が使用されているのです。一方、五月の節句で餅を包む葉っぱは、カシワの木の葉っぱで、この木は広葉樹です。柏という字が種類の異なる樹木に使われている。
いつから、このような、慣習になっていたのでしょうか。
真柏シンパクという木があります。最近、盆栽として人気の高い樹木ですが、高価で、貴重な存在になっています。真柏を逆さに音読みにし、ハクシンに分類されており、ヒバに似た、針葉樹です。
さらに江戸時代に盆栽として流行ったと言われている、イワヒバというシダ類があり、これも松柏類にわけられています。
一方、われわれ、五月節句の時、餅を包む、所謂かしわ餅の葉は柏の木の葉を使っていますが、人の手のかたちをした広葉樹の葉っぱです。葉っぱの姿が全く異なる樹木に同じ柏の漢字があてられているので、不思議を感じたわけです。
では樹木の分類はどうなっているのでしょうか。
現在、樹木は針葉樹、広葉樹、シダ類などと分類されており、どうして柏という漢字が針葉樹、シダ類と広葉樹に三つの異なる種に含まれているのか疑問でした。不思議だなと常々おもっていたのですが、たまたま、桃の木について調べていたら、昭和42年に発刊されていた前川文夫氏の岩波新書『日本人と植物』という冊子の第六章に「二つのカシワ」として説明されていました。
結果を先に述べますと、中国では柏は針葉樹のことをいい、一方、日本では万葉の時代から柏は広葉樹のことをさしていたのです。古い時代に交錯してしまっていたからというわけです。
このため現在でも、この2種類に柏という文字が使われていることが判明しました。「二つのカシワ」を読んで納得するところが多かったので、これについて語源について詳細に記されているのをみて、また単純に興奮してしまい、これに再録することにしました。
また、どのようなモノでも皆、名前が付けられています。この世の物に標識がないモノは存在しません。目にみえないモノにも、たとえば、air には空気という漢字があてられております。これは以前、“シーボルトと柏芳園に学ぶ”のところでのべましたが、宇田川榕菴が化学に必要な単語を、オランダ語から適切な漢字を考案した結果です。
実際は視野にはいっているものでも、大脳後頭野と前頭葉でしっかり記憶として認識しなければ、ボーっとものごとを見ていては観察したことになりません。
モノの見方の表現が現在の医學的人間の考察にどのように関与しているかについて、フーコーの哲学を紹介いたします。

杜甫(712-770)は中国唐の詩人で、彼の詩に『蜀相』という題の七言絶句があります。
蜀相とは、中国の三国、すなわち蜀、魏、呉の三国時代、紀元前200年頃の時代で、蜀の宰相、諸葛孔明のことです。蜀の劉備の「三顧の礼」に応えた名宰相であったことは、既知のとうり。
この三国志の時代の諸葛孔明の祠堂(お墓)が四川省の成都あり、杜甫がここを訪れて下記の詩を詠んでいます。 諸葛孔明の死後、約1,000年後の祠堂参詣ですが、歌の二行目に、祠堂の両側に柏の木がシンシンと生えていると詠んでいます。
蜀相 杜甫
丞相 祠堂 何處尋 丞相の祠堂、何れの処にか尋ねん
錦官 城外 柏森森 錦官城外 柏森森
映階 碧草 自春色 階に映ずる碧草 自ら春色
隔葉 黄鸛 空好音 葉を隔つる黄 空しく好音
三顧 頻繁 天下計 三顧頻繁 天下の計
両朝 開齋 老臣心 両朝 開齋す 老臣の心
出師 未棲 身先死 出師 未勝たざる 身まず死
長使 英雄 涙満襟 長しへに英雄をして 涙 襟に満たしむ
中国でいう柏は、日本でいうシダレイトスギをいい、ヒノキやサワラの枝がもっとやせたような針葉樹です。 柏森森で、現在もこの樹木と堂はのこっており、2,200年は経過しているが、千古無窮、不易として柏の樹木は生きている。
では、日本で、かしわ餅の葉の広葉樹のカシワの木は中国にはないのか。いや存在しますが柏とはいわず「櫟」と書きます。これは日本ではクヌギと読ませます。ややこしいでしょう。

柏市市役所に出向かれることがあるとおもいますが、第2市庁舎の玄関前、国道16号線から入って、坂を下ったところのロータリーには高さ6〜7メートルにまで成長した、幹も2メートルはあろうかという堂々としたカシワの木が聳えています。田中農協病院の玄関右にも大きなカシワの木があり、野田の高梨家の庭にも立派なカシワの木が残っています。
毎年、冬になれば落ち葉となり、すっかり広葉を落とし、枯れ木のようになってしまったように見えますが、よく観ると葉は落ちずに、翌年の春四月に葉が新芽とおきかわり、その新しい葉は萌葱色(もえぎ)から深い緑になり、六月には人の手よりもおおきな葉となる「葉を譲る」広葉樹です。そして、その種子は「どんぐり」の仲間です。
これは、だれがみても中国でいうイトスギの柏の木とは種が異なります。
普通日本でいうカシワの木の葉っぱは、5月爽やかな節句のときのそなえものとしての餅を包み柏餅として利用しており、このカシワの木の名前が市名の根拠とおもわれている方も多いと思いますが、これは違います。
市名の方の柏は、カシバ、「呼塚の河岸」が転訛したものといわれています。しかし、市樹にはカシワの木が標榜されています。
因みに、2005年6月現在で、沼南町と合併後の市のプロフィールを紹介しておきますと、市の花はシバザクラとカタクリとヒマワリで、市の木はカシワとシイ、市の鳥はオノガです。
それでは日本では、いつから、この広葉樹をカシワというようになったのでしょうか。
日本の古いことは万葉集にかぎります。万葉集のなかにカシワに関連のある句が6カ所でてきます。
1)まず、第七巻1134番 雑歌芳野にして作れる
熊野川 石迹柏等 時歯成 吾者通 万世左右二
(男仮名万葉仮名)
よしのがわ イワトガシワと ときわなす
われはかよはむ ばんせいまでに
と読みますが、
ここで前川氏は 吉野川 イワトガシワと常磐なす 我はかよはむ万世までにと詠み、石迹柏をイワトガシワとよませ、植物学からみて、このイワトガシワはイワヒバのことでシダ類と解釈しています。
そして、佐佐木信綱編集(『新訂新訓万葉集』岩波文庫、昭和2年、1927年)では
芳野川 石と柏と 常磐なす 吾は通はむ よろづ代までに と訳している。石迹柏等を 石と柏と と訳してしまっては意味をなしません。石と柏とどう関係があるのか、何のことか、さっぱりわかりません。
万葉集の大家であっても、肝心の処で、このような間違いをしてしまうものです。
ここで柏は、すでに、支那でいうところの針葉樹の柏、シダレイトスギとは異なって、シダ植物のイワヒバとされています。
シダ類であるイワヒバの葉は、湿度の高いときには、この葉がのびて、スギ、ヒノキ、サワラの葉に似てくる。
2)ついで、第十六巻3836番 博士消奈行文大夫、作歌一首で
奈良山乃 児手柏之 両面尓 左毛右毛 侫人之友
ならやまの このてがしはの ふたおもて
かにもかくにも こびひとのとも
これを前川氏は 奈良山の児手柏のふたおもて かにもかくにも ねじけびとの友
佐佐木信綱編集は訳では 奈良山の児手柏の両面に 左にも右にも侫人の徒
ならやまの このてがしはの ふたおもに
かにもかくにも ねぢげびとのとも
ここでいうコノテガシワは針葉樹でヒノキに似ているが、通常の樹木の葉はうらおもてがはっきり区別がつくが、コノテガシワでは葉の表と裏が区別が付かないほど似ている。これは針葉樹です。
3)さらに、第十九巻4204番 講師僧恵行、作歌一首に
吾勢故我 捧而持流 保寶我之婆 安多可毛似加 青蓋
わがせこが ささげてもてる ほほがしは
あたかもにるか あおききぬがさ
前川氏は 我が背子が捧げて持たるホホガシワ あたかも似るか青き蓋
佐佐木信綱編集は訳では、我が背子が捧げて持たるホホガシワあたかも似るか青ききぬがさ
ホホガシワ保宝葉はホウの葉をさします。これは広葉樹の葉です。万葉集にでてくるこのホウの葉には、ホホガシワとホウのことばの下にカシワがつけれられています。しかし、現在いうカシワの葉とは一寸ちがいます。
4)第十九巻4205番 守大伴宿祢家持 作歌一首
皇神祖之 遠御代三世波 射布折 酒飲等伊布曽 此保寶我之波
すめろきの とほみよみよは いしきをり
きのみきといふぞ このほほがしは
前川氏は すめらぎの遠き御代御代はいしき折り酒飲みきといふぞこのホホガシワ
佐佐木信綱編集は訳では 皇神祖の遠御代御代はいき布き折り酒飲むといふぞこのほほがしは
ホホノキの葉を丸めて、酒をそそぎ、これを飲んでいた。みきといふぞこのホホホウノキをホホガシワ保寶我之波とホウのあとにカシワをくわえているが、これは広葉樹であるけれども現在いうカシワの葉とは異なる。
5)第二卷90番 古歌集中出の註記釈に
皇后遊行紀伊國到熊野岬取其処之御網葉而還
という記載がみえる。
難波高津宮御宇大鷦鷯天皇(おおきさぎ)の皇后が熊野の先のみさまでいでまして そこで御網葉ミツナガシワを取りて還られました。
この御網葉ミツナガシワはオオタニワタリという巨大なシダ類で、その葉は酒醸造につかわれ、伊勢神宮の神事に使われるていることから、皇后が紀伊半島の南部までとりにこられたのである。ミツナの次にカシワという読みを追加しているが、広葉樹ではなく、シダ類です。
6)第二十巻4387番 千葉郡大田部足人 作歌一首
知波乃奴乃 古乃弖加之波能 保保麻例等 阿夜尓加奈之美
於枳弖他加枳奴
ちばのねの このてがしはの ほほまれど
あやにかなしみ おきてたがきぬ
前川氏は 千葉の野のコノテガシワの含まれどあやにかなしみ置きて高来る
佐佐木信綱編集では 千葉の野の児手柏の含まれどあやにかなしみ置きて誰が来ぬ と訳している。
千葉の野のコノテガシワはコナラの一種で、これが、いまでいう広葉樹のカシワそさすのだろうと前川氏は推測している。
偶然、万葉集のなかに知波、千葉がでてきて、その地のコノテガシワ古乃弖加之波がでてくる。児手柏と書かず、古乃弖加之波となっているが、これこそ広葉樹のカシワであろうという。
ここで、柏市の語源かと勘違いしてしまうかもしれないが、これは前にものべたように関係ありません。
しかし、古代から千葉の地にはコナラ、カシワの広葉樹は多く生育していたものと考えられ、したがって、古代から中国のいう柏と日本でいうカシワはまったく異なった樹木であることがわかった。
しかし、針葉樹をさす中国での柏の字は松柏、真柏にのこっているというわけです。

そして、このカシワという言葉は、どこからきているのでしょうか。
前川氏は「炊ぐ葉」からとしています。食物を炊ぐ(かしぐ)ときに、すなわち穀物を蒸かすときにホウの葉っぱや広葉樹であるカシワの葉を使ったり、ヒバやイブキで燻いたりすることから、炊ぐ葉の転訛としてカシワということばが生まれたとしています。
さらに、辻井達一氏は『日本の樹木』で「堅し葉;かたしは」、「炊き葉;かしきは」、「食敷葉;けしきは」の三種が考えられるが、二番のカシワの葉で食物を炊ぐ、カシワの葉を燃料にするとは考えにくい。通常は小枝を使うであろう。むしろ、食物を盛る、皿の代わりにカシワの葉などの広葉樹の葉を用いたのではないか。この食敷葉けしきは、から転訛しカシワという言葉がうまれたのであろうとしています。
カシワの葉は、ホウの葉とともに香りを楽しむこともできるし、葉は冬には落ちないで、翌春、新芽の出るときに新葉と置き換わる、「葉を譲る」としてめでたいこととされ、この点で神事としての食事に相応しい葉と考えられ、これが五月の節句に供える餅に利用されたのではないかと考えられているのです。
カシワの葉は、とっても「めでたい」、「愛でたい」「目出度い」葉なのですぞ!

ドングリは団栗と書きます。かつて腕白小僧が細い竹筒を外筒にして、割り箸の先に布を巻き付けた内筒をさしこんで鉄砲を手作り、このドングリを弾丸に利用していましたし、ミズナラのドングリは形がよいので、独楽にして遊んでいました。
最近はドングリのなる木が少なくなり、手作りのおもちゃで遊ぶ子供も皆無になってしまいました。みんなテレビゲームです。
カシワの木にも種子としてドングリの実がなります。このドングリの種子ができる木は、雑木林にあり、カシワ、ミズナラ、コナラ、クヌギ、の木です。ドングリを造る木、ドングリという樹木はありません。
このうち、ミズナラはブナ科コナラ属で、欧州でいうオーク Oak です。コナラ属には日本では常緑性のものがカシ;樫、落葉性のものがナラ;楢と呼ばれていおり、宮本武蔵の木刀は樫で、ウィスキーの樽は楢でなければならない。
これらの木の葉と種子の関係を図説掲載しておきます。ミズナラの種子がもっともドングリらしいです。

そして、私が校医を担当している県立柏高校の校章にはこのカシワの葉とどんぐりをあしらった、ユーモアのある図柄で、なかなか、洒落たデザインになっているのです。ドングリは生徒をあらわしているのでしょう。寄り添ったところが、かわゆい。
これは、昭和44年12月3日付で千葉県教育委員会の千葉県立柏高校設立の認可が決定したあと、山田建男氏がデザインされ、昭和45年3月8日に校章制定されたものです。
柏市の学校の校章は殆どが市の要請をうけて、カシワの葉をデザインしているが葉っぱのみのデザインです。一部、松葉町の学校は松をデザインにとりいれていますが。
現在平成17年では県立柏高校校長は12代高崎信吾先生ですが、この校章のはなしを演説にとりいれておられ、「どんぐりをあたまにデザインされているのは当校だけです。他の校章はカシワの葉のみです。三葉は知・徳・体をあらわしており、教育方針をまとめたものとされておりますが、柏高の字のうえに実を結んだどんぐりが九個のっています。当高校教育の、その実が結ぶ、教育の結実を顕すもので、飛翔する県立高校を期待した、洒落た、見事なデザインだとつくづく感心しています。校内の設立当初植樹されたカシワの木もすくすくと育っております」、と。
しかし、今の平成の時代には私服採用の高校が多いなか、県立柏は依然として制服での登下校を厳守しており、そのボタンに校章が光っております。皆さんも町中で生徒を見かけたら胸元をチラリと観察してみてください。誇らしげにカシワの葉とどんぐりが金色に輝いているのに気付かれると思います。
これからも、みなさんでこの校章をいつまでも、制服とともにのこしておいてほしいモノです。


柏とは無関係ですが、中国と日本では、名称が同じでも、モノが異なる場合や、モノは同じでも、名称が異なることが多々あります。
たとえば、手紙というと中国ではトイレットペーパーのことです。日本でいうレター、手紙は中国では「信」とかきます。このように全く異なるわけですが、中国語の文字の内容は日本語とほぼ同じで、意味はなるほどと理解できる範囲です。
突然話しの内容はかわって、キンモクセイについてです。
これも同様で、中国、広州、桂林はモクセイの多い土地で、とくに山のキンモクセイが咲きほこる春には九里香といって、そのあまい香りが遠くまで届き、桂林の街中が金木犀の香りで満たされるといいます。また、中国の人はお茶としてもその香りを楽しんでいます。
もう気が付かれたと思いますが、中国での桂は、日本での木犀のことを指します。
モクセイには白色の花をつけるギンモクセイと黄色の花をつけるキンモクセイとがあります。日本にも古くからある樹木ですが、関西ではすくなく関東に多い。これはキンモクセイは日本には雄株しかなく、挿し木で増やしていきますが、関西では挿し木の成績が悪いので少ないとかんがえられています。
それでは日本でいうカツラの木は中国ではなんという木なのでしょうか。あまりみかけないそうです。じつは、日本のカツラは名木で、その葉の形は徳川家紋に使われた葵に似ており、さらに、下賀茂神社の神木です。そして、京都葵祭りにこの桂の枝とフタバアオイの葉を身につけて清め、携えて、巡行することになっています。
桂の木は大木、高木になり、それもまっすぐに伸びますので、木目もまっすぐで綺麗なため、用材としても高級で、碁盤、彫刻材、製図板、琵琶胴などにつかわれます。そしてカツラ科カツラ属という一科一属の落葉高木、雌雄異株の広葉樹で、日本だけの木、日本固有種で、中国にはないそうです。
追記として、樟脳はクスノキ、楠からつくります。樟とも書きます。台湾が世界最大の産出国で、中国本土でも同様の方法で樟脳を生成しているのか否かは不明です。くわしくは、わたくしのコラム掲載の『樟脳玉』の最後を参照してください。

以上のように国によって言葉がかわり、同一のモノでもその名称が異なったり、同じ名称でもモノが異なることがあります。このようにモノを認識した概念を系統的、合目的的に体系だてられ、整理された知識が学問です。
逆に表現すると「学」とは系統だてられた知識をいいます。したがってモノの名称には、その分類を行った人間の、そして、その時代の、文化とモノ知識が、隠蔽されているのです。
たとえば、不思議なことに、日本には太古の昔からあると思われている、「美術」なる言葉も「芸術」も、実は最近の造語で、明治6年にできている。1873年におこなわれたウィーン万国博覧会のための出品規約が翻訳されたときに、はじめて登場したのである。それ以前にはこの言葉は日本には存在しなかった。
これを指摘したのはチェンバレンで、「ヨーロッパのファイン・アートを訳す言葉が日本にはない」と『日本事物誌』のアートの項の最終の注記で述べており、漢字の「美」と「術」を合成して、自ら、「美術」なる語を作り上げたといっている。モースもベルツもフェノロサも登場前の話しである。
そして、さらにチェンバレンはいう。ネイチャー nature に対する適切な訳語も日本にはなく、「性質」、「万物」、「天然」を近い語としていたが、この時は「自然」という訳語は使用していない。
チェンバレンが来日したのは1873年明治3年で明治38年まで日本に滞在し、海軍兵学校教師、帝国大学日本語教授の職にあった人物である。『日本事物誌』を出版したのは、明治23年である。ちょうど、このころ、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が松江、熊本、神戸から日本語と英語についてチェンバレンと交信している。じつはハーンはチェンバレンに文部省から松江中学校教師の職を紹介されていたのです。
したがって、明治3年以前の、日本美術、芸術、文化をファイン・アートとして再評価する必要があった。
日本の美術なるものは、驚異的対象物として存在してはいたものの、紫式部も織田信長も冷泉為恭も江戸の人も、これらは生活用品で、贅沢品、趣味趣向の範囲のモノで、ファイン・アートに属するような物とは考えていなかったことを示している。仏像、寺社仏閣、襖、掛け軸、歌舞伎、楽器、浮世絵しかり、浅草寺の大提灯しかり、行灯、城、金鯱しかり、刀剣、根付け、着物しかり、編み笠、草履、下駄、陶器、茶器しかり、筆、硯、紙しかりです。
以上の古美術評価について、幕末明治における物のアルケオロジー(考古学)という副題で「物」についての名著が出版されていました。著者は鈴木廣之氏。彼は1952年生まれとまだ若い。東大人文科学研究科修士卒業、現在東京文化財研究所美術部日本東洋美術研究室長で、『好古家たちの19世紀』吉川弘文館、2003年です。
このプロローグで「物の秩序」と題してフーコーの物の考察を引用しながら古い物の世界の変容についてまとめています。
まず物、モノをどう認識するか、について『臨床医学の誕生』や『狂気の歴史』などで有名なミシェル・フーコー Michel Foucault(1926−1984)は、その論誌『言葉と物』 Les Monts et les choses 1966 のなかで非常におもしろいことを序で述べているので孫々引きし、ここで紹介しておきます。
それはフーコーが孫引きしているのは、アルゼンチン人のホルヘ・ルイス・ボルヘス『続・審理』1952所載のエッセイー「ジョン・ウィルキンズの分析言語」からの引用でしています。
いつの時代のことか判然としませんが、「支那のある百科事典」に動物というモノについての分類は次のごとく行われていたという。
a.皇帝に属するもの
b.香の匂いを放つもの
c.飼いならされたもの
d.乳飲み豚
e.人魚
f.お話にでてくるもの
g.放し飼いの犬
h.この分類自体に含まれているもの
i.気違いのように騒ぐもの
j.算えきれないもの
k.駱駝の毛のごとく細の毛筆で描くもの
l.その他
m.いましがた壷をこわしたもの
n.とおくから蠅のように見えるもの
この分類法は今日の動物学の分類表と根本的に発想が違うことは容易に想像がつくでしょう。それにしても奇妙な分類です。
この分類には整然とした体系や一貫性はない。しかし、支那の当時では、その文化、生活上から、動物はこのように分類されるのが便利だったに違いありません。
分類学の原則として、全体性原則、排他性原則、非超越性原則の三原則があり、支那の動物分類は、この2項目で違反している(フーコ入門、中山元、1996、72ページ)。
全体性原則とは、
存在するすべてのモノが、どの秩序の中にも完全に包括され、その外部には何も残らないようにすること。
排他性原則とは、
その秩序のなかで互いに重複しないこと。
非超越性原則とは、
分類基準が同じ「階」にあり、「階」を超えたメタ分類基準が存在しないことをいう。たとえば仮想内で分類することと、現実のことを分類することを混合して分類するのは、同じ「階」での分類とはいえない。
支那の動物分類をみてみると、lの、その他、の項目をおくことで、全体を包括しているから全体性は保たれているものの、放し飼いの犬、と、いましがた壺を壊したもの、とは重複する可能性があり、また、hの、この分類自体に含まれるもの、の項目はメタ分類に入る。したがって、2つの原則項目に違反しているため、正確な分類法とはいえないのである。
モノを系統的に分類することは「学」の重要な一分野でありますが、これを完璧に表現することはなかなか難しい。
モノの分類と名称、言葉と物の成立については、人間のその時点での環境、国の政治状勢、時代の、文化が大きく影響し、知の枠組がつくられており(エピステーメー)、実際はこの枠組みの外においやられたモノも存在しているが、考古学でのモノの分類を完璧な形で検討することは極めて難しく、エピステーメーのみを理解することすら、至難の技ということになってしまい、不十分なモノの考古学といわれても性がないのです。
したがって、すでにおわかりとおもいますが、モノの名称については、その時代の文化や思考過程に強い影響をうける。とくに日本での明治10年以降から平成17年までのファイン・アートのみならず、あらゆるモノについて、たとえば医学における診断、治療、病名、などの名称についても、そのアルケオロジーを再考察が必要です。
もっともナウイ、携帯電話やパソコン、インターネットの世界になって、すでに20年が経過した時点で、医療では、そのモノの名称、分類も、相当グローバルな範囲となり、便利にはなってきたが、バーチャルリアリチィその内容の正否について、理解も難しい時代になってきているのです。

日本の樹木は世界に誇れる植物であり、そこから生成される紙にしても樟脳にしても世界有数の製品をつくりだしてきました。とくに紙においては、伊達政宗の命で慶長時代にヨーロッパに渡った少年遣欧使らが、スペインのマドリードの町中を闊歩しているとき、おもむろに袂から鼻紙をだして洟をかみ、その紙を道路に捨てると、スペイン人があまりの立派な紙であったので、後をつけながら、この紙をすべて拾っていったというエピソードがのこっているほどです。
そんな馬鹿なとおもわれるかもしれませんが、ヨーロッパ、とくにフランスのトイレットぺーパーに代表されるように、紙の質の悪さに閉口した日本海外旅行者は多いと思います。日本でのみ生活している人は、日本の製紙技術が世界一であることに気付いていない。これは現在おもに静岡富士あたりで樹木からパルプとして精製されるのですが、日本全国の樹木という樹木はほとんど伐採されてしまうような勢いであったのが、1980年頃から環境保存が叫ばれ、伐採にはブレーキが駆けられてきました。
そして、日本全国に太古の昔から、樹齢千年以上という巨木がのこっており、国、県、市指定の天然記念物として保存に努めてきてはいますが、平成17年小泉内閣政府の環境保存への力の入れようは腰抜けといっても過言ではありません。昭和50年頃まで色濃くのこっていた天然記念物の指定状況も、現在、259件にのぼっていますが、今インターネットでしらべても完全には渉猟できない状態です。
これは一部の心ない人が天然記念物と知って、あらゆる悪戯を考えつき実行に移すから、完全情報公開が出来ないのだそうです。これも個人情報ではないが、実に不愉快な時代になったものです。ゴルフ場開発乱発で、自らの国土の滅亡に拍車をかけてしまいました。新村出氏の四恩のうち、国土の恩など、まったく感じなくなってしまっているのではないでしょうか。
一般に、日本人が日常生活感覚から抱く巨樹のイメージは、梢(こずえ)は亭々として天にそびえ、太枝は屋根のごとく四方八方に張って大地を覆い、幹は大人が手をつないでも五、六人を要する堂々の威風を備えたものです。
現在、平成17年で最も巨大な樹木は鹿児島県姶良郡蒲生町上久枝の八幡神社の「蒲生のクス」で幹周24.22メートル、樹齢3,000年といわれる大クスノキです。和気清麻呂の杖突の木といわれているが、樹齢はさらに千年以上をさかのぼると思われる。
これらの巨樹を愛する人は多数で、昭和63年から第1回「巨木を語ろう・全国フォーラム」が兵庫県柏原町でひらかれ、その後、毎年各地で開催され、昨年で17回を迎えています。18回は宮崎で平成18年2月開催予定とのことです。
この巨樹愛好研究家のなかで、牧野和春氏(まきのかずはる;鳥取生まれ、慶応文学倶卒;1933− )は日本国中の巨樹を観察研究される大家です。そして、氏の名著『樹霊千年』1979年には山梨の神代桜から春日部の牛島の藤、薩摩の臥竜梅まで、全国十三の巨木がその植樹伝説まで詳しく紹介されており、超名著であり、私の座右の書の一つであります。
さらに、牧野氏の平成10年(1998)『巨樹と日本人』中公新書で、1988年巨樹巨木林調査のなかで巨樹の定義として、「地上から約130センチメートルの位置での幹周が3メートル以上の樹木。なお地上から約130センチメートルの位置において幹が複数に分かれている場合には、個々の幹の幹周の合計が3メートル以上であり、そのうちの主幹の幹周が2メートル以上のもとする」となっており、これによる全国巨樹の総数は55,798本でその半数は神社、寺の所有だそうです。平成12年度の環境庁の再調査で8,500本が追加されており、この追加分で最も多い県は千葉県の220本でした。
カシワの木の巨樹は全国でたった二本です。一つは、山梨県中巨摩郡抗甲西町和泉の大木正敏宅の庭にあり樹齢400年で、もう一つは岩手県紫波郡紫波町日詰の勝源院境内の「逆ガシワ」といわれる巨樹で根元から地面をはうように枝がのび、それからL字にまがって天にのびる特異な形態のカシワの木です。
紀元前480年、中国、春秋時代、『史記』によると呉の國の王闔廬(こうりょ)、臥薪嘗胆の語源をつくった二代目の王夫差の二人につかえた名将、伍子胥(ごししょ)がいた。伍子胥は夫差の斉の國への宣戦布告案に反対したために自決をいいわたされたが、自分の墓に梓を植えよといって切腹した。しかし、その無礼を夫差は怒り、死体を馬の革袋にいれて、長江にながさせた。この英霊を弔うために「端午の節句」が設けられたとされている。
話は巨樹にもどるが、これらの巨樹のなかで、桜の木の巨樹は日本人の特別な感情を惹起するものです。ここでは四大桜(山高神代桜、素桜の神代桜、根尾谷淡墨桜、三春滝桜)のことのみをあげておきますが、巨木になると樹齢2000年以上というのがでてまいります。植樹されたのは紀元前ということになります。
日本でもっとも古いとされている桜は山梨県北巨摩郡武川村山高、実相寺境内の山高神代桜(やまだかじんだいざくら)で、これは日本武尊(やまとたけるのみこと;第12代景行天皇の皇子)が東夷征定の帰途に植樹したエドヒガンザクラで、樹齢2000年の巨樹です。しかし、1274年(文永11年)、日蓮がこの地を訪れた時、樹木の衰退がはげしいので、祈祷により甦えらせたといわれています。
それから、730年ちかく経っているのですが、主幹の周囲は14メートル、目通りの幹囲約11メートルで、わが国の桜で最大の太さで、大正11年に国の天然記念物に指定されている(目通り;人の目の高さの、その木の周囲)。しかし、主幹が腐り、無惨にも屋根付きの状態で保存されています。
ヤマトタケルは漫画にもなっていますし、昭和61年に話題になった市川猿之助のスーパー歌舞伎の題材になりましたので、既知とおもわれ説明を省きます。この「ヤマトタケル」は2005年平成17年では、右近、段治郎のダブル・キャスト、ニューバージョンでやはり新橋演舞場で楽しめます。
山高神代桜の姿。

そして、もう一つ「神代桜」といわれる桜があります。これは長野県泉平の素桜神社境内の桜で、こちらは素戔嗚尊スサノオノミコトのお手植えの桜と伝えられています。樹齢1200年、国指定天然記念物、幹周囲11メートル。「そざくら」とも「すざくら」ともよみます。
しかし、天照大神、素戔嗚尊、天の岩戸の話は神武天皇以前のことで、神話の神世(かみよ)の時代で、ヤマトタケルよりはるかに昔のことです。したがって、天の岩戸の原因をつくった人、素戔嗚尊スサノオノミコトが植樹したことが史実であれば、この素桜が日本でもっとも古いことになります。
天の岩戸からでられた天照大神は怒り焉さまらず、素戔嗚尊を高天原から追放されました。日本書紀にはのっておりませんが、素戔嗚尊は、その後、長野までやってきたのでしょうか。
素桜も、このような立派なさくらで神代であろうとはおもいますが、樹木の状態からみると、その古さは山高には及びません。したがってスサノオノミコトの伝説は偽りといえます。しかし、地元の方々は神代として大切に保存されています。
「天の岩戸」は日本書紀の第1巻の六段に
是後素戔嗚尊之為行也、甚無状。・・・・乃人于天石窟、閉磐戸而幽居焉。
天照大神は弟の素戔嗚尊の行状の乱暴をきわめたため、たいそう立腹され石窟にはいって磐戸を閉されてしまった。
素戔嗚尊の粗暴とは天照大神の田畑に春には重播種子(しきまき;一度まいた上にまた種をまくこと)したり、夏になると田の畔(くろ)を毀って(はなって;こわす)しまったりされるし、秋には天斑駒(あまのふちこま)を、田の中に放牧してしまい、耕作や収穫の妨害をし、新嘗をきこしめす時をみはからって、ひそかに新嘗の御殿に糞をまきちらすありさま。これに耐えかね、天照大神は天の岩戸にお隠れになり、これで世界から光が消え失せ常闇(とこやみ)となってしまった。
天照大神を外界に連れ戻す方法は、思兼神(おもいかねのかみ)が綿密なる計画を練ります。常世(とこよ)の長鳴鳥(にわとり)を集め一斉に鳴かせ、手力雄神(たちからおのかみ)を岩戸のわきに立たせ、天児屋命(あめのこやねのみこと)と太玉命(ふとだまのみこと)が天香具山から五百個の真坂樹(まさかき;榊)を抜いてきて、その上の方に八坂瓊(たま)をとりつけ、枝に八咫鏡をとりかけ、青和幣(あおにきて)と白和幣をかけて祈祷しました。
さらに、天鈿女命(あまのうずめのみこと)は手に茅(ち)を纏(ま)いた矛(ほこ)をもちながら、天の石窟の前に立ってたくみにしぐさをし、また、天香具山の真坂樹を鬘(かずら)にし、蘿(ひかげ;ひかげかずら)を手繦(たすき)にして、たき火をし、覆槽(うけ;大きな桶)を伏せ、この上にのって顕神明之憑談(かむがかり)して踊った。
天照大神は闇のなかで、なぜ、女が喜び楽しげにわらっているのだろうと不思議におもい、そっと磐戸をあけて覗かれた。そこを手力雄神が御手をとって引き出し申し上げた。その後、世に光はもどり、素戔嗚尊は爪を剥がされ、高天原から追放された。
これらのことは小學國語讀本巻五にでていました。ここでは「天の岩屋;あめのいわや」になっています。しかし、素戔嗚尊の素行については記載されておらず、なぜ天照大神が岩戸にお隠れになられたのかの原因はここでは明かされていません。
更に、現在いわれている日本三大桜は山高神代桜、根尾谷淡墨桜、三春滝桜で、このうち根尾谷淡墨桜(ねおやうすずみ)は岐阜県本巣郡根尾村の根尾谷の淡墨桜で、第26代継体天皇の植樹といわれています。エドヒガンザクラで樹齢1500年、根元周囲11メートル。継体天皇は即位前は大迹部皇子(おおあとべのおおじ)といわれ、越前今立に和紙のすき方を伝授され、また今立の地の粟田部の桜の岡にも薄墨桜を植樹されたと伝えられています。この今立の薄墨桜は幹三尺4.5メートルでやや小振りです。安閑天皇の生母で継体天皇の愛人照日の御前(てるひのみさき)に継体天皇が越前の國、味真野(あじまの)で、彼女をみそめられる話しは謡曲、能、四段目物『花筐;はながたみ』です。いまも残る味真野小学校校庭の桜も見応え十分です。
さらにもうひとつ、福島県田村郡三春町滝桜久の三春の滝桜です。三春というのは睦月、如月、弥生をいい、また梅、桃、桜がここでは同時に咲くので、これを三春といっています。植樹者は不明です。こちらはシダレザクラです。根元周囲11メートル。こちらも国指定天然記念物を大正11年にうけています。
因みに、桜の中でもっとも重量感があり、見応えのある花をさかせるのはソメイヨシノでしょう。しかし、ソメイヨシノは千古不易とはいかず、樹齢は一般には80年ほどといわれており、日本最古の染井吉野は明治40年に卒業生一同により植樹された土浦真鍋小学校校庭のソメイヨシノといわれています。
物についての鋭い考察で有名になった、フーコーの哲学は、自らの言葉をかりると、「わたしが試みているのは診断すること、現在の診断を実行することです。それは現在のわれわれとはどのようなものであるのか、現在われわれが語ることは、どのような意味があるのかを明らかにすること」ですと。このように自身の哲学の目的を明かしています。
フーコーの哲学は、現在とは何かを問うために、性、知、言語、物についての詳細な考察をふまえた哲学です。従って、彼の哲学を知るためには考古学、アルケオロジーをかじっていなければ、現在を読み取ることは難しいと気付かれると思います。
しかし、そういうフーコーは1984年昭和59年、エイズで死亡している。私生活はどうなっていたのか? 不明、不可解な死をむかえた心理学者、社会学者、哲学者、医師でありました。
美術なる言葉が爽やかに甦るのを最近、経験しました。2005年の3月に箱根にルネ・ラリックのガラス美術館が開館したのです。日本のこの長期不況のなか、あまりにもゴージャスでバブリーなラリックの美術館の登場です。
ルネ・ラリック(1860−1945)はフランス、シャンパーニュのアイでうまれた。ガラス工芸美術家の彼は、コティの香水瓶で一躍有名になっています。彼のアール・ヌーヴォー、アール・デコのデザインは今も魅力的で、とくにオパルセント・ガラスというリン酸塩、骨粉、酸化マンガンを混入させて、透明ガラスを真珠、オパール色の乳白色の混濁面をつくり出す技術は高度をきわめ、歴史にのこるアートとして高く評価されてきました。
彼の作品製作のテーマは美術として観賞するのではなく、日常生活で使用するモノを芸術的にゴージャスに作りあげていくことでした。
なかでも、ベントレーやロールスロイスの車の先端部のラジエーター蓋の上にマスコットとしての巨大なガラス製トンボや女神などを製作しています。今は、このデザインの付け方はベンツやBMWなど車会社のマークとしてのこっています。
オリエント急行の食堂車の内装用に木枠にはめられた人物とブドウのパネルも製作していますし、白金台の旧朝香宮邸、東京都庭園美術館の正面玄関の女神の立像レリーフやシャンデリアもラリックの作品です。一度、実物をじっくりみてみたいし、できれば欠片でもいいから手元においておきたい、ほしい。ガレのデザインよりアカヌケしていて日本人好みなのではないでしょうか。
また、楽しみがふえました。
参考図書
鈴木廣之 好古家たちの19世紀 吉川弘文館 2003
立間祥介 諸葛孔明ー三国志の英雄たちー 岩波新書 1990
鎌田 正 漢詩名句辞典 大修館書店 2002
佐佐木信綱 新訓万葉集 岩波文庫 1999
鶴 久 森山隆 萬葉集 おうふう 1972
ミシェル・フーコー 言葉と物 渡辺一巳訳 新潮社 1974
前川文夫 日本人と植物 岩波新書 1973
辻井達一 日本の樹木 中公新書 1995
中山元 フーコー入門 ちくま新書 1996
牧野和春 樹霊千年 牧野出版 1979
牧野和春 巨樹と日本人 中公新書 1998
池田まゆみ ルネ・ラリック 平凡社 2005
|