春夏冬
    二升
      五合
        と書いてナント読ませるか、頓知です。

 正解は、あきない、ますます、はんじょう。先ず四季で、秋がない、あきない、二つの枡で、ますます、五合は半升で、はんじょう、というわけで、商ひ益々繁盛です。さて、ふざけてないで、真面目に。

 支那学の石田幹之助の文章を紹介します。石田が「長安の春」という文章を発表したのは大戦直前の昭和16年3月下浣(下旬)、創元社からで、再版で昭和54年の講談社学術から文庫本化されている。
 この文は唐の時代の韋荘(いそう)、白居易が歌った古都長安の春を基にした随筆で、厳しい推敲により、簡潔にして、濃厚。豊潤にして、流麗な、超名文とうたわれた代物です。

 石田幹之助先生は1891年、銀行員忠三と房子の間の長男として千葉市で明治24年の暮れ12月28日に呱々(ここ)の声を挙げられ、1974年5月25日、昭和49年83歳で瞑没された。
 麻布中学校、一高、東大文科大学史学科に進み、白鳥正吉の弟子で、新村出の15年後輩にあたる。また、大学時代は芥川龍之介と同級であった。卒業時には銀時計の秀才で、卒業と同時にモリソン文庫を上田万年学長の指導と岩崎久弥の肝いりで、購入に中国まででかけている。

 医師ジョージ・アーネスト・モリソンMorrisonはオーストラリア人で、ロンドンタイムズの中国支局に派遣され、中華民国大総統府顧問をしていた。
 中国古書肆4万5千冊を購入蒐集していたが、これが売りにだされたのである。日本国政府は日露戦争後で金はないとの返事で、岩崎の三菱財源を利用した。横浜正金銀行の頭取であった井上準之助が相談役で、丸善の鑑定名人栗本癸未翁の目利きと厳しい助言により、当時で約33万円と超安値で落札した。いまの貨幣価値からいうと300億円はくだらないでしょう。井上は後に山本権兵衛内閣の大蔵大臣になっている。

 大正6年9月に深川の三菱倉庫にモリソンの蒐集全冊子が運び込まれたが、折り悪く台風で浸水し、倉庫、図書がびしょびしょになってしまうという、噸だ、おまけ付き騒動までありました。このあと、この図書は六義園そばの小石川日本医師会会館、駒込署の本郷通り側に隣接している東洋文庫に納められた。

 石田は、東洋文庫の主事として勤務管理したが、生涯に400ほどの執筆をのこしている。その中でも「長安の春」は美辞麗句の羅列ではなく、文筆形体に苦心し、推敲厳しく、大古都、長安の春に、草木、香しき花を愛で、北斗星に春を観、牡丹に人心を乱し、一国狂うが如く金を惜しまぬ唐の人々の心、一際、長安の人々の文化の高さを表現した、最高の文とされているのが「長安の春」です。

 これは昭和16年3月下浣、太平洋戦争突入半年前、石田50歳の時、脂ののりきった頃の文で、これを解説入りで紹介していきます。
 付録で長安の夏の避暑のとりかたも紹介して、また、野尻抱影氏の「星三百六十五夜」の四月十二日に同名の長安の春という題目で李白、白楽天の詩を紹介していますので、こちらも掲載しておきます。

 芥川龍之介の人口に膾炙(かいしゃ)した支那ネタの、「鼻」、「杜子春」、「酒虫」などは、石田の支那学に触発され書いていますし、さらに井上靖、三島由起夫らも石田支那学に強く影響をうけています。とくに、「天平の甍」や「楊貴妃」を書いた井上靖は、「長安の春」は自分の座右の書で、永年の愛蔵書であったことを明かしています。

 それでは早速、石田幹之助の長安の春を解説を交えながら写し書きしたので、永久保存版にしていただければ幸甚です。これらの古書はもう手に入らないかもしれませんので。しかし、こんな中国の昔のはなしを知っていたところで何にも役立たないかもしれませんが、悠久のロマンを感じて頂ければよいと思います。

 長安春      韋荘

長安二月多香塵  長安の二月香塵(こうじん)多し、
六街車馬聲■■  六街(りくがい)の車馬、聲■■(りんりん)。
家家樓上如花人  家家樓上 花の如き人、
千枝萬枝紅艶新  千枝萬枝紅艶新なり。
簾間笑語自相問  簾間(れんま)の笑語自ら相問う、
何人占得長安春  「何人ぞ占め得たる長安春」と。
長安春色本無主  長安の春色 もと主(あるじ)無し、
古来盡属紅樓女  古来盡(ことごと)く属す紅樓の女。
如今無奈杏園人  如今奈何(いかん)ともする無し杏園の人、
駿馬輕車擁将去  駿馬輕車 擁し将(も)ちて去る。
                    老石印本の全唐詩26巻より

 陰暦正月の元旦、群卿百寮の朝賀とともに、長安の春は暦の上に立つけれども、元宵観燈(げんしょうかんとう)の節句のころまでは、大唐の都の春色もまだ浅い。

 立春ののち約十五日、節は雨水に入って、菜の花が咲き、杏花が開き、李花がほころぶころとなって花信(かしん)の風も、ようやく暖かく、啓蟄にいたって、一候桃花、二候棣棠(たいとう)、三候薔薇(しょうび)。

 春分に及んで一候海棠、三候木蘭と、つぎつぎに種種(くさぐさ)の花木が撩乱を競う時にいたって、帝城の春は日にたけなわに、香ぐわしい花の息吹が、東西両街、一百十坊の空を籠(こ)めて、渭水(いすい)の流れも霞に沈み、終南の山の裾には陽炎が立つ。

 溟濛(めいもう)たる春雨の日が続いて、清明の節が過ぎ、桐の花が紫に匂い、郊外の隴畝(ろうは)には麦の穂が青々と秀で、御溝(ぎょこう)の水には柳絮(りゅうじょ)が繽紛として雪のように舞うころになると、時は穀雨の節に入って、春はようやく老い、照る日の影も思いなしか、少しずつ輝きを増して空も紺青(こんじょう)に澄んでくる。

 二橋の袂に柳の糸を撫でて、薫風が爽やかに吹き渡ると、牡丹の花が満都の春を占断して、王者のごとくに咲き誇り、城中の士女は家を空しくして、ひたすらに花の跡を追うて、日を暮らす。

 かくて棟(おうち)の花が甘く淀んだ懊(なや)ましい香(にお)いを宵闇に漂わすころにいたって、世は青葉若葉の季節となり、咽(むせ)ぶような新緑の色が鮮やかに、九街十二衢(く)の条坊を埋め尽くして、天を覆う槐樹や楡の並木道には樹立の蔭も日に濃やかに、爽やかなプロムナードに淡い疲れを感じた都土人(とじんし)の姿が、肌ざわり新たな軽衫(けいさん)にやや汗を覚えた士女の姿が、このあたりに、しばらくの憩いを求むるか、三五参差(しんし)として隠見するような初夏となる。ここに長安の春は尽きて詩人は、逝(ゆ)く春の歌を唱い、惜春の賦を作る。

これは実際に東洋文庫まで出向いて探しだした韋荘の長安の春の漢詩のコピーです。

 韋荘は711〜771の人で、長安の春を歌った漢詩は、東洋文庫所蔵の全唐詩二十六巻に納められている。東洋文庫での分類記号はIV-1-295で全唐詩99、第9冊、韋荘六の十頁に見られる。
 七言絶句で、漢字二文字、二文字、三文字とよんでいきます。

 簾間;れんま、すだれの間。紅樓の女;朱塗たかどの、富家の女、美人のことをいう。

 唐詩選という本がありますが、これは明時代の李攀龍(りはんりょう)が編纂したとされていますが偽托です。日本には何時伝えられたかは不明ですが、江戸時代の荻生徂徠が推重したために有名になった詩選です。これには韋荘の長安の春はのっていません。全唐詩の巻二十六からです。また、この唐詩選には白居易は一編も選ばれていません。

 長安の春は旧暦での正月から二月の頃を語っています。したがって、陽暦の三月、四月あたりまでの叙述です。唐の時代は中国の618年から905年までの287年間で、日本の奈良時代から平安時代にあたる。玄宗皇帝、楊貴妃、各漢籍をのこした詩人、李白、杜甫、白居易(白楽天)、など多数の文化人を輩出し、完璧な文化国家でした。

 717年には、あまの原ふりさけみれば・・の阿倍仲麻呂が長安に入っていますし、その後、空海が長安に赴き、密教とその文化全般を日本に持ち帰り、これを広めています。

 長安は今日の陜西省西安です。西安シーアンは北京と上海の間で、緯度でいうと北九州とほぼ同じ高さで、黄河下流から1000キロ上流の盆地です。秦の時代から中国の首都でした。

 石田は長安の春を書き上げた4年後の昭和20年に「長安汲古」を書いており、そこに長安の地理、地勢について述べていますので、ここに、その説明文を載せます。

 『さてその長安 ―― 今でこそ、謂はば一片の廃墟と化して、隴畝(ろうは)の間、徒(いたず)らに人をして麥秀(ばくしゅう)の嘆に堪へざらしめるのみでありますが、遠い昔、漢・唐の首都として栄華の夢を留めた長安城は、当時啻(ただ)に支那第一の名邑(めいゆう)であったばかりでなく、広く東亜、否、世界で一二を争う大都会として、支那の上下は勿論のこと、普く四周の諸民族すべての憧れの的でありました。その名も色々と変つてはゐますが、印度や西アジアは申すまでもなく、遠く欧羅巴までも知られてゐたのであります。

 古来支那に名城の数も少なくありませんが、前漢二百年、随唐三百年の帝都として、内外に喧傅し、その歴史を繙(ひもと)くものに最も親しみを以て迎へられたこと、長安の都の如く著しいものはなかつたでありませう。

 長安の位置や、付近の地形・地勢などは今詳しく説く暇がありませんが、先ず、その位置を申しますと、今日の陜西省の省城長安、民国の初まで、久しいこと西安と呼ばれてゐましたので、今でもさう称へる人もありますが、その長安、これが大体随唐の長安の跡に当たります。但し、今の長安は当時の長安の僅か一部にしか過ぎないので、その頃の都城は今の夫れより東・西・南の三面に向ひ、遙かに広く延びてゐたのでありまして、今日の長安とは規模に於いて格段の相違がありました。

 漢魏時代の長安はこれとはまた稍々地を異にし、隋唐の都城の更に西北に位してをりましたが、今は当時の城壁の残るものとてもなく、的確なことは分り兼ますが、その大きさは隋唐の長安には及ばなかつたようであります。

 斯(か)く、長安城も時の古今にとつて位置に相違のあること、恰も之と並称せられる洛陽に似たものがありますが、漢魏南北朝時代の長安も隋唐の長安も、供に渭水の下流、その南岸に近く位して、南の方には秦嶺の一脈、終南山を控へ、東に行けば函谷関を出でて洛陽の平野に達し、西すれば道は二つに分かれ、ひとつ西南に折れて四川に入り、一つは更に西に延びて蘭州、涼州等を超えて中央アジアよりペルシャ、イラン、アラビア、シリア等に到ることが出来ますし、又、東北を指して行けば山西の太原を経て蒙古の南邊に赴くことも出来ました。南して藍関を越えて終南山を横断しますと所謂漢中の地に出て漢水の上流に浮かび、その流を下って揚子江の流域に往くことも出来ます。

 洵に、四通八達の要衡で、たつて、且(か)つ、その懐に渭水盆地の沃野を抱き、而も山川の形勢自ら要害堅固の地に座を占めて真に紫気搖曳(しきようえい)、帝王の居たるにふさはしい処でありました。

 されば、このあたりに一代の首都を奠(さだ)めたものは独り前漢や随唐に限りません。古く西周の都架橋もこの付近に在りましたし、秦の始皇帝が天下一統の威容を誇った咸陽の城も渭水を挟んでその南北に跨り、同じくこの近くに在りました。
 即ち前者は今の長安の西南約二十キロの地に、後者はその西北五十キロ程の処に在つたのであります。

 というわけで長安は秦、漢、随、唐の首都で、シルクロード、絹の道の出発点、長くローマに続く、ロマンを秘めた街で、唐時代で長安の人口は100万、現在362万人と賑やか都鄙(とひ)でした。』

 群卿百寮;ぐんけいひゃくりょう、もろもろの官僚のこと。
 元宵観燈の節句;げんしょうかんとう、旧中国での節句の一つで正月15日に各家々に灯籠に火を入れ二泊三日、それ以上に新年の祝いをおこなう。上元は1月15日、中元は7月15日、下元は10月15日をいい、元宵とは上元の夜をさします。この節句について石田は「長安の春」を書き、その後の昭和23年に刊行した
 「唐史叢鈔」に詳しいので、これを参考に説明をくわえます。

『上元の日より、闇夜になると、月明りに負けじと光を争うように、都鄙(とひ)を通じて、家ごとに、意匠を凝らし、巧緻を極めた灯籠に、火をいれ松明し、飲めや歌え、歌えや踊れの狂歌乱舞、町中を歓呼遊歩する。年中行事で最も盛大な新年を祝う行事で、最大の祭りでありました。懸け灯籠のほか、灯樹あるいは火樹、山棚などとも名づけられた萬灯の如きものや、長竿に無数の横木を枝出して灯盞を配したもの、あるいは高柱の中心に輪形の灯架を傘の如く円錐状に周らしたものなど、いまのイルミネエションです。』

 これを見たのが弘法大師です。空海は恒武天皇の勅命により延暦23年804年7月に日本を発ち、12月に長安に入った。次の年と次々年の2回、この元宵観燈をみとどけている。翌年806年にわずか二年で帰国しているが、その深い造詣と鴻才を発揮し、真言密教の普及はおろか、様々な社会事業を行っているが、おそらく、この観燈の行事を、日本では中元の暑いお盆の時期に開催するように指導したのではないだろうか。それが各地にのこっており、代表的なのが、弘前のねぶたまつり、秋田の竿灯祭り、京の大文字焼、熊本の山鹿灯籠祭りなどです。

雨水;陽暦では2月18日のころ。
杏花;あんずのはな、バラ科で花木は梅の木ににている。
李花;スモモのはな。
花信;花が咲いたという知らせ。
啓蟄;陽暦で3月6日あたり。
棣棠;たいとう、やまぶきのこと。
春分;3月21日。
清明;4月5日ころ。
隴畝;ろうは、はたけ。
柳絮;りゅうじょ、柳の花の棉の如きもの。
穀雨;4月21日ころ。
槐樹;かいじゅ、えんじゅ、マメ科の葉樹。
軽衫;けいさん、袖無しの短い衣。
三五参差;しんし、様々なものがいりまじるさま。
賦;ふ、みつぎ、さずかりもの、天賦、詩歌を作る事。
麥秀の嘆;ばくしゅう、亡国の悲嘆。
啻に;ただに、ひとりで。
名邑;めいゆう、有名な、むら。
紫気搖曳;しきようえい、紫色の雲がゆれたなびくさま。

 次いで、その問題の牡丹の部分を紹介します。

『 "牡丹妖艶人心を乱し、一国狂うが如く金を惜しまず" と歌われたように、当時、牡丹を賞することは、ひとり長安のみの風潮ではなかったが、帝城の住民の、この花に対する愛着は、またとくに、はなはだしいものがあった。

 杏園の春色もやや更(た)けて、曲池の賑わいも少し閑寂に帰るころは、長安の市民は牡丹の花に憧れて気もそぞろに、都を挙げて花の噂に日を暮らした。
 もちろん、宮中にも幾多の名花が栽えられ、帝王宮嬪の鑑賞に供えられたことは言うまでもなく、かの天宝年間における沈香亭北の牡丹の故事はあまりにも有名であるが、文宗のころも"暮春内殿牡丹の花を賞し"、皇帝が侍臣に "今京邑(けいゆう)の人牡丹の花を伝う、誰か首出(しゅしゅつ)となす" と問われたことなどが伝わっている。権豪の家々もまた侈(おご)りを尽くして、この花を愛玩した。

 すなわち楊国忠が玄宗より賜わった牡丹数本を家に植え "百宝をもって欄楯(らんじゅん)を粧飾し、帝宮の内と雖も及ぶべくもなかった" ことや同じく国忠が" 沈香を以て閣を為(つく)り、檀香欄(だんこう)を為り、麝香(じゃこう)・乳香を以て土を篩い、和して泥と為(な)して壁を飾し、毎(つね)に春時に於いて木芍薬(牡丹)盛開の際に賓客を此閣上に聚(あつ)め花を賞す。禁中の沈香亭も遠く、此の壮麗に並ぶなきなり" といわれたことでもその一端をうかがいうる。

 しかし、牡丹を重んじたことの盛んなのは、それがひとり王侯相将の間のことにとどまらず、市民全体が花に酔っていたことにあった。
 長安における牡丹の花期は、三月の十五日を中心として前後約二十日間のことであった。

 "花開き花落つ二十日。一城の人、皆狂うが如し"といわれ、
 "三条九陌(はく)花時の節、万馬千車牡丹を看る" と詠まれ、
 "花開く時節京城を動かす"と思われ、
 "長安牡丹開く、繍轂晴雷を輾ず" と歌われて、都の町々は
 "牡丹花際六街(かさいりくさい)の塵" も匂やかな巷を現出した。
 "あまねく花を看るも此の花に勝るものなし"と賞せられ、
 "万々花中の第一流" とも折り紙を付せられた牡丹だけに、
白氏が諷したように一叢(ひとむら)の花に、
 "十戸中人の賦" に当たる価を払って怪しまぬものを生じ、柳渾をして
 "近時牡丹を奈何ともするなし、数十千銭一かを買う"と嘆ぜしめ、
 "種(う)えて以て利を求め、一本にして値数万なるものあり”と記さるるにいたったが、一時の風尚は容易に衰うる様もみえなかった。

 長安の士女は春時 "花くらべ"(闘花)の際に、奇花を戴挿して勝を誇ろうとし"皆千金を以て名花を市(か)い、庭苑の中に植え、以て春時の闘に備えた"ということであるが、そのうちには必ずや牡丹の名品も伍していたことであろう。

 長安城中における牡丹の名所は二三にしてとどまらない。しかし、その最も名のあったのは、けだし、街東にあっては晋昌坊の慈恩寺、街西にあっては延康坊の西明寺であったらしい。

 ことに西明寺の牡丹といえば唐一代を通じて最も人口に膾炙(かいしゃ)したものであった。慈恩寺では、その子院、元果院の花が京中の諸家に魁して開くので名高く、同じく太真院のそれは "諸牡丹に後るる半月にして開く" といわれ、毎春、都人、最終の賞翫に供せらるるところであった。西明寺の牡丹は諸家の題詠も多く、あまりに有名であって、一々記する煩に堪えぬ。

 両寺をほかにしては、街東にあっては靖安坊の崇敬寺、その北なる永楽坊の永寿寺、曲池にほど遠からぬ修政坊にあった宗正寺の亭子など。
 街西にあっては長寿坊なる永泰寺、永蓬坊なる度子部の亭子などを数えることができる。崇敬寺境内のものなどは相当重んぜられたと見えて詩句のうちにも散見し、また小説"霍小玉伝"にも、小玉の旧情人、李益が、同輩数人と、ここに牡丹を賞したことがみえている。個人宅では街東の北部、大寧坊なる渾貫の家、薦福寺に隣する開化坊内の令狐楚の家、これらがもっぱら、この花をもって著われた大宅である。当時、都人のもっぱら賞した花は紅紫の両種らしく、白花は一般大衆の重んずるところとならなかったらしい。

  牡丹芳       白居易

  美天子憂農也 天子の農を憂うるを美(ほ)むるなり

牡丹芳しい。
 紅玉の花房の中からプッカリ顔をだした黄金色のおしべ、めしべ。
 幾千ものあかい花、花、花、まるで夕焼け空のかがやくようだし、
 百枝に咲きにおう、まぶしいまでの、花のあかさは、灯火のてりかがやくようだ。
 それが地面を照らす美しさは、錦の織物をひろげたばかりのようだし、
 風の前に、放つ香ぐわしさは、蘭麝の香りぶくろの口紐をときはなしたよう。
 仙人の家にあるという玉の樹も、白いだけで、牡丹のように美しい色はなく、
 西王母の桃だって、ちっぽけなもの、牡丹のようには、におわない。
 朝霧はつやつやしい色をした紫牡丹にうかび、
 朝日に光りをまして、照りかがやく紅牡丹
 紅紫二つの色が、深紅、薄紅、深紫、うすい紫と入り交じりれば、
 こちらむくもの、あちらむくもの、とりどりの姿。
 それがまた、あるいは低い、あるいは 高く、思い思いの姿勢をとる。
 それらが葉かげにチラチラするさまは風情にとみ、まるで美人がはにかむ面をかくすようだし、
 くさむらに臥してかけたところは、酔うて力のぬけた美人が、酔いの装いをつつんだようだ。
 また低くたれた愛くるしさは、美人が口に袖あてて笑う姿とまちがえるし、
 ジッと思いつめた姿は、怨める美人が切ない思いに腸ちぎるかのようである。
 こってりとあでやかな姿、高貴ないろどりはまことに奇絶と言うべく、
 さまざまな草花もこれに肩をならべうるものはない。
 これに比べたら、石竹花、金銭花など、なんとみすぼらしいことか。
 芙蓉の花や芍薬の花とても、きわめてありふれたものだ。
 牡丹の花、愛でんと、くりだす王公大臣たち、
 その冠や車の蓋が、前後望みあって、日々ひきもきらさずにうちつづく。
 また、腰の低い車、乗り心地安らかなる肩車に召された姫君さまも出むかれれば、
 香たきしめた、ひとえの上衣、はおって、こがたの名馬にまたがった金持ちの若様もお出かけだ。
 衛公の家なんか家内総出とみえて、ひっそりしたもの、東の奥庭はとざされたままである。
 これに反して牡丹の名所西明寺では奥行き深い境内の北の廊下を開放して、花見の客を迎えるといったにぎわしさ。
 花の上を胡蝶が二匹、戯れて舞う、人はあかずに、いつまでもながめている。
 おりから一声老鶯のさえずり、春の日長くて、暮れようともしない。
 牡丹を愛する人たち、誰も彼もが心配なのは、太陽が花を照らして、かんばしさをとどめおくのがむつかしいこと。
 そこで横に上にとテントをはりめぐらして涼しいかげを垂れさせる。
 花が開き花が落ちる、その期間は二十日間。
 その間、城中の人みな気も狂うわんばかりのさわぎである。
 古典時代の三王朝このかた、華美が質様にかつようになってから、
 人の心は派手を重んじて地味を喜ばない。
 その派手ごのみの風が、そのまま牡丹芳に狂うところまできた。
 それも昨日や今日に、はじまったことではなく、次第次第にそうなったのだ。
 かかるおりから、わが君は農業のことを御心配になって、人民を慈しみたまい、
 それが天を感動させると、天はめでたき、しるしを降された。
 去年はよい稲が一本の茎から9本の穂をだした。
 だというのに田んぼの中はひっそり、誰独りも見にこなかった。
 今年はまた、めでたい麦がふたまたに分かれてでたが、
 喜ばれるのは天子お一人、誰一人知るものがない。
 かかる瑞祥を知るものもがないとは、なげかわしいことだ。
 ほんの暫くでよい、造物者の力をかりて、
 怪しいまでに美しい牡丹の色を磨り減らし、
 大臣たちに花をめでる心を少しでも他の方面にむけかえて、
 農事を憂い給うわが君の大御心に、ともどもにあやからせたいものだ。
                   高木正一氏の義解より

"牡丹妖艶人心を乱し・・・王叡の詩、全唐詩19巻
杏園;慈恩寺の南、通善坊の中にある庭。
沈香亭北の牡丹の故事;玄宗皇帝と楊貴妃が牡丹を観賞するためにたてた亭、香木でベトナム産の沈香木という伽羅に似た芳香の木でたてられているため、この名の亭で、玄宗、楊貴妃らが李白らとともに牡丹を愛で楽しんだ亭。
文宗のころ;晩唐、皇帝14代、826-840。
"暮春内殿牡丹の花を賞し", "今京邑(けいゆう)の人牡丹の花を伝う、誰か首出となす"・・・             銭易の『南部新書』。
"百宝をもって欄楯を粧飾し・・・・開元天宝遺事の百宝欄の条。
欄楯を粧飾し;らんじゅん、欄干をかざる。
"沈香を以て閣を為り、・・・・・開元天宝遺事の四香閣の条
"花開き花落つ二十日。一城の人皆狂うが如し・・・ 白居易の牡丹芳の29目
"三条九陌花時の節、万馬千車牡丹を看る" ・・・・・・ 徐凝の詩、全唐詩18巻
"花開く時節京城を動かす"は・・・・・・・・・・・ 劉禹錫の詩、全唐詩13巻
"長安牡丹開く、繍轂(しゅうこく)晴雷を輾ず"・・・・ 崔道融で、全唐詩26巻
"牡丹花際六街の塵"、"花を看るも此の花に勝るものなし"、・・・・・
"万々花中の第一流" ・・・・・・・・・・・・・・ 徐いんの詩、 全唐詩26巻
"十戸中人の賦" ・・十戸は十軒の家、中人は中流財産の人、賦は税金、牡丹を買う 銭は中流の財産の家の十軒分の税金に相当するほど高額であったことをいう。
                 白居易 秦中吟 第10 買花
"近時牡丹を奈何ともするなし、数十千銭一を買う"と嘆ぜしめ、
                 柳渾の詩、全唐詩7巻
"種えて以て利を求め、一本にして値数万なるものあり”・・・李肇の唐国史補
"皆千金を以て名花を市(か)い、庭苑の中に植え、以て春時の闘に備えた"開元天宝遺事闘花の条

 白居易722−847、75歳、字を白楽天という。唐の憲宗の法務大臣、刑部尚書になっている。牡丹芳は50行詩と長い。新楽府下第28の詩で、楽府とは音楽を掌る官府の義で、歌のための台詞作詞家であったわけです。
 牡丹芳は牡丹を愛でる詩ではなく、牡丹を看るばかりに農業が疎かにしてしまう農民を嘆く詩です。この意味で最初に美天子憂農也;天子が牡丹の美しさよりも農事に心を労せられるのを同情した詩となっています。

『氷もいいし、メロンもよろしいでしょうが、ほんとうに暑さから逃れるには、やはり避暑に出かけるにしくはないでしょう。帝王は旧暦の五月の声をきくと宮嬪を従えて驪山の温泉へ遊びにでかけられる。

 長安市中の有産有閑の階級は南郊の勝地樊川・杜曲・韋曲のあたりの別業(本宅以外の屋敷、別荘)に暑を避けたり、幽境終南山のあたりへ引っこんで仙人気取りで山中の十勝などを尋ねます。

 王右丞(王維のこと701-761初唐、盛唐の有名詩人)の別荘のあったあたりも都土人の暑を避けるには好適の地であったようです。
 そんな洒落たところへ出かけられない連中は月明かりに乗じて長安の郊外を散歩して、仏塔に登ったりなどして、無料の涼味を満喫しました。

 白楽天は、"月夜に閣に登りて暑を避く"の詩に、"旱久しく炎気盛んなり、人に中りて燔焼するが若し、清風何れの処にか隠る、草樹動揺せず、何を以てか暑気を避けん、塵囂(じんごう)を出づるに如くはなし、行く行く都門の外、仏閣正にちょう嶢(ぎょう)、清涼高きに近づきて生じ、煩熱(はんねつ)静かに委せして鎖す、襟を開くいて軒に当たって坐せば、泰神飄々として廻る。”といっていますが、長安城の内外には仏塔が少なからず、そびえていましたから、こういう納涼の人たちも多かったことと思われます。

 城内は夜禁が厳重で、夜の散策などはできませんが、こういう詩が多いところをみると城外などは別だったかと思われます。』

 月夜登閣避暑
   旱久炎気甚  中人若燔焼
   清風隠何処  草樹不動揺
   何以避暑気  无如出塵囂
   行行都門外  仏閣正?嶢
   清涼近高生  煩熱委静鎖
   開襟当軒坐  意泰神飄飄
   回看帰路傍  禾意尽枯焦
   独善城有汁  将何救旱苗
            白居易の諷諭一古調詩
               六十四首にみられる。

 野尻抱影氏の「星三百六十五夜」の四月十二日の文です。
『朧夜の空では大熊も、獅子も、海蛇も、とろんと眠っている。それにしても日本の春にはふさわしくない名だ。こんな晩、私は海蛇の漢名、柳宿によけい親しみを感じる。大熊座を柳の枝の垂れた形と見たのだ。

 そして長安の昔、春さきに旅立つ夫や友人を柳並木まで送って行き、その枝を折って袂に入れてやり、一路平安を祈ったという話をゆかしく思い出す。
 楽府には"折楊柳"の曲があり、李白にもそれに擬した作がある。
 張喬の"維楊の故人に寄す"を引けば

     離別の河辺にて、
         柳の条(えだ)を綰(わが)ねくれぬ
     千の山万の水、
         玉人は遙かなり。
     月明りには、記(おもいで)得たり、
         相尋ねし処
     城は東風に鎖(とざ)しぬ、十五の橋。

 しかし、柳宿そのものと柳については、唐の小説 "本事詩" に、こんな話を伝えている。

 小蛮という舞妓があって、腰がなよなよとしていた。白楽天は、これと自分の寵妾樊素(はんそ)の唇が美しいのとを対照して、「桜桃は樊素の口、楊柳は小蛮の腰」と歌ったが、やがて小蛮が豊艶になったので、楊柳枝詞を作って、

    一樹の春風、万々の枝
    金葉よりも嫩(やわら)かに、
    糸よりも軟(しな)やかなり。
    永豊坊の裏、東南の角
    尽日(ひねもす)人なし、誰びとにか属する。
               と詠んだ。
 この詞が持てはやされて国楽となり、盛んに唱われて、宣宗皇帝の耳にも入った。それで永豊街の柳両枝を取り寄せ、宮中に植えさせた。白楽天は帝の風雅を喜んで、

    一樹衰え残りて泥土に委ぬ
    双枝栄え耀きて天庭に植えらる。
    定めて知る、
    この後天文の裏にも
    柳宿の光中に両枝を添えなん。
と詠じたという。まことに長安の春、悠々である。
 その両枝を柳宿のどの星に見立てようかと空想している私も、どうも現代の人間ではないらしい。』

 星の随筆の帝王に相応しい、なるほどと納得のいく文章ですが、抱影が引用している漢詩の出典が知れません。広範の知識に翻弄されています。

 以上のように長安の春、一部夏の避暑を歌った漢詩を参考に、その歴史的な情景をみてきましたが、すこしはロマンを感じていただけたでしょうか。
 天空、天球を二十八区分し、その各区分を司る代表的な星宿、星座をきめていくのが二十八宿です。柳宿とは二十八宿のうち南方七宿で春にみられる星座で、西洋でいう大熊座です。二十八宿の説明はいずれ詳しく行いたいと思いますのでここでは省きます。

 2004年7月20日の日本は超猛暑で、茂原では40.5℃で気象庁の観測記録でした。
 そんな中、カルロス・クライバーが妻を追うように7月13日になくなっていた。あの劇的な演奏、ベートーヴェン交響曲4,7番やニューイヤーコンサートでの魔法使いのように躍る指揮がもうみられない。また、一つ、巨星、落つ。
 いつの事だったか、たしか、昭和60年に、サントリーホールで魔弾の射手序曲の毛肌のたつような猛演を聞いたのを思い出しました。

 さらにビッグニュースとして、中国の紀元前21世紀の夏王朝の二里頭遺跡が河南省偃師市で発見された。やはり4000年の歴史、中国は恐ろしい。

 北朝鮮拉致の曽我さんの御主人、米国脱走兵ジェンキンスさんが腹膜炎の治療の為日本の病院に入院となった。このVIP待遇には現代日本人の貧困の中では、贅沢すぎる待遇処置との声が中流階級から多い。
 拉致されたのであるから、国の責任で生活保障すべきであるのは当然だが、これからは国際援助にも節操が必要な時代になってきている。
 支那の唐時代の牡丹芳し、玄宗皇帝、楊貴妃のようには超贅沢はできないでしょうに。それとも、沈香の木で豪邸でも建てますか? オチンチンが縮む思いがします。
 下品な表現で失礼しました。交感神経過敏状態を泌尿器科ではこのように表現します。

 唐の時代の長安の人々の文化生活を見てきましたが、およそ1300年前の100万都市での衛生、健康状態はどのようになっていたのでしょうか。
 毎日の死亡者は現代日本の約4〜5倍で、10〜20名が郊外の墓場へ搬送され、忙しいことという詩もみえます。また、上下水道の状態も知りたいのですが、牡丹に現をぬかすほどですから、かなり余裕はあったと解釈しております。

 できれば東洋文庫の全唐詩99巻だけでも完読して、衛生面を見てみたいものです。しかし、時間が足らない。人生200年あっても追いつかないでしょう。
 シルクロードの旅は30万円程度で楽しめるらしいのですが、最近、日本の中高年女性の利用客が俄然ふえているそうです。
 この文章を参考にシーアン、シルクロードを訪問して頂ければ楽しいですよ。

   

参考文献

1)石田幹之助 長安の春 講談社学術文庫、昭和54年。
2)石田幹之助 長安汲古 生活社、昭和20年。
3)石田幹之助 唐史叢鈔 要書房、昭和23年。
4)野尻抱影  星三百五十六夜 恒星社、昭和43年。
5)高木正一  中国詩人選集白居易 岩波書店、昭和33年。
6)鈴木虎雄  白楽天詩解 弘文社、大正15年。

   

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