最後に義経と弁慶の史実の動きを『義經記;ぎけいき』を参照に敷衍しておきます。メモ程度ですが巻8まであり、かなり長い。

 義朝都落の事

源義経は源義朝(よしとも)の九男、常盤(ときわ)との間にできた子供は3人で、それぞれ今若、乙若、牛若と名付けられた。ときは保元の乱(1156)。父義朝は清盛らとともに崇徳院軍を破ったが、乱後、勲賞のことで平家と源氏は不和状態となる。

 常磐都落の事

平清盛は三人の成長を恐れ、常磐の母関屋を人質として捕らえ、常磐に三人の命と引き替えであることを告げる。(母のいのちを助けんとすれば、三人の子どもを斬らるべし。子どもを助けんとすれば、老たる親を失ふべし。)清盛は常磐に側室になることを条件に関屋、三人を放免するが、常磐はこどもを離散させ生きていく方法をとる。

 牛若鞍馬入の事

その後、牛若は京都山科、鞍馬別当東光坊(この阿闍利は義朝の祈りの師)に預けられる。

 正門坊の事

16歳のある夜、正門坊と名乗る僧があらわれ、牛若に源氏義朝の子であり、兄源頼朝は豆州に流されている。兄とともに平家を倒すために武芸に精進するように告げた。

 牛若貴船詣の事

牛若は鞍馬の奥、僧正が谷の貴船の大明神に詣で、宿願成就を祈誓し、武芸苦行、早業を習う。名を遮那王しゃなおう、と改める。

 吉次が奥州物語の事

奥州の金商人の吉次信高が遮那王の噂を聞き、藤原秀衡(ひでひら)にこれを伝える。奥州へ下ることを勧められる。秀衡は壱岐、対馬を除く日本国六十六ヶ国を従えた清盛を征伐するときは奥州より十八萬騎で味方することを約束した。陸奥は安倍氏が治めていたが、前九年の役で源頼義が、後三年の役で源義家が、その後、藤原清衡が治めていた。

 遮那王殿鞍馬出の事

藤原秀衡は遮那王を奥州に招待。奥州秀衡にあうために、吉次をともなって鞍馬を承安4年2月2日出立することになる。途中正門坊に会い、粟田口に出、大津の浜を通り、瀬田の唐橋から鏡の宿に著く。

 鏡の宿、吉次の宿に強盗の入る事

鏡の宿で強盗由利太郎らに入られるが、逆にこれを討つ。能ではこの部は烏帽子折という題目で脚色されており、盗賊は熊坂長範になっている。

 遮那王殿元服の事

熱田神宮で元服し、左馬九郎義経と名を変える。駿河の浮島が原に著(つ)く。

 阿野禅師に御対面の事

下総国にて二歳のころ世話になった阿野禅師にあう。この地を治めるものは誰かと問うと少納言信西の子陵兵衛というものなり、と。その陵が館に宿泊す。

 義経陵が館を焼き給ふ事

平家の追手に陵の館に義経がいることを察知されたため、館に火をかけて義経らは上野国板鼻の賤が庵に向け出立す。

 伊勢三郎義経の臣下に初めて成る事

賤が庵にて宿泊せんとするが、主(あるじ)がいない。留守番の女にどなた様かと聞かれるが、古今集紀友則の「君ならで誰にか見せむ梅の花色をも香をも知る人ぞ知る」を引歌し、『色をも香をも知る人ぞ知る』と義経はいう。主、帰ってきてこの言葉に感涙し、これより義経の家来となり、義経の本懐とげるまで、上野でまつこととなった。主の名は伊勢三郎義盛その後、義経一行は宮城野の原、つつじの岡、千賀の塩釜、あたりの松、籬(まがき)の島、松島、柴の大明神、姉歯の松を通り、平泉に入る。

 義経秀衡にはじめて対面の事

秀衡は黄鳩が家中に飛入る夢をみたが、正夢。秀衡は栗原寺で義経に対面す。
十七歳の御曹司義経の仁義礼智信に触れ、惚れ込みなおす。

 義経鬼一法眼が所に御出の事

義経は太公望が、坂上田村麿も、藤原利仁も、将門も読んだとされる、天下の秘蔵、六韜兵法十六巻を陰陽師鬼一法師が持っていると知り、義経は京に上る。
これを借り、読破す。
湛海という36歳の坊主が平家に謀反をおこすと困るので、義経を殺す陰謀をおこすが、逆に17歳の義経に首を切られる。

 熊野の別当乱行の事

熊野の別当は61歳で身内なくなり、二位大納言の美人の姫を武力で奪い取る。

 弁慶生まるる事

この姫との間に子ができ妊娠18ヶ月と遅延出産で生まれ、気色(体格)は世の常の2,3倍で、父親の別当は鬼神の沙汰であり、このばけものを水の底に柴漬にし、もしくは深山に磔(はりつけ)にせよというが、母は叔母にこの子を預ける。名を鬼若という。生まれた時から歯は生え揃い、5歳で通常12歳の背丈となる。暴れん坊、諍いの絶ゆる事なし。

 弁慶山門を出づる事

父親の別当は弁昌と名告(なの)り、その師匠はカン慶という。弁しょうの弁とかん慶の慶とを取って、この子の名を弁慶とぞ名告ける。いつしか武蔵坊弁慶とぞ申しける。摂津、難波、淡路島、阿波、讃岐へ諸国修行にでる。

 書写山炎上の事

修行の阿波、播磨から京の書写山に入る。ここで小法師らの悪戯で、弁慶は眠っている間に顔に「足駄」、「書写法師の足駄に履く」と落書きされ、笑い者にされる。小法師の大将戒圓と喧嘩になり、弁慶が戒圓を打戒した時に炭櫃の火を持っていたため、この火が講堂に吹き付け、その後、全寺を焼く。弁慶は京の町に逃げるが、科人として探索される。

 弁慶洛中にて人の太刀を奪ひ取る事

京の町で泥棒扱いの弁慶は考えた。人の重宝は千は必要。奥州秀衡は名馬千疋、松浦大夫は矢を束ね入れる道具胡?(やなぐい)千腰、弓千張。弁慶は他人の太刀を奪って樋口烏丸の御堂天井に隠していたが、九百九十九。六月十七日、五条の天神に今宵こそ千になるよう祈念する。暁、笛の音がして近づくと胸白木御曹司。椋(むく)の木の下に御曹司は怯むことなく、弁慶の胸に跳び蹴りし、弁慶は思わず太刀を落とす。御曹司、九尺も飛びはねて築地に大国中国の穆王の六韜を読む。弁慶今宵は空しく帰りけり。

 弁慶義経に君臣の契約申す事

六月十八日、清水の観音に上下参籠す。夜更け諦めて帰ろうとするが、笛の音。あら面白の笛の音や、あれをこそ待ちつれ。この観音と申すは、坂上田村丸の建立した奉りし御佛なり。我三十三遍の身を変じて、衆生の願を満てずば、祇園精舎の雲に交はり、長く正覚を取らじと誓ひ、我が地に入らん者には、福徳を授けんと誓ひ給ふ御佛なり。されども弁慶は福徳も欲しからず、唯此男の持ちたる太刀を取らせて賜(た)べ、と弁慶は祈誓す。御曹司牛若は手強い。弁慶怯む所を、太刀の脊にて散々に打ちひしぎ枕に打ち据えて上に打ち乗り、さて随うやと。弁慶は堪忍し、その夜山科に牛若に従っていく。これからは平家を攻め落とすに協力することを誓う。

 頼朝謀反の事

治承元年(1177)俊寛らの平家征伐の鹿ヶ谷の陰謀に失敗、治承4年(1180)4月には後白河上皇の皇子以仁王もちひとおうの清盛討伐失敗。8月頼朝は和泉の判官兼隆を夜討するが、小早川との合戦には敗退し、安房へ渡り、小湊に逃れる。利根川が氾濫し、渡れぬので江戸太郎と千葉介、葛西兵衛に浮き橋を数千造らせ板橋に入る。

 頼朝謀反により義経奥州より出で給ふ事

義経は兄頼朝と協力するが為、奥州を西塔武蔵坊、圓城寺法師、常陸坊、伊勢三郎、佐藤三郎、継信、四郎、忠信の弟子とともに三百騎で出立。板橋についた時はわずか八十五騎馬になっていた。

 頼朝義経対面の事

九郎御曹司は奥州より佐藤三郎、佐藤四郎、伊勢三郎を引き連れて六十騎で兄頼朝兵衛佐殿の助太刀に駿河国千本の松原浮島につき、兄と対面。この時の義経の出で立ちは赤地の錦の直垂(ひたたれ)に、紫裾濃(すそご)の鎧の裾金物打ちたるを著、白星の五枚、兜に鍬形打ちて猪頸(いきび)に著、大中黒(おおたぐろ)の矢負ひ、滋籐の弓持ちて、黒き馬の太く逞しきに乗りたる。頼朝は義経に平家を討つ軍の大将に宣ずる。

 義経平家の討手に上り給ふ事

清盛は1181年熱病で病死。御曹司義経は壽永三年1184年上洛し平家を京より追い落とす。義経は北陸から京に攻め入った木曽義仲を討つ。西國に落ちのび、神戸福原に陣とった平家を義経は西から鵯ひよどり越えし、一ノ谷に攻め入る。屋島の合戦では僅か五十騎で追い落とし、最後の戦、壇ノ浦では源、八百四十隻で、平五百隻を破る。知盛、安徳天皇は三種の神器とともに海に身を投げる。本三位中将平宗盛を生け捕りにする。

 腰越の申状の事

義経は後白河上皇より検非遺使五位を給ふ。そして鎌倉までもどり頼朝と戦勝について話しをしたいと考えたが手前の腰越に留まるよう指示あり、何度も謁見の申し入れするが不可。梶原景時、河越太郎重頼、畠山重忠らが義経は西國を貰いたいといっているなどと頼朝に讒言す。頼朝は天に二つの日なし、と怒り、義経とは取り合わない。消沈し京に帰る。

 土佐坊義経の討手に上る事

鎌倉代官土佐坊昌俊が京の義経の首をとりにくるが、弁慶、喜三太らがこれを生け捕りにする。猩々(しょうしょう;オラウータン)は血を惜しむ、犀(さい)は角を惜しむ、日本の武士は名を惜しむ、と負け惜しみをいって駿河次郎に首をはねられる。土佐は仕損じて判官殿に斬られ参らせ候ひぬ。鎌倉はすぐに継ぎの手をうつ。

 義経都落の事

今度は北條四郎時政が京に上ろうとするが都の騒乱では民がこまるので、義経は大物浦(尼崎)、西國に落ちるが颱風のため難波にもどる。

 住吉大物二箇所合戦の事

追っ手これに追いつき、船と陸との戦となる。豊島の冠者上野判官が鏑矢にて戦闘開始。忠信の矢が豊島の兜の鉢付にあたるが致命傷とならず、片岡の矢が船の水際に命中し、船に水がはいり沈む。豊島も矢に討たれ死亡。弁慶、常陸坊が熊手で船を揺らし沈没させ勝つ。次ぎの日、女性軍は方々に帰る。静は宇陀に送られる。

 判官吉野山に入り給ふ事

都に春は来たれども、吉野は未だ冬籠る。判官義経は静とともに吉野山にのがれる。しかし、静は足手まといとなり、義経の鬢の鏡と初音をもってかえる。義経秘蔵の品二品。白河院御時、法性寺の長老の入唐の時二品持ち帰ったもので、一つは名曲という琵琶、その一つは、紫檀の胴に羊の革にて張りたりける啄木の調べの初音という鼓の二品。名曲は保元の乱で焼けてしまった。初音は讃岐守正盛が賜り、その後忠盛、清盛と渡り八島の合戦で海に沈みかけたのを伊勢三郎が取り上げ、義経が鎌倉に奉る。この初音たずさえて、供とともに京に静は帰る。この場面が歌舞伎義経千本桜吉野山として脚色演じられる。

 静吉野山に捨てらるる事

しかし、供の者、この財宝を盗み奪って逃走す。静は初春の吉野山は寒さの中、一人っきりになり方向も分からずに歩き出す。夜に明かりをみつけ、たどりついた所は蔵王権現。吉野の御獄であった。治部法眼の世話で都に馬にて供をつけ無事送られる。

 義経吉野山落ち給ふ事

義経一行は吉野の中院谷に居る事が分かり若い坊主たちは、攻めて義経の首をとろうと計画。義経は場所に不案内で、相手は吉野山の地理を知り尽くしている。この戦は叶ふまじ。潔齊の案内で東の大和國宇陀に逃げ落ちる。

 忠信吉野に留まる事

佐藤忠信のみ吉野山に残る。忠信の先祖は鎌足大臣の御末、淡海公の後胤、佐藤のりたかが孫、信夫の佐藤庄司の次男、四郎兵衛藤原忠信である。兄継信は屋島の戦で能登殿の矢で亡せる。玄冬素雪、九夏三伏に義経に仕えていた忠信に義経より二尺七寸の帯刀を賜る。義経に添うたりと思へとの沙汰あり。奥州の故郷に遺した母が心配なれど、四,五人と吉野にのこり多勢と闘ふといえり。

 忠信吉野山の合戦の事

忠信の出で立ちは三滋目結の直垂に、緋威の鎧、白星の兜の緒を締めて、淡海伝わりし三尺五寸の太刀と義経金作の太刀二本差しで大中黒の矢二十四本、上矢には青保呂、鏑の目より下六寸ばかりあるに、大の雁股すげて頭高にし、川つら方眼悪僧と戦す。大衆二三百人と立ち向かう。これに忠信は川の水上を渡り、敵の後ろにまわりこんで、挟み撃ちにし川面法眼は後退摺るも、そのほうに横川前司覚範という腕の立つ者あり。これと一騎打ちになり、これを打ち倒す。大衆はこれを見て退散する。その后鎧を脱ぎ捨て、翌日吉野を下る。

 吉野法師判官を追つかけ奉る事

忠信に討ち漏らされたる吉野法師が義経一行を追っかける。譲葉(ゆずりは)の峠のさき桜谷で追いつかれる。常陸坊が沓(くつ)を逆さまに履いて山を下りるようにいう。追っ手に恰も山に上って逃げたと思わせるために。しかし、この方法を見破られる。
吉野川の水上白糸の瀧は川幅が広いため渡れないので竹のしなりを利用して十六人中十五人までは飛び越えるが、一人飛び越えられない者がいた。それは弁慶。鎧を脱ぎすて、やや上流にゆき、長刀(なぎなた)の柄を梃子に飛びこえるが失敗。義経、伊勢らが熊手の柄で救い上げる。義経記の中で唯一滑稽な場面。その後、吉野法師ら追いつくが川を渡れず討ち入りを断念。
十二月二十三日のこと。皆、京に帰り、しげみが谷の木の下に武具をおき、各自、自宅に帰る。義経は奈良の勸修坊を訪れる。

 忠信都へ忍び上る事

さても佐藤四郎兵衛は都に帰り、判官の居場所を探す。白楽天のいう連理の契、比翼の語らいの仲のカヤという女を探す。しかし年の暮れで、青陽、新玉の、年立ち返る春になってしまう。忠信は六波羅の連中にねらわれているのも知らず、女の所で休んでいた。ここを不意打ちされる。

 忠信最期の事

江間小四郎に捕まり、六波羅へ連行され判官の居場所を白状させられるが、夜中に逃走する。六條堀川の宿所に隠れていたところを狙われ江間と一騎打ちを望むが大勢に囲まれ、ついに自害す。判官より賜りし御帯刀、是を御形見に見て、黄泉も心安かれ、と太刀の先を口に含みがはと倒れ、鍔は口に止まり、切先は後頭部にするりと通りける。生年二十八。

 忠信が首鎌倉へ下がる事

みまの彌太郎が忠信の首をとり、鎌倉殿に首実検。首は由比の浜八幡の鳥居の東に懸けられ、三日後に不憫といわれ、勝長壽院の裏に埋められる。

 判官南都へ忍び御出である事

判官義経は勸修坊のところにいた。勸修坊は義経に御身は三年に平家を攻め給ひ、多くの人の命を亡し給ひしかば、その罪、いかでか遁れ給ふべき。一心に御菩薩心を発(おこ)させ給ひて、高野、粉河に閉じ籠もり、佛の御名を唱へさせ給ひて、今生幾程ならぬ来世を助からんと思召されずや。と出家するようにすすめるが、義経は今一両年もつれなき髻付けて、つらつら世の有様も見ん、と申される。
そして奈良のみやこでよなよな笛を吹いて過ごしていた所、但馬あじゃり六人組におそわれる。これらを退治した義経は、またも鎌倉から狙われので、東大寺勸修坊のところを離れる。

 関東より勸修坊を召さるる事

東大寺の院主の勸修坊を義経を匿ったという罪で鎌倉に呼びつける。鎌倉に従うことを強制されるが、東大寺に帰り、判官義経の御菩提を弔い、我が身をば水食を止めせんとて、七十余にて往生す。

 静鎌倉へ下がる事

吉野から京にもどった白拍子(舞の女)静は妊娠している。兄の頼朝は鎌倉まで下るように命令する。鎌倉で頼朝は梶原景時にこの場で腹を切り開き嬰児を殺せというが、その子景季が自分の家でお産させるという。静は嫌がり堀藤次の家で出産を希望する。一ヶ月後に安産。こどもは男子。これをきいた鎌倉は清経に由比の浜にその子を捨てるように指示。子供は連れ去られ、浜の汀の材木の上で死亡。勝長寿院の裏に埋葬された。徹底してむごい。

 静若宮八幡宮へ参詣の事

子供を殺された静は京に帰りたい。しかし、鎌倉の連中は日本一の静の舞をみたい。京の都が日照り続きで雨乞いの舞を九十九人行うが効き目なし。最後に静が舞うと半ば、みこしの嶽、愛宕山の方より、黒雲出て洛中にかかるかと見えければ、八大龍王鳴り渡り、稲妻ひかめきしに、三日の洪水となる。義経の安泰をねがって八幡宮に詣で舞を舞ってもらいたいとの希望により、
  しづやしづ賤のをだまき繰り返し
       昔を今になすよしもがな
  吉野山峯の白雪踏み分けて
       入りにし人ぞ恋しき
この歌で白拍子静は舞うが鎌倉殿は、しづのをだまき繰り返しとは、頼朝の世尽きて九郎が世になれとやと。激怒する。静は都にかえり髪を切り剃りこぼし、尼となり、二十歳で往生される。

 判官北国落ちるの事

京より奥州をめざす。山伏の恰好にて弁慶を中心に北陸経由で奥州にむかう。
妻の北の方も髪を切り随伴する。

 大津次郎の事

大津の領主山科左衛門が道案内と宿を世話する。愛発山をとおり越前にぬけるのがよいと教えられる。

 愛発山の事

愛発山(あらちやま)は岩ばかりの荒れた地の山で、これで傷つくため血がでる。あら血、愛発山となった。いやいや弁慶のいうには、加賀國の下白山にて女体后の竜宮の宮で出産し、お産のあら血をこぼさて給ひけりに、たれば、あら血山という、と。判官義経は本当かよと笑う。

 三の口の関通り給ふ事

加賀の三の口には関所が作られており敦賀兵衛、井上左衛門が管理。この先には義経を狙っている者がいる。下人平三郎が、寺泊方面と伊奈の関方面の二つの道筋をいうが、どれも嘘くさいので弁慶は彼を脅す。その先に進むと留守番の関守が百人そろって義経一行を囲み討とうとする。関手(関銭)を払わず、逆に弁慶が関守を脅し、米を貰い関所を通りぬけ、三の口から越前国府に著く。

 平泉寺御見物の事

寄り道して越後のへいせんじ平泉寺に著く。この長吏は義経の横笛を聞きたいと所望、寺の稚児ねんいち・みだ王とともによこぶえを披露。褒美に酒をだされるがこれを断り、金津の上野に着く。途中で井上左衛門の一行にあうが井上は判官とわかり、通す。あいの池を見て、安宅の渡を越えて根上の松、次いで富樫につく。富樫で東大寺勧進(寺などの修復への寄付金)として袴、鏡などを頂戴し、松永の八幡に著く。

 如意の渡にて義経を弁慶打ち奉る事

富山県高岡の子撫川の、如意の渡し(五位荘の渡し)を舟で渡ろうとした。渡守の平権守が山伏の恰好をして怪しい。特にあの舳先(へさき)に村千鳥の摺の衣召したるこそあやしく思ひ奉れと申しければ、義経は返事もせずに打俯きて給ひたり。この態度をみて、弁慶は義経を浜へ走上げ、扇で打ち続ける。平権守はこれは判官にてはなし。と判断し、船賃を取り立て渡ることを許可する。この部は能では有名な富樫、安宅になっている。義経は果報拙きに心ざし深く涙の零るるぞと逆に感謝する。

 直江の津にて笈探されし事

越後の国府直江津で権守に笈(おい)の中を調べられる。しかし、またもや弁慶は機転を効かし、逆に勧進物品を多数授かる。湊で舟をみつけ、これにて佐渡に渡る。しかし、波高くして岸によりつけられなかったため能登の珠州が岬に漂流。
夜半、風向きは逆になり今度は寺泊につき、これより出羽の国にはいる。ここで、田川太郎実房にあう。彼は子沢山でこのうち瘧病(ぎゃへい:おこりやまい;間歇熱疾患)にかかっている子供を義経の経念仏と弁慶の数珠押揉みで平癒させ布施を賜る。その後、亀割山を越る。

 亀割山にて御産の事

亀割山を越えたところで義経の女房北の方は妊娠しており、弁慶がお産のこどもを取り上げる。子供は亀鶴御前となずけられ、先に馬で亀井、伊勢が付きそい、平泉まではこばれる。

 判官平泉へ御著の事

文治2年の暮れに秀衡の地、平泉に著き、衣川にて御所を建て馬、鎧、弓矢を賜り義経は桃生郡などを治める。

 継信兄弟御弔の事

義経、高館に移る。佐藤庄司の後家の地であるため、八島で戦死した継信、吉野山での佐藤忠信の弔い事をおこなう。亀井、片岡、伊勢、鷲尾、増尾、十郎灌頭、弁慶が臨席していた。

 秀衡死去の事

文治4年12月21日(1190)死亡。死因は業病となっており不明で、毒殺の可能性もあり。耆婆(ぎば)、扁鵲(へんじゃく)(仏法、史記での名医のこと)に診せても叶わず、義経の身を守るように遺言す。

 秀衡が子供判官殿に謀反の事

父秀衡の死んだ翌年、子泰衡は約束を守らず謀反をおこし、義経を殺害をする。鎌倉より義経は自害するように院宣下るが、義経、是が最後だと悟る。

 鈴木の三郎重家参る事

義経の味方に入り、熊野から附いてきた下人重家に赤糸威の鎧を与え、これからも最後まで忠義を指示。

 衣川合戦の事

泰衡の命をうけた長崎が義経の御所衣川に討って出る。その数三萬騎。義経側はわずか十人。鈴木兄弟、鷲尾、増尾、伊勢三郎が殺害され、弁慶と片岡も喉笛を打裂かれ、躰中矢だらけとなり、馬に依りそうように倒れ失う。
   六道の道の巷に待てよ君
        遅れ先立ち習いありとも
  と弁慶が辞世の句
   後の世も又後の世も廻り会へ
        染む紫の雲の上まで
               と義経。

 判官御自害の事

喜三太は首の骨を射られて亡せにけり。義経は北の方、子供を刺殺し奉り、念仏南無阿彌陀佛ととなえ、兼房に家に火をかけさせる。

 兼房が最期の事

北の方の面倒をみていた十郎権頭兼房は御堂に火を放ち義経の最後をみとどけて、敵の長崎次郎を脇掻挟みにして、次郎を道連れに猛火の中に飛び込み粉塵す。

 秀衡が子供御追討の事

かくて泰衡は判官殿の御首を持たせ鎌倉へ奉る。しかし、頼朝はこの首を持ってきた泰衡の家来たち、千葉介らの首を切り、義経のくびをとって頼朝に味方したはずの泰衡をも頼朝の命令をうけた重忠に首切られるのであった。
泰衡の言葉「善悪頼朝私には計らひ難し」。侍たらん者は、忠孝を専(もっぱら)らとせずんばあるべからず。口惜しかりし者共なり。

これにて義経記 了。

   

 義経らはこれだけ戦勝するためには武器、鎧兜の調達など大変で、だれかが強力な援助していたと考えられる。恐らく藤原秀衡であったのではないだろうか。それにしても不思議な人物である。
 判官贔屓という言葉があるがこの義経記をよめば、これは日本人でなくても贔屓するでしょう。頼朝が超悪人になっている。

 その頼朝は、建久9年(1198)12月27日51歳の時、鎌倉幕府を開いて6年目に、妻政子の妹の法要に出かけた、帰り道のこと。茅ヶ崎あたりで急に馬が暴れ、落馬し、その後、容態急変し1月13日死亡。この時馬が暴れたのは馬が、平家の祟り、義経の祟り、安徳天皇の亡霊をみたからなどといわれている。

 これは日本医事新報4191号2004年8月21日に国立鈴鹿病院院長の小長谷正明氏が『上馬と落馬』に書かれていた。死因は脳挫傷ではなかったのか。

 幼い安徳天皇を殺し、実の弟判官義経を殺し、藤原奏衡を殺し、弟範頼を殺害し、1192年征夷大将軍となったが、その6年後の突然の死。本人は平家、義経、藤原の亡霊に悩み、子実朝も、1219年公暁により殺害された。実朝は28歳の若さであった。

 いかに下克上とはいえ、この惨さはいまのアメリカ政権ブッシュの戦争政策に似てはいないか。戦さによる殺人はいつまでたっても限(きり)はないわけで、人間のする戦に聖戦などありえない。他人を完全にこの世から消して無くしたところで、自分もいつかは死ぬ運命にあり、人間は一人では生きていけないのである。

 日本の宗教戦争は天智天皇、聖徳太子の仏法の争いが最初である。どのような宗教であろうと、隣人を愛し、人類を愛し、人間の共存の社会こそが人間社会の繁栄の根本である。

 私は、同級生の落語研究会設立者石川真一郎君と昭和45年の夏、北海道大学主管の東医体の帰りみち、北海道と東北の旅をした。厳美渓と猊鼻渓をおとずれた時の旅心は30年経った今もわすれられない。モサイ男二人きりになり、旅日記を書きながらの旅でした。

   

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