
わが國に、はじめて中國文化の曙光(しょこう)が、さしこんで以来、近く明治維新の大変革が行われるまで、凡そ二千数百年の長い間、わが國人は挙げて中國文化の輝かしい光彩の前にひれ伏して、ひたすら、その輸入と模倣とに是れ努めてきた。わけても飛鳥奈良時代の人びとの中國文化に対する驚異は、もっとも大きかったと思われる。
ここで、凡そ二千年としたのは、中國から直接、船で、紀元前219年(孝霊天皇の時代)に、江蘇省かん楡県徐阜村(こうそ、かんゆ、じょふ)の徐福が、秦の暴君始皇帝の命で不老長寿の薬を求めて、日本に渡ってきたといわれ、九州各地、紀伊半島、熱田神宮、石川県にまで、その伝説が遺っている。由って、紀元前から中国、朝鮮との交流はあったものと考えられ、これを根拠にした年数である。(『徐福弥生の虹桟』羅其湘、飯野孝宥、東京書籍、1988年)
しかし、弥生のむかし、孝霊天皇の時代に徐福が来朝していたとしても、蕃国、隣国の文化を取得可能まで、日本の文化は成熟していなかった。そして、言語の問題や文化程度の差もあり、隣国の人々の文化を受け入れ消化するまでには至らず、この時代には文化が学問まで発展させることも難しかったと考えられる。
よって、『日本書紀』からも明らかであるが、飛鳥奈良時代、継体天皇のころから、学問らしきものが展開され、604年の聖徳太子の十七条憲法以後、佛教教典の講経、写経により、急速に学問が発達してきたと観られている。
神田喜一郎(1897-1984;20世紀支那学の本邦最高峰)の『飛鳥奈良時代の中國學』に、継体天皇513年に百済から五経博士の段楊爾、漢高安茂(あやのこうあんも)が来朝し、この時、中國の学問が佛教経典として伝えられ、以後、『毛詩』・『尚書』・『禮記』・『左傳』・『孝經』・『論語』・『孟子』・『管子』・『墨子』・『荀子』・『韓非子』や、佛教を論議し合ったことの内容が記されている講経、すなわち『白虎通』、『三禮義宗』、『經典釋文』の写本、解読が行われるようになり、佛教経典をもとにした学問が発達し、さらに『新撰姓氏録』に載っている医学、天文暦法、兵法などを学んでいたと記述されている。また、史学としては『史記』・『晉書』・『漢書』・『後漢書』から、文学では『離騒』・『文選』・『太宗文皇帝集』・『許敬宗集』・『駱賓王集』などで、さらに詩集として『翰林學士集』などがあった。
その後、江戸後期まで飛鳥奈良時代の佛教経典を元に、最澄(767-822)が、空海(774-836)が、栄西(1141-1215)が、道元(1200-1253)が、良忍(1072-1132)が、法然(1133-1212)が、親鸞(1173-1263)が、日蓮(1222-1282)が、一遍(1239-1289)が、佛教の本質に迫ろうと経典をよみ、宗派をおこし、佛教を弘めてきた。これらの多岐亡羊(たきぼうよう;道が枝のように多くわかれていて逃げ出した羊をみのがしてしまう)となった日本佛教をどのように理解したならば、謂わんとするところを知ることができるのだろうか。個々の宗派をあたるしか方法はないのかと考え倦ぐんでいた。
司馬遼太郎が季刊『アステイオン』2号1986年「浄土−日本的思想の鍵」の最初の箇所で、中央公論の「近代日本を創った百人」で、明治後の宗教の分野での第一人者は清沢満之でなければならない、と強く主張したことが『以下、無用のことながら』の207ページに見える。
さらに、司馬は、1992年の「新潮45」5月号に、約30ページにおよぶ、『「日本佛教小論」−伝来から親鸞まで』を発表している。コロンビア大学のドナルド・キーン日本文化研究センターでの講演内容です。清沢満之を挙げておきながら、肝心の金子大栄氏を捜しあてていないためか、日本佛教の論で、なにを問題にし、なにを理解したのか不明な論文である。司馬は佛教教学者ではない。小説家に対して、無理な注文なのかもしれないが、それにしても、内容はあまりにも抽象すぎて、なにか、誤魔化されているようで、親鸞、栄西、道元の佛教をどのように理解し、その本質にせまろうとしたのか、どこの箇所からも、「日本仏教とは何か」の結論は見い出せない。
その佛教教学家、清沢満之(きよざわまんし)は、文久三年1863年名古屋の生まれで僅か41歳で亡くなっている。父は尾張徳川家の士族の足軽で、生活苦のなかを一端愛知医科学校に入り医学を修めんとするが、家庭経済事情により中退し、16歳で仏門に入る。真宗大谷派法名賢了を名のるが、東大文学部哲学科に再入学、明治22年、26歳で卒業し、京都一中の校長になった。しかし、結核のため2年で辞職、兵庫県須磨に転居。教界時言社設立、野に下り仏教研究を多数発表。「我が信念」が絶筆、1903年明治36年6月6日入寂。日露戦争1年前のことである。近代佛教教学のうち真宗については曾我量深、金子大榮、安田理深と継承されてきた。
金子大榮(かねこたいえい)は、1881年(明治14年)新潟高田生まれ、真宗大学卒業、真宗大谷大学教授、昭和51年、1976年没、95才。清沢満之の直接の教鞭指導はうけていないが、直弟子で、「私は清沢先生の弟子といわれることに喜びを感じ、内なる誇りすらもっている」といっておられる。鈴木大拙は金子大榮師を「真宗界の大徳」といい、宗門の泰斗、宝珠と敬仰された佛教学者である。
このよき先達、師に遇うことができ、聞きがたき仏法を聞くことができたことに喝采を贈られているのは、永尾雄二郎(大正14年生)である。永尾先生は東京医大卒業、内科、精神科を静岡小笠郡で開業されている。先生が学生時代、金子大榮先生の実家を訪ね日頃の悩み、維摩経について聞思されたことを教育テレビで寓目、拝顔いたしました。金子大榮の佛教世界観に触れてみたいと思った切っ掛けです。
以上のことから、最終に、私は、真宗の金子大榮先生に辿り着いたのである。先生の講話集『仏教のこころ』、潮文社、昭和43年と、『日本佛教史観』岩波書店 昭和15年で、日本の佛教は最も理解しやすいので、これを参考に、日本の仏教史からみた各宗の仏教の悟り、極意をわかりやすく説明を加えたい。断って於きますが、私なりの領解です。また三論宗は前田慧雲の『三論宗概要』丙午出版社、大正9年を参考にした。

佛教は、発祥の地、印度でもなく、中國でもなく、この日本に於いて始めて、現実的意味を顕彰されたのであり、その日本は佛教によりて、深く本来の精神を自覚することとなったのである。
しかし、現代の日本國の人智は開け、科学、文化は進んだとみえても、じつは益々、外に対しての理知の光が加わわれば加わるほど、内に向かっての愚痴の闇が増し、凡夫の久遠の闇は、少しも薄らぐことはないのである。この迷悶はどこからくるのだろうか。
佛教に無尽燈があるだろうか。無尽の光を仰ごうとするには、やはり、佛教を聞思し理解する必要があるだろうか、一度、佛教を深厚してみたいと考えていた。
今に、佛教、釈迦(紀元前486年4月8日生−406年涅槃)の教えが、そのまま完全に伝わっていないとすれば、それはなにか。菩薩、大師、高僧が佛教の真髄とするところを語った内容はなになのであろうか。佛教が真に國人の指教であろうか。これを理解してみようと考えたのである。

現在、日本には十三宗五十六派の佛教寺がある。この寺は、なに宗の、なに派で、ご本尊様はどなたであるかは参拝すれば解る。しかし、奈良の、たとえば、東大寺は何宗かときかれても、真言宗でも真宗でも、曹洞宗でもありません。じつは華厳宗なのです。
この華厳宗は日本に佛教が伝来したときの一つの宗で、聖徳太子前後時代には、六つの宗しかありませんでした。
その六つの宗とは法相宗(唯識宗)、戒律宗、華厳宗、三論宗、倶舎宗、成実宗で、このうち三論宗、倶舎宗、成実宗は、かかげる僧がいなかったため消滅し、残りの法相宗、戒律宗、華厳宗の三つが千年後のいままで、のこっている。
法相宗(唯識宗)は、法隆寺、興福寺、薬師寺に
戒律宗は、唐招提寺、観世音寺
華厳宗は、東大寺です。
以後は日本國人の僧により、日本独自の天台宗、真宗、真言宗、浄土宗、融通念仏宗、日蓮宗、曹洞宗、臨済宗、時宗(本山藤沢)などが創られるのである。
しかし、三論、倶舎、成実は現在まで相承されず途絶えてしまった。だが、消滅した三論宗の思想は、法隆寺の法相宗と同様、佛教の考え方の根本で、中核をなしているので、日本佛教のおこりを考える時、三論宗、法相宗(唯識宗)は、どうしても外す訳にはいきません。

三論宗の場合は、釈迦からはじまり、その相承は、文殊、馬鳴、竜樹、提婆、羅ご羅、青目と受け継がれてきた。
三論(さんろん)の主思想は中観で、法相は唯識です。論とは菩薩が佛教を研究されてつくられたものをいい、三論は『中観論』、『十二門論』、『百論』からなっているので三論とよびます。この祖師さまは竜樹菩薩で大変に偉い方で、経典としては『大般若経』で、その論は「中観」です。
法相宗(唯識宗)では唯識、「万物我に備わる」が、その論です。
三論宗は吉蔵が嘉祥寺で開山し、法相宗(唯識宗)は窺基が慈恩寺に開きました。
日本への伝来は三論宗は慧灌、智蔵、道慈という僧が日本に持ち帰ったと伝えられていますが、とくに智蔵はあまりにも学問ができたために命をねらわれたので、馬鹿面をしていたとか、経典の虫干しのとき、儂(わし)も虫干しが必要じゃといい、儂の腹をだして虫干ししていたという逸話がのこっており、その弟子の智光、礼光と受け継がれていきますが、恒武天皇の延暦22年ころから衰微はげしく、元興寺、大安寺、西大寺、法隆寺でわずかに弘布されたのみで、鎌倉時代には醍醐寺のみとなり、江戸時代では全滅し途絶えてしまったのです。
法相宗(唯識宗)は、お祖師さまは弥勒菩薩で、『解深蜜経』、『華厳経』を経典とし、この弟子の無着、世親(天親)という兄弟が、この思想を『唯識論』にまとめました。法相宗の方は、文武天皇のとき、道昭がつたえ、道昭は火葬をはじめて行ったとか、宇治川に橋をかけたといわれている人物です。さらに解脱上人行基が、それぞれ唯識宗をもちかえっている。聖徳太子は法隆寺を建立し、この唯識宗を論されたので、この宗は現在まで伝わっている。

三論宗の主な思想は中観すなわち中道で、唯識宗では唯識、「万物我に備わる」という道理を明らかにしている。
お釈迦さまは王子としてうまれ、随分快楽的な生活をおくられていたが、出家され六年間の難行苦行され、極端な禁欲生活された。この二つの経験より、人間の正しき道は快楽と禁欲とに偏しない中道でなければならないと悟りを開らかれた。その中道の悟りを開くために必要なものはなにか。それは心です。すなわち現在でいう大脳機能で、その機能を使って、物を内観するということ、心が具わることが悟りである。大脳機能を使って深く思考することが悟りであり、これを大我界(だいが)といいます。
視床下部、延髄、小脳の機能を使って呼吸する、運動することは生命には重要な機能ですが、是は本能的機能で「無明の世界」といい、前頭葉、側頭葉、後頭葉を使って想念することは人間の最も人間らしい機能で、「光明の世界」という。光明の世界を見出すことが、すなわち悟りであり、その思考は中道でなければいけないということです。
唯識の「万物我に備わる」という道理とは、内観の業識、すなわち、心のもちかた、考え方、感覚機能も含めて大脳機能でとらえるのであるから、万物は我の脳に備わっている。大脳機能の世界、すなわち大我界の存在とあり方を述べているのです。
法然がよく用いた「出離の道」とは人間の生まれいずる、死別して世を離れるまでの道のことで、生きている間の道、人生道のことです。
佛教は、輪廻思想で、あの世、極楽浄土、地獄のことをも想念しています。そして、大脳機能を使って、大我の世界で、充分思考し、「出離の道」を極めることが、悟りをひらくことであり、さらに浄土の世界をも想像する宗教だといえます。

中観は竜樹菩薩の論『中観論』から出たことで、中道および空を説く。有りのままを「空」という。
一切の法は本来空なり。「からっぽ」という意味ではなく、大脳機能、思考、心の存在、ものごとを大脳機能で捉えている人間の想念の存在を「空」といいます。したがって、実体は執えられないもので、空である。有にあらず空にあらず、有ともいい空ともいわれるものでもなく、有にもあらず空にもあらざるものでもない、これを四句百非を絶す、という。有の執着を否定するものが空です。もの皆の実相を現すもので、これを「空」智によりて実相に達すると説く。
したがって、真智は無知であり、実相は無相である。この思想は、曇鸞大師(どんらん)が用いた論法で、「実相は無相なるが故に真智は無知なり、無相の故に能く相ならざることなく、無知の故に能く知らざることなし」といった。従って中論では、有は迷であって、実は空である。
嘉祥すなわち吉蔵はこの「中」を対偏中、尽偏中、絶対中、成仮中の四中にわけた。中道でも、まんまんなかということはなく、少し偏った中が存在することをいっている。
三論には、破邪即顕正という言語が使われている。邪しまを破るほかに正しさを顕すということはない。佛が有るか無いかにしても、有無という執着そのものが迷いである。この執着を破る時、有というも無というのも碍り(さまたげ)なきこととなる。

唯識で業識(ごっしき)という言語が、重要な意味を持つ。その説明として、一水四見という例がある。人間が水とみておるものを、魚は棲家、天人は瑠璃の大地、餓鬼は火と見ている。一つの物象を四つの有情によって、四つの変わった世界が現れる。こじつけではなく、人間、動物、植物の身はそれぞれの生活に即した心で物象をみている。
この心を業識という。業識というものは無始の昔から薫習されている識ということで、いわゆる習性といわれるものである。個々の人間においても商人には商人根性がでるし、医者には医師らしいものの考え方、立ち振る舞いがある。これを業識という。内観すれば業識、外観すれば身の感覚である。
一水四見の水のように、その「有」とみている世界には実体はないのに、実体があるように感じている。実有として執着している世界から免れることができないでいる。
この執着している世界の迷いと悟りとの因縁を明らかにしていく、法身空なるが故にあらざるところなし、すべての業識を理解していくのが唯識宗の根本である。

六祖慧能の言行と伝えられているが、ある時ある所で二人の坊さんが議論していた。それは風が吹いて旗が動いているのを見て、一人は旗動くといい、もう一人は風動くといった。慧能は、いや旗動くにあらず、風動くにあらず、汝の心動くなり、といった。唯心論として論じていることが領解される。
さらにもう一つ。戸を開けると向こうに海が見える。帆かけ船が通る。悟りであの船を動かぬようにする方法はないかと思案した。一人は戸をピシャリと閉めてしまった。ひとりは目を閉じた。最後に、いや船をじっと見つめればよい。すると動いている船は動いていないように見える。寂然不動の境地であるといったという。
人間はわれの心、大脳機能で物象をとらえているので、「万物我に備わる」との想念、観念が生じる。これが大我、悟りであり、この世界をあるがままにとらえることを説くところが唯識宗である。日本での佛教は聖徳太子から始まり、「佛法の大海には信を以て能入とす」を肝要とする。

無碍(むげ)とは妨げのないこと。無碍の一道として念仏をとなえる、事を尽く妨げない、ことごとくさまたげがない。事々無碍、じじむげを説くのが華厳宗である。
この宗をおこしたのは支那の賢首大師で、時の則天武后に華厳について講義した、その内容は、『五教章』にあり、部屋の四隅に鏡を置き、中央に仏像を置く。そうすると四方の鏡に映る仏像は重々無尽で、無量無辺である。これ即ち、無碍円融の相という、と説明した。華厳宗教義は壮大で無限であることをしめしている。この世は蓮華蔵世界で、壮大雄渾である。音楽でいうとマーラーの交響曲3番がもっとも近い。
日本に相承したのは義淵僧正の弟子、良弁(689-774;ろうべん)、で、その後、明慧(明恵)、凝然(ぎょうぜん)、鳳潭が継承した。
良弁は、子供のころ、鷲に連れ去られて、路上に捨てられていたのを東大寺の義淵にひろわれ育てられたが、良弁の首に観音像のアザがあることを元に、三十年後に母が探しあてて、会いに来たという逸話(良弁杉)がある。良弁は小さな金鐘精舎で行者をおこなっていた。
東大寺は、はじめ紫香楽(しがらき)に行基を大僧正として建立予定になっていたが、なぜか中止になり、その後、金鐘精舎あとに東大寺がたてられることになったのである。
良弁は、聖武天皇の擁護下で、ついに東大寺の別当(管長)となり、追いやった鑑真和上の唐招提寺の律宗を牽制しながら華厳宗をひろめたのである。
明恵上人(1173-1232)は神護寺で修行し、東大寺に出仕、後鳥羽上皇より栂尾高山寺を賜った。華厳宗の学僧です。承久の乱後、残党征伐のため秋田城介義景が栂尾におしいり、どいうわけか、明恵まで捕らえ、六波羅(今でいう警察)の北条泰時の前に突きだした。泰時は、明恵のことを敬慕しており、逆に不忠を呵りとばされている。高貴の方でも、聴法の時には、下座されるべきであるとし、仏道三昧の僧で、ついに東大寺尊勝院学頭までなられた、終生、修行者、徳者として華厳の高僧で、実行の人。その思想は、のちの禅宗に近い。
上田三四二(1923-1989大正12年−平成元年;京大卒医師、作家うえだみよじ、結腸癌、兵庫県加東郡市場町生)は『この世この生』1984年新潮社発行で、西行は地上一寸、明恵は地上一尺、空間を浮かび上がり、良寛の足は地に着いていると「顕夢明恵」という素晴らしい題目で明恵を評されている。
凝然(1240-1321)は博学篤学で、『八宗網要』を著している。鳳潭は機峰の鋭い人としてしられている。
さらに、華厳宗の重要教義は「十玄六相」、「十玄縁起」で六相円融ともいわれ、事々無碍、すなわち一即一切で、一切の現象が、時間的にも空間的にも互いに入り交じり、さまたげることなく、一体となって関係しあっていることで、十の方面から説明したものが、十玄である。
その十玄は、同時具足相応門、広狭自在無碍門、一多相容不同門、諸法相即自在門、隠密顕了倶成門、微細相容安立門、因陀羅網法界門、託事顕法生解門、十世隔法異成門、主伴円明具徳門という縁起観である。
六相は、総相(総体に諸相があるさま)、別相(諸相おのおの別なさま)、同相(協力しあっているが形は異なること)、異相(それぞれ特質をもつこと)、成相(諸相が総体を成立せていること)、壊相(諸相おのおのの本性を失わないでいること)で、これらが円融、融け合っていることを説明している。すなわち華厳の世界は、小我(物象世界)、大我(大脳機能世界)を言い表した、広い世界のことである。
事々無碍、天地万象、一即一切、人生観、世界観、宇宙観、現世観、浄土観、すべてを説明する、この壮大な世界中を仏の華で飾ってゆく、蓮華蔵世界の道理をといた、お経、「仏華荘厳経」が、華厳経である。
その、華厳経は60卷、80卷からなり、これを六十華厳、八十華厳という。あまりの多さに、どこが序文で、どこが結論かわからないが、一番初めは、世間浄眼品、そして、廬舎那品と続く。
第一に、衆生の業によりて世界は出来る、第二は仏様の力によって世界は出来る、第三には菩薩によって修行される、その道場として世界は出来ているといい、八十華厳では、これらを、業の音声、仏の神力の音声、菩薩の修業の音声というように、音ということで説いている。
事々無碍は、さらに、縁起相由、理性融通とで、説明されている。
縁起相由とは、一切の法は因縁として相由(あいよ)らざるものはないことをいい、事々物々、一切は関係しあっている。一即一切、重々無尽である。國としてみてみると、個人と社会は離れたものではない。よって、社会が改まらぬ限りは、個人は救われない。そして、同時に個人の行動如何が直ちに全社会におよぼすものであるということ。こういった事象の関係を縁起相由という。
理性融通、佛教では重要な思想で、大我、光明の世界は無尽無碍で、かぎりはない。この世界を事法界、理法界、理事無碍法界にわける。事法とは事象のこと、形あるもの、ないものすべてをさす。理法とは事を貫く法則、無常の理、無我の理というのがそれである。理事無碍法とは、事法、理法をあわせた世界で、さらに第四として、事事無碍法界を成立させる。これらが「理性」であり、聖徳太子は「事理自ら通じ、何事か成らざらん」といわれた。
また、これらから、主伴無碍とい教説がうまれる。すなわち、一法を主とすれば、余法は伴なり、しかもお互いに主伴となりて碍りがないことをいう。親子の関係も、國の治者、被治者は互いに主となり伴となる。これが平和国家であるといい、華厳宗では国分寺を建て理想を表したのである。
さらに華厳経の最後、結文(けぶん)の、入法界品には、善財(スダナ)童子が、文殊菩薩の教えで、求道五十五カ所をめぐり、計、五十三人の善知識(先生)に出会い、皆その行業は仏道に通じることを知り、最後に弥勒菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩に辿り着くという旅物語がのべられている。
これを絵画にした華厳五十五所絵があり、このうち二十が現存し、根津美術館、藤田美術館、奈良国立博物館などに遺っている。
東海道五十三次の五十三はここからきているといわれている。

釈迦死亡後、印度の大弟子、迦葉と富楼那が布教、伝道のことで論議となり、迦葉は子細まで戒律が必要とし、富楼那は自由でおおまかでよいとしたが、迦葉の案が取り入れられたので、かなり厳しくなっている。
律宗の支那のお祖師さまは、道宣律師で、この孫弟子の鑑真和上が日本に伝えた。その戒壇は唐招提寺にあり、そのほか九州筑紫の観世音寺、下野の薬師寺の三カ所(日本三戒壇)にあった。その後、比叡山一乗会戒壇が追加になっている。なお、東國の薬師寺は、9世紀には焼失し、今は、宇都宮の自治医大の近くに記念館が建てられている。
鑑真和上が来邦された当初は、東大寺で良弁とともに管長となり、ここで律を授ける事になっていたはずが、良弁一派から東大寺から追い出され、唐招提寺に移られたのである。坊さんになるには、このうちのどこかで戒を受けなければならなかった。
律宗には偉い僧が輩出しており、実範上人、大悲、興正、覚盛で、日本國人で、これら上人は菩薩と命名された稀なケースである。とくに、興正菩薩(大和郡山の人)は元寇の乱で神風を吹かせたことで有名。
僧は七衆にわけられ、比丘(びく;出家し、仏門に帰依して具足戒を受けた男子、即ち僧)、比丘尼、優婆塞(うばそく;在家の信者、いわゆる檀家の男)、優婆夷(うばい;女)、沙弥(さや;二十歳前に剃髪し坊さんになったひと)、沙弥尼、式叉摩那(しきしゃまな;沙弥尼が具足戒をうける2年前に、心身を鍛練し、六法を学び戒法をうけさせられるもの)である。
その宗旨は、比丘には二百五十戒といわれるもので、沢山あります。おもなところは五戒で、殺傷しない、盗まない、邪淫をしない、不妄語(嘘をつかない)、酒はだめの五つ。不殺生戒、不偸盗戒、不邪姪戒、不妄語戒、不飲酒戒である。前の四つを性戒といい、酒は遮戒といいます。
二百五十戒は大きく五つにわけられており、この五篇の題目は、四波羅夷、僧残、二不定(尼薩耆波逸提)、提舎尼、百衆学である。
四波羅夷は、殺、盗、淫、妄である。波羅夷は、首を斬られたの意味。
僧残は、風紀紊乱(びんらん)であってはいけない、僧としてはまだ生命だけは残っている。
二不定とは、他人から怪しまれるような行為はするな。
尼薩耆波逸提は、見栄を張るようなことをするな。
提舎尼は、いかなる時も、行動と時をかんがえろ。
百衆学は、礼儀、作法を規定したもの。
比丘尼は三百八十八戒で、さらに厳しい。
このなかで最も難しいのは、不妄語、うそも方便がありますので。
戒律としての教本には『四分律』、『五分律』というのがある。学校規則や個人情報保護法についても、この戒律を参考にしていただきたい。いまの法律は後手後手で、なにかおこってから、あとで律を定めているような状態です。あまりにも能が無さすぎはしないか。
沙弥、沙弥尼の戒は、十戒といって五戒に五つプラス。香油をつけてはならぬ、歌舞を観聴してはいけない、高広の大床に寐坐してはいけない、午後すぎに食事してはいけない、金銀宝を蓄えてはいけない、以上である。
シャネルの香水などとんでもない、ヨン様などとんでもない、おおきなベットなどとんでもない、夜中のコンビニなどとんでもない、携帯電話などとんでもないのである。現代女性が守るにはすべて困難な戒律である。
式叉摩那には、六法という戒律が充てられ、染心相触、盗人四銭、断畜生命、小妄語、非時食、飲酒である。18歳は女として一番大事な時だから厳しい。
八斎戒は在家のひとが僧にあやかって一日一夜だけおこなう戒で、十戒から不淫と金銀財宝をぬいた八つで、戒のかわりに、斎という。
これらの戒律を一生守ります、守らせましょう、という、師と証人、三師七証という三人の師と七人の証人での認定式があり、これに合格すると僧として認められたのである。
また、龍樹著、鳩摩羅什訳の『大智度論』には随分受戒という話しがでてきます。これは宝間比丘という人が、お釈迦さまに、この世でしてはならないことを一つだけあげてくださいと頼まれたところ、「汝、唯、盗むなかれ」といわれた。孔子のように女々しく仁義礼智信を尊ぶのではなく、まぁ、なにをしてもよいが、盗みだけはよくない。とくに盗心はよくない。ひとへの妬み、不信、みずからの余分な欲、邪見を含む心になっている。盗みだけは最もよくないと戒められたのだと、宝間比丘は肝に銘じたという。
釈迦は物象を壮大で無碍で縁起相由なる大脳機能のネットワークを理解しておられ、そのネットの根本、想念の樹海のもっとも根元に、人間の盗心が潜んでいることを見抜かれていたのである。
そして、この世を、地獄界、餓鬼界、畜生界、阿修羅界、人間界、天上界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界の十界にわけている。仏法を理解していない人はこのうちの地獄、畜生、人間界の三つしか自覚されないでしょう。これを身につけた僧になるためには六つの波羅蜜の修行が必要である。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の「忍」である。

この先、天台宗から時宗まで十三宗をすべて観て行きたいが、今回はここまでとします。しかし、金子大栄先生の『仏教のこころ』では「本願と念仏」まで、すべて、網羅されています。
このように古京六宗をみると、空海も、道元も、仏陀の教えの一部のみの理解であることがわかる。それでは、日本國、過去だれが釈迦の教えを知り得ていたか。それは聖徳太子であった。義疏ではわずか三経のみであるが、あの立派な十七条憲法を読むと釈迦の教え、佛教を完全に理解していたことがわかる。これについては「聖徳太子十七憲法」でのべるが、今は、実は、聖徳太子は虚像で、『日本書紀』で作りあげられた人物で、実在していなかったと考えられている。
遠き中国唐、揚州大明寺におられた鑑真和上は、栄叡と普照のもとめに、自ら応じられ12年におよぶ渡航苦難のすえ、厳格なる律宗の正統を日本につたえられたのは754年のことであった。このときすでに、鑑真和上は盲目であったという。しかし、政治上の都合で、東大寺を追われ、唐招提寺に身をひかれた和上は、来邦されて、わずか9年、763年5月6日、座ったまま、あたかも、禅のようすで、「終ニ臨ンデ端座シ、禅定ニ入ルガ如ク」(『千眼千臂経』)、76歳でなくなられた。
この事については、永井路子さんの『氷輪』にくわしい。「鑑真は本当に盲目だったのだろうか」と、『氷輪』の短簡の部にかかれている。これは、昭和53年1978年、東京国立博物館で「日本の書」という特別展があって、この時に、「正倉院文書」にのこされている、鑑真の直筆なる短簡が展示されていた。これは、東大寺に一端、おさめた四大部経を貸し出してほしいという嘆願書である。これを実際に観た永井さんは、あまりの見事な筆勢で、鑑真の偽筆ではなかろうか。なぜなら、鑑真は眼がみえないのであったから、こんなにうまくは字がかけなっかたであろうに。と、一端、疑問符をつけるが、『手紙の歴史』を書いた、古筆学の小松氏に聞き及んだところ、眼がみえなくても立派に毛筆できることを知る。これは鑑真の直筆であることを確信する件がある。
小松茂美氏の『手紙の歴史』昭和51年は超名著で、その中の、拾遺された手紙のかずかずで、盲目の鑑真が書いた手紙が、写真で144ページにでている。「墨痕鮮やかで、じつに堂々とした書きぶりである。盲目であった鑑真が、果たして、この手紙を書くことができたかどうか、当然ながら、疑問の起こるところである。しかし、かれほどの人物であるから、心眼をもって文筆することは可能であったろう。少なくとも、われわれはそのように信じたい」と、結んでいる。