マザー・テレサさんと親交深かったノートルダム清心女子大学理事長の渡辺和子先生は講話集『愛をこめて生きる』(ユーキャン発行)のなかで、命を大切にするこころを「時間の使い方はいのちの使い方」として語られています。
 ここでは、「時」を哲学的に語るのではなく、時間の使い方を実例をあげて、わかりやすく説明されている。

 渡辺和子先生の「時」に関する博い知識と鋭い洞察力には拝跪、平伏します。説教の極致を観た想いがし、思わず手を合わせ、いや胸に十字をきって、感謝を述べなければと思ってしまうほどです。

 今回これを紹介させて頂き、さらに時間の発見、時の測定の歴史、時計の伝来と語源、時と宇宙について、まとめを企てました。
 「時の記念日」を「命の記念日」に。6月10日は時の記念日です。この機に「時」について考えてみませんか。

 Gerald James Whitrow の What is time ? (ウィットロウ、『時間その性質』1970年刊行、柳瀬睦男、熊倉功二訳)の訳本が、りぶらりあ選書/法政大学出版局から再版されています。(ウィットロウを渡辺慧らは、ホイットローとよんでいる。)
 その冒頭の「時間概念の起源」に、1914年のこと、ロシア詩人サミュエル・マルシャークが初めてロンドンに滞在していた時の話が載っている。

 英語をあまりよく話せない彼は、街である人に近づき、What time is it, now ? と訊ねるところを、What is time ? 時間とは、なんですかと訊ねてしまった。
 訊ねられた人は大変驚き、そんな哲学的な質問を、なぜ、私にするのですかと問い返したという。

 五世紀の人、神学者、哲学者の聖アウグスティヌス教父も、時間について「誰かが自分の時間について訊ねなければ、私はそれを知っていると言えるが、誰かにそれを説明しようとすれば、自分はそれを知らないという事実を認めなければならない。」と語ったといわれている。

 このように時間とは何かという問いは、極めて哲学的であり、そう簡単には説明できない、捕捉し難い設問であることに、即時(すぐ)、気付く。
 また、この笑い話には、じつは深遠な問いかけが隠されていることを渡辺さんは指摘されている。
 時間を哲学的に検討するのは非常にむずかしいことでありますが、私たちの残された命を時間は刻み、私たちを死に近づけているものが時間だということ、そして二度と帰ってこないのも時間の性質です、と。

 中世ヨーロッパでは、無情に経過する砂時計を頭に掲げ、手には大きな鎌を持って、これで人の時間を刈って人生を縮める、伝統的な姿の「時の翁」が描かれていました。
 過去、現在、未来という概念に「時間」が関与していることを理解してはいるのですが、それを深く考えず、日常、忘れてしまっているので、人の命の存在、すなわち現在、生きているという実感、未来いずれは確実に死ぬという事実も忘れてしまっている。

 したがって、私たちの残された命を刻んでいる、そして死に近づいている時間というものを大切にするということは、取りも直さず、命を大切に使うことであると講話されています。今から十五分後に死ななければいけないと言われたとき、何をしますか、と問われ、返答を考える。その内容は、自分なりに命の質、QOLの向上を考えていることになります。

 そして、エレベーターの扉を閉じる時間を計測すると、たったの四秒です。閉鎖のボタンをすぐに押してしまう現代日本人。この、たったの四秒の待てる暇を見つける人生にしましょう。人生を振り返り、樵夫(きこり)にたとえて、私の人生は木を伐るのに忙しくて、斧を見るひまを忘れていたといった事業家がいました。doingに心をとらわれすぎて、beingを忘れていたことに後で気づく。

 忙しいという字は心が亡びると書きます。

 また、ひまというのは日間と書きます。過ぎゆく時間に日の光が差し込むような間を待てる自分になれたら、すばらしい。
 荘子のことばに「虚室生白」きょしつ、はくをしょうず、開け放した何もない部屋には、日の光がさしこんで明るくなる。心を空にしていると、おのずから真理を悟ることができるという譬えです。

 アメリカのボストンの修道院で、修練中の夕、130人分の皿を並べる仕事を与えられた。修練長からシスター、あなたは皿を並べながら、何を考えてその仕事をしていますか、と訊ねられて、Nothingと答えてしまった。そのときYou are wasting time. あなたは時間というものを無駄にしています、と忠告された。怪訝(けげん)な顔をしていると、同じ皿を並べるのなら、夕食にお座りになる、お一人お一人のために、祈りながら、お皿を並べてはどうですか、と教えをうけた。

 丁寧に時間を使う。さすれば丁寧な人生が残ります。

 昭和天皇は侍従に、これは何という草ですかと問われた。それは雑草ですと答えてしまい、天皇はこの世に雑草という名の草はないはずですが、と問い返され、侍従は恐縮するばかり。

 時間の使い方に、雑用というのはありません。

 星の王子さまに登場するキツネが王子様に向っていいました。大切なものは目に見えない。肝心なことは、心の目で見ないと見えないよ、と。

 二度と戻らない人生、目には見えない時間を大切に、どのように過ごすか、もういちど、問い直してみることは大切なことかと存じます。

 丹精に時間を使う、思いをこめて生きることの大切さを、時間の説明から説かれています。仏道、禅宗臨済宗の松原泰道氏も同様のことをのべておられます。

 さて、その時間は誰が、いつ頃、発見したのか。この事については、あのイギリスのオピニオンリーダーであった「アウトサイダー」の筆者、コリン・ウィルソンの編著で、竹内均訳の『時間の発見』三笠書房1982年に詳しい。

 動物は現在という座標に囚われるが、人間は未来の動物である。とジョン・ダン(1573-1631;イギリス詩人、神学者)は言っている。
 人間の心すなわち脳には、記憶と予知の感覚が根づいており、自分の人生を過去、現在、未来の座標に充て嵌める感覚をもっている。
 この時間感覚は古代からみられ、紀元前五万年前のネアンデルタール人は死者を埋葬していた。これは死者には死後の世界があると考えてのことではないかと推測されている。一方、世界中で未だに、過去、未来の概念をもっていない、すべて現在形で語る人種がある。アメリカのホピ・インディアンです。

 「年」が繰り返される時間の単位であることを発見したのは、紀元前3,200年頃のエジプト人で、大犬座のα星であるシリウス星が、日の出直前に西の空に出現するのを観測し、これを1年の始まりとした。その周期は365日であり、これを30日で割って12ヶ月にしたが、5日余る。そこで5日を年末に付け足していた。

 紀元前1900年の建造物とされるストーンヘンジ(イギリス、エセックス州ソールズベリー平原にある環状列巨大石)は、ただ珍しい巨大な石を並べただけのものではなく、ホーキンスら考古天文学者は、天文を知る「時」計測装置とみている。この石の影、光の方向、高さから、太陽の観察で、夏至があることを発見し、そして「時」の周期性、1年を発見したのではないかと推測している。

 南アメリカで、つい40年前まで、プレアデス星団(牡牛座の肩のところにかたまっている七個の肉眼でみえる星)が、夜明け寸前に沈む時を、年の終わりとし、次に同じ現象になるときまでを一年とする原住民がいた。
 しかし、実際に太陽年にしても、星座によっても、一年は365.2422・・・日で、この端数が暦の設定で問題になる。
 月の盈ち虧けで月齢を発見し、それを夜昼を六もしくは十二にわけて1刻としていた。支那や江戸時代に用いられた陰暦などの方法である。

 ゼンマイ機械時計などの機械時計ができると、「時」を分、秒まで計測可能になってきます。時間測定の精度については次項で述べる。

 このように人類で最初に「時」を発見し、これをもとに暦方をつくったのはエジプト人とされているが、東方の中国と日本でさらに古くから暦が存在していたかもしれないが、証明はされていない。

 以上のように、古代人にとっての「時間」は、太陽や月、星座、自然のうつろいの観察による、いわゆる自然時間といわれる人間的尺度によって測られた。大まか時間量で、経験的生態学的時間であった。
 これに反し、現在の時間は時計時間で、それも原子時計時間といって、ほとんど狂いのない、人間には感じない精密な単位の直線的極確的時間である。農村のくらしや輪廻など宗教世界には精確度時間は不要であろう。

 ついで、個々の人間が時間の感覚を覚えるのはどのような方法で、どう認識するのであろうか。
 現在日本では認知科学という分野で検討されているが、一般に、人間の脳では右脳は直観、感性、芸術と関係し、左脳は論理、理性、科学と関係するといわれ、左脳には時間感覚はあるが、右脳にはないとされている。この左脳時間感覚を人間はどのように獲得するのでしょうか。

 物象の同時性、連続性に時間の観念を学習するのはどういう方法か。生物の体内時計を観察することによって、この人間の時間感覚の獲得現象を証明しようとしている、こんな簡単なことも解明した人は居ません。
 時間の感覚獲得については、当たり前として捉えているので、敢えて考察した人はいないのかもしれない。

 子供の時間の表現を聞いていると、ませた3、4歳の子供は大人の真似をして、その言葉を覚えはじめ、すぐに、何々しましょう、こんなことしようね、など、「あとで」、「あした」のことばに時間の概念が重っていることがわかりますし、5歳ぐらいになると、夜になったらお月さまをみましょう、あした天気になぁれ、など未来形で話しをするのも、「時」を、明確ではないが、学習して知ったことがわかる。

 しかし、3,4歳の子供で過去の時間を表現するのは難しいようで、昨日何したの、昨日のごはんのおかずはなにでしたか、「きのう」、「さっき」という問いには答えられないケースが多い。怖いおじさんから昨日、声をかけられたのは何処で何時頃だったなど、過去の時間体験を表現するのは子供は苦手であることが観察されよう。

 8才ぐらいで時計時間、物理時間の認識は完成するとピアジェはいい、そして、子どもの物理的時計時間のほうが大人のそれより長いとしている。これは心理的時間ではないのか?

 反面、老人痴呆になってくると、昔のことはよく覚えているが、つい先っき摂った食事の事は忘れてしまっていますし、時間の記憶もなく、現在の見当識も不完全で、ここはどこ、私はだれ、今、何時か判然としないし、今夜は風呂に入るかどうか、明日の予定や、来週の予定など先のことはさっぱり解らない。老人は未来のことはほとんど語りません。しかし、遠い過去の経験はよく記憶している。古いことは、記憶に残っていて、未来時間の感覚はなくなってしまうメカニズムも解明されていない。

 諺の、三つ子の魂百までも、雀百まで踊り忘れぬなどといわれるように、子どもの頃、記憶したことはなかなか忘れない。この記憶のメカニズムにも「時」の記憶方法や喪失が関与していると考えられる。
 さらに、老人痴呆を考える場合には時の概念が大脳でどの位置でどのように機能しているのかを検討することは重要なことと思われるにもかかわらず、検討した医学論文はみたこともありません。

 戦後、日本で「時」について物理学や天文学、哲学、生理学として研究していた人は渡辺慧ほか希少で、時間に関する書籍もほとんど外国人の訳本ばかりである。
 児童心理学者も含め、とくに日本で時間感覚の発見について論文発表している人は極めて希で、この点でも日本は「時」の研究では、かなり後進国である。

 現在、2005年、日本に生まれてくると、すでに時計はありますし、テレビだけではなく、携帯電話にも時間はデジタル表示されているので、この見方さえ覚えれば「時」は解る。これから先、「時」を考えてみる機会はなくなってしまうのであろうか。「時」を考察することなく、老いの現象や命について議論することは、基礎工事なしの普請のようなものである。

 マヤ民族の建造物や、イギリスのストーンヘイジに代表されるような天文を指標にした年、月、日の単位の時間測定方法は、遺跡調査で古代から存在していたと考えられている。マヤ民族はとくに直線的時間より周期的時間、東洋でいう輪廻、過去の事象と時間に強い関心をおいていたらしい。

 その「時」の測定は非常に雑ではあるが、しかし、実際に3年かかって夏至の存在をみつけ、1年を発見した時は、さぞ興奮したことだろう。
 年単位の時間の測定は自然観察によっておこなっていたが、日、時単位の時間の測定方法としては二種類の測定器があった。その第一は支那でいう土圭、日時計で、第二は漏刻といい、水時計である。

 土圭は、土に杭を挿し、陽の光の杭の影から時間を測定する方法である。
 紀元前700年頃に書かかれたイザヤ書第38章ヒゼキヤの病気の8節に「アハズの日時計」ということが載っている。

 ISAIAH;
 I will make the shadow cast by the sun go back the ten steps it has gone down on the stairway of Ahaz.
「見よ、わたしは日時計の影、太陽によってアハズの日時計に落ちた影を、十度後戻りさせる。」と。

 また、ティ・ディ・タッカーの「古代アテネの生活」に古代アテネでは日時計を公設時計として利用し、時間を測定することに熟達していたと記載している。
 ボルネオでは最近まで、広場の地面に3mほどの1本の棒を立てただけの簡素な日時計を使用していた原住民がいた(高林)。

 支那では、秦始皇帝が陣中に用いた土圭が保存されている。
 日本にも大形石造日時計が鹽竈神社(塩釜市)に残っている。これは江戸時代に林子平が長崎からもちかえり再現したもので、神社に奉納設置されている。
 日時計は携帯に便利なので、日本でも明治の初め頃まで利用されていたし、現在アウトドアースポーツやサバイバルゲームなどに利用されている。しかし、夜、曇り、雨の時は使えない。

 第二の漏刻は水時計で、これは支那、埃及(エジプト)、ギリシャ、ローマでも使われていた。印度でも使われていたことが、支那の義浄三蔵の『南海寄帰伝』に出ている。

 『時計発達史』、高林兵衛、東洋出版社、1924年、大正13年は、印度に、タイム・ボーイという時の番人がいて、水の入った大きな容器の前に座っていて、底に小孔のある青銅製の鉢を浮かべる。水は、やがて次第にその小孔から漏れ入ってきて鉢に充満し、鉢は遂に沈む。すると番人は、それを拾いあげ、呼鐘として、その鉢を鉄棒で打ち鳴らして、時を報じる。という漫画のようなやり方を紹介している。いつ頃までおこなわれていたかは不明。

 アレキサンドリアの水時計には、人形が自動的に飛び出す装置が組み込まれていて、演説や法廷での弁論の時間制限に用いられていた。

 新村出の『琅かん記』の「時間を測る器」に、伝説によると晋の彗遠の弟子の彗要といふ坊さんが廬山の山中で測時器がないので困って、水上に蓮華の華びらを十二浮かべて水のまにまに流転するのを以て時間を計つたという。これを蓮華漏と呼ばれ名高い話しになっていると記されている。

 また、支那の宣明暦(唐時代)の古制に、漏刻は蓮漏制度と記載されており、周礼にも「望壺氏掌刻漏」とあり、李白(唐;701-762)の楽府の烏棲曲にも水時計、漏刻のことが記載されているので、唐時代以前、紀元前から漏刻により、時刻、暦を作製していたものと考えられる。

 李白 楽府 烏棲曲

姑蘇臺上烏棲時   姑蘇の臺上、烏棲むの時。
呉王宮裏酔西施   呉王の宮裏に、西施を酔はしむ。
呉歌楚舞歓未畢   呉歌楚舞、歓、いまだ畢らず。
青山欲衡半邊日   青山衡まむと欲す、半邊の日。
銀箭金壺漏水多   銀箭金壺、漏水多し。
起看秋月墜江波   起って看る、秋月の江波に墜つるを。
東方漸高奈楽何   東方漸く高く、楽を奈何。

 「呉王の夫差は姑蘇臺上において宴を催し、やがて、夕方烏が塒に帰る頃、西施は、始めて酔ってきた。呉の歌や楚の舞などで一日を過ごし、畢りがない。今や落日、西に日が沈んで、半邊が既に青山にふくまれる頃となった。かくて夜宴が催され、時間の経過に金壺の上に立てた銀箭が次第に移っていく。水時計から漏れる水は多くなる。秋の夜の月が江波に落ちて、東の空が漸く白み渡る頃となる。宴遊の楽しみは実に限りない。
 こうして遊んでばかりいると、時間の無駄使い。国には滅びるぞ。情けない。」という憂国の歌で、時が経つことを漏水多とし、漏刻の水量で時間経過を述べている。

 享保17年(1732年)桜井養仙の『漏刻説』に、図説いりで水時計が紹介されており、四個の四角な水壺(上から夜天地の壺、日天地の壺、平壺、萬分壺)が階段をなして連接し、最下の水槽(水海)に箭(セン、や)が一本立ている。その箭に百刻、刻み目が、度盛してあり(百刻法;不定時用)、その箭の尖端は、水面に浮かぶ浮板の上に垂直に固定してある。上層の水壺から段々に漏れ落ちて来る水が、この最下階の所謂万水壺(萬分壺)に貯まって水量が増えてくると、箭の附いた浮板が、時の経過とともに応じて次第に浮いてくるから箭の刻してある刻み目が、次第次第に上方に現れてくる。この箭を浮箭といい。この装置を浮漏といった。

 しかし、水が凍ると使用出来ないので、かわりに、水銀や砂などが利用されたが、漏という字が、今の「時」を表す字として使用されていた。
 乾漏という字も使用されていた。これは、香(不断香)を焚き、時を測定するもので、これを常香盤といい、水や砂のようには音がしませんので、無声漏ともいわれ、火時計の類である。

 このように、古代、中世、近世にかけて、世界中で約1300年の長い間、日時計、水時計、砂時計、蝋燭や紐の燃える長さ、油や香の燃える量などの物体を利用する火時計などで、「時」を測定していた。

 1340年頃、ヨーロッパで機械時計オルロジもしくは、クロック(語源はフランス語のcloche、鐘という意味)として、棒天桴(天府;てんぷ)冠型脱進機が発明されている。フランスの、シャルル五世の命で時計師ヘンリー・ゼヴィックが制作したのが世界初の機械時計ではないかとされている(高林)。

 時刻の精度で毎日の遅れ、進みの程度を歩度とよびますが、棒天桴棒時計での歩度は1日に15分ほど狂いがあった。

 1352年にはストラスブールに、棒天桴機械掛時計が、公衆時計として設置されたことが解っている。この頃は、時計の針は1本で何時のみをしらせ、分の単位ではクォータ、15分がしるされていた。この時代が300年近く続いた。

 1543年にポーランドのコペルニクスが『天体の回転について』を出版し、天文学は16世紀半ばで激変する。

 1582年10月より太陽暦のユリウス暦(ユリウス・シーザー設定、紀元前46年、年365.25日)はグレゴリー暦(年365.2425日)に変更された。これは閏年の設定の変更で、キリスト教国では春分の日3月23日が復活祭であるが、これが1500年の長きにわたって、遅れが積もって3月11日頃になってしまったため、グレゴリー十三世が、1582年10月4日の翌日を10月15日とし、キリスト降誕年数すなわち紀元年数が四の倍数の年を閏年とする。ただし紀元年数の百の倍数である場合には、四百の倍数でない限り平年とすると定め直した。以後、現在まで世界中で約500年間、この暦を使用している。しかし、これでも正確な暦ではないので、現在でも暦の変更について様々な案が提案されている。(暦については二十世紀最後に出版された暦の会の『暦の百科事典2000年版』本の友社、1999年を参照してください。)

 17世紀中期から機械時計は一新紀元を画すのである。1656年になって、ガリレイの振子の等時性原理(1583年)から、オランダのホイエンスが振子時計を考案する。
 その後、イギリスの物理学者ロバート・フックが1660年(万治3年;4代将軍徳川家綱の時代)に長さ97.85センチ、39.14インチの分銅つき振子が、正確に、1秒を打つことを発見し、これ以後、振子時計が重宝されるようになり、時、分、秒まで測定可能で、時刻表現も進化していく。

 secondを「秒」、miniuteを「分」とあらわしますが、セコンドというのは「わずか」の意味のminiuteの次の単位で、次という意味で、秒をsecondというのである。
 秒という字の意味は、きわめて小さいことを指し、粟の芒(のぎ)のことだそうあるが、それではsecondという語に、だれが秒という漢字をあてたのでしょうか。不明です。詳細に調べていますが今のところ不明です。おそらく宇田川榕菴あたりではないでしょうか。解りません。知っているひとは教えてください。

 ガリレイ(1564-1642)の振子の原理の発見の経緯もおもしろいので少し詳しく書き添える。『時間の歴史』渡辺慧、東京図書、1973年を参考にした。
 ガリレイが1583年、ピザの大寺院で信徒席に腰掛けていたとき、ふと天井を見上げると蝋燭を沢山立てた飾灯が風を受けて揺れています。気をつけて見るとそのゆれの幅は大きくなっても小さくなっても、一回の振動に要する時間が同じように見えた。そこで腕時計でもあればすぐわかるのですが、まだ棒てんぷ時計しかない時代です。

 彼はそれをどうしたら試せるかと思い、すぐ気がついて自分の脈拍と飾灯のゆれを比較して観た。はたして1回の揺れの間に打つ脈の数がいつも一定だったのです。もし脈に気づかなければ、またガリレイ自身の脈が洞性不整脈でもあったなら、振子の原理の発見はすこし遅れていたかもしれません。しかし、実際、さすが科学者です、この後、ガリレイは病的脈拍の患者さんにも適応できるか否かを検討しているのである。そして、逆に、振子の原理を不整脈の診断に利用している。

 ガリレイの最も重要な業績は、この世の自然に法則が成り立つことを発見したことである。アリストテレス以降の意識革命がおこったばかりか、ルネサンスの幕を閉じ、その後、デカルト、ニュートン、ライプニッツ、カルノー、アインシュタイン、ベルグソン、ハイデッガーと哲学も含め、物理学、化学、あらゆる自然科学の飛躍的進歩に貢献したのである。

 それでは彼の振子の法則とは

  1. 振子の振幅は、その角度によっても変化しない。
  2. 振子の周期は、振子の長さで定まり、錘の目方には無関係である。
  3. 振子の周期の二乗と振子の長さは比例する。

 ついで、物体の落下の法則

  1. 抵抗の作用しない物体は、一様不滅の運動をする。惰性の法則
  2. 物体は落下しはじめると、その落下距離は落下時間の二乗に比例する。
  3. 落下物体は放物線を描いて落下する。
  4. 落下時間は物体の目方には無関係である。

 これらの法則は、すべて、繰り返しの実験でたしかめられたのである。
そして、「一定の物理的過程は、一定の時間を要する」という物理的時間の基礎的法則を確立した。それも正確な時間が測定不可能な時代に、時間というものが物理的法則に関与していることを見抜いた訳です。

 17世紀後半から、自然の法則を発見することに慣れ始めた西洋では、機械時計が開発され、正確な時間の測定により、逆に様々の自然現象が法則化するのに拍車がかかり、一つの者が前代の者より出て、しかも前代の者を克服するという、渡辺慧のいう奇妙な「進化の理論」が展開していくのである。いかに、時の発見、時間の測定の発達が人間の進化に貢献しているかが解かろう。

 1762年には、イギリスの大工のジョン・ハリソンが伸縮補正振子を利用したクロノメーター(時辰儀)を開発し、航海天文学も急速に発達した。
 因みに、音楽に使うメトロノームという機械の発明は1812年にオランダのヴィンケルが発明し、ドイツのメルツェルが改良したもので、ベートーヴェン作曲の「ウェリントンの勝利」という曲を、メルツェルがそのパート譜を変えて発表したのに対しベートーヴェンが訴訟をおこした。この詫びにメルツェルがメトロノームをベートーヴェンに献上したところ、ベートーヴェンは絶賛し、非常に喜んだと伝えられる、時間を刻む器械です。これ以後、音楽の世界でも、正確な演奏速度、時間が指定されるようになった。

 そして、本格的な大航海時代到来により、時間の世界的標準化が必要になり、1884年(明治17年)に、グリニッジが基準子午線とさだめた国際時間帯の測定法が決められた。
このことが、その後、文明機器、戦闘器開発と相俟って、欧米国で、帝国主義、植民地主義、世界大戦へと悪路に利用されていく。さらに、時計はさまざまに工夫され腕時計、懐中時計が流行り、精度向上で、ついに水晶時計、原子時計があらわれる。

 1927年(昭和2年)にはアメリカのワレン・マリソンによって水晶時計が開発された。水晶の結晶は交流電流が流れると機械的に振動することを発見し、直径2.5インチ、6.4cmの環状水晶に交流をながすと1万ヘルツで振動する。一定の温度であればこの振動数は1日につき数万分の1まで正確である。腕時計にしても1日で50分の1秒のくるいである。

 1955年、(昭和30年)原子時計はイギリス国立物理研究所のエッセンらにより発見された。セシウム原子のビームに真空で交代磁場処理すると振動し、振動数は91億9,263万1,770ヘルツであることが判明し、現在はこの原子はルビジウムをつかっている。この歩度は、3万年に1秒しか狂わないという驚異的な数値である。この原子時計は、若生康二郎氏の「自然」1973年4月号にくわしい。

 この、1955年、昭和30年6月10日に「時の記念日」が制定された。この日は天智天皇が水時計をつかって時刻をはかった日の4月25日の太陽暦日にあたり、時の記念日になっている。
 1970年頃より腕時計でも表示方法がデジタル化され、機械時計から針は消失した。
 これら時間の測定の歴史を見ると、ホイヘンス以後、歩度は約300年の間に急速に精度を増し、ついに原子時計では3万年に1秒と狂わないという、極確(わたしの造語;極度に精確)に時の測定が可能になった。

 このことは古代、中世の人には予想もできなかった事で、「時」自身も人間のなせる技に惘(あき)れていることであろう。

 時間測定の歩度の縮小とともに、地球の自転の不整、恒星運動などが詳細に再検討され、天文学的測定値にも革命的問題が生じてきたわけである。ここでも、奇妙な「進化の理論」が展開される。

   

        ▲トップへ  次ページへ→