
去年今年(こぞことし)を占う前に、山口誓子の読んだ句に、
除夜零時 過ぎて心の 華やぐも
不思議に除夜の鐘を聞いていると、厳かな気分から、新春を祝う、心うきうきした気分に変わっていく。今年2005年、平成17年は災害のない穏やかな年でありますように。初春の夜空のオリオン座に願をかけました。今年のオリオンは例年になく輝きが鋭い。
そして、福田蓼汀(りょうてい)の
福寿草 家族のごとく 固まれり
此の句を思い出しつつ、正月用に鉢植えした福寿草を履脱(玄関土間、蹴上り)に据え置きました。
歳旦(さいたん)は褻衣(せつい)を著(き)て迎うべきにあらず、と鴎外は「礼儀小言」で述べている。褻衣とは普段着のことであるが、平成の時代には元旦に礼服で過ごす人は極めて少なくなった。気持ちだけで十分と考え勝ちであるが、矢張り新春は昔からの日本の習しで過ごしたいものである。
昨年、平成16年の10月23日土曜日17時56分に新潟県中部大地震があり、山古志村など山村は多大の惨禍を被った。さらに、殆ど、待てしばしなく、12月26日の日曜日にはスマトラ沖地震による大津波で史上最大の50万人死亡という強烈な災害が発生した。
年の暮、関東は28年ぶりの大雪になり、静かな大晦日を迎えたが、2004年の「今年の漢字」は災となった。
明けて2005年、乙酉(きのととり)の正月には高速道路は凍結により完全閉鎖で、車での遠出はできない。人の移動が極端に少なくなったため、インフルエンザの流行は無きに等しい状況であった。その反面、福山の特養でノロウィルスによる感染性胃腸炎が発生し、多くの犠牲者を出したことが大きく報道された。
今年は阪神大震災から10年目。不況にくわえ、災害対策を考える年になりそうである。とくに新機軸となるようなこともあるまいと高(たか)を括(くく)っているのですが。
さて、『春の鳥』は岩波セミナーブック43の十川信介の『「銀の匙」を読む』」で知った。ときには、文芸評論を読むのも面白い。とくに十川氏のセミナーでの講演内容をまとめたものは、色々の解釈があり、関連文献も豊富で、興味深い箇所が多数(ふんだん)だ。
国木田独歩の『春の鳥』は、白痴のこども、六蔵が、鳥になったつもりで、春の空に飛び揚がりたくて、城の高台から飛び降りてしまうという内容で、自然主義文学、浪漫主義文学の代表作品で、大作のように謂われているが、実は、短編で、読みやすく、内容理解も容易である。従って、独歩が、近代短編小説の創始者であることには変わりない。
国木田独歩など、もう、だれも見向きもしないでしょうが、明治のころの脳障害についてどのように考えていたのか、その一端がわかる文章であるため、此処に、全文、公開した。文体、句読点、漢字は初版、その儘、記載した。
私の所有している本は豆本で、5.5×4cmのマッチ箱ほどの大きさで、コンノ書房の発行である。
そして、ハンディキャップ、障害をもった人、とくに白痴について考察しておきたい。


今より六、七年前、私は或地方に英語と数学の教師をしていたことがございます。その町に城山というのがあって大木暗く繁った山で、あまり高くはないが甚(はなは)だ風景に富んでいましたゆえ私は散歩がてら何時もこの山に登りました。
頂上には城趾が残っています。高い石垣に蔦葛からみついてそれが真紅に染ってる按排(あんばい)などえも言われぬ趣でした。昔は天主閣の建っていた処が平地になって、何時しか姫小松まばらに生いたち夏草隙間なく茂り、見るからに昔を偲ばす哀れな様となっています。
私は草を敷いて身を横たえ、数百年斧を入れたことのない鬱たる深林の上を見超しに近郊の田園を望んで楽しんだことも幾度であるか解りませんほどでした。
或日曜の午後と覚えています、時は秋の末で大空は水の如く澄んでいながら野分吹きすさんで城山の林は烈(はげ)しく鳴っていました。私は例の如く頂上に登って、やや西に傾いた日影の遠村近郊を明く染めているのを見ながら、持って来た書籍を読んでいますと、突然人の話声が聞こえましたから石垣の端に出て下見下しました。別に怪しい者ではなく三人の小娘が枯枝を拾っているのでした。風が烈しいので得物(えもの)も多いかして沢山背にしょったまま、なおも四辺(あたり)をあさっている様子です。むつまじげに話しながら楽しげに歌いながら拾っていました。それが、いずれも十二三、多分何村あたりの農家の子供でしょう。
私は、しばらく見下していましたが、又もや書籍の方に眼を移して何時か小娘のことは忘れてしまいました。するとキャッという女の声、驚いて下を見ますと、三人の子供は何に懼(おそ)れたのか枯れ木を背負ったままアタフタと逃げ出して忽ち石垣の彼方にその姿を隠してしまいました。可怪(おか)しなことと私はその近処を注意して見下していると、薄暗い森の奥から下草を分けながら道もない処を此方へやってくる者があります。初は何物とも知れませんでしたが、森を出て石垣の下に現われたところを見ると十一か十二歳と思わるる男の児です。紺の筒袖を着て白木綿の兵児帯をしめている様子は農家の児でも町家の者でもなさそうでした。
手に太い棒切を持って四囲(あたり)をきょろきょろ見廻していましたが、フト石垣の上を見あげた時思わず二人は顔を見合しました。子供はじっと私の顔を見つめていましたが、やがてニヤリと笑いました。その笑が尋常でないのです。生白い丸顔の、眼のぎょろりとした様子までが、ただの子供でないと私は直ぐ見て取りました。
「先生、何をしてるの?」と私を呼びかけましたので私も、ちょっと驚きましたが、元来私の当時教師を務めていた町は極く小さな城下ですから、私の方では自分の教え児のほかの人をあまり知らないでも土地の者は都から来た年若い先生を大概知っているので、今この子供が私を呼びかけたも実は不思議はなかったのです。其処へ気がつくや私も声を優しゅうして、
「書籍(ほん)を読んでいるのだよ。此処へ来ませんか」と言うや、児童(こども)はイキなり石垣に手をかけて猿のように登りはじめました。高さ五間以上もある壁のような石垣ですから私は驚いて止めようと思っているうちに早くも中程まで来て、手近の蔦に手が届くとすらすらとこれを手繰(たぐ)って忽ち私のそばに突っ立ちました。そしてニヤニヤと笑っています。
「名前は何というの?」と私は問いました。「六」「六?六さんというのかね」と
問いますと、児童は点頭(うなづい)いたまま例の怪しい笑をもらして口を少し開けたまま私の顔を気味の悪いほどみつめているのです。
「いくつかね、歳は?」と私が問いますと、怪訝な顔をしていますから、今一度問返しました。すると妙な口つきをして唇を動かしていましたが急に両手を開いて指をおって、一、二、三、ひふみと読んで十、十一と飛ばして、顔をあげて真面目に「十一だ」という様子は、やっと五歳位の児の、ようよう数を覚えたのと少しも変わらないのです。そこで私も思わず「よく知っていますね」「母上(おっか)さんに教わったのだ」「学校へゆきますか?」「いかない」「なぜいかないの?」
児童は頭を傾(かし)げて向うを見ていますから考えているのだと私は思っていました。すると突然児童はワァワァと唖(おし)のような声を出して駆けだしました。「六さん六さん」と驚いてわたしが呼止めますと
「烏烏(からすからす)」と叫びながら後も振りむかないで天主台を駆け下りて忽ちその姿を隠くしてしまいました。

私はその頃下宿屋住(やどやずまい)でしたが何分不自由で困りますから色々人に頼んで、遂に田口という人の二階二間を借り、衣食いっさいのことを任すことにしました。
田口というのは昔の家老職、城山の下に立派な屋敷を昔のままに構えて有福に暮らしていましたのでこの二階を貸し私を世話してくれたのは少からぬ好意であったのです。
ところで驚いたのは田口に移った日の翌日、朝早く起きて散歩に出ようとすると城山で逢った児童が庭を掃いていたことです。私は
「六さん、お早う」と声をかけましたが、児童は私の顔も見てニヤリ笑ったまま草ぼうきで落葉を掃き、言葉を出しませんでした。
日の経つ中にこの怪しい児童の身の上が次第に解かって来ました。と言うのは畢竟私が気をつけて見たり聞いたりしたからでしょう。
児童は名を六蔵と呼びまして田口の主人(あるじ)には甥に当り、生れついての白痴であったのです。母親というは四十五六、早く夫に分かれまして実家に帰り、二人の児を連れて兄の世話になっていたのであります。六歳の姉はおしげと呼びその時十七歳、私の見るところではこれもまた白痴と言ってよいほど哀れな女でした。
田口の主人も初の程は白痴のことを隠しているようでしたが、何をいうにも隠し得ることでないのですから終(つい)に或夜のこと私の室にやってきて教育の話の末に甥と姪の白痴であることを話しだし、どうにかしてこれに幾分の教育を加えることは出来ないものか私に相談をしました。
主人の語るところによるとこの哀れなきょうだいの父親というのは非常な大酒家で、その為に生命をも縮め、家庭をも蕩尽(とうじん)したのだそうです。そして姉も弟も初の中は小学校に出していたのが、二人とも何一つ学び得ずいくら教師が骨を折っても無益で、到底他の生徒と同時(いっしょ)に教えることは出来ず、いたずらに他の腕白生徒の嘲弄の道具になるばかりですから、かえって気の毒に思って退学をさしたのだそうです。
なるほど詳しく聞いてみると姉も弟も全くの白痴であることが、いよいよ明白(あきらか)になりました。
然るに主人の口からは言いませんが、主人の妹、則ちきょうだいの母親というも普通から見ると余程抜けている人で、二人の子供の白痴の原因は父の大酒にもよるでしょうが、母の遺伝にもよることは私は直ぐ看破しました。
白痴教育というが有ることは私も知っていますが、これには特別の知識の必要であることですから私も田口の主人の相談には浮かと乗りませんでした。ただその容易でないことを話しただけで止(よ)しました。
けれどその後だんだんとおしげと六蔵の様子を見ると、如何にも気の毒でたまりません。不具の中にもこれほど哀れなものはないと思いました。唖、聾、盲(おし、つんぼ、めしい)などは不幸には相違ありません。言う能わざるもの、聞く能わざる者、見る能わざる者も、なお思うことは出来ます。思うて感ずることは出来ます。白痴となると、心の唖、聾、盲ですから殆ど禽獣に類しているのです。ともかく、人の形をしているのですから全く感じない訳ではないが普通の人と比べては十の一にも及びません。又た不完全ながらも心の調子が整うていればまだしもですが、更に歪(いびつ)になって出来ているのですから、様子が余程変です。泣くも笑うも喜ぶも悲しむも皆普通の人から見ると調子が狂っているのだから猶お哀れです。
おしげはともかく、六蔵の方は児童だけに無邪気なところがありますから、私は一倍哀れに感じ、人の力で出来ることならばどうにかして少しでもその智能の働きを増してやりたいと思うようになりました。
すると田口の主人と話してから二週間も経った後のこと、夜の十時ごろでした、もう床に就こうかと思っているところへ、
「先生、お寝(やす)ですか」と言いながら私の室に入って来てたのは六蔵の母親です。背の低い、痩せ形の、頭の小さい、凸(なかだか)の顔、何時も歯を染めている昔風の婦人(おんな)。口を少し開けて人のよさそうな、たわいのない笑を何時ものその眼尻と口元に現わしているのがこの人の癖でした。
「そろそろ寝ようかと思っているところです」と私が言ううち、婦人は火鉢のそばに坐って
「先生私少しお願いがあるのですが」といって言い出しにくい様子。「何ですか」「六蔵のことでございます。あのような馬鹿ですから将来のことも案じられて、それを思う私は自分の馬鹿を棚に上げて、六蔵のことが気にかかってならないのでございます。」「ごもっともです。けれどもそうお案じなさるほどのこともありますまい」とツイ私も慰めの文句を言うのは矢張り人情でしょう。

私はその夜だんだんと母親の言うところを聞きましたが何よりも感じたのは親子の情ということでした。前にも言った通りこの婦人とても余程抜けいることは一見して解るほどですが、それが、我子の白痴を心配することは普通の親と少しも変らないのです。
そして母親もまた白痴に近いだけ、私は、ますます憐れを催うしました。思わず私も貰い泣きをした位でした。
そこで私は六蔵の教育に骨を折ってみる約束をして気の毒な婦人を帰えし、その夜は遅くまで、いろいろと工夫を凝らしました。さてその翌日からは散歩ごとに六蔵を伴うことにして、機に応じて幾分かずつ智能の働きを加えることに致しました。
第一に感じたのは六蔵に数の観念が欠けていることです。一から十までの数がどうしても読めません。幾度も繰り返して数えれば、二、三と十まで口で読み上げるだけのことはしますが、路傍の石塊を拾うて三個並べて、幾個だとききますと考えてばかりいて返事をしないのです。無理にきくと初めは例の怪しげな笑い方をしていますが後には泣き出しそうになるのです。
私も苦心に苦心を積み、根気よく務めていました。或時は八幡宮の石段を数えて昇り、一、二、三と進んで七と止まり、七だよと言って聞かして、さて今の石段は幾個だとききますと、大きな声で十と答える始末です。松の並木を数えても、菓子を褒美にその数を教えても、結果は同じことです。一、二、三という言葉と、その言葉が示す数の観念とは、この児童の頭に何の関係をももっていないのです。
白痴に数の観念の欠けていることは聞いてはいましたが、これほどまでとは思いもよらず、私も或時は泣きたい程に思い、児童の顔を見つめたまま涙が自然(ひとで)に落ちたこともありました。
然るに六蔵はなかなかの腕白者で、悪戯をするときは随分人を驚かすことがあるのです。山登りが上手で城山を駈け廻わるなどまるで平地を歩くように、道のあるところ無い処、サッサと飛ぶのです。ですから、これまでも田口の者が六蔵は何処へ行ったかと心配していると昼飯を食ったまま出て日の暮方になって城山の崕(がけ)から田口の奥庭にひょっくり飛び下りて帰って来るのだそうです。木拾いの娘が六蔵の姿を見て逃げ出したのは、きっとこれまで幾度となくこの白痴の腕白者に嚇されたものと私も思い当ったのであります。
けれども又た六蔵は直きに泣きます。母親が兄の手前を兼ねて折り折り、ひどく叱ることがあり、手の平で打つこともあります。その時は頭をかかえ身を縮めて泣き叫びます。しかし直ぐと笑っている様は打たれたことを全然忘れてしまったらしく、これを見て私はなおさらこの白痴の痛ましいことを感じました。
かかる有様ですから六蔵が歌など知っているはずも無さそうですが知っています。木拾いの歌うような俗歌を暗(そら)んじて、おりおり低い声でやっています。
或日私は一人で城山に登りました。六蔵をつれてと思いましたが姿が見えなかったのです。
冬ながら九州は暖国ゆえ天気さえ佳ければ極く暖かで、空気は澄んでいるし、山のぼりにはかえって冬が可(よ)いのです。
落葉を踏んで頂に達し例の天主台の下までゆくと寂々(せきせき)として満山声なき中に、何者か優しい声で歌うのが聞こえます。見ると天主台の石垣の角に六蔵が馬乗りに跨がって、両足をふらふら動かすかしながら、眼を遠く放って俗歌を歌っているのでした。
空の色、日の光、古い城趾、そして少年、まるで画です。少年は天使です。この時私の眼には六蔵が白痴とはどうしても見えませんでした。白痴と天使、何という哀れな対照でしょう。しかし、私はこの時、白痴ながらも少年はやはり自然の児であるかと、つくづく感じました。
今一ツ六蔵の妙な癖をいいますと、この児童は鳥が好きで、鳥さえ見ていれば眼の色を変えて騒ぐことです。けれども何を見ても烏(からす)といい、いくら名を教えてもおぼえません。「もず」を見ても「ひよどり」を見ても烏からす、といいます。可笑しいのは或時白鷺を見て烏といッたことで、鷺を烏にいい黒めるという俗諺がこの児だけには普通なのです。
高い木の頂辺(てっぺん)で百舌鳥(もず)が鳴いているのを見ると六蔵は口をあんぐり開けて、じっと眺めています。そして百舌鳥が飛び立ってゆく姿を茫然と見送る様は、頗る妙で、この児童には空を自由に飛ぶ鳥が余程不思議らしく思われた。

さて私もこの憐れな児の為には随分骨を折ってみましたが眼に見えるほどの効果は少しも有りませんでした。
かれこれするうちに翌年の春になり、六蔵の身の上に不慮の災難が起こりました。三月の末でございます。或日朝から六蔵の姿が見えません、昼過ぎになっても帰りません。遂に日暮になっても帰って来ませんから田口の家では非常に心配し、殊(こと)に母親は居ても起ってもいられん様子です。
其の処で私は先ず城山を探すがよかろうと、田口の僕(しもべ)を一人連れて、提灯の用意をして、心に怪しい痛ましい思いを懐きながら平常(いつも)の慣れた径を登って城趾に達しました。
俗に虫が知らすというような心持で天主台の下に来て
「六さん、六さん」と呼びました。そして私と僕と、申し合わしたように耳を聳(そばだ)てました。場所が城趾であるだけ、又索す人が普通の児童でないだけ、何とも知れない物すごさを感じました。
天主台の上に出て、石垣の端から下をのぞいて行くうちに北の最も高い角の真下に六蔵の死骸が墜ちているのを発見しました。
怪談でも話すようですが実際私は六蔵の帰りの余り遅いと知ってからは、どうもこの高い石垣の上から六蔵の墜落して死んだように感じたのであります。
余り空想だと笑われるかも知れませんが、白状しますと、六蔵は鳥のように空を翔け廻る積もりで石垣の角から身を躍らしたものと、私には思われるのです。木の枝から枝に来て、六蔵の眼のまえで、枝から枝へと自在に飛んでみせたら、六蔵はきっと、自分もその技に飛びつこうとしたに相違ありません。
死骸を葬った翌々日、私は独り天主台に登りました。そして六蔵のことを思うと、いろいろと人生不思議の思いに堪えなかったのです、人類と他の動物との相違。人類と自然との関係。生命と死。などいう問題が年若い私の心に深い深い哀しみを起しました。
英国の有名な詩人ワーズワスの詩に『童なりけり』というのがあります。それは一人の児童が夕毎(ゆうべごと)に淋しい湖水の畔に立って、両手の指を組み合わして、梟の啼くまねをすると、湖水の向こうの山の梟がこれをこれに返事をする、これをその童は楽しみにしていましたが遂に死にまして、静かな墓に葬られ、その霊は自然の懐に返ったという意を詠じたものであります。
私はこの詩が嗜(す)きで常に読んでいましたが、六蔵の死を見て、その生涯を思うて、その白痴を思う時は、この詩よりも六蔵のことは更に意味あるように私は感じました。
石垣の上に立って見ていると、春の鳥は自在に飛んでいます。その一つは六蔵ではありますまいか。よし六蔵でないにせよ、六蔵はその鳥とどれだけ異(ちが)っていましたろう。
憐れな母親はその児の死をかえって、児のために幸福だといいながらも泣いていました。
或日のことでした。私は六蔵の新しい墓にお詣りする積もりで城山の北にある墓地にゆきますと、母親が先きに来ていて、しきりと墓の周囲をぐるぐる廻りながら、何か独語を言っている様子です。私の近づくのを少しも知らないと見えて
「何だってお前は鳥の真似なんぞした、え、何だって石垣から飛んだの?・・・
だって先生がそう言ったよ、六さんは空を飛ぶつもりで天主台の上から飛んだのだって。いくら白痴でも鳥の真似をする人がありますかね」と言って少し考えて「けれどもね、お前は死んだほうがいいよ。死んだ方が幸福だよ・・・」
私に気がつくや、
「ね、先生。六は死んだほうが幸福でございますよ」と言って涙をハラハラとこぼしました。
「そういうことも有りませんが、何しろ不慮の災難だからあきらめるよりいたしかたありませんよ。・・・・」
「けれど何故鳥の真似なんぞしたのでございましょう」
「それは私の想像ですよ。六さんがきっと鳥の真似をして死んだのだか解るものじゃありません」
「だって先生はそう言ったじゃありませぬか」と母親は眼をすえて私の顔を見ました。「六さんは大変鳥がすきであったから、そうかもしれないと私がおもっただけですよ」
「ハイ、六蔵は鳥が嗜好でしたよ。鳥を見ると自分の両手をこう広げて、こうして」と母親は鳥の博翼(はばたき)の真似をして「こうして、そこらを飛び歩きましたよ。ハイ、そうして鳥の啼く真似が上手でした」と眼の色を変えて話す様子を見ていて私は思わず眼をふさぎました。
城山の森から一羽の烏が翼(はね)をゆるやかに、二声三声鳴きながら飛んで、浜の方へゆくや、白痴の親は急に話を止めて、茫然と我をも忘れて見送っていました。
この一羽の烏を六蔵の母親が何と見たでしょう。

国木田独歩(1871-1908)は本名哲夫、1871年、明治4年7月15日、千葉銚子に生まれた。父親は播州龍野藩士国木田専八。専八は函館五稜郭に立て籠もった榎本武揚を征服する軍に赴き海路で北海道にむかう途中、1868年、慶応4年9月6日、銚子沖で難破し、港に救い上げられ当地に滞在していた。この時、廻槽店の娘まん子と恋い仲になり、独歩を出産。その後、独歩は母とともに東京下谷で暮らし、明治廿年、東京専門学校英語専修科入学。政治科を卒業し、その後、教師をやりながら、執筆活動をおこなっていた。
1908年、明治41年6月23日、36歳で結核のため死亡。佐々城信子と強奪結婚し、半年という短い恋愛期間があったことや『武蔵野』など、多くの短編で有名である。とくに、その信子のことを書いた『欺(あざむ)かざるの記』は前後編で、初版本は、いま、28,000円はする。
『春の鳥』は晩年32歳の明治37年3月15日に博文館の『女學世界』第4巻第4号に掲載発行されたが、反響は当時なく、後に評価されるようになった作品である。
明治文学で好む作家として夏目漱石と国木田独歩を挙げる人が多いが、文芸評論家の巌谷大四(童話作家;小波の四男)も独歩の作品に感動し、中島健蔵氏に独歩っていいですねと言ったら、当たり前だ、今頃何をいうかと怒鳴(どや)されている。とくに『春の鳥』に感銘をうけたと、昭和39年9月の国木田独歩全集第六巻月報(学習研究社)で述べている。
シラケるかもしれないが、実は、六蔵の死は独歩のフィクションで、モデルになった六蔵くん、山中泰雄氏は昭和23年まで生きておられた。おそらく、文中に出てくるワーズワース(William Wordsworth;1770-1850)の「童なりけり」を読んで考えついた小説と思われる。春の鳥、六蔵、鳥、母、白痴、すべて創作であってノンフィクションではないので、非現実的な箇所がみられる。
たとえば、六蔵がいとも簡単に蔦葛をよじ登ってくるが、よくこれが切れなかったなとか、六蔵の死が不慮の事故として、警察の取り調べを受けなかったのかなど、ふっと現実におこっているかのように錯覚してしまう場面があり、明治の時代での、このような不慮の事故の事件性はどうなっていたのだろうと疑問視される読者もおられるかもしれないが、フィクションです。
同時代的にはロシア文学としてドストエフスキーの『白痴』(1868年明治元年)がある。これが翻訳され本邦に紹介されたのは、おそらく大正3年(米川正夫訳;新潮社)であろう。日本人は松本健一氏によると、トルストイよりはるかに好きな人が多い(『ドストエフスキイと日本人』朝日選書、1975年)。ペルジャーエフはいった。「ドストエフスキーを入念に読むことは、人生の一事件であって、精神はそこから火の洗礼を受ける」と。
スイスの保養地からペテルブルグに帰ってきた、ムイシュキン公爵は、自分が一時白痴同然の状態にあったが回復し戻ってきたのだと告白すると白痴のニックネームをつけられる。真摯な公爵は周りの思惑に翻弄されてしまう。ムイシュキン公爵こそ、純粋無垢な美しい人間であるがため、苦悩し、白痴に戻りたくなる。白痴からみた人間世界を描いているが、後に世界中の多くの人間が無意識のうちにもドフトエフスキーの観念に入り込まされるように実に長編ではあるが、緻密な計算の上で人間社会を描きだしている。小林秀雄が『「白痴」について』を昭和39年に角川書店から創作評論をおこなった。
本邦で、『春の鳥』以降、白痴について書かれた文芸作品は数多いのかも知れないが、私の知っている範囲では『銀の匙』で、中勘助が心情的に共感を覚える小学校の同級生として「ほとんど白痴の子」蟹本くんが登場してくる。
さらに、昭和に入ってからの人口の膾炙(かいしゃ)にあがるのは坂口安吾(さかぐちあんご)の『白痴』であろう。坂口の『白痴』は戦中仮想の話しで、伊澤という男の眼をとうして、隣に住む白痴の夫婦の生活を、性生活も含め、描きつつ、人間の本質に迫ろうとする、こちらも中短編小説である。
白痴ではないが、五男の脳障害での短い人生を描写した壇一雄の『火宅の人』がある。第一章微笑の冒頭は、有名な、「第三のコース、桂次郎君。あ、飛び込みました、飛び込みました」から始まり、寝たきりの日本脳炎後遺症の次郎君の父親一雄の励ます様子と彼の容態が、文筆家の手で詳しく詳細に正確に記載されている。
『火宅の人』は、昭和36年『新潮』に公表され、昭和50年に完結した、私小説風の作品である。火宅とは佛教用語で「迷いの世界」のことです。
以降、世界的にイギリス、アメリカで1980年より、日本では平成の時代に入ってハンディキャップ、知的障害の教育などディスアビリティ、障害学としての学術書も含め多くの書籍が刊行されている。とくに乙武氏の五体不満足や大江光君のように大きくマスコミに取り上げられるケースが多くなり、いまやバリアフリーやLDなどのことばが頻回に使われるようになったし、介護保険が出来、屡々、高齢者のハンディキャップが検討されるようになった。
しかし、生まれつきの白痴の子供や、ウィルス性脳炎の後遺症、自閉症など精神薄弱児をかかえた家族は毎日苦闘の暮らしであったろうと察っせられるが、日本社会は見て見ぬふりをしてきた。可愛そうにと口ではいうが裏では、みっともないという軽蔑の意識でみており、専門家に任せておけばいいやという投げやりな態度の人が多い。
人間は厄介な動物で、観念では解っているが、実際に経験してみないと実態を理解できない生物なのである。
平成の時代では、国木田独歩の作品はすでに版権切れで、ネットの青空文庫で公開されているが、【本作品には、身体的・精神的資質、職業、地域、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました】、という但し書きが追記されている。
放送禁止用語に、川向こう、片手墜ち、きじるし、きちがい、河原乞食、チビ、きちがいに刃物、非人、ブス、白痴、百姓、カッペ、業病、どめくら、せむし、らが挙げられているが、これらは言い換えて、たとえば、百姓は農民、めくらは目の不自由な人、と表現することになっている。口は災いのもととはよく言ったものだ。
5年ほど前に、市民むけの医師会の公開講座で"痴呆を語る会"が立ち上げられたが、この会の名称の表現が不適当であることを再三再四、指摘してきた。この時は痴呆は差別用語ではないとの説明であったが、痴呆という用語が不適当といっているのではなく、語る会の方を不適当といっているのである。この会の主催側が痴呆について人に語れるほど偉いのだぞ、といわんばかりの会名であることがおかしいと指摘してきたのである。どうも納得していただけなかった。しかし、平成16年になって国の方から訂正している時代になっている。
2004年8月26日日本精神神経学会(横浜)で、精神分裂症の呼称が統合失調症に変更された。精神異常者の人権をまもるための処置とされている。
何のために呼称をかえるのか。精神異常者自身はその意味は当然理解できない。本人よりむしろ周りの人間、たとえば親が社会の冷たい目を気にするあまりの呼称変更ではなかったのか。これでは名称が変わっても精神異常者の社会的立場は何もかわらない。重要なことは社会が精神分裂症、総合失調症を正しく理解することである。
医師会や市役所からの公的文書通達の際にも極力注意をはらわなければならないが、現在、障害学、現場医学ではどのような取り扱いになっているのだろうか。これらについては後日検討を加えることとする。
医療では脳の病も各臓器の病も、その疾患を治療 cure し、看護、介助 care であって、患者さんは健康回復していく。care は医師の仕事ではないとして、看護、介護には絶対に手を出さない若い医師が増加している。
医療には分業は不適切である。医師が治療、看護、介護のすべてを包括指導していくのが、この業の策略戦略と考えている。
そういう私も、自閉症のこどもが外来にくると、こちらの方も不機嫌になってくる。これでは、いけないと思いつつ、周りの患者さんの矢のような待ちの目を気にして、早々に診察を切り上げてしまうことが屡々である。これではいけないのだ。
繰り返し申しますが、「燕雀いずくんぞ、鴻鵠の志をしらんや」。大志で物事を包括的に捉え、考え、策を練らなければならない。「胆を大に、心は細に、智は円に、行いは方に」である。
追記として、文中に六蔵に数の概念を教えるところがありますが、數のかぞえかたで、ひ、ふ、み、よ、いつ、む、な、や、こ、と、この讀み方を、近頃はほとんど聞かなくなったが、西山派西谷流の僧侶殊意癡の、享保十五年刊本、随筆「白河燕談」の中の「先代舊事本紀第四十一教経本紀中上宗徳得経」に、非、普、味、譽、彙、務、奈、夜、古、堵と書かれ、これらは皇孫降下の時、添へ下す十種の神寳の名であることが記載されているという。そして、これらは神代よりの和語で軽んずべかざるなり、といってあるとのことである。日本古書通信の69巻10号通巻903号16年10月15日号の小出昌洋さんの随読随記にでていた。
なお、百は茂(も)、千を知(ち)、萬を爐(ろ)、億を羅(ら)、兆を年(ね)、京を紫(し)という。
言霊といわれる所以である。国語教育、数、時間など概念を教育することは難しいが、現代地球人には絶対的必要教育項目で、経済力より教育がより重要とされる理由でもある。
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