2007年1月12日、金曜日、夕7時少し前に、緊急入院していた、我が家の飼い猫の「シッポ」の、急死の知らせを受けて、動物病院にかけつけた。遺体を引き取り、次日、家内は、殆ど寝ずに、更年期障害のため、息をきらせながら、一人で葬儀をおえた。

 もともと、奇形のためか、シッポが短く、目は左が見えないうえ、ヒルシュプルング病のため、強烈な慢性便秘と、血尿のため、ラクツロースの内服継続には気をつかっていたのだが、今回はどうしても排便がないため入院させていたのである。

 太りすぎで、犬のように赤ちゃん座りしたり、人懐っこく、呼ぶと、喉をゴロゴロとならし傍にすわりこんだり、喋りながら歩き回るため、入院している病院のスタッフの人たちにも可愛がられていたようで、本人は満足の人生だったように思う。
 しかし、残された家内は、毎日の看病が突然終了して、ポカンと穴の開いた生活に、毎日涙しているし、ほかの猫たちも、ショックのようで、食欲は激減し、ほとんど動かなくなってしまった。シッポを失った哀しみは涙とともに流しきれない、寂しい年明けとなってしまった。

 さて、現在、平成の時代でも暦は、西暦のみでなく、年末になると、書店に来年の手帳やらカレンダーとともに、神宮館の高島暦に代表されるような旧暦の暦の冊子が店頭にならぶ。若い人でも、運勢、星座占いに興味をもち、毎日のように、テレビの朝のニュースの最期に、今日の星占いを発表している。

 毎日の新聞でも、第1面には掲載されてはいないが、読売新聞では地方版の天気のコーナーに、「あすの暦」として、旧暦の日付と六曜、月の盈ち虧け、月齢、日の出、日の入りの時刻、月の出、月の入の時刻、満潮、干潮の時刻が掲載されている。
 ほとんどの人は目通ししないが、体調の優れない人、病人、特に自律神経失調症、不眠症、めまい、うつ病のひとは、必ず旧暦をたしかめておいたほうが、体調管理に好都合である。

 また、江戸の不定時法や、旧暦を生活にとり入れることを推挙する人も増えていて、高月美樹さんがまとめられた、上品で、使いやすく、ためになる、『旧暦日々是好日』という冊子は、京都では飛ぶように売れているという。

 さて、太陽暦に改暦されたのは1873年、明治6年で、すでに133年が経過しているが、このときの新暦への改暦について、小冊子が発刊されていたので、これをしめす。
 そして、時計と関連して、堀田時計店の紹介と、版画家川上澄生を紹介する。

 まず、その冊子とは『改暦弁』という、福澤諭吉が大慌てで記載した、新暦、太陽暦をよろこんで迎え入れるための説明書で、慶應義塾蔵版である。

 その表紙はつぎの如くである。

明治六年一月一日発行
壬申・十一月 官許
       福澤諭吉著
改暦辨
       慶應義塾蔵版

改暦弁表紙

   

改暦弁扉

   

 此度、大陰暦を止(やめ)て、大陽暦と為し、明治5年12月3日を明治6年1月1日と定めたるは、1年、俄(にわか)に、27日の相違にて、世間に、これを怪む者も多からんと思ひ、西洋の書を調べて、彼の国に行えるる大陽暦と、古来支那、日本等に用る大陰暦との相違を示すこと左の如し。

 大陽とは日輪のことなり。大陰とは月のことなり。暦とは、こよミのことなり。故に大陽暦とは日輪を本として立たる「こよミ」、大陰暦とは月を本として立たる「こよミ」と、云ふ義なり。

 抑も、此世界は、地球と唱へ、円(まろ)きものにて、自分は舞ひながら日輪の周囲を廻ること、これを譬へば、独楽の舞ひながら、丸行燈の周囲を廻るが如し。
 独楽の自分に一度まわるは、地球の自転といふものにて、行燈の方に向たる半面は昼となり、裏の半面は夜となり、この一転を一昼夜とするなり。

 斯く、独楽の舞ひながら行燈の周囲を廻るは、即ち、地球の公転と云ふものにて、行燈を一廻によりて、本の場所へ帰る間に春夏秋冬の時候を変じ、1年を為すなり。

 そもそも、日輪の周囲を地球の廻る道は6億の里数なり。この6億里の道程を365日と6時、実は5時48分ミニウト48セカンドなれども、さきの6時とするなり。

 6時の間に一廻りして、本の処に帰るなり。即ち地球の自転にて云へば365度と4半分転る間に、六億里の道をはしることなり。

 大陽は、この勘定を本にして日輪の周囲を地球の一廻する間、丁度、365日ならば、千年も万年も同じ暦にて差し支えなき筈なれども、65日の上端に6時というものありて、毎年6時づつ、後(おく)れ、4年目には四六、二十四時、即ち1日の後となる。由へ、4年目には一日増して、その間に。地球を走らしめ丁度本の処に行付を待つなり。即、是、閏年なり、

 右の如く、大陽暦は日輪と地球とを照らし合わせて、其互いに釣り合ふ処を以て、一年の日数を定めたるものゆえ、春夏秋冬、寒暖の差、毎年異なることなく、何月何日といへば、丁度、去年の其日と同じ時候にて、種を蒔くにも、稲を刈るにも、悉く暦を出して節を見るに及ばず、去年の彼岸が3月の21日なれば、今年の彼岸も丁度その日なり。且つ、毎年の日数同様なるゆ由え、一年と定めて、約条したる事は、丁度一年の日数にて、閏月の為に一箇月の損徳なることなし。其の外の便利は、一々、計(かぞ)へ挙げるに及ばざることなり。

 この後は、所謂、晦日に月をみることあるべし。数を知らざる無学の人には一時目を驚かすの不便あらん。ああ、文盲人の不便は気の毒ながら、顧みるに暇いらず、其、便、不便は、暫く閤(さしお)き、兎に角に、日輪は本なり。
 月は付きものなり。付きものを当てにせずして、本に由て、暦を立つるは事柄に於いて、正しき道をいふべし。

 大陰暦は、月を目当にして定たる暦の法なり。月は、此地球の周囲を廻るものにて、其実は27日と8時にて一廻りすれども、日と地球と月との釣り合いにて、丁度、一廻りして、本の処に帰るには29日と13時なり。
 大陰暦は毎月15日の夜に円き月を見る趣向なれども、右の29日と13時を十二、合わせて、十二箇月としては、365日に足らず。即ち、月は既に、12度(回)地球の周囲を廻りたれども、地球は、いまだ日輪の周囲を一回せざるなり。
 この差、おおよそ、2年半余にして、一月計(ばかり)なるゆえ、其時に至り、閏月をおき十三ヶ月を1年となし、地球の進んで、本の処に行附を待つなり。

 又、これを譬へば、あらまし、365文、払ふべき借金を、毎月29文5分づつの済口(すみくち)にて、12箇月払へば、1年に大凡11文づつの不足なり。11文づつ2年半余りも滞らば、大抵30文計(ばか)りの引負となるべし。
 閏月は、即ち、この30文の引負を1月にまとめて払ふことと知るべし。

 右の次第にて、大陰暦は春夏秋冬の節に拘わらず、1年の日数を定めるものなれば、去年の何月何日と今年の其日とは唯唱へのみ同様なれども、四季の節は必ず相違せり。故に、入梅、土用、彼岸などして、農業の節は、一々、暦を見ざれば叶なわぬこととなれり。

 旦又、これまでの暦には、つまらぬ吉凶を記し、黒日の白日の、とて、訳もわからぬ日柄を定めたれば、世間に暦の廣く弘まるなど、迷いの種を多く増し、或は婚礼の日限を延ばし、或いは轉宅の時を縮め、或いは旅立ちの日に後れて河止に逢ふもあり。或は暑中に祭礼の日を延ばして、死人の腐敗なるものあり。

 一年と定めたる奉公人の給金は、十二箇月の間にも十両、十三箇月の間にも十両なれば、一箇月は、ただ奉公するか、ただ給金を払うか、何れにも一方の損なり。
 その外の、不都合、計(かぞふ)るに遑(いとま)あらず。是、皆、大陰暦の正しからざる処なり。

 右の次第にて、この度、大陰暦を改めて大陽暦と為し、俄(にわか)に27日の差を起こしたれども、少しも怪むに足らず。事実の損にもならず徳にも成らず。
 千萬歳の後に至るまで、世の便利を増したるより、都(すべ)て、人たる者は常に物事に心を留め、世に新しき事の起こるあらば、何故ありて、かかる事の出来しやと、よく其本を詮索せざるべからず。其本の由縁をさへ弁(わきまえ)れば、如何なる新奇なる事にても怪しむに足るものなし。

 この度の改暦にても、其訳を知らずして、12月の3日が正月の元旦になると計(ばか)りいふて、夢中にこれを聞き、夢中にこれを伝へなば、実に、驚くべき事なれども、平生より、人の読むべき書物を読み、物事の道理を弁じて、よく、その本を尋ぬれば、少しも不思議なる事にあらず。
 故に、日本国中の人民、この改暦を怪しむ人は、必ず、無学文盲の馬鹿者なり。これを怪しまざる者は、必ず、平生、学問の心懸けなる知者なり。
 されば、この度の一条は、日本国中の知者と馬鹿者とを区別する吟味の問題というも可なり。

 西洋にては、一七日(ひとなのか)を、一ウヰキと名づけ、世間日用の事、大抵、一ウヰキにて勘定せり。譬へば、日雇賃にても借家賃にても、其の外物の貸し借り約束の日限、皆、何れも、一ウヰキに付、何程とて、一七日毎(ひとなぬかごと)に切を付ること。我邦にて毎月、晦日を限にするが如し。其の一七日の唱左の如し。

ソンデイ      日曜日
マンデイ      月曜日
チュウスデイ    火曜日
エンスデイ     水曜日
サアスデイ     木曜日
フライデイ     金曜日
サタデイ      土曜日

 右の如く定て、ソンデイは休日にて商売も勤めも、何事も休息すること、むかしの、我邦の元旦の如し。

 1年は12に分ち、十二箇月とす。その名と日の数左の如し。

 月の名            日の数
ジャニユエリ    1月     31日
ヘブリユエリ    2月     28日
マアチ       3月     31日
エプリル      4月     30日
メイ        5月     31日
ジュン       6月     30日
ジュライ      7月     31日
アウグスト     8月     31日
セプテンバ     9月     30日
ヲクトヲバ     10月    31日
ノベンバ      11月    30日
ヂセンバ      12月    31日

 右のごとく、3月4月5月を春とし、6月7月8月を夏とし、9月10月11月を秋とし、12月1月2月を冬とするなり。

 西洋にては、一昼夜を24時に分つなり。彼の一時は日本の旧半時なり、其半時を60に分けて、これを1分時(ミニウト)といふ。
 亦、この一分時を60に分て1「セカンド」と云ふ。1「セカンド」は大抵、脈の一動に同じ。

 さて、時計の盤面を十二分に分ち、短針は一昼夜に二度づつ廻り、長針は二十四度づつ廻る(24回まわる)仕掛けにより、先づ、正午又は夜半十二時を本とし、この時には、短針も長針も正しく重り合て、十二時の所を指し、これより段々と右の方へ廻り、短針の1時を指したときは、長針は、盤面を一周して60分時を過ぎ、また十二時の所に戻り、これよりまた、次第に進み、短針の一時と二時との間に来るときは、長針も盤面を半分廻りて、三十分時を過ぎ、丁度6時の所に来れり。

 故に時計を見て、時を知るには、先づ、短計の指す所を見て、次ぎに長針の居所を見るべし。譬えば、短針の指す所、9時と10時との間にして、長針の指すところ、2時の所なれば、9時過ぎ10分時なりと云ふことなり。

 又、此、短針、9時と10時との間を半過ぎて10時の方に近寄り長針もすすんで、8時のところに来ておれば、これを10時前20分時と云ふ。

 即ち、その20分時とは、長針の12時のところに至る迄、20分時あるといふことにて、何れも長針は12時を本にし、盤面にある60の点を計へて、何時何分時と云ふことを知るべし。左に示す時計の図は9時過ぎ23分時の処なり。

 西暦については、以前にも記したが、オランダ正月といって、寛政年間に大槻玄沢が太陽暦の存在をしり、芝蘭堂で、新元会と称して、旧暦の年内に西暦の正月を祝う会を催していた。早稲田大学図書館所蔵の芝蘭堂新元会図は1795年、寛政6年閏11月11日に、28名と多くの蘭学者、蘭学愛好家が一堂にあつまり、オランダ人1名は椅子に座り、日本人側が大机に料理、酒を用意し、座談会を開いている図である。天保8年まで、44回開催された。

 改暦は、明治5年11月9日に急に発布されて、僅かに25日さきの明治5年は12月2日をもって旧暦は廃止し、次の日を、明治6年1月1日として、太陽暦に移行、改暦したのである。以前も、その後の130年の平成の時代までも、生活基盤を根底からひっくり返すような、これほど重要な、事柄を、約1ヶ月後に実施された法律は類がない。

 これに、当(まさ)に、動天した、民間人は、暦のことなどわからず、12月を27日分削除されると勘違いし、大騒ぎになった。これをうけて、福沢諭吉は、改暦について、心配ないことを、月、日、地球の天文学をわかりやすく説きながら、同時に、時刻時のみかた、教育のありかたの大切さをのべている。しかし、実際には12月の給料は支給されなかったのである。

 当時、日本国民の70%は文盲であり、馬鹿扱いされながらも、必死に太陽暦を理解しようとしている国民の姿が目に浮かぶ。そして、諭吉が相当、西洋かぶれしていたことも解る。というのは日本の太陰暦の旧暦には悪弊のみで、すこしも長所がないことを仄めかしているからである。

 しかし、この『改暦弁』は当時400万部は売れたというが、現在入手困難な資料である。
 この原本を手に入れたのは、『日本の古本屋』からで、全国のネット古書店には三点しか残っていなかった。非常に貴重とおもわれ、また、ネット検索でも、内容は公開されていないし、僅か21頁に満たない小冊子であるので、ここに、全文をしめすこととしたのである。

 先ず、気になるのは、太陰暦を大陰暦と記していることである。当時は太陽も大陽と記載していたのである。

 1999年に発行された、暦の会の『暦の百科事典』によると、太陽年は365.2422日で、365日5時48分46.08秒としている。2007年の天文年鑑による365日5時48分45.211秒である。
 朔望月、即ち、新月から次ぎの新月までは、29.530589日で、29日12時44分2.8896秒である。2007年天文年鑑では29日12時44分02.878秒である。諭吉は太陽年を2秒多く報告している。地球の自転、公転は、わずかに変動している。

 改暦弁を一読して、問題点を発見した。発見とは大袈裟ではあるが、七曜のところである。
 一七日というのは、いまでいう、一週間のことであるが、福沢は「週」という言葉は何処にも使用していない。明治6年には「週」という漢字すら存在していなかったのである。それまでは「周」という字を使用していたのである。

 旧暦の伊勢神宮から出版されていた、天保15年の暦をしめす。これには今の高島暦とほぼ同様の記載内容で、これにも週という文字はでてこない。

 それでは、いつごろから一週間という概念が、国民に弘がり、根付いたのか。
 それは、カレンダーの形態に、その秘密が隠されている。

 改暦後、明治33年ごろから、カレンダーは大阪から、「日めくり」が登場するが、これも発売開始になり大好評で2800万個売れたという。

 しかし、日めくりカレンダーでは週という単位は見えてこない。これが、現在使用している、月毎の壁掛けカレンダーや卓上カレンダーになったのは、終戦後の昭和24年からで、一週、第三週などということばで、週単位ごとに予定を計画するようになってきたのは終戦後のことである。

 この理由を還り見てみると、明治6年の改暦以降、旧暦の暦本の制作、販売は大打撃をうけた。旧暦がつかえなくなって、伊勢の略本暦のみが内務省からの許可をえて販売していたが、高島は九星の運勢暦を、この冊子に差し込んで販売した。
 これに全国の八卦見、易者は猛反発し、高島のみが運勢を判定しているわけではないとして、日本各地で、各易者の運勢暦を差し込んでの伊勢略本暦を販売した。これが、『おばけ暦』である。

 この『おばけ暦』の販売が、約30年間続き、ついに、日付と暦を合体させた日めくりカレンダーが考案され、明治33年から販売された。
 大阪の引札業者(パンフレット制作)の古島、中井などが運勢、暦入りの日めくりカレンダーを作製しはじめ、そして、あたかも規制がかけられているかのように、新たなカレンダーは違憲、違勅とまで、風潮し続け、日めくりカレンダーの販売を独占していたのである。
 したがって、終戦後になって、やっと日付けのみの現在のカレンダーが出現し、「週」単位で、生活する、週を意識、諭吉のいう一七日、ウヰキの意識が日本国民にめばえたのである。じつに諭吉の改暦弁から76年後のことである。

 時刻については、いままで、およそ二時間を一刻としていたので、秒は生活上不要の単位で、当時の日本人には秒を理解している人は極少数であった。
 これに、諭吉は、言い当てて妙の説明をしている。一秒とは、「大抵、脈の動に同じ」と。医学関係者は感激する程、理解しやすく、上手い表現だ。
 そして、当時の置き時計や、壁懸けのボンボン時計にしても、秒針はなかったのである。明治6年以降に、秒針附きの機械時計が製造された。

 山口隆二氏の『日本の時計』にのっているのだが、時計に秒針がつけられた最初は、1715年のイギリスのグレアムが直進型錨形脱進機を発明したときで、より精度をたかめるために秒針がつけられた。日本の時計としては、改暦の明治6年に制作された洋式文字板の枕時計に、秒針がつけられてたのが最初であろう。

 日本の時計の制作は名古屋で産業化された。それは、天保年間に尾張の徳川家の注文で、津田助左衛門が西洋時計を参考に、和時計をつくり、この修理にあたっていたことから、名古屋が中心であった。

 時計店の開業の最初も名古屋で、銀座ではない。明治27年創業の銀座服部時計店が有名であるが、この服部も名古屋の出身で、明治25年に東京に工場をもち、ボンボン時計を制作しはじめたのである。
 したがって、時計店は1879年、明治12年に堀田良助が時計卸小売商を名古屋鉄砲町に時計台をもった商店を建築し開業したのが最初で、良助が3代続き、4代目良平は終戦後復員して昭和24年に東京上野に支店を出し、名古屋から引っ越しし、堀田良平商店を発足した。

 この名古屋の堀田時計店本店には時計塔がついていて、これを版画家の金守世士夫が描いて、ポスターとしてのこしている。堀田時計店は、2005年、平成17年に、銀座花椿通りに開業し、超モダンな玄関をはいって、すぐ左手に、この版画がポスター化されて、堂々と壁に掛けられている。
 しかし、版画で、古時計というと、これは川上澄生である。彼の時計を題材にした版画は、とくに堀田版といわれ、数も多く、川上版画の中でも貴重なものである。

 わたしは明治の時計台つきの堀田店の版画は川上澄生の制作と堅く信じている。その作風は金守より堂々としており、色合いも南蛮船に近い。そして、制作者の金守は川上の高弟子である。

 川上澄生(すみお;1885-1972;本名は澄雄)は、明治28年に横浜に生まれ、青山学院高等部に入学。木口木版の創始者合田清の長男の弘一と同級で、彼の家に遊びに行き、このときから、即ち、17歳、明治45年あたりから独学で、版画作成をはじめた。在学中にコーラスグループ、パストラール・ソサィティを結成し、セカンドテナーで歌っていた。

 卒業後、貧困のため、カナダの鮭缶詰工場ではたらき、大正10年に宇都宮高校の英語教師となり、教鞭の合間に、版画制作をはじめ、大正15年の2月の国画会の木版画に出展する。この時に出品したのが、あのグリーンに色付けされた、「初夏の風」で、傘とともに風にふきあげられた彼女はボッティチェリのヴィーナスの誕生と相通じるといわれている。

 昭和13年、44歳の川上は北海道の33歳の小坂千代さんと結婚し、一男二女を授かり、大戦中は北海道苫小牧に疎開し、昭和24年に宇都宮女子高に復帰。昭和33年に英語教師を退職し、63歳でプロの版画家になる。
 その娘さんが書いた絵を版画にした猫・倣我娘之筆意が昭和37年に作成されている。
 版元の志茂太郎の要請で、アラスカの風景を昭和41年に制作した。この中でもピンクの空の三色の虹が、そそり立ち、やや右に曲がるところは迫力があり、静寂の中に暖かみのある美事な版画に仕上がっている。

 2年まえに妻を亡くした澄生も、心筋梗塞のため、昭和47年に77歳で死去。膨大な版画をのこしているが、絶筆は「婦人と蛮船図」で、テーマは明治・大正のロマンで、南蛮船、ランプ、時計など、身近な素材を版画にのこしている。1992年、平成4年に鹿沼市の黒川の畔に立派な市立美術館が設立された。

 1979年、昭和54年に中央公論社から出版された『川上澄生全集』の月報4、に金守世士夫氏は、自分は永瀬義郎の「版画を作る人へ」を熟読し、川上澄生、平塚運一、川西英、恩地孝四郎に憧れたことに触れている。

 金守世士夫氏が川上澄生に出会った経緯は、昭和21年の春、復員してきて、富山の福光町に疎開していた棟方志功を尋ね、その後、同人誌の制作に携わっていたときである。
 其の昭和25年10月の同人誌「日本板畫」創刊号に棟方志功が、この「初夏の風」をみての感想文を提出している。それを、ここに、紹介しておく。
 棟方志功は「初夏の風」を、はつなつのかぜ、とよんでいた。これは版画にはすべて平假名で下の詩が両脇にかかれていたからである。ローマ字バージョンの初夏もある。

 日本板畫の美しさを、わたくしは初めて知らしてくれたのは、この「初夏の風」でした。川上澄生様が、國畫創作協会に創立と同時に会友として、同会に席を置き、この板畫を発表されたのです。
 慥(たし)か、その第二回展覧会だったと思ひました。その時「初夏の風」はこの集にあるものではありませんでした。

初夏の  初夏の風となりたや
初夏の風となりたや
彼の女の前にはだかり
彼の女の後より吹く
初夏の  初夏の
風となりたや

 そういう作者自身が歌った詩が板畫の重要な要素となって彫られて摺られてありました。背景を草色、彼の女を桃色、淡墨の三色に、墨の四色で摺られ丸刀を主にして、網目に交叉した刀使いの魔術は、美事なものでした。
 わたくしは、板畫といふ絶対な世界に入ってたのも、この「初夏の風」板畫を知ったからです。わたくしは、その頃展覧会に出品した陳列品は売品にならないものだと思ふていました。
 その神様の様な板畫を今も、わたくしは探しています。川上澄生様に日本板畫同人としてお願いしてゆるされ、この板木を直接、わたくしが摺りました。冥利という佛言がありますが、本當にその言葉に尽きる有り難さです。
                 5月5日瑠璃光書斎に記す

 こころで、心眼で、一心に彫り込む仏師のような、棟方志功が、あの新風を国畫会に吹き込んだ川上澄生の処女作「初夏の風」に惚れ込み、この道をえらんだこと、川上を神様のように尊敬していたこと、そして、棟方志功が、「初夏の風」を摺りあげていたとは、驚きの事実である。

 そして、この二人を国画会の工芸会員に推奨したのは、あの柳宗悦である。そして、我孫子の柳を訪れ、柳の妻、着物姿で日本のこころを歌う柳兼子さんの作る洒落たカレーライスを川上の画風にたとえている。
 バターでいためた肉とジャガイモに玉葱をまぜて、ごはんにかけたカレー、それにラッキョと福神漬けを添えた和洋折衷の味、このハイカラな味は川上澄生の版画そのものだと金守世士夫氏はおもった。

 1年前の平成17年に千葉市立美術館で、鈴木春信の浮世絵展がひらかれていたが、この最後の展示コーナーに、5センチ角ほどのキリスト物語の版画を見たとき、私は一瞬ドキッとし、額にジワリと汗をかき、鼓動が高鳴なった。
 燃えるような赤と、踊るような線は、棟方志功に間違いない。すでに、憧れの川上の世界を自分の世界にひきこんで完成させていたことをみて、驚いたのである。棟方志功の昭和20年の作品であった。

 わたしは、素人の川上の版画で、善く、この日本の戦後にして、はじめて、江戸浮世絵の版画芸術を超えたとみている。
 ランプ、時計、花瓶などの静物のとらえかた、イソップ物語の版画化、トランプ、新村出の「雪のさんたまりや」と同様の六月に雪をふらせた話の内容の木版本、井伏鱒二の集金列車、永井龍男の石版東京図絵の装幀など、一度目にすると、目の奥底に、はっきりと焼き付くような版画は、カレーライスのようなハイカラさ、のみでは、語り尽くせない魅力がある。

 週刊新潮で、お馴染みの、谷内六郎さん(1921-1981)は、川上版画本をほとんど集め、19歳のとき、上野での国画会で原図をみて、感動のあまり、この世界に入ったことを告白している。
 美智子妃殿下は昭和4年作の「星空に乾杯」がお気に入りで、ノーベル賞の利根川進氏も川上版画に魅せられた人で、氏は、今、版画制作に没頭しているとも聞くが、誤報だろうか。

 ところで、私の愛用しているカレンダーは2組ある。ひとつは毎年、凸版印刷からだされる、日本画家のシリーズで、平成18年は、山口蓬春。もう一つは川上澄生美術館、下野新聞社から発行の川上澄生の版画集からとったカレンダーである。12月になると、鹿沼川上澄生の美術館まで、出かけて、購入してくるのである。

 そして、月齢つきの腕時計を使用しているが、是非、携帯電話の日付にも、旧暦の日付と月齢を入れて欲しい。諭吉がなんといおうと、日本人はやっぱり、ルナ、月、太陰暦ですよ。

1) 高月美樹、『旧暦日々是好日』、平成17年、LUNAWORKS、2006年
2) 福沢諭吉、『改暦弁』、明治6年、慶応義塾蔵版、1873年
3) 内田正男、『暦のはなし十二ヶ月』、平成3年、雄山閣、1991年
4) 金守世士夫、『川上澄生全集』月報4、昭和54年、中央公論社、1979年
5) 暦の会、『暦の百科事典』、平成11年、本の友社、1999年
6) 縣秀彦、『天文年鑑2007年版』、平成18年、誠文堂新光社、2006年
7) 山口隆二、『日本の時計』、昭和17年、日本評論社、1933年

   

▲トップへ