聖徳太子(574-622)は、用明天皇、穴穂部間人皇女とのあいだに生まれた第2皇子で、名を、厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)といい、諡名を聖徳太子という。
 太子は、上古氏族の敗頽を極めた時に降誕され、憲法を制し、閥族の跋巵(ばっこ)を退け、邦家の沈淪(ちんりん)を救われ、外には隣強と交わり、和國を光輝された希有なる人でありました。

 親鸞が和國の教主として讃仰し、我が國の文化の開拓者、芸術の始祖、佛法界、否、汎思想界の大恩人であり、本邦の唯一の聖人である。徳川時代の水戸義公(光圀)、頼山陽、本居宣長らの批判があったものの、その鴻恩、遺徳は計りしれない。

 『上宮聖徳太子伝補闕記』によると、ある夜、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の夢の中に金色の僧が現れ、吾に救世の願あり、願わくば皇女の腹に宿らんと口中より入る。僧は救世菩薩で、皇女は娠有るを知る、と記述されている。

『日本書紀』の廿二巻の推古天皇によると、穴穂部間人皇女が馬官(うまのつかさ)のまえで急に産気づかれて太子をお産みになったので、この名が付けられたと記載されている。妊娠期間は十二ヶ月に及んだという。

 生まれてすぐにことばをお話になり、十人の訴えを同時に聞き、それに適切な判別をくだされた。聰敏聖智で、3歳で、父天皇より桃花と松葉どちらを賞するかと問われ、松葉を賞すると。その故を、桃花は一旦の栄物、松葉は百年の貞木なり、故に松を賞すべしと答えられたという。

 20歳で女帝、推古天皇の摂政となり、23歳で高句麗の慧慈、覚狽ゥら佛教、儒教を学び、604年30歳で、冠位十二階制定、十七条憲法発布され、33歳で推古天皇に佛教の勝鬘経(しょうまんぎょう)、法華経、を御進講、御講経され、天皇は褒美に播磨のくにの水田百町と斑鳩寺をお与えになったと日本書紀に出ている。

秋七月、天皇請皇太子、令講勝鬘經。三日説竟之。
是歳、皇太子亦講法華經於岡本宮。天皇大喜之、
播磨國水田百町施于皇太子。因以納于斑鳩寺。

 聖徳太子の政務は頭緒多岐にわたるが、おもに軍事面で新羅征討計画、外交では遣隋使派遣、内政改革として冠位十二階制定、十七条憲法発布、仏教普及と学問として三経義疏作成(勝鬘経、法華経、維摩経のまとめ;ぎしょ、ぎそ)、七寺(四天王寺、法隆寺、池後寺、橘寺、蜂丘寺、葛木寺、中宮寺)の建立と相当忙しく、日本政治の根本を整備されたのである。

 穴穂部間人皇女すなわち太子の母后は621年に崩ぜられ、太子もあとを追うように3ヶ月後の622年2月5日に49歳で薨去(こうきょ)された。太子の師、高句麗の慧慈は、その報を聞き、1年後の同日に死ぬことを願って、その願い通りに亡くなったという。
 そして、八面玲瓏たる富嶽の如き偉大な功績は、孰れの方面から眺めても晃耀たる光輝を認め、後世の人々は仰讃のあまり、様々な太子信仰をつくりあげている。
 おもなものとして、片岡山の奇蹟譚、慧思禅師後身説話、救世観音の化身説話、太子の未来記の存在、火星(なつぼし)飛来童子説 四天王の縁起、法隆寺持国天、増長天の七星剣などがある。

 七星剣は『星と東方美術』野尻抱影、恒星社、昭和46年、1971年に詳しいが、法隆寺仏像の時国天の右手にもっていた剣の表裏に、北斗七星、雲文、渦雲、二重輪の太陽の模様が刻まれている。中国の古来より、七星剣には北斗の神霊を宿し、国家鎮護・滅敵・破邪を現す剣とされている。そして、増長天の持っている剣は聖徳太子作と伝えられている。
 推古天皇自身は欽明天皇の皇女で、母は蘇我稲目の娘、堅塩媛である。この時代は氏族の蘇我が台頭し、娘を天皇家の嫁とし、自ら外戚となることで政治参入を狙った。

 推古天皇は皇年36年、628年に崩御された。よって、太子が薨去された後の6年間は皇太子不在であった。
 次代の天皇を蘇我偏りの田村皇子か、聖徳太子の第2子の山背大兄王(やましろのおおえ)か、もめたが、蘇我蝦夷(えみし)が、山背大兄王を擁立していた境部摩理勢を殺害することにより、田村が舒明天皇として即位した。629年のことである。推古天皇は崩御前に二人を呼び、周囲とよく相談の上、決定するように。軽弾みな行動は慎むことと忠言され、そして推古天皇は田村皇子が継承することを望まれたという。従って、蘇我の血をひく皇家が継代していくことになる。

 この舒明天皇と皇極の間の子が中大兄皇子で、後の天智天皇である。ここでも悲劇がおこる。蘇我蝦夷、入鹿は自らの身の確保のため、聖徳太子の血をひく者、山背大兄王を追いつめ、自決させるのである。

 これらの蘇我の専横に中大兄皇子が法興寺で蹴鞠に興じて脱げた靴を中臣鎌足が差し出す機縁で、彼とともに大化の改新(645)を施行し、みずからの親族である蘇我家を滅ぼし、治を匡すのである。この中臣鎌足の子孫が藤原氏である。
 日本の三大政変は大化の改新、鎌倉幕府の創立、明治維新をいう。
 上古の政治は族制政治といわれ、国の民は皇別・神別・蕃別にわけられた。皇別とは天照大神の直系、神別は高天原以来の神の後裔、蕃別は帰化人らの子孫をいう。これらの人々の混合が日本人というわけである。
 今年2005年は、太子の遠忌、薨去後1383年目である。インターネット、デジタル社会での個人情報保護法が施行された。現在の新法律をここで十七条憲法と比較してほしいので十七条憲法の全貌を紹介する。

 十七条憲法は日本最初の成文法であることには間違いないが、明治まで、唯一ではない。第51代平城天皇(774-828)が十五条憲法を下されている。
 まず、憲法なる熟語は『國語、晋語』の「賞善罰姦國之憲法也」、管子七法篇の「有一禮之治故能号令明憲法矣」からきている。これは三浦周行が『聖徳太子論纂』平楽寺書店、1921年大正10年のなかで述べている。

 十七という数字は家永三郎は陰陽からで、十は老陰数、七の少陽数からきているとし、岡田正之は管子五行篇からで、天道は九を以て制し、地理は八をもって制す、からきているとしている。

 いずれにしても、十七条憲法は三経義疏と同様に偽作、潤色の説はあるものの内容をみると、太子がつくられたと考えられる箇所、たとえば一条の和、二条の四生の終帰、十五条の上下和睦などがある。

 以後日本の法典に多大な影響を示している。足利尊氏の『建武式目』、江戸の『公家諸法度』は、ともに十七条である。

 原文は日本書紀(舎人親王;676-735:天武天皇の第3皇子:の編纂)の廿二巻の推古天皇にでているが、『日本書紀』は井上光貞監訳、中央公論社、昭和62年、1987年.によった。是自体は寛文判本を底本としている。
 訳述は『聖徳太子傳暦譯解』岡田諦賢、哲学書院、明治27年によった。現代語訳は『日本書紀』井上光貞監訳を参考にした。

第1条;和を以て貴しと為よ;国民は和が大切。平和で、諍いは禁止。議論重視。

  一曰、以和為貴、無忤為宗。人皆有黨。亦少達者。
     是以或不順君父、乍違于隣里。然上和下睦、
     諧於論事、則事理自通。何事不成。

一曰ク、和ヲ以テ貴シト為シ、忤(サカラ)フ無キヲ宗ト為(ナ)ス。人皆黨(タムラ)有リ。亦達スル者少ナリ。是ヲ以テ或ハ君父ニ順(シタガ)ハズ、乍(タチマ)チ隣里ニ違(タガ)フ。然レドモ上和(カミヤワラ)ゲバ下睦(シモムツマ)ジ、事ヲ論(アゲツラ)フニ諧(カナ)フトキハ、則チ事ノ理(コトワリ)自ラ通ズ。何事カ成ラザラン。

一に曰く、和を大切にし、人と争いをせぬように。ひとにはもともと助け合う気持ちがあるが、この世には完全な理想的な人格者というものは少ない。それゆえ君主や父に従わなかったり、身近の人々と仲違いをおこしたりする。しかし、上司と下寮とが、にこやかに睦まじく論じあえば、おのずから、ことは筋道にかなう。どんなことでも成就するであろう。

第2条;篤く三寶を敬せよ;国教を仏教とする。

  二曰、篤敬三寶。々々者佛法僧也。則四生之終歸、
     萬國之極宗。何世何人、非貴是法。人鮮尤悪。
     能教従之。其不歸三寶、何以直枉。

二曰ク、篤(アツ)ク、三宝ヲ敬(ウヤマ)ヘ。三宝ハ仏法僧ナリ。則チ四生(シショウ)ノ終帰、万国ノ極宗(キョクソウ)ナリ。イヅレノ世、ナニビトカ、コノ法ヲ貴バザラン。ヒト尤(モット)モ悪シキナルハ鮮(スクナ)シ。能ク教ヘ之ニ従フニ、三宝ニ帰セザレバ、何ヲ以テカ、枉(マガ)レルヲ直サン。

二に曰く、篤(あつ)く仏教を信仰せよ。仏教はあらゆる生きもの(四生;胎生、卵生、湿生、化生をいう)の最後に帰するところで、すべての国々の仰ぐ究極のよりどころである。どのような人々でも、この法を崇めないことがあろうか。心底からの悪人はまれである。よく教え諭せば必ず従わせることができる。仏教に帰依せずして、どうしてよこしまな心を正すことができよう。(仏教関係者が最も重要視するところ)

第3条;詔を承けては必ず謹めよ;天皇の詔、命を重んじること。絶対服従。

  三曰、承詔必謹。君則天之。臣則地之。天覆地載。
     四時順行萬氣得通。地欲覆天則致壊耳。
     是以君言臣承。上行下靡。故承詔必慎。
     不謹自敗。

三曰ク、詔(ミコトノリ)ヲ承(ウケ)テハ、必ズ謹(ツツシ)メ。君ヲバ天ニ則(ノリ)トリ、臣ヲバ地ニ則トス。コレ天覆ヒ、地載ス。四時順行シ、萬気通ズルヲ得ル。地ノ天ヲ覆ハント欲スルトキハ、則チ崩ヲ致ス。耳コレヲ以ッテ君ノ言ハ臣承リ、上行ヘバ下靡(ナラ)ウ。故ニ詔ヲ承ケテハ必ズ慎シメ。謹ザレバ自ラ敗ル。

三に曰く、天皇の命をうけたら、必ずそれに従え。譬えるならば君は天、臣は地。天が万物を覆い、地が万物を載せる。それによって四季は規則正しく移りゆき、万物を活動させるのだ。もし、地が天を覆うとするなら、この秩序は破壊されてしまう。そのようなに、君主の言には臣下は必ず承服し、上が行えば下はそれに従うのだ。だから天皇の命をうけたなら必ずそれに従え。もし従わなければ、けっきょくは自滅するであろう。

第4条;礼を以て本とせよ;臣下、官僚は禮法を重んじること。

  四曰、羣卿百寮、以禮為本。其治民之本、要在乎禮。
     上不禮、而下非齋。下無禮、以必有罪。
     是以群臣有禮、位次不亂。百姓有禮、国家自治。

四曰ク、群卿百寮、礼ヲ以ッテ本ト為ス。其ノ民ヲ治ムルノ本、要(カナラ)ズ礼ニ在リ。上礼(カミレイ)無キトキハ、下斉(トトノハ)ズ。下礼(シモレイ)無ケレバ以ッテ必ズ罪有リ。是ヲ以テ君臣礼有ルトキハ、位次(イシ)乱レズ。百姓礼アルトキハ国家ミズカラ治ル。

四に曰く、群卿(まえつきたち;大夫)、百寮(つかさつかさ;官人役人)は、みな礼法を物事の基本とせよ。民を治める肝要は、この礼法にある。上の行いが礼法にかなわなければ、下の秩序は乱れ、下の礼法が失われれば、きっと罪を犯すものが出てくる。群臣に礼法が保たれていれば、国家はおのずと治まるものである。

第5条;餮(てつ)を絶ち欲を棄てよ;訴訟問題は公明に。

  五曰、絶餐棄欲、明辯訴訟。其百姓之訴、一日千事。
     一日尚爾、況乎累歳。頃治訟者、得利為常、
     見賄聴識。便有財之訟、如石投水。乏者之訴、
     似水投石。之以貧民、則不知所由。臣道亦於焉闕。

五曰ク、餮(テツ)ヲ絶チ、欲ヲ棄テテ、明カニ訴訟ヲ弁ゼヨ。其レ百姓ノ訴エハ一日千事アリ。一日スラ尚爾(ナオシカ)リ。況ンヤ累歳ヲヤ。頃訟ヲ治ムル者ハ利ヲ得ルヲ常ト為ス。賄イヲミテ識(コトワリ)ヲ聴(ユル)ス。スナワチ財アルモノノ訟ハ石ヲ水ニ投ゲルガ如シ、乏シキ者ノ訴ハ水ヲ石ニ投ゲツニ似タリ。是以テ貧シキ民ハ則チ由ル所ヲ識ラズ。臣ノ道モ亦焉(ココ)ニ於イテ闕(カケ)ヌ。

五に曰く、食におごれることをやめ、財物への欲望を棄てて、訴訟を公明にさばけ。そもそも百姓の訴えは、一日に千件にも及ぶ。一日でもそうなのだから、年がたてばなおさらのことだ。近頃、訴訟を扱うものは、私利を得るのをあたりまえと思い、賄賂を受けてからその申し立てをきいているようだ。そこで、財産のある者の訴えは、石を水に投げこむように必ず聞きとどけられるが、貧乏人の訴えは、水を石に投げかけるように、全く手応えが無く、はねつけられてしまう。これでは貧しい民はどうしてよいか分からず、臣としての役人のなすべき道も見失われることになろう。

第6条:悪を懲らしめ、善を勧めよ;勧善懲悪について

  六曰、懲悪勧善、古之良典。是以無匿人善、見悪必匡。
     其諂詐者、則為覆國家之利器、為絶人民之鋒劔。
     亦佞媚者、對上則好説下過、逢下則誹謗上失。
     其如此人、皆无忠於君、无仁於民。是大亂之本也。

六曰ク、悪ヲ懲ラシメ、善ヲ勧ムルハ、古ヘカラノ良典ナリ。是ヲ以テ人ノ善ヲ隠スコト無ク、悪ヲ見テハ必ズ匡セ。ソノ諂詐(テンサ)ノ者ハ、則チ国家ヲ覆スノ利器タリ。人民ヲ絶ツノ鉾剣タリ。亦侫媚(ネイビ)ノ者ハ上ニ対スル則(ト)キハ、好ミテ下ノ過ヲ説キ、下ニ逢ウテハウ上ノ失ウヲ誹謗ス。其レ此ノ如キ人ハ、皆君ニ忠ナク、民ニ仁無シ。是大キナル乱ノモトナリ。

六に曰く、悪を懲らしめし、善を勧めることは、古えからのよるべき教えである。それゆえ、人の善を隠すことなく、悪はあらためさせよ。もし人をあざむく者は、国家を覆す利器ともなり、人民を滅ぼす鋭い剣ともなるものだ。また媚びる諂う者は、上の者にはこのんで、下の者の過失をつげ口し、下の者にあえば目上の者の過失を非難する。このような人々は、みな君に対しては忠義の心がなく、民に対しては仁愛の心がない。大きな乱れのおこるもととなるものだ。

第7条:各任掌あり;職務権限と遂行の注意

  七曰、人各有任、掌宜不濫。其賢哲任官、頌音則起。
     ?者有官、禍亂則繁。世少生知。剋念作聖。
     事無大少、得人必治。時無急緩。遇賢自寛。
     因此國家永久、社稜勿危。故古聖王、
     為官以求人、為人不求官。

七曰ク、各人任掌(ツカサド)ルコト有リ。宜シク濫(ミダレ)ザルベシ。其レ賢哲官ニ任ズルトキハ頌音則チオコル、?者官ニ在ルトキハ、禍乱則チ繁シク世ニ生知スル少ナリ。克ク念ヒテ、聖トナル。事大小トナク、人ヲ得テ必ズ治ル。時急緩ナク、賢ニ遇テ自ラ寛ナリ、。此ニヨッテ国家永久ニシテ社稜危キコトナシ。故ニ古ヘノ聖ハ官ノ為ニ、以ッテ人ヲ求メ人ノ為ニ官ヲ求メズ。

七に曰く、ひとには、それぞれの任務がある。おのおのの職掌をまもり、権限を乱用しないようにせよ。官に賢明な人がいれば、政治をたたえる声は高まるが、よこしまな心をもつ者が官にあれば、政治は必ず乱れる。世間には生まれながらにして物事をわきまえた人は少ない。よく思慮を働かせ、努力してこそ聖人となる。重大な事も些細なことも適任者を得てこそ成し遂げられる。時の流れが早いかろうが遅かろうが、賢明な人にあったときには始めて自ずから解決がつく。その結果国家は永久で、君主の地位も安泰となる。いにしえの聖王は、官のために適切な人材を求めたのであり、人のために官は設けるようなことはしなかった。

第8条:早く朝し遅く退けよ;官僚は早朝出仕、退出遅延のこと。

  八曰、羣卿百寮、早朝晏退、公事靡?。
     終日難盡。是以遅朝不逮于急。
     早退必事不盡。

八曰ク、群卿百寮ハ早ク朝(チョウ)シ、晏(オソ)ク退キ、王事?(モロ)キコトナシ。 終日ツキ難シ。コレヲ以テ遅ク朝スルトキハ急ギ、コト逮(オヨバ)ズ。早ク退クトキハ必ズ事盡(ツ)キズ。

八に曰く、官僚は朝は早くから出仕し、おそくに退出すること。公務はゆるがせにできないものであり、一日かかってもすべて終えることはむずかしい。よって、遅く出仕したのでは緊急の用事にまにあわないし、早く退出したのでは事務をし残してしまう。

第9条:信は是義の本なり;心をこめて仕事せよ

  九曰、信是義本、毎日事有信、其善悪成敗。
     要在于信。群臣共信。何事不成。
     群臣无信。萬事悉敗。

九曰ク、信ハ是レ義ノ本ナリ。コトゴトクニ信アレ。其ノ善悪ノ成敗ハ要ズ信ニアリ。群臣共ニ信アラバ何事カ成ラザラン。群臣信ナケレバ万事悉ク敗ル。

九に曰く、信は人の行うべき道のみなもとである。何事を為すにも真心をこめよ。事のよしあし、正否のかなめはこの信にあり。群臣がみな真心を以て事にあたるなら、どのようなことでも成就しょう。しかし、真心がなかったら、すべてが失敗であろう。

第10条:忿(いか)りを絶ち、瞋(しん)を棄てよ;物事は穏やかに。

  十曰、絶忿棄瞋、不怒人違。人皆有心。々各有執。
     彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。
     共是凡夫耳。是非之理。?能可定。
     相共賢愚、如鐶无端。是以彼人雖瞋、還恐我失。
     我獨雖得、従衆同擧。

十曰ク、忿(イカ)リヲ絶チ、瞋(シン)ヲ棄テテ、人ノ違ヘルヲ怒ラズ。人皆心アリ。各執アリ。彼レ是ナルトキハ則チ我非ナリ。我是ナル則ハ彼非ナリ。我必ズシモ聖ニ非ズ、彼必ズシモ愚ニ非ズ。共ニ是凡夫ノミ、是非ノ理、誰ガ能ク定メン。相共ニ賢愚ナルコト鐶キノ端ナキガゴトシ、是ヲ以テ彼人ハ瞋(イカ)ルトイヘドモ、還(カエリ)テ我失ヲ懼レヨ。我独リ得タリトイヘドモ、衆ニ従テ同ジク与ヘヨ。

十に曰く、心にいきどおりをいだいたり、それを顔にあらわしたるすることをやめよ、人が自分と違ったことをしても。それを怒らないようにせよ。人の心はさまざまで、おたがいにあい離れないものをもっている。相手が良いと想うことを自分にはよくないと思ったり、自分がよいことだとおもっても相手が、それをよくないと思うことがあるものだ。自分が聖人で、相手が愚人だときまっているわけではない。ともに凡夫なのだ。是非の理をだれが定めることができよう。お互いに賢人でもあり、愚人でもあるのは、端のない鐶耳かきのようなものだ。それゆえ、相手が怒ったら、むしろ、自分が過失を犯しているのではないかと反省せよ。自分ひとりが、その方が正しいと思っても、衆人の意見を尊重し、その行なうところに従うがよい。

第11条:賞罰必ず当てよ;官僚の過失には賞罰は必要。

  十一曰、明察功過,賞罰必當。日者賞不在功。
      罰不在罪。執事羣卿、宜明賞罰。

十一曰ク、明ラカニ功過ヲ察シテ、賞罰必ズ当テヨ。日者(コノゴロ)、賞モ功ニ在(オイ)テセズ、罰モ罪ニ在イテセズ。事ヲ執ル群卿、宜シク賞罰ヲ明ラカニスベシ。

十一に曰く、官人の功績、過失をはっきりとみて、それにかなった賞罰を行なうようにせよ。ちかごろは、功績によらずに賞を与えたり、罪がないのに罰を加えたりしていることがある。政務にたずさわる群卿は、賞罰を正しくはっきりと行うようにすべきである。

第12条:王を以て主と為よ、正しい税の徴収;税の中間搾取は禁止。

  十二曰、國司國造、勿斂百姓。國非二君。民無両主。
      率土兆民、以王為主。所任官司、皆是王臣。
      何敢興公、賦斂百姓。

十二曰ク、国司、國造百姓ニ斂(タサ)ムルコトナカレ。國ニ二君ナシ。民ニ両主ナシ。卒土兆民ハ王ヲ以ッテ主ト為ス。任スル所、官司ハ皆、是王臣ナリ。何敢ヘテ公ノタメニ、百姓ヲ賦斂セン。

十二に曰く、国司や国造は、百姓から税をむさぼりとらぬようにせよ。国に二人の君はなく、民に二人の主はない。この国土のうちのすべての人々は、みな王をその主としているのだ。国政をゆだねられている官司の人々はみな王の臣なのである。どうして公のこと以外に、百姓から税をむさぼりとってよいであろうか。

第13条;同じ職掌を知れ;公務員は仕事内容を熟知せよ。

  十三曰、諸責任官者、同知職掌。或病或使、有闕於事。
      然得知之日、和如曾識、其以非與聞、勿防公務。

十三曰ク、諸(モロモロ)ノ官ニ任スル者ハ、同ジク職掌ヲ知ルベシ。或ハ病シ、アルイハ使イシテ、事ニ闕(カ)クコトアラン。然レドモ之ヲ知ルコトヲ得ン。日ハ和(クワ)スルコト曾(ムカ)シ識ルカ、如クセヨ其レ与(アズカ)リ、聞クニ非ラザルヲ以ッテ、公務ヲ妨ゲルコト勿カレ。

十三に曰く、それぞれの官司に任じるられた者は、みな自分の職務内容を熟知せよ。病気や使いのために事務をとらないことがあっても、職務についてからは、以前からそのそれに従事しているかのように、その職務に和していくようにせよ。そのようなことは、自分は関知しないといって、公務を妨げるようなことがあってはならない。

第14条:嫉妬有ること無れ;嫉妬心は国を滅ぼす。

  十四曰、羣臣百寮、無有嫉妬。我既嫉人、々亦嫉我。
      嫉妬之患、不知其極。所以智勝於己則不悦。
      才優於己則嫉妬。是以五百之乃今遇賢。
      千載以難待一聖。其不得賢聖。何以治國。

十四曰ク、群臣百寮ハ嫉妬アルコトナシ。我既ニヒトヲ嫉ム人亦我ヲ妬ム。嫉妬之患其ノ極マリヲ知ラズ。所以ッテニ智己に勝ルル則ンバ悦ビズ。才己ニ優ルル則ンバ嫉妬ス。是ヲ以ッテ五百歳之後今賢ニ遇スルトモ千掲載テ一聖ヲ得難シ。其ノ聖賢ヲ得ズンバ何ゾ國ヲ治メン。

十四に曰く、群臣や百寮は、人をうらやみねたむことがあってはならない。自分が人をうらやめば、人もまた自分をうらやむ。そのような嫉妬の憂いは際限がない。それゆえ、人の知識が自分よりまさるとそれを喜ばず、才能が自分よりすぐれていればそれをねたむ。こんなことでは、五百年たって一人の賢人に出会い、千年たって一人の聖人が現れるのを待つこともむずかしいだろう。賢人や聖人を得なくては、何によって国を治めたらよいであろうか。

第15条:私に背いて公に向へよ;公務員は公平正大に執務せよ。

  十五曰、背私向公、是大臣之道矣。凡人有私必有恨、
      有撼必非同。非同則以私妨公。撼起則違制害法。
      故初章云、上下和俳諧、其亦是情歟。

十五曰ク、私ニ背キ公ニ向フハ是臣ノ道ナリ。凡人私アレバ必ズ恨ミアリ。恨ミアレバ必ズ固キニ非ズ。固キニ非ザレバ則チ私ヲ以ッテ公ヲ妨ゲ、恨起コル則キハ制ニ違イ法ヲ害ス。故ニ初章ニ云ウ。上下和睦其レ亦是ヲ情歟。

十五に曰く、私心を去って公のことを行うのが、臣たる道である。およそ人に私心があれば、きっと他人に恨みの気持ちをおこさせる。恨みの気持ちがあれば、人々の気持ちはととのわない。人々の気持ちがととのわなければ、私心を以て公務を妨げることとなり、恨みの気持ちをおこせば制度に違反し、法律を犯すことになる。第一の章で、上下の人々が相和し、協調するように、といったのも、この気持ちからである。

第16条:民を使ふに時を以てせよ;国民が忙しい時に使役させるな。

  十六曰、使民以上時、古之良典。
      故冬月有間、以可使民。
      従春至秋、農桑之節、不可使民。
      其不農何食。不桑何服。

十六曰ク、民ヲ使フニ時ヲ以ッテスルトハ古ノ良典ナリ。故ニ冬月ハ間アリ。以ッテ民ヲ使フベシ。春ヨリ秋ニ至ルマデ農桑之節民ヲ使フベカラズ。ソノ農ニアラズンバ何カ食セン。桑ニアラズンバ何ヲカ服ス。

十六に曰く、民を使役するのに時節を考えよ。とは古からのよるべき教えである。それゆえ、冬の月の間に余暇があれば、民を使役せよ。春から秋にかけては、農家桑の時節であるから、民は使役してはならない。農耕をしなかったら、何を食べればよいのか。養蚕をしなかったら、なにを着ればいいのか。

第17条:独り断すべらかず:独断で決定するな。公論が大切。

   十七曰、夫事不可獨斷。必與衆宜論。少事是輕。
       不可必衆。唯逮論大事、若疑有失。
       故與衆相解、辭辞則得理。

十七曰ク、大事ヲバ独リ断スベカラズ。必ズ衆ト共ニ宜シク論ズルベシ。小事是軽シ、必ズシモ衆トスベカラズ。唯大事ヲ論フニ逮ンテ、モシクハ失アラント疑フ。ユエニ衆ト共ニ相弁ズルトキハ、辞則チ理ヲ得ンヤ。

十七に曰く、ものごとは独断で行ってはならない。かならずみなと論じあうようにせよ。ささいな事はかならずしもみなにはからなくてもよいが、大事を議する場合には、あやまった判断をするかも知れぬ。人々と検討しあえば、話し合いによって道理にかなったやり方をみいだすことができる。

 以上が十七条憲法全文である。
 追記として、聖徳太子十七条憲法は、英訳、ドイツ語訳、フランス語訳が存在する。参考の為に、第一条のみを示しておく。これは『聖徳太子全集第一巻』龍吟社、昭和17年、1942年の巻末に載っている。

 T;Harmony is to be valeud, and an avoidance of wanton opposition to be honoured. All men are influenced by class-feeling, and there are few who are intelligent. Hence there are some who disobey their lords and fathers , or who maintain feuds with the neighbourting villages. But when those above are harmonious and those below are friendly, and there is concord in the discussion of business, right views of things spontaneously gain acceptance. Then what is there which cannot be accomplished !

 そしてドイツ語で

 T;Einigkeit und Harmonie sind wertvoll, Geborsam ist das Unerlasslichste. Die Menschen alle haben ihre Sonderinteressen; auch giebt es wenige Einsichtige unter ihnen. Deshalb gehorchen sie zuweilen nicht ihren Fursten und Vatern und haben Stretigkeiten mit ihren Nachbardorfern. Dahingegen wenn die Oberen und Unteren harmonieren und in ihren Meinungen und Reden einig sind, so schreiten dei Dinge von selbst fort und was sollte dann nicht gelingen ?

 十七条憲法も三経義疏と同様に狩谷掖斎、榊原芳野、岡田正之、津田左右吉らの偽作説があるが、後身が手を加えたとしても立派な条例が並んでいる。

 憲法の十七を大きく分けて、国体のありかた。ついで国民のこころがけ。そして、官僚のありかた。税のありかた。司法のありかた。以上について大きく律、憲法として発布されている。

 そして副題にしめした「四生の終帰」は第二条に示されており、佛教をこの世の究極の教えとして学び、枉げて世を直すようにこころがけることを告げている。これは仏陀の教え、佛教を、太子は深く理解されていたことを示しており、皇室の人間である太子が、神道ではなく異国の宗教である佛教を國教とすることを憲法として定めたのである。

 以後、この憲法は日本人の思想、国風に大きく影響し、聖徳太子の存在にして、和国、日本の天皇の万世一系にした二千年の歴史を刻むことになった。神道のみではこうは旨く、事は運ばなかったであろう。

 ここで漢学者頼山陽を紹介しておく。以上の太子の鴻恩、遺徳に異議を唱えている。
頼山陽(安永9年−天保3年;1780-1832)は、第11代将軍家斉の時代の人物で、父春水は広島、安芸、芸藩の藩学校の教授で、日本史を編纂していた。その仕事を子頼襄、頼山陽が受け継ぎ、『日本外史』、『日本楽府』を書き、52歳、京都上京区自宅水西荘で喀血状態で最後の力を振り絞り『日本政記』を書きあげている。山陽は、徳富蘇峰のいう、支那を抜きんでた、日本の誇る漢文造成の天才である。江戸の松平定信、伊能忠敬、シーボルトの時代の人。

 日本の史実を江戸時代の頼山陽は、六十六の?から成る漢詩集『日本楽府』で、その開巻第一に日出処(國體の冠絶)として、日本という国名の起源と国体の冠絶(もっとも優れていること)を記している。日出処。日没処。両頭天子皆天署から始まり、聖徳太子が小野妹子へ託した随の煬帝への公文書、国書の事件を漢詩で、日本が支那よりすぐれた国であることをうまく表現している。

日出処。日没処。両頭天子皆天署
扶桑鶏号朝已盈。長安洛陽天未曙。
贏顛劉蹶趁日没。東海一輪依舊出。

 受け取った随の煬帝は激怒し、外交事務担当長官の鴻臚寺の卿に「変夷の書、無礼なる者あり。復た以て聞することなかれ。」といったと伝えられる。
 小野妹子も自らの命をかけての国交交渉であったであろう。国書返信を百済人に盗まれたとして、和國天皇まで持ち帰らなかった。この国書紛失事件で小野妹子は処刑であったが免罪されている。

 さらに山陽はいう。扶桑鶏号朝已盈。長安洛陽天未曙。日本では鶏が鳴いて朝はすでに始っているのに、長安洛陽ではまだ曙にもならない。
 さらにいう、贏顛劉蹶趁日没。東海一輪依舊出。贏氏の建てた秦の國は滅び、劉氏の建てた漢の國もつまづき倒れた。こけつまろびつ、あちらでは日没を追いかけるがごとく國はほろびていく。東の海の和國では毎日違わず太陽がさしのぼる。すなわち支那ではちょこちょこ指導者が変わるが、日本は万世一系にして旭日、太陽の如く窮まりのなく、天壌無窮(てんじょうむきゅう)にして冠絶、その歴史は永遠である。このように山陽は日本史の感想を漢詩で詠じている。

 万世一系の考えは、鎌倉時代も、室町、江戸の武士の時代であっても、また明治維新の時も、それ以後も天皇の存在は日本の象徴として累々と引き継がれているのである。
 しかし、江戸時代、徳川の世、武士権力の時代には、天皇が日本を治めるのが本道とは、公言できないので、山陽の漢詩には、このような思想が伺い知れるように詠じているのである。
 ついで日本楽府第四?に聖徳太子の武勇伝として四天王が詠じられている。

皇子頭載四天王。大連之箭不得傷。
犁汝宅兮建我寺。伽藍連雲七寶光。
四天王外無天王。

 太子が14歳の時、大連・物部守屋、連・中臣勝海と皇族・蘇我氏族と佛教での戦があり、泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)とともに守屋一族と闘った。守屋の矢(箭)は雨の如くそそがれ、三度退散。その後、太子は頭に白膠木(ぬりでのき)で四天王のミニチュアをつくり、これらを頭にさして前線にたてば、矢は太子を掠め一本も中らない。こうして守屋勢を破った。この戦勝の褒美として四天王寺を建立し、本尊の周りに四天王を配置した。そして伽藍は七寶で輝く。七寶は金・銀・瑠璃・玻璃(はり)・珊瑚・瑪瑙(めのう)・??(しゃこ)、である。

 四天王は国家守護の善神として、東に時国天王、南に増長天王、西に広目天王、北に多聞天王の護世四天王をおくのが佛教の習わしになっている。ここでも太子の佛教の学知の驚異が分かるが、佛教の真髄を10年後の慧慈から教わるので史実の次期がすこしずれていたのかもしれない。

 これらの頼山陽の楽府は、『史詠日本楽府物語』福山天蔭、東白堂書房、昭和13年、1938年、と『日本史の真髄−古代・貴族社会篇、頼山陽の日本楽府を読む』渡部昇一、PHP研究所、平成2年1990年によった。

 平成17年4月より『個人情報保護法』が全面的におこなわれることとなった。個人情報の保護に関する法律である。第59条までの法律であるが、聖徳太子十七条憲法よりはるかに内容は簡単、単純である。
 50、60歳代の先生は時代は変わるもので、人間思考も人間相互関係も、会話も、雇用関係も、こうも冷たくなるものかと感慨深げに軽読されれば、最後まで面白く、読めますし、できれば十七条にも目通ししていただきたい。

 頼山陽の聖徳太子批判を紹介しておきます。
『日本政記』は頼襄の最後の史書で、神武天皇から始まり豊臣秀吉まで、十六巻にわたる日本史の集大成である。
 この卷二の崇峻天皇の項の跋に太子批判が記されている。これがあまりにも正鵠を射ているので驚いてしまいますが、さすが、人生、命を賭けて日本史を研究してきただけのことはある。しかし、これも江戸時代で後身としての批判であることには変わりはない。
ここでこの部分のみを紹介する。

 漢文は、頼久太郎著『日本政記』判本(頼氏蔵版、和綴本、木活字)十六巻を参考にした。訳述および現代訳解釈は『頼山陽日本政記』、安藤英男、近藤出版社、昭和57年、1982年によった。

 安藤英男さんは昭和2年赤坂生まれ、法政経済学部出身で太陽神戸銀行に勤務しながらの頼山陽の研究で、膨大な漢文資料の現代訳をつくりあげられたのは、20世紀日本の史学研究の一大成果で激賞に価すると思う。山陽の生涯から執筆書すべて訳されており、現代では山陽は安藤なのである。

頼襄曰。儒学與佛説。皆自外國来者。無択也。
而佛説一入吾國。有好之崇之。以易君父者。何哉。
儒学叙人倫。平易無可喜。其文雖外来。而其実固在我。
不如佛説之新異。宏濶誇大。足聳人聴也。
吾甞読三韓之史。其君之惑於佛説。以致乱亡者。皆是。
吾邦未至如彼也。而有酷肖焉者。

頼襄曰ク、儒学ト仏説ト、皆外国ヨリ来レルハ、択ブコト無キナリ。
而ルニ、仏説ノ一タビ吾ガ国ニ入ルヤ、之ヲ好ミ之ヲアガメ、以テ君父ニカウル者有ルハ何ゾヤ。
儒学ハ人倫ヲ叙シ、平易ニシテ喜ブ可キ無シ、其ノ文ハ外来ト雖モ、而モ其ノ実ハ固ヨリ我レニ在リ。
仏説ハ新異、宏濶、誇大ニシテ、足聳人聴ヲ聳タシムルニ足ル如キニアラザルナリ。
吾レカツテ三韓ノ史ヲ読ムニ、其ノ君ノ仏説ニ惑イ、以テ乱亡ヲ致セル者、皆是レナリ。
吾ガ邦ハ、未来ダ彼ガ如キニ至タザルナリ。而レドモ、ハナハダニタル者有リ。

おもうに、儒学も佛教も、外国より伝わったという点では異なるところがないのであるが、しかし、佛教の説が一たび伝来するや、これを好みあがめて、君父を棄てても従おうとする者が出てきたのは、どうした訳であろうか。
 儒学は人間として当然おこなうべき道義を訓えるもので、その説理は平易でこれを聞いても、ただちに喜び、熱狂し、狂信するようなおもしろさはない。それに儒学の内容は外国から来たものであるが、その実体は我が国の昔から存在していたものであるから、佛教のような誇大な新説で、人の耳をそばだてるような珍しいさで入ってくるものとは異なるのである。
 朝鮮史を読むと、その君王が佛教の説に惑わされて大混乱がおこったり、国が亡びたりしたと記されている。
 我が国ではそれほどの惨事にはならなかったが、それに似たことはあった。

夫人臣行弑逆。開闢以還所無。可謂天地之大変矣。
而?之過去之報。幾乎三綱淪。而九法?矣。
厩戸智慧過絶人。姑為太子。以蜀人望。
其志在異日即真。擅乎天下。而倚人於馬子之勢。
馬子與大連相軋。欲除之而自逞。亦倚太子。以済其姦。
而皆藉於佛説。遂致誦呪歌典禮。堂塔塗膏血。王業之衰。大端在此。

夫レ人臣ノ弑逆ヲ行フハ、開闢以還、無キ所ニシテ、天地ノ大変ト謂イツツ可シ。
而ルニ之ヲ過去ノ報ニ?ス。三綱淪ミ、九法?ルルニチカキカ。
厩戸ハ智慧、人ニ過絶ス。シバラク太子トナリテ、以テ人望ヲ属ス。
其ノ志、異日、真ニ即キテ、天下ヲホシイママニスルニ在リ。而シテ馬子ノ勢ニヨル。
馬子ハ大連ト相キシリ、之ヲ除キテ自ラ逞ウセント欲シ、亦タ太子ニヨリテ以テ其ノ姦ヲナス。
而ヲ皆、仏説ニカリ、遂ニ誦呪、典礼ニタグイ、堂塔、膏血ヲ塗ルヲ致ス。王業ノ衰ウコト、大端、此ニ在リ。

いったい人臣も身分として、君王を弑(しい)するような大逆を行うことは、我が国の開闢以来、一度もなかったところで、天地間の最も重大な事件といっていい。
 ところが蘇我馬子は政権を専擅(せんせん)する上に障害となる穴間部皇太子を攻めて殺したのを手はじめに、さらに配下の東漢直駒に命じて、崇峻天皇を貢納の場におびきだし、諸大臣列席座の前をはばからず、これを刺殺させてしまったのである。ところで聖徳太子は、崇峻天皇の甥である。しかるに太子は、馬子を憎む様子がなくむしろ馬子の大逆を弁護して「崇峻天皇の遭難は、仏法を尊ばなかった当然の報いである」と言われるにいたっては、人倫の道は廃れ、天下を治める大法は腐敗してしまったかと疑わざるをえない。
 そもそも、太子は、智慧も才覚も万人に優れた人といわれ、しばらく皇太子の位におられたから、世間の人望を集めていた。
 ところが、太子の目的というのは、他日、天子の位について、思いのままに庶務をおこなってみたいということなので、馬子の勢力に倚りかかっていた。馬子にしても大連物部守屋という政敵がいたので、物部氏を除いて自分の勢力を専らにするために、太子と組んで姦悪なことを次々と行ったのである。太子と馬子とは仏説に口をかりて、ついに誦呪と典礼とを結びつけ、また、堂塔伽藍を造営して、その金碧爛然たるありさまは、あたかも人民の膏血をしぼりとってこれを塗りつけたといっても過言ではなかった。わが皇室が衰退におもむいた発端は、ここにあるといえるであろう。

三善清行之所言。可以験焉。雖然。清行特言其費而已。
不知其顛倒是非。混淆善悪。烈於洪水猛獣之害。
姦雄之人。毎本藉之。以解其心。
下及北條足利之崇禅教。莫非宗此旨也。
我邦君臣之義。度越萬國。而西竺之説壊之。帰之於土灰沙塵而止焉。
而開其端者。厩戸馬子也。可勝概哉。
千載之下。獨織田氏断然不惑。庶幾匡正祖宗之國者矣。
是以今之佛教説。行於愚夫愚婦。而為人上者之信之。不至如古昔之太甚。
是我邦之幸也。焉知非祖宗祐之冥冥之際耶。
旧事之記。出於厩戸之手。
恙而亦有錯亂事實。以資自便者。不可不察也。

三善清行ノ言フ所、以テ験ス可シ。然リト雖モ、清行ハタダニ其ノ費ヲ言フノミ。
其ノ是非ヲ顛倒シ、善悪ヲ混淆シテ、洪水、猛獣ノ害ヨリ烈シキヲ知ラズ。姦雄ノ人、ツネニ之ヲカリテ、以テ其ノ心ヲ解ク。
下リテ、北條、足利ノ禅教ヲアガメムルニ及ブマデ、此ノ旨ヲ宗トスルニ非ザルハナシ。
我ガ邦ノ君臣ノ義ハ、萬國ニ度越ス。而ルニ、西竺ノ説、之ヲヤブリ、之ヲ土灰、沙塵ニ帰シテヤム。
而シテ、其ノ端ヲ開ク者ハ、厩戸・馬子ナリ。概スルニタウ可ケンヤ。
千載ノ下、独リ織田氏、断然トシテ惑ワズ。祖宗ノ国ヲ匡正スル者ニ庶幾シ。
是ヲ以テ今ノ仏説、愚夫、愚婦ニ行ワレテ、人ノ上タル者ノ之ヲ信ズルハ、古昔ノハナハダシキガ如キニ至ラズ。是レ我ガ邦ノ幸ナリ。
イズクンゾ祖宗ノ之ヲ冥冥ノ際ニ佑クルニアラザルヲ知ルランヤ。
旧事ノ記、厩戸ノ手ニイヅ。蓋シ亦、事実ヲ錯乱シテ、以テ自便ヲ資クル者有リラン。察セザル可カラザルナリ。

平安朝にいたり三善清行が建白書を奉った中に述べていることも、これを裏書きするものがある。しかれども、三善清行の論旨は、ただ拝佛に要する費用、すなわち金碧爛然した堂塔伽藍の造営の費用の莫大なことを指摘しているだけで、その佛教自体の是非を考えていないので、本末転倒の指摘で、なにが善で何が悪かについても混同しており、その被害が洪水や猛獣によるより、さらに、ひどいことに気付いていない。
悪賢い輩は、いつも宗教を口実に、人民の心を鎮めようとする。
後に北条氏、足利氏は禅宗に帰依したのもそうである。
我が国の君臣の大義は、万国に比して最も正しいものであった。これを西竺の説、すなわち佛教で、この義を破壊してしまい、土灰、沙塵のように価値のない義にしてしまった。
このような、先例をつくったのは聖徳太子と蘇我馬子である。慨嘆せずにいられようか。
千年の後には織田信長が独り、比叡山を焼き、本願寺を征伐するなど佛教に惑わされることがなかった。祖国の悪弊を匡正したものといえる。
以後も、佛教は無知な男、女のあいだで信心されているが、政治を納める人物(徳川)が理性を失ってしまうまでには至っていないのは、我が国の不幸中の幸いである。
祖宗の神霊が冥々のうちに助けてくださっているのであろうか。
先代旧事本紀に佛教の大切さ、推古天皇の偉大さが記されているが、これを編輯したのは聖徳太子である。事実を曲げて錯乱し、自分らに都合のいいように書かかれたところがある。これを読む人は、この点に深く注意しなければならない。

 『日本書紀』は、舎人親王が720年に編纂、完成させた史書で第44代元正天皇(680-748)に撰上されたことが『続日本紀』にみえる。神武天皇から第41代持統天皇(645-702)までを扱っているが、現在、原本はのこっておらず、巻三十の完存は、吉田家本といって、天理大学付属天理図書館に保存されているもののみである。
 これは室町時代天文9年(1540)に卜部兼右(うらべかねみぎ)が書写したもので、父の兼満の代で一部火災で焼失したものを、他の三条西実隆本などを借用し、参考に校合(きょうごう)させた苦心の証本である。

 燃えやすく、破れやすく、腐りやすい、1285年前の古写本が、初版から820年後に、兼右の努力で、初版と同等の典籍となり、完全な形で、さらに465年間保存されていることは世界的奇蹟である。この稀覯本の情報は『古典籍が語る−書物の文化史−』山本信吉、八木書店、平成16年、2004年を参考にした。

 また、神田喜一郎は、この書名が奇妙であることを指摘し、以下のごとく考察している。それは、歴史について記載される史書は、支那の『太史公書』以来、紀傳體、すなわち紀、志、列傳(本紀、列伝など年次記述と分野別記述とを併用して全体把握できるようにした総合歴史書)の順に記載するべきで、『史記』も含め、すべて同方法で、三部が備わることが必要条件である。

 しかし、日本書紀は紀のみであるので、日本紀としなければならない。書紀という熟語は元来存在しない。
 これは後身、だれかが、写本時、「日本書、紀」となっていたものを書紀と続けて綴ったのであろう。

 というのは、可笑しいと気付いて、つづいて編纂された史書では『続日本紀』となっており、流石にこの点で、続日本紀編纂者たちは学者であったといい得ると答案している。
 一寸した疑問で、仔細なことであるようだが、支那学者、漢籍学にいわせると大変な過ちであるようです。

 さて、山陽の太子批判の論旨は、太子は叔父の崇峻天皇が刺殺されたのは佛教を崇めなかったからで、しょうがないでしょうと身内の死を客観的にみてしまっている。聖徳太子は他国の宗教である佛教を日本人民に押しつけ、伽藍仏像造営に人民の税を使い果たした。三善清行の意見書のように、佛教への金の使い込みが天皇家を貧乏にしたという、浪費三昧になってしまったことは明らかであり、したがって、太子の佛教崇拝は皇家を衰退させた原因であると述べている。

 三善清行(847-918)というのは、平安時代、醍醐天皇の御代で、菅原道真と同時代の学者で、参議宮内卿で正義感の強い経世家。914年に朝廷に「意見封事十二箇条」を提出したことが今昔物語巻25の第25にでている。頼山陽が「意見封事十二箇条」を参考にしているのは、三善の皇家が舎利仏閣に金をかけすぎることが皇家自体を衰退させたという点で、さらに清行は指摘していないが、聖徳太子が普及させた佛教がいけないのだとする意見である。

 山陽がいうように、北条泰時は、栂尾の明恵上人に治世の要諦を問い、時頼、時宗は普寧、蘭谿、道隆、子元等の禅僧から精神の鍛錬をうけ、足利尊氏もまた夢窓国師に師事するほか、禅僧を媒介として海外貿易に、政治に利用していた。
 織田信長のみが比叡山の勢力を焼き討ちにして食い止めたが、本願寺に対しては全く苦汁を飲まされている。徳川家康は先輩のこの苦い経験を目の当たりにみていたが、さらに徳川自身が天草乱で、これまた信仰の力の凄さに頭をうたれている。従って徳川は僧侶に武力をとらせることの危険性は充分知っていたし、宗教の力の脅威も認めていた。

 かくて徳川氏は僧侶の手から一応寺領を奪い兵器を没収し、これに変わる者として寺と檀家との関係を確立することで生活の安定を与え、学問を奨励して僧徒の眼を政治から宗門の学問の方へと転じせしめたのである。したがって、佛教そのものは邪宗ではないが、日本の治世者が佛教を政治に利用してきたことは間違いない。

 山陽は49歳でかきあげた『日本楽府』では史実を漢文表現しているだけであり、豊臣秀吉の明使を郤く「裂封册」で終わっているが、『日本政記』では日本史を作り上げた先人へ、山陽は手厳しく、かつてだれも指摘していない論評が所々に含ましている。生涯をかけた日本史研究で彼の思想がのべられているのである。江戸後期の時代から再見した日本史を参考に、政治の在り方、倫理思想にまで言及している。

 しかし、江戸時代に生きて暮らしていれば、やはり、当然、儒学を中心に物事を観察してしまうのは頼山陽の資質からしても致方ないかもしれないし、佛教も江戸時代には地蔵菩薩の興隆程度で盛り上がりをみせていないので、太子批判も強烈になったものと思われる。蓋し、それだけに江戸時代は他の文化が爛熟していたといえる。この後、佛教の好的な見方は明治の清沢満之の出現まで待たねばならない。

 以上のように聖徳太子の十七条憲法とその治世について頼山陽の批判も交えて観てきた。聖徳太子の十七条憲法は1300年前の成文とは思えないほど充実している。そして、頼山陽の批判も鋭く、皮肉が随所にあらわれているが、正鵠、正論で、さすがにと思はしめずにはおかない。

 このため、山陽の日本政記の内容は、江戸幕府崩壊、明治維新の尊皇攘夷派の理論的根拠に利用され、さらに、明治以降の軍人勅語や教育勅語に利用された。しかし、戦後は危険思想として取り扱われ、現代にいたっては完全に無視されている。
 この点については、日本思想大系の頼山陽を執筆された植手通有氏(うえてみちあり)や安藤氏がいうように、山陽思想を故意に歪曲させたり、削除して伝えており、いまだに間違った評価が下されている。
 以上でみたのは頼山陽思想の一部ではあるが、思想として危険なところは微塵もない。歴史のとらえ方には様々な方向から観ると違った表現になることを山陽はのべている。

 日本の歴史の真髄を知るためには頼山陽の視点に立ち戻ることが肝要であり、コンパクトにまとめあげられた『日本楽府』と、歴史からみた思想理念を含んだ『日本政記』は、編輯ではなく独作の史書および思想哲学書として、日本のもっとも重要な書籍である。

 だが、しかし、最後に「白けた」といわざるおえないが、大山誠一氏(1944年生、中部大学人文学部教授『聖徳太子の誕生』吉川弘文館)らの研究より、聖徳太子は存在しない。『日本書紀』がつくりあげた虚構の人物であるというのである。
 これは、いまや常識で、江戸時代の狩谷?齋らが指摘した憲法十七条は聖徳太子の作ではないということ以上に、聖徳太子そのものが、存在しない、架空の人物であることを証明している。

 聖徳太子なる人物は、藤原氏に代表される太政官の権力の維持に、天皇の存在が必要で、高天原、孫降臨、万世一系の論理を『日本書紀』の編纂の際に考えだし、古事記をもとに、日本の歴史をつくりだしたなかの、創作上で登場させた太子で、決して実在していなかった。

 『日本書紀』なる史書の編纂にあたり、聖徳太子という人物をでっちあげ、佛教も十七条憲法も空想として作り上げたのは、藤原不比等、長屋王、道慈の仕業というのである。 聖徳太子が実在した証拠となる書誌や像としての彫刻や繪など、存在が確認できる物証がまったくないこと、あるのは622年以降すなわち太子の薨去以降のものばかりで、さらに『日本書紀』に突如として聖徳太子が出現することこそ、デッチあげられた歴史といわざるおえないというのである。小野妹子の話しも疑わしい。

 大山氏の逆発想の歴史観、太子非存在論であるが、正しいようにおもわれる。

 これを参考にしたと考えられる、明治天皇の五箇条の御誓文を掲載しておく。

明治天皇 五箇条の御誓文

一、 廣ク 會議ヲ興シ 萬機公論ニ 決スヘシ
一、 上下心ヲ一ニシ 盛ニ経綸ヲ 行フヘシ
一、 官武一途庶民ニ至ル迄 各其志ヲ遂ケ 人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一、 奮来ノ陋習ヲ破リ 天地ノ公道ニ 基クヘシ
一、 智識ヲ世界ニ求メ 大ニ皇基ヲ 振起スヘシ

我國未曾有ノ變革ヲ為サントシ朕躬ヲ以テ衆ニ先ンシ天地神明ニ誓ヒ大ニ斯國是ヲ定メ萬民保全ノ道ニ立ントス衆亦此旨趣ニ基キ協心努力セヨ
勅意宏遠誠ニ以テ感銘ニ不堪今日ノ急務永世ノ基礎此他ニ出ヘカラス臣等謹テ叡旨ヲ奉載シ死ヲ誓ヒ黽勉従事冀クハ以テ宸襟ヲ安シ奉ラン
  慶応四年戊辰三月

 以上から日本の天皇制について、大山誠一氏は、其の著書『聖徳太子と日本人』2005年4月の角川文庫の文庫版あとがきに、「天皇制が日本の歴史学、特に古代史の立場からは、次のように考えることができると思う。まず、天皇制の成立した七世紀末葉であるが、その時代相を、中国文化に対する憬れとコンプレックスの固まりでありながら、その反面、強いナショナリズムが芽生えつつあったととらえる。
 そこで、その両者を同時に満足させるために【聖徳太子】という高度な中国思想を身につけた聖人を日本の歴史に出現させたのであるが、その都合のよいフィクションを容易につくってしまう政治的・文化的行動パターンの総体が天皇制である。この古代に成立した行動パターンは日本の歴史全体を貫いており、近世天皇制の場合も、その憬れとコンプレックスの対象を西洋に置き換えれば容易に理解される。それに対し、平安時代や江戸時代のように、外国に対するコンプレックスをあまり意識しなくてすむ時代には、天皇制は、その影を薄くするのである。」

 平成の時代においても、アジア各国は、太平洋戦争でとった日本の侵略行動を、60年たったいまも、日本政府、日本国民が、いつか、その天皇制、ナショナリズムを復活させるのではないかと怖れているのである。

 私は天皇制を、そのナショナリズムに利用することは絶対に許せないが、まったく、天皇制を否定しては、島国の日本人の国としての纏まりがつかないし、また、日本史を無視したり、それを貫いている天皇制を無視する行動パターンは日本人ではないと考えている。
 平成17年の残暑9月11日におこなわれた郵政民営化衆議院選挙をみても、日本人の有権者および政府の軽率な行動パターンには惘れてしまう。

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参考文献

1) 家永三郎、『聖徳太子集:日本思想大系』、昭和50年、岩波書店、1975年
2) 石田尚豊、『聖徳太子事典』、平成9年、柏書房、1997年
3) 坂本太郎、『聖徳太子全集第一巻』、昭和17年、、龍吟社、1942年
4) 井出時秀、『聖徳太子論纂』、大正10年、平楽寺書店、1921年
5) 佐伯定胤、『聖徳太子の憲法』、昭和18年、朝日新聞社、1943年
6) 井上光貞、『日本書紀』、昭和62年、中央公論社、1987年
7) 野尻抱影、『星と東方美術』、昭和46年、恒星社、1971年
8) 岡田諦賢、『聖徳太子傳暦譯解』、明治27年、哲学書院、1894年
9) 大野達之助、『聖徳太子の研究』、昭和45年、吉川弘文館、1970年
10) 黛弘道、『聖徳太子事典』、平成3年、昭和新人物往来社 1991年
11) 頼山陽、『日本楽府』、平成8年、PHP文庫、1996年
12) 頼久太郎、『日本政記』判本(頼氏蔵版、和綴本、木活字)十六巻
13) 安藤英男、『頼山陽日本政記』、昭和57年、近藤出版社、1982年
14) 山本信吉、『古典籍が語る−書物の文化史−』、平成16年、八木書店、2004年
15) 大山誠一氏、『聖徳太子の誕生』、平成7年、吉川弘文館、1995年
16) 大山誠一氏、『聖徳太子と日本人』、平成17年、角川文庫、2005年

   

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