帝都復興へ

 ついに、時代は昭和に入り、東京帝都復興成る。実に大震災から7年目のことである。昭和5年3月26日、帝都復興ノ事業ハ官民協同ノ努力ニ頼リ歳月ノ短キ・・・の勅語が昭和天皇からのべられて、帝都復興祭には東京に花電車、山車がでて陽気に祝った。自然の破壊力の壮絶さに比し、人間の力は微力ではあるが、その積み重ねで復興から発展へと続くのである。

 地震の予知は現在でも困難であることがわかっている。大地震の周期などは無いのである。地震大国日本に、山地であろうと海辺であろうと、住んでいる限りは、いつ大地震がおきても、おかしくないのである。むしろ、平穏に、くらしていることのほうが稀なことと考えておかねばならない。

 防災として何が必要か、災害時何をしなければならないかを、想定しておく必要がある。人の一生で大災害にあわなければ幸いだが、周期からみると60〜100年で、人の一生、還暦と重なる。

 「災は、忘れたころにやってくる」は寺田寅彦の警句であるが、いい得て妙である。
それは二点からで、一点は、大地震頻度として、日本の大地震災害では、その周期は60年以上と長い。この間に、いくつもの世代が埋没してしまい、体験者がいなくなってしまう。そのころに大地震、大災害がおこる。
 もう一点は、防災を常日頃考えていても、平穏が続くと、ふと防災観念が無くなってしまう。忘れてしまったそのころ突然大災害がおこるのである。この常日頃人間の観念のなかの災害をわすれないようにしておかなければならない。
 寺田は、被服廠跡の震災火災で、江戸民が対処にすぐれていたのに、東京民は震災火災の江戸民の心得を忘れてしまっていた。災害に対する心得をわすれるなという意味でいったのである。

 大災害には周期はないということ、そして、常に、最低、年に1回は、9月1日には、災害について、その予防策を考えることが肝要なのである。「備えあれば、憂いなし」。 ここ、30年以内に、東京に、大地震が襲来する確率は70%で、死者13,000人、被害額112兆円、避難民は270万人と予想されている。

   

横網町、被服廠跡が語る火災

 関東大震災は1923年、大正12年9月1日土曜日、午前11時58分44秒におきている。震源は相模湾沖、東京より100キロで、房総半島の脚先、東京湾入り口にあたる。震源地に近い江ノ島の西の鵠沼(くげぬま)では、上下運動があり、一端 3、4秒すぎてから横揺れがはげしく、家屋は悉く崩壊がはじまっている。家屋崩壊の下敷きになる人多数。

 しかし、横浜の住民は意外に落ち着いていて、脚本家スキータレツは、その被災程度が重大にも拘わらず、住民は驚くべき沈着さをもっていたことを報告している。グランドホテル、オリエンタルホテルも轟音とともに倒壊し、宿泊外人も多数即死した。やはり火災も発生しているが、ほぼ初期消火に成功している。これは、家財道具を運ぶことなく、冷静に避難したためである。それでも約80%は焼失している。

 皇族で、小田原の閑院宮別邸におられた寛子女王殿下、藤沢の吉村邸の東久邇宮師正王殿下、鵠沼近くの鎌倉由比ヶ浜別邸の山階宮妃は、それぞれ、この時、圧死された。

 しかし、東京は完全にパニックであった。マグニチュード7、8で、裂震。殆どの家屋は崩壊し、後かたづけをしていた。家財道具を持ち出した人たちは、避難場所に行こうかどうか、思案していた。少し落ち着きはじめたころ、午後3時頃より、各地から火災が発生している。生活は石油ランプを使っていたし、丁度昼過ぎで、昼食の用意をするために竈に火をいれていたし、七輪で火をおこしていたところに家屋崩壊をおこし、火の手があがっている。天ぷら屋からも火は出る。

 さらに重要で、最大の火元の原因は薬品であった。学校、大学の保管薬品が棚からおちて、これに火がついた。出火しても、学校はまだ夏休みのところが多く、火の始末をする人々はいない。
 蔵前の東京高等工業学校、富士見町の日本歯科医学専門学校、明治薬学専門学校、牛込市ヶ谷の陸軍士官学校予科理科教室、本郷の東京帝国大学工学部、医学部、病院診察室、麹町の麹町高等小学校、芝の慈恵会医科大学、小石川の専修高等女学校、日本女子大学校から出火した。

 蔵前橋を渡ったところは昔、本所区といわれており、いまは墨田区横網町公園(よこあみ)になっている。両国駅から北に徒歩10分程の、国技館、江戸博物館の北、清澄通りと蔵前橋通りの交差場所で、同愛病院の東。西南に当時、安田財閥の大邸宅があった。ここに軍服を制作保管していた被服廠(ひふくしょう)があった跡地で、約2万坪と広大で三角形の土地である。ここの広場に、被災者は家財道具ととも避難してきた。その数約4万人。

 蔵前橋をわたって家財道具を運びこんでくる人、両国から避難してくる人で、ごったがえしていた。馬に大八車をひかせて、家財道具を、この地まで運んだ者も多かった。一休みしているときに、午后4時ごろ、両国駅方面から出火。風も急に強くなり始め、5分もたたないうちに東からも火の手があがり、その火の粉で、ついに被服廠跡の家財道具が燃え始め、人々の服に火がつき、椿油の女性の髪にも火がつき、一気に4万人ごと火の海にのまれる。
 一部の2,000人ほどが、その場から自力で逃げおおせているが、これは、ほとんど奇蹟にちかい。
 この火で旋風、竜巻がおこり、馬から人間までが、10メートルも宙に浮き、地面に叩きつけられるという異常、地獄の光景になる。3時間燃え続け、約3万8千人が焼死し、あっという間に死骸の山と化した。
 この被服廠跡の焼死者3万8千人で、関東大震災の死亡者の55%である。

 また、逃げ延びた人々の証言が詳しく紹介されている。麹町消防署林錠太郎氏、小櫃政男氏、山岡清真氏の回想で、被服廠跡の火災の壮絶さは無類であり、あまりにも、残酷であるため、ここには記さない。

 吉原でも火災が発生し、弁天池で、芸奴が寝間着姿で、490名焼死死体となって、ビッシリ池全面を覆っていた。これは、娼家の出火で逃げ仰せなかった女性たちで残酷なことであった。

 発火したのは東京市の84箇所で、安政2年の大地震の焼失面積の19倍とすさまじい。これは、地震があまりにも激しく、初期消火に失敗していること、延焼を抑制するための破壊消防をおこなわなかったこと、家財道具を持ち出していたことが原因である。

 そのほか、隅田川には何万という死体が浮き、さらに火災は全東京にひろがり、次々日まで続くのである。完全に鎮火したのは9日3日午前6時である。

 9月5日から大量の腐敗する焼死体の処理を行おうとするが、あまりの多さで作業はすすまない。9月8日に警視庁衛生部に片山秀男という男が訪れて、重油で火葬する装置を考えついたので、この装置で奉仕したいと申し出てきた。市衛生局との協議で、片山に一任することなった。9月9日被服廠跡の死者の荼毘処置がおこなわれ、その遺骨の山は3メ-トルに達した。水戸住人岡崎徳次郎氏の寄贈の大甕70個に納められ仮納骨堂におさめられ、その後、大正12年9月1日と、被服廠跡をもじった一二九会(ひふく)が組織され、いまにのこる慰霊堂が建設されたのである。

   

地震火災をまぬがれた場所

 現在でも、柏に大地震がくれば、火災は発生する。なぜならば、学校の薬品や、デパートから食堂、ファミリーレストラン、コンビニから出火するおそれは充分あるから。しかし、これらには、消火器の設置や初期消火のための貯水池の確保が義務づけられていたり、学校の薬品管理には定期的に消防署の調査がおこなわれている。あとは大きな石油コンビナートからの出火や個人の火の始末にかかっている。とくに厳寒の石油ストーブは危ない。ガソリンスタンドからの出火はないことが、阪神大震災で証明されている。

 関東大震災で、火災を免れた地域はあった。まず、浅草境内にも10万ほどの避難者があつまっていた。周囲は火の海であるが、ここに入る人は、徹底的に荷物の搬送は禁止されていて、充分これを守ったから火災から逃れられたのである。そして、境内には池があったので初期消火に適していた。これを指導したのは鳶頭の馬場斧吉とその組手、8名である。火の粉のなか、この人力によるバケツ連携搬送は見事で、二天門、被間稲荷、観音堂も無事、残った。

 そのほか、石川島、佃島、神田和泉町、佐久間町、神楽坂下がのこっている。これは、関東大震災の奇蹟である。神田川の水が利用できたこと、耐火構造の建築物にかこまれていたこと、道路が広かったこと、そして、なにより、住民が逃げ出さないで、火と格闘し、消火にあたったことである。とくに和泉町内務省衛生試験所をバケツリレーで消火したのは立派。
 なんと、消し終えたのは9月2日の午前0時である。出火後36時間におよぶ、寝ずの消火作業であった。その結果、東京全焼のなか、この和泉町に1600戸の家々のみがぽつりと焼け残った。江戸から遺る下町住民の執念である。

 神楽坂下については、永井龍男の『東京の横町』の関東大震災に書き上げられているが、
皆が思わず声を挙げるほど、火災とは一切無関係で、潰れた家も焼けた店もなく、呆然としたと書き込まれている。
 永井は神田に住んでいたが、一端明治大学に避難。その後、火災からのがれるために、上野、日比谷公園に向うがどちらも大混雑していたので、こんどは皇居へ向った。夜間、避難民は皇居内に雪崩こもうとして、大門のまえで、近衛兵の隊伍と格闘騒ぎになり、翌日の朝、避難場所を変え、駿河台から神楽坂まで戻ってきたのである。
 実家は焼失し、中野の義姉の家まで避難するために、神楽坂を通過したときのこと、神楽坂は大地震がなかったかのように、夢の如くに無傷でのこっていたのである。なぜ崩壊、火災を受けなかったのかは不明。

 野上彌生子さんは、『野上彌生子日記震災前後』で、九月一日の地震の際は、「一息の間じつと目をつぶつて我まんしてゐればすむものとおもつてゐた」のであるが、あまりの強さに、道灌山(荒川区西日暮里開成学園)に避難している。ここまで浅草の火が飛んで来るし、「火事で夜間は明るく灯が要らない位であった。今度こそ怖ろしいというものを感じ、見た。而してつくづく人間の無力を知つた。心から自然に対してケンソンな気もちになり、神に祈つた。」と語っている。

 隅田川の橋では、新大橋と両国橋の二つのみ遺った。理由は新大橋は頑丈なつくりであったことと、橋本巡査部長が徹底的に荷物の搬入をゆるさなかった。このことによって橋の焼け落ちるのを防いだ。

 震災予防調査会委員の中村清二理学博士は、火災防止に薬品の管理を厳重に、その取締を強化すること、建築物は耐火耐震構造にすること、避難場所には荷物置き場を指定し、その避難所は防火装置を設備しておくことを絶対条件としている。
 さらに火除原をつくり道路幅を充分にとることを述べている。この点は江戸時代のほうがすすんでいた。近代東京では人口がふえすぎて、防火の注意を怠っていたのが、今回の地震火災で、3万人ちかくの人命を失った原因であるとした。

 結局、全市人口の67%の135万人が家屋をうしない、7万人が死亡し、130万人が避難所くらしとなった。その、避難場所は上野公園、浅草、宮城外苑、日比谷公園、芝公園、赤坂離宮、新宿御苑、明治神宮である。

 このなかで最大の避難所は18万坪の上野公園で、50万人があつまっている。その後、食糧難、汚物の増加とともに伝染病が急増し、秋ふかくなって、気管支炎の死亡者が続出し、流言飛語に戦き、精神異常者も多発する、いわゆるトラウマ現象は増大するばかりで、盗賊も頻発する。そして社会は、大恐慌となっていく。

 災害状況を他県が知ることになったのは、1日の夜になってからである。新聞社はすべて崩壊し、東京日日新聞が9月5日から発行を再開している。したがって、この震災とその後について、新聞等で調べ上げるわけにはいかない。吉村氏のように、このような広範囲の大規模の災害では、後の聞き込み調査、体験談を聞くしか方法がないのである。

 その5日間に、津波が来るとか、朝鮮人が暴動をおこし殺人に夜あらわれるというような流言飛語が飛び交う。

 地方新聞にも誤報が多数でている。福岡日日新聞は芝浦に大海嘯来襲、千人死亡や、上の山下に津波、物凄く渦巻き、南無阿彌陀仏など、駿遠地方の大地震や、濃尾平野の大地震などや、台湾日日新聞の富士山爆発など誤報が目立つ。この中で、仙台の河北新報が仙台鉄道局の鉄道電話から正確な関東大地震を知り正確な報道をおこなっている。この情報から全国にひろまった。

 日本の中心地の大災害であったため、周囲からの援助作業は、遅れに遅れて9月5日以降になっている。小千谷での災害でもそうであるが、現在でも大地震災害では交通網が完全に遮断されるので、空路を使用するしか援助方法はなくなる。これについても災害程度を早く、正確に知り、周知徹底することが最重要である。また、今は携帯電話での通報方法があるが、長期蓄電可能な電池の開発が必要。たとえば、手で回す、太陽電池の利用など。

   

余震と津波災害と死体処置

 余震は9月8日まで続く。2日の午前1時46分55秒に強震があり、午后6時27分、午后10時9分29秒にも強震がきた。これは相模湾での地震の影響で房総半島勝浦沖に地震が発生したためであった。その後、3日に59回、4日に43回、5日に34回、6日に27回、7日に23回、8日に21回の余震がおきている。

 津波については、東京にも大津波がやってくるとの流言があったが、実際には東京には津波被害は発生していない。大島や熱海では12メータにおよぶ津波がおしよせた。

 被服廠跡の焼死体は、前述したように3万人におよぶ死体を片山秀男開発の重油火葬炉方法がとられたが、本所、深川、隅田川、神田川に浮かぶ死体の収容には9日から15日までかかり、約2,100体を収容しているが、その作業はきわめて困難であった。16日より丸ビルなどの倒壊建築物の圧死者の収容作業がはじめり、その数1,328体であった。

 避難者の糞尿の処理については、埼玉、千葉、神奈川から農業用にしようするため処理を依頼したが、その費用、日当があまりにも安いので拒否され、船で、東京湾沖合まで運ぶこととなった。10月にはいって赤痢、シフスが流行しはじめた。

 現代日本各地で、介護保険で高齢者の介護サービスをおこなっているが、孤独死、事故死については充分な配慮が必要だ。阪神大震災では高齢者の孤独死が多数でたが、中越大地震では極端にすくない。これは、県民性のちがいで、とくに小千谷では高齢者がおおいにもかかわらず、孤独死は1例だけで、避難所では皆近所付き合いしていた人ばかりで、孤立してしまう人はいなかった。さすが、官軍を敵にまわして、小千谷を守ろうとした河井継之助を生んだ土地柄で根性がちがうし、忍耐強い。柏ではこうはいかない。

   

樋口一成と震災

 慈恵医大の元学長樋口一成(1904-1975)を、ルポライターの森彰英氏が、『人と日本』に、「武見の対抗馬、樋口一成」の題目でミニ慈恵史とともに語っているが、学祖高木兼寛の孫、慈恵の中興の祖。「私自身が慈恵である」、「慈心妙手」、「真恵」を語る時の、カバのような風貌と、しわがれ声を聞いたことのある昭和を生きた人々には、太陽であった。

 その男ぶりには男が惚れる。代々木の家では豊子夫人とふたりの女の子で、完全な女系家族のため、そとでの男の付き合いと名誉職が極端に多い。本人の趣味は多彩で、ピアノに懲り、浮世絵の愛宕山暮雪を愛し、カナダまで鱒釣りにでかける。産婦人科学会などの医学会のみならず、私立大学協会、日本コリー犬協会、日本水泳協会、ゴルフ、競馬協会の会長をつとめ、三菱の岩崎兄弟、石井光次郎、吉田茂などと、鹿鳴館の名残である霞ヶ関の東京倶楽部で紳士の付き合いをし、夜の銀座の柳通りでオールドパーを飲み干し、帝国ホテルを「おれの庭」と豪語していた。変ったところでは明治神宮宮司長でもあった。明治神宮も「わたくしの庭」と称していた。
 ぎっしり詰まった人生で、昭和49年11月23日、勲一等瑞宝章を拝受するが、7ヶ月後の50年6月26日咽頭癌で急逝した。

 この樋口が『樋口一成伝』の125ペ-ジに、関東大震災体験記を書いている。慈恵医大は当時、金杉英五郎耳鼻科教授が学長の時代で、1922年大正11年に慈恵予科に入学した。次年夏、一人で千葉の館山の別荘の2階で寝ころんで、本を読んで夏休み最後の日をすごしていた。このとき、震源地に近いこともあって、烈震で、別荘は傾く。2階に梯子をかけてもらい脱出。夏休みだけ借りていたピアノが毀れたのが被害の筆頭であったという。夜になって、津波が来るぞという叫び声で、高台に移った。

 しかし、その夜、津波はこなかった。次の日、海に出てみると魚がいくつも浮いていた。やがて、東京から多数の避難民が汽船で館山に着いた。町当局は食料事情を理由に入港を断っている。近くの懇意にしていた鈴木病院にむかうが、ここでも庭に多数の死体がころがっているし、負傷者でごった返していた。別荘にひっ帰へす。房総東線が動いていることを聞き、一人で上京を決意し、千倉を経て、鴨川まで40キロを歩いて行き、列車に乗り込んだ。

 しかし、雰囲気がおかしい。海水浴で日に焼けた黒い顔に、慈恵の霜降り制服、麦わら帽子の出で立ちからか、周囲の人の自分を観る眼がおかしい。いまにも、飛びかかってきそうな気配である。あとで解ったことだが、付近の駅で朝鮮人が殺害されたという。列車から飛び降り、近くの新聞販売店に走り込む。
 この一宮の新聞販売店の主人とは以前から顔見知りだった。事情を察した主人は警察著に連れていってくれて、その日は警察の留置場で一夜をすごした。警官の護衛つきで次の日、館山まで戻ってきた。留置場にはいったのは一生で、このとき一度かぎりであった。

 その3日後に父、繁次産婦人科教授が、海路で、富浦まで迎えにやってきた。鳥打ち帽をかぶって、中国服をきていたため、また朝鮮人に間違えられ、住民に包囲されてしまう。父は狼狽せず、どっかと地面に端座し、禅を組み、観音経を唱詠しはじめたという。包囲した人たちは日本人にまちがいないと包囲を解き、無事に倅の館山につき、二人で東京に帰ったという。

 これは、もう30年前に『樋口一成伝』を読んだときに、印象にのこっていたのを思い出して、ここに、紹介したわけである。

   

流言飛語と暴動

 東京以外の地域では東京に何がおこったのか、通信不能のため、9月5日まで、まったく不明の状態が続く。政府がなくなったのか、無政府状態になってしまったのか。地方新聞からの情報は出鱈目報道ばかりである。人心はちょっとした流言に翻弄されてしまう。
マスコミメディアは完全に崩壊しているにもかかわらず、流言の広がりは驚異的に早く広い。まさに飛語である。

 巣鴨刑務所の囚人が一人残らず釈放されたとか、その囚人が山の手に忍び込み、放火をしているとか、婦女強姦を繰り返しているのだという流言が相次いでおこった。

 横浜刑務所では実際に、囚人全員を船で名古屋刑務所まで運んでいる。豊多摩刑務所では所内で暴動が発生したし、巣鴨刑務所では屋根が崩壊し、ここから囚人は逃げだそうとしたが、抜剣、発砲で、混乱は治められている。

 明治38年、1905年、12月、伊藤博文が初代統監となり朝鮮を掌握した。その後、明治42年1909年10月26日に伊藤は、ハルピン駅で安重根に銃殺されている。伊藤博文は朝鮮を完全に日本が支配できると考えていた。当然、朝鮮人の不満は強かった。

 明治43年1910年5月には幸徳秋水らの大逆事件で社会主義者検挙逮捕処刑がおこなわれてきた。また、共産党の台頭など、日本の思想界は混沌としてきており、スパイ活動もさかんであった。このような社会情勢で、社会主義者と朝鮮人の暴動がおこっても不思議ではないと思っていたのである。大正時代になってもロマンなどほど遠い事態であった。

 関東大震災で焼け残った市中の門や塀に、12a、2p、K、W 3、ケ、P、≠个などの、奇妙な符号が落書きされており、朝鮮人のスパイの暗号ではないかという。
 全くの流言で、これは牛乳配達、新聞配達、糞尿処理業者が書き込んだしるしであった。

 9月4日、報知新聞社記者内山茂松が上駒込の路上で自警団員に取り囲まれ、社会主義者といって、乱打され、重傷となる。

 9月11日、渋谷警察署に電話があった。下渋谷の平野という男からで、雇用人橋本が、朝鮮人に殺害されたという。取り調べでは、電話してきた平野が高橋を殺害し、所持金を奪ったのである。

 朝鮮人が、水道に毒薬を混ぜているとか、大塚火薬庫の襲撃計画があるとか、この類の流言のために、市中で朝鮮人をとらえて、警察署に引き立てる市民の暴挙があとを絶たない。天災が次々と人災をひきこむ結果となってしまった。
 これらの流言は9月1日午后にはすでに広まっていた。

 茨城県真壁郡竹島で、奇妙な傷害事件がおこった。新聞記者で22歳の京浜中央新聞記者清水罫啓三郎が神奈川鶴見で震災に遭い、妻の実家の真壁に避難してきた。住民が清水を朝鮮人と間違い、その実家を住民が4時間にわたって包囲し、清水に暴行を加え昏睡状態となり、妻も泥だらけになる。警察がでむいて事件を鎮めた。

 亀戸では自警団員がひとりの市民を突然、めった打ちにし、止めにはいった巡査も、滅多打ちにされたため、彼らを留置場にいれた。しかし、留置所内で暴動をおこしたため、亀戸警察署内で、騎兵第13聯隊の将校がこの自警団員9名刺殺したという。

 軍憲兵の甘粕大尉は社会主義者の大杉栄を以前から逮捕してやろうと目論んでいた。9月15日、甘粕は社会主義者の大杉栄と、その内縁の妻伊藤野枝、まだ6歳の甥橘宗一くん3名を自宅の新宿の淀橋で発見し、同行を求め、大手町憲兵司令部に連行し、取り調べの最中に、甘粕が大杉のうしろから頸を締めて殺害している。
 他の2人とも同様の手口で甘粕が直接くびをしめて殺してしまうという事件が発生した。三人の死体は9月25日遺族に引き渡され、落合火葬場で、荼毘に付されたが、この遺骨をピストルをもった下鳥繁造という反社会主義右翼に奪われてしまう。

 甘粕は、千葉刑務所で3年服役し、仮釈放で、フランスに飛び、その後、昭和5年から満州にとび、満映理事長になり岸信介らと派手な活動をおこなうが、終戦で、昭和20年8月20日青酸カリをのんで自殺した。

 この事件があったので、戦時中から憲兵は国民から恐れ嫌われていた。関東大震災を利用し、人心の思想を一気に軍部が掌握しようとするような傾向がみられたのである。

 このように、震災後、流言が飛びかう傾向にあるが、その被災者の県民性というか、市民の環境、日常生活の共助性にかなり影響される。実際、阪神大震災と中越地震でも住民の意識はかなりちがっていた。地震の規模も相当ちがうが、地震後の対応で、中越の人々の忍耐強さと冷静沈着な姿勢は、印象深く、頭が下がる思いであった。

   

あとがき

 地震のまえぶれ、前兆について、気象学の奇才、藤原咲平(1884-1950)が、大正15年に『雲を掴む話』の最後で、大森教授が講義で、変異として、井戸、泉、温泉の前震のことや、初期微動の観察をあげられたことを述べている。「大地震は急激に来る、迚(とて)も逃げられるものでない、ぶつかったならば運とあきらめろ」への挑戦であるが、いまだに完璧な予知方法、良策は解明されていない。

 咲平は、科学的根拠が見つからないときには幾分、宗教的方便に従い寧ろ人を安心に導く事のほうが、人々の幸福にならしむ所以であると思うと語っているが、この感覚は平成の現在でも、さほど変わっていない。関東大震災から83年後のいまでも、予知についてはあまり進歩はないということであろうか。

 関東大震災の科学的前兆として、第一は、大正11年12月と、大正12年2月に、松戸と浦賀水道に強震があった。一部の人の大地震の前兆と口吻したものであった。第二はその夏、品川の井戸水が涸れた事、第三に蔵王沼が白濁した、第四に、富士五湖の水面低下があった、第五に、伊豆山の温泉温度が地震40分前から異常上昇したなどをあげている。しかし、これらはすべて、大地震後に振り返ってみればの話ばかりで、とても科学的予知とはいえない。また、大地震のあまりの直前の現象で、前兆、予兆、予知には使えない。

 そのほか、非科学的根拠として、烏が水を浴びる、雀の影が障子に映る、釜が鳴る、畑で見慣れない鳥を見た、などをあげている、全く根拠はない。

 気象では台風や大雪や干魃の予報にも難しさが有るが、地震の予知は更に難しい。予測の年数が長いことと、来たとおもったら数秒、瞬時であるから、あらかじめ、知らせるというわけにはいかない。

 しかし、最近、池谷元伺氏の『大地震の前兆』では、阪神大震災や中越地震の経験から、動物の不可思議な動きや、植物の変化、地震雲などの異常な気象などは、すべて、地震による地下の微小破壊から起こる電磁波の影響と判明したとしている。
 この異常電磁波の発生を一週から一ヶ月前あたりから測定できれば、地震予知に利用可能で、すでに、この段階に入っている。このことについては、大地震予知のコラムで再度詳細に述べる。

 また咲平は、大森・今村の地震予言のくい違いについて記している。これは地震学というより社会への影響を考慮に入れて、地震を社会政策の問題として捕らえるか否かの問題で、地震学そのものの問題でなかったとしている。
 吉村氏は大森・今村の二人を人間行動の問題として触れているが、咲平は震災当時39歳で、恐らく、大森、今村の齟齬については知ってはいたが、先輩の人生観をとやかく言うほど、奇才、藤原咲平も大人(たいじん)には、なっていなかったのだろう。

 被服廠跡の旋風については、前日の小さい台風が過ぎて、多少これが影響していると考えられるが、これを咲平は見逃していた。気象予報を読み間違っていたと告白している。その突風では、陣風線がおこった。これは、いわゆる増上的生長というもので、火が風をおこし、この風が火を増長させることの繰り返しであることで説明している。天文台も火災でやられた。このことで、みずからの反省もこめて9項目の注意事項をのこしているので参考にしていただきたい。

 その、咲平の地震火災にあったときの注意事項は、

第一、人は大災害のときに遭遇するとショックでぼんやりしてしまいがち。
   これには、行動を指示する指揮官が必要。
第二、持ち出す書類などには水を掛けておくか、穴を堀りそこに埋めておく。持ち歩かないこと。これに飛び火するので。地震火災に貯水が必要。
第三、安全な建物というものはない。建物内に避難しないこと。
第四、大火には消火装置など無効。初期消火だけに利用。
第五、庇(ひさし)に火がついた場合は屋根のほうからは消火困難。下から水をぶっかけろ。
第六、樹木の防火力を利用しろ。
第七、不燃物建築利用と、さらにその地下室が有効。
第八、日下部博士はいう「文明は地震に伴う」どこまでも耐震的方法を考える。
第九、地震で人心を一新することも必要。平穏無事で同じ暮らしには進歩がない。
   災害で人災までひきこむな。

 天災の与える教訓と題して、天災は実に国家の進軍を害し、人命を損し、国富を減じ、最も厭ふべきものである。しかし、この関東大震災の災害を良薬口に苦し、大いに反省し、復興に全力をつくすべきことを述べている。

 今年は2006年平成18年。もう一度いいます。ここ、30年以内に、東京に、大地震が襲来する確率は70%で、死者13,000人、被害額112兆円、避難民は270万人と予想されている。

 巨大な災害があっても、その犠牲を最小にとどめる策を用意するのが良き行政といえる。
地震予知および稲むらの火については別のコラムを参照にしてほしい。

   

参考文献

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 15) 野上彌生子、『野上彌生子日記震災前後』、昭和59年、岩波書店、1984年
 16) 樋口一茂、『樋口一茂伝』、昭和51年、慈恵医大、1976年
 17) 今村明恒、『地震講話』、大正13年、岩波書店、1924年 
 18) 藤原咲平、『雲を掴む話』、大正15年、岩波書店、1926年
 19) 池谷元伺、『大地震の前兆』、平成17年、青春出版社、2005年

   

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