2006年、戌とし、丙戌、ひのえいぬ、平成18年がはじまりました。正月元旦が日曜日で、第二週の成人式は1月9日と、一週間繰り上げになったような年のはじまりで、厳しい寒さの正月でした。気象庁の発表では43年ぶりの冷え込みであるらしい。あまり陽気な正月ではなかった。

 越後は、猛烈な雪、雪、雪で、憎らしいほどに積り、一面、白銀の世界。家々は雪の下。積雪は、津南町で3.8メーター以上、4メーターまで届こうというもの。雪おろしの作業中に141名の人が雪下ろし作業などで事故死している。平成18年豪雪と発表された。殆どが70歳以上の高齢者であった。社会情勢の方はミニバブルを装っているが、年金はでない、生活保護者の補助金、障害者手当金カットで、かなり暗い世情であることは間違いないのだが、国民は気づいていない。

 政府は、年末に障害者自立支援法を発令してきた。小泉政府は最後の足掻きとばかりに、構造改革案を提出するが、現実の国民生活を無視した、机上の、空論の産物で、悪法ばかりである。介護保険も第3期計画にはいった。本年4月から介護予防が導入される。もう滅茶苦茶である。構造を改革しているのではなく、日本を崩壊させているのだ。

 正月早々、メディアを席捲したのはホリエモンであった。突然、平成18年1月17日、ライブドアに株操作違反が認められ、特捜が入り、次の日、株価急暴落し、東証は午前中で取引中止、ミニバブルは1日にして崩壊した。

 そして、ついに、平成18年1月23日の夜、六本木ヒルズにいた堀江貴文社長は証券取引法違反で東京地検特捜部に逮捕され、小菅に護送された。そして、ライブドアの社長を辞任した。

 日本は、このように平成18年は、慌ただしい社会変化ではじまったのである。
 平成18年1月19日におこなわれた小泉首相の施政方針演説の内容で、吉田松陰に「志士は溝壑(こうがく)に在るを忘れず」ということばがあると締め括った。自分を志士と心得ているのであろうか。どこに志がある士といえるのだろうか。靖国参拝していることが、志があるというならば、靖国の安柱は、節介無用と拒否するであろう。

 さて、今回は、ラフカディオ・ハーンから学ぶ津波と教科書について、溝壑がないか、勉強しましょう。

 自然災害は何時やってくるか判らない。ネットで災害に関する情報は、六本木にある防災システム研究所が、膨大な情報をネット公開しているので、http://www.bo-sai.co.jpこれを参考にすると便利である。

 今回は、津波(津浪)である。かつては海嘯(かいしょう)とよばれていたが、今は世界共通語でtsunamiツナミという。

 その潮位より
   50cm以上になると予測された場合に津波注意報が出される。
   1m以上で、津波警報報が発令され、
   3m以上で、大津波警報が発令される。

 注目しておくべき津波災害の詳細を述べておく。

 1854年安政元年12月23日に南海トラフ震源の安政東海地震が発生、その翌日の24日には、これに刺激されてか、南海地震が発生した。このため、江戸の地震災害も強烈であったが、紀州にも、とくに広村に津波が押し寄せ、濱口儀兵衛の機転があったものの、36名の死者がでた。

 1896年、明治29年6月15日、三陸沖でマグニチュード8程度の大地震がおこり、このときの津波災害は甚大で、明治29年6月17日午後8時7分に襲来した。当時、この地域は真っ暗であったろう。しかし、旧暦の5月5日端午の節句であり、日清戦争に勝利し、凱旋兵士の祝いも兼ねて酒宴をひらいていた家屋も多かった。
 被害の大きかったのは岩手県の釜石と気仙沼の丁度真ん中あたりの綾里湾、大船渡市三陸町綾里で、津波災害の高さは、歴代最高の38.2メーターである。ビルの15階以上という、強烈な高さの津波で、約2万人の人命が奪われたという。正確には22,066人で、本州津波史上最高位の津波水位で、遠地地震として、ハワイでも4メートル近い津波水位となっている。

 「津波地震」という言葉があって、地震はたいした揺れではないが、大津波がやってくるタイプの地震をいう。これがもっとも怖い。

 1983年、昭和58年5月26日午前11時59分に男鹿半島沖で地震。北秋田郡合川南小学校(大館西、男鹿半島から内陸60キロ)の児童がバス旅行で、男鹿半島加茂青砂海岸(かもあおさ)にきていた。昼、丁度、海岸に着いた時に揺れの強い地震があった。バスにゆられていたので大人も運転手も気が付かない。さー楽しい海岸でのお弁当をたべましょうと、岸にちかずき、昼食をとりはじめた。地震から7、8分後に、かなり遠浅の静かな海岸に6メートルの巨大な津波が押し寄せ、あっという間に、小学生4、5年の生徒と引率の先生を含め13名が海にのまれて犠牲になった。

 2004年12月26日のスマトラ沖地震による大津波では、じつに30万人が死亡している。
津波地震の恐ろしさである。

 北海道の日本海の南西沖地震による奥尻島大津波災害で、発生したのは、1993年、平成5年、7月12日午後10時17分、漁民が寝こんでいたところに、グラと来てから17分後の、30メータの大津波が襲来し、島の西岸は完全にのみこまれてしまった。

 「津波てんでんこ」といって、津波の速さ、高さ、その力で、家屋から樹木まで、一気に、根こそぎ流失させてしまうのである。木造家屋の土台だけをのこして、あっという間に、すべて運び去ってしまう。

 「遠地地震」という言葉もある。津波がやってくるのは、日本列島沖の地震とは限らない。この代表はチリ地震である。地震は感じないが、津波が襲来する。1960年、昭和35年5月23日チリでマグニチュード9.5と裂震が発生した。
 次の日、22時間後に、北海道東部に3メートルの津波が襲来した。これで津波の伝播速度を計算するとv=√ghで、gは地球重力の加速度で9.8、hは水深で、例えば、水深2000メートルでは、時速500キロ、水深4000メートルで時速700キロで、その速度はジェット機の速さである。チリと日本は太平洋をはさんで、1万7千キロで700キロの猛スピードで来襲し、22時間後に日本列島に到達する。

 柏市では津波は無関係と考えているかもしれないが、大地震で利根川の堤防、橋が崩壊していて、これに海から30メートル級の大津波が遡上し、布佐あたりで堤防は決壊し、利根川から大量の水が流れこみ、手賀沼は一気に水嵩を増し、一瞬のうちに柏市市内は水没してしまうことは充分ありうるのである。市内の高い建物は直下型大地震で崩壊してしまっているので、これも水没してしまう。

 1994年、平成6年10月4日におきた北海道東方沖地震で、津波警報がだされたため、根室花咲港の水門をしめようとしたが、閉まらない。このM8.2の大地震で、水門を移動させるレールがゆがんでいたためで、防壁の役目を果たさなかった。

 「津波では、モノをとりに、戻るな!」が、原則。一目散に、振り向かず、時速30キロの津波に負けないように、全力疾走で逃げろ。

 『森繁自伝』にでているが、1946年12月21日早朝午前4時、徳島県牟岐町で、津波地震にあった。森繁久彌氏は満州から引き上げてきて、食いつめていたので、人に誘われて、魚の問屋でひと儲けしようと、この地にやってきた。津波は大津波で、二波、三波とどんどん高くなる。

 母と子ども6人が、高台の神社まで避難した。森繁は、その家族を確認するために神社に行ったが、子供は全員そろっていたが、母親がいない。どうしたんだ。「かあちゃんな、みんなつれてここまで来たけど、また、お金をとりに戻った」という。スグに引っ返して探索したが、桑の木の根っこにひっかかって、その女は息絶えていた。そして、その帯の奥から、財布がポツリと落ちてきたという。

 1) 地震を感じたらスグ高台に避難
 2) 津波は1回ではない。何回も襲来する
 3) いったん避難したらモノを取りにもどるな!
 4) 上陸後の津波の早さは3倍になる。その走りは時速30キロ以上
 5) 津波の高さは湾奥で最上になる
 6) 津波は河を遡上する
 7) 避難場所を確認しておけ
 8) 鉄筋コンクリの建物に逃げろ
 9) 注意報でも、あまくみるな

 以上は、伊藤和明氏の『津波防災を考える』による、津波から身を守るための9項目である。

 地震、津波、とは無関係と思われるかもしれないが、醤油のはなしから、しなければならない。

 醤油は、日本の調味料としてはトップですが、味噌の仕込み違いで偶然開発された調味料である。鎌倉時代、紀州由良の興国寺の覚心が中国の径山寺味噌をもちかえり、味噌の仕込みを紀州湯浅の村民に教えていたときに、仕込みの手違いで、樽の底に貯った汁を調味料として利用したのがはじまりで、以後、いわゆる「たまり醤油」は日本中で利用されて、その需要は全国にひろがった。

 江戸時代にはいり、紀州で造っていた醤油を、陸路で江戸の町まで運ぶのは大変で、4代将軍家綱の時代に、海運業で成功した同紀州の崎山次郎右衛門のすすめで、千葉銚子に1645年正保2年、紀州湯浅の隣村の広村出身の濱口儀兵衛が、醤油屋を創業したのが関東の醤油業のはじまりで、その会社がヤマサ醤油である。因みに、野田のキッコーマンは1917年大正6年の創業である。

 その後、現在まで、12代、濱口儀兵衛が家長として醤油業が営まれている。7代濱口儀兵衛(梧陵)は1820年文政3年のうまれで、1854年安政元年に、34歳であったが、たまたま、紀州の広村に帰郷していたとき、12月23日、安政元年の安政東海・南海地震はM8.4と南海トラフ活動がおこり、24日に紀州にも大津波がおしよせた。

 高台に在る実家から海辺の村民を助けるために、刈り上げてあった、稲の穂(稲村;いなむら)に火をつけて燃やし、是を見た村民が濱口儀兵衛の自宅が火事だと思いこんで慌てて高台まで昇ってきた。そのあとで、津波が広村を襲ったが、村民は皆無事であった。

 村長(むらおさ)の濱口の機転で尊い村民の命を救った、このはなしは、その後も、語り継がれ、そして、地元広村の人々は濱口儀兵衛を、「大明神」、「生神様」と崇めた。「濱口大明神」を祀る神社は、本人が嫌って普請されていないが、感恩碑が、昭和8年に堤防の向こうにたてられた。
 町の高台には、八幡神社があって、実際は、皆ここに避難したという。

 彼の公共事業への、相互扶助の考えは、さらに達められ、明治にはいって、初代逓信頭(郵政大臣)、和歌山県知事になっている。

 明治以降、彼の死後も、村民は協力し、防波林をつくり、堤防を造り続ける。この防波林は、いまも広町にのこっており、小学生の子供達が毎年防災の日に土砂をはこび、防波堤の拡充、防災教育が続けられている。二列に整然と立ち並ぶ松林は、樹齢150年で、長さ370間あり、広町の人々を津波から守る、心強い防波林に育っている。濱口の目論見はズバリ的中した。

 梧陵は、ニューヨークに商用に出かけた折、明治18年、1885年、66歳で客死している。

 明治中期、ラフカディオ・ハーンは、この逸話を大阪毎日新聞でしることになる。そして、濱口儀兵衛を五兵衛として「生神様」という小説で紹介した。さらに、地元の中井常蔵が、昭和8年の国民国語読本の教科書教材に、ハーンの『生神様』を和翻訳した形で『津波美談』として応募し、これが『稲むらの火』と題名が変えられて掲載された。そして、いま、また、この教科書教材として復活に期待されている。

 今度は、この濱口梧陵の相互扶助の精神を文章にした小泉八雲のはなし。ラフカディオ・ハーンは、1850年にギリシャのレフカス島で生まれた。父はアイルランド人軍医、母がギリシャ人。1890年(明治23年)に40歳のときに来日している。國嶋一則氏によると、ハーン(1850-1904)が米国で新聞記者として働いていた折、明治21年1888年に発刊された天文学者のパーシヴァル・ローエルの日本紀行文『能登;NOTO』や、日本人の文化、個人と家族、言語、芸術、宗教、想像力について述べられた『極東の魂 ; The Soul of the Far East 』を読み、これに甚く感動し、日本行きを決意したという。

 1890年4月4日に横浜に着き、早速9月から松江の尋常中学校の英語教師となった。僅か1年半の松江滞在であったが、教頭に西田千太郎がいて、彼から多くの日本情報を得た。出雲大社を拝観し、神道を宮司千家尊杞(たかのり;詩人千家元麿の叔父)から教わった。松江への赴任は、わずかな期間であったが、ハーンにとっては日本を知る好地、好機であった。ハーンも立派だが、このような巧妙な環境条件を整えた神に感謝しなければならない。

 当時、各県に1、2校の尋常中学校しかなく、日本のどんな地方の尋常中学にも外人教師がいるのが普通であった。百年前の明治の中学生の方が、現代の高校生よりも外人教師に接する機会が相対的に多かったという、皮肉な事実である。

 1891年(明治24年)の11月の19日から熊本の第五高等中学校に転任し、1894年(明治27年)10月から神戸に2年間、1896年(明治29年)の9月から学長外山正一の推奨で東京大学で教鞭をとった。

 松江時代にもどる。松江に赴任して8ヶ月後、1891年(明治24年)5月11日、ロシア皇太子ニコライが来日していた。こともあろうに、警護中の日本巡査が皇太子に斬りかかるという、大津事件がおこった。国民は震撼した。明治天皇は対ロシアと戦争が勃発でもしたならばと皇太子の身を案じられた。
 天皇はニコライ皇太子救命のため、東大の池田謙齋、陸軍軍医総監橋本網常、スクリバ、海軍軍医総監高木兼寛を京都に急派命令されている。これは慈大新聞からの情報である。
 これらのことを新聞は「天子様御心配」と報じ、国民は、明治天皇の胸中を察し、蕭然となる。君主の憂いを国民が共に憂うという、非をわび罪を償いたいという願いが、忽ち、人々のあいだから沸きおこったのである。

 そして、この陛下の賓客に、直接、国民から見舞品が届けられるようになる。全国から先祖代々伝わる高価な品や、貴重な家宝を惜しげもなく差し上げ、ついに、貧富貴賤をとわず、全国から金品の送付までおこなわれるようになった。

 神奈川のある富豪に仕える一人の若い娘、畠山勇子(千葉県長狭郡鴨川町横渚生まれ)は、自分は碌の無い身であり、差し上げる物もない。神様に相談したところ、お前の身があるではないかとお告げがあった。翌日、一番きれいな着物に、真っ白な足袋をはき、京都まで一人で出かけ、女髪結に行き、髪を整えた。弟と、府所高官あてに、斬りつけた巡査の罪を自らの命とひきかえに、許してもらいたいという懇願を書いた二通の遺書を懐に、夜ひとりで、官衙(かんが;役所、京都府庁)の奥深い門をくぐり、そこで、白布を敷き、細帯で膝を縛り、剃刀で頸動脈を切って、自害したのである。

 日本人の誰もが、この娘の自害の原因は男との不義、家庭の不幸だろうとぐらいにしか考えていない。しかし、ハーンは、この若い女性が、「天子様御心配」と、自刃した事件を聞き、日本国民の道徳心、神道の本随を観たようで、このことを『知られぬ日本の面影』の「勇子ーある美しい思い出」として、書き遺している。
 明治天皇は、この事件で、民の愛慕を知り、以後、嘆くことをお止めになられたという。
 なにやら、特攻隊を見る思いがするが、ハーンの創作ではなく、実話で、後にのべるが、再話文学である。その後、『京都紀行』に書かれているが、ハーンは京都に旅行した時、勇子の墓のある末慶寺を訪れ、彼女の霊を弔っている。

 さて、津波の話であるが、ハーンは1896年(明治29年)9月秋に、東京の市ヶ谷富久町にいたが、その初夏に妻セツの実家の松江にもどっていた。この時、6月15日の三陸沖大津波の被災状況を知った。そして、6月21日付けの大阪毎日新聞で、その三陸大津波の関連記事で、安政元年の東海地震の津波での濱口梧陵の機転を知り、濱口を主人公に、日本人の心と神と社会を小説にしようと考えた。

 その小説の題名は、A Living God、 生神様で、このエッセイは、東京に戻り3ヶ月ほどで書き上げて、1897年、明治30年に『佛の畑の落穂』の「生神様」A Living God として発表し、これを『大西洋評論』に寄稿、12月号に掲載され、世界中で読まれたのである。

 実は、ハーンが、いつ、どこで、どこから、濱口梧陵(7代濱口儀兵衛;浜口五兵衛)の偉業を知ったのか、不明であったが、それが大阪毎日新聞であることを見いだしたのは府川源一郎氏である。これはハーンの曾孫の小泉凡さんに精査依頼し、最近になって、この記事内容が発見されたのである。
 かつて、平川氏などは、濱口梧陵に詳しい楚人冠が、大阪朝日新聞の関係者であったので、当然「朝日」新聞に掲載された記事であるとの思い込みがあり、楚人冠も、左右田実も、平川も当時の「朝日」新聞をあたって、見い出せなかったという経緯があった。

 その明治29年6月21日付の大阪毎日新聞のその内容は、

「又紀州に起こりし海嘯一身一体漸次に増水したるものにして当時有田郡の住民は夜中のことゆえ逃道に迷ひたるを土地の豪農浜口儀兵衛氏は早くも機転を利かして後ろの山に積みありし稲村に火をつけさせたれば全村之を目的に駈け出して生命を助かりたりとぞ」

 僅か、これだけの記事である。しかし、見て、感じて、考える、47歳のハーンの記者魂は頗る健在で、その健気にまかせ、世界へ日本情報として、生神様といわれた濱口梧陵の偉業を文飾して、日本の神道を、世界に発信したのである。

 さて、そのハーンが出版した『生神様』 A Living God は三章からなっている短編小説、エッセイで、再話文学であるが、単純に濱口五兵衛の逸話ではなく、日本人思想の根源をさぐる哲学書になっている。神道、佛教を考察し、きわめて、内容は深淵なのである。

 その第一章は日本人の心、神道とのかかわりについて詳しく述べている。

 日本の社殿のりっぱさ、神秘さ、その神々しさを英語表現するのに苦労する。たとえば、社殿をtempleやshrineと訳してもその意味はピタッとしない。むしろ haunted room とか spirit chamber や、極端に ghost house といったほうがよいのかもしれない。聖なる杜の影の中にひそむ日本人の神道の精神や御神楽の太鼓の響きや、その舞からくる深遠を感じるのは、なかなか西洋人には理解できない。
 日本人は、このような神道の精神性のもとに暮らしていて、村の生活は神社が中心であり、年間行事も神社が中心でおこなわれている。日本人の生活はこの神の存在なしでは考えられない。神に祓い給え、浄い給えと、降雨の願い、色白にしてください、出兵の武勲健闘をまで恃むのである。若い娘が御神楽を舞う意味、杉や松のなかに神社が存在する意味を説明し、ここに、その人の魂のために神社が建てられ、神様として遇されるのである。

 第二章は、村の人々の道徳心について、むらの長老は自分の立場を誇示するのではなく、村人の相互扶助の精神を大切にする。たとえば、娘が男のことで罪をおかすと、5年間の罰が科せられ、両親も共に罰をうける。しかし5年が経過すると、すべては水に流してやり、また元のようにくらしてよい。これを村の長者がとりまとめるのである。

 第三章から浜口五兵衛の話に移る。これはさらに4つの部にわけられている。

 其の一、日本の海岸は有史以来津浪になやまされてきた。明治29年の6月17日に夕方にも紀州に地震があった。この時、三陸では大津浪で大被害がでている。そして、江戸安政のころ、村の長者、浜口は高台にすんでいた。

 其の二、江戸、五兵衛のはなし。ある夕べ、たいした地震でもないので、誰も驚かなかった。そのうち、揺れが収まらず、ただごとではないと五兵衛は思う。海を眺めると、海面の模様がおかしい。風に逆らって動いている。沖に走るように潮が引いていく。津浪だと気づき、孫息子に命じて、松明に火をつけさせ、稲の穂に火を付ける。浜の民はこれをみて、村長の家が火事と思い駆け上がってくる。「皆あつまったか」、組長が、「皆もうだいたいここへあつまったが、しかし一体これは何事ですか」、「来た!」後ろの海を村長は指さした。大津浪である。

 其の三、津浪災害は民家をすべて飲み込み、岩が投げ出され、崖は崩れる。そのあたり、深海からの海草や砂礫が散らばって、村は跡形もなく、無くなってしまった。さ、わしの屋敷は残っている。向こうのお寺ものこっている。あちらで皆休め。
 しかし、困窮は長く続いた。救援は遠く、なかなかやってこない。しかし、浜口の機転で命拾いをした村民は濱口の恩義は忘れない。五兵衛を金持ちにすることは、村人たちにはできない。村人は五兵衛の御魂は神ながらのものに思えた。その後、五兵衛を浜口大明神と呼ぶようになり、五兵衛がなくなったあとも、神社に祀り、御心に拝むのである。

 史実とは異なるが、日本の神、社会の仕組み、道徳について、西洋人にわかりやすくするために、生き神様、濱口梧陵を五兵衛にかえて、その偉業から、彼を村人が神と崇めるようになった経緯をのべている。

 其の四、そして、最後に哲学者に問うかたちで、この話はおわっている。それは、人が生きている間に、神様として神社に祀ったり、崇めたりする感覚は西洋人には理解できない。その人は現実には自分の前にいるのに、神として、別の場所、神社に祀られているのである。

 「そうですね。もし、仮りに我々が、すべての人間の心は一つであるという教義を承認するならば、日本の百姓の考え方のなかにも、すくなくとも、真理の一片は含まれているように想われるでしょうね。あなた方、西欧の人々の、魂についての考えでは、そうも、いかないでしょうが。」

 以上が最後の部である。西欧人に、この神道、佛土の思想を理解してもらえるように記述するのは、むずかしく、日本人の心に棲む生き神様の存在を、このような哲学者の語りとして、述べたのである。

 I asked a Japanese philosopher and friend to explain to me how the peasants could rationally imagine the spirit of Hamaguchi in one place while his living body was in another. Also I inquired whether it was only one of his soul which they had worshiped during his life, an whether they imagined that particular soul to have detached itself from the rest to receive homage.
 “The peasants,”my friend answered,“think of the mind or spirit of a person as something which, even during life, can be in many places at the same instant... Such an idea is, of course, quite different from Western ideas about the soul.”
 “Any more rational?” I mischievously asked. “Well,” he responded, with a Buddist smile,
“ if we accept the doctrine of the unity of all mind, the idea of Japanese peasant would apper to contain at least some abumbration of truth. I could not say so much for your Western notions about the soul.”

peasant ; 百姓

 この英文はRinsen Book Co. 発刊のラフカディオ・ハーン全集、LAFCADIO HEARNの8巻のGLEANINGS IN BUDDHA-FIELDSのA LIVING GODの最後の箇所である。

 平井呈一氏の訳をのせる。

 わたくしは、哲学を専攻している日本の友人に尋ねてみた。一体、濱口の生きている生身のからだが一方にあるのに、どうして村の人達は、それとは別の場所に、濱口の霊魂のあることを、合理的に想像することができるのか。そのわけを聞かしてくれといって、尋ねたのである。それと同時に、かれら百姓たちが、濱口の存命中に拝んだものは、濱口の数ある霊魂のなかの一つの霊魂だけなのであるか。もし、そうだとすると、かれら百姓たちは、濱口の数ある霊魂のなかから、ある特定の霊魂だけが、かれらの礼拝を受けるために、それだけ、ひとりでに、離れて出てくるものだと考えているのか。
 このことも、併せて尋ねてみたのである。友人は言った。「その百姓たちは、人間の心霊や魂というものは、その人が生きている間も、同時に方々にいることのできるものだと考えているのですね。こういう考え方は、むろん西洋の霊魂説とはだいぶ違っていますがね。」「西洋の方が合理的でしょう?」と、わたしは冗談に尋ねてみた。
 「いや、それがですね」友人は、仏陀のように微笑を浮かべながら答えた。「かりにわれわれが、万物の心は一つなりという説を承認するとすると、日本の百姓の考え方には、とにかく、多生の真理の片影が含まれているようです。ところが、西洋の霊魂説には、どうも、そういうものがあるとは言えんようですなあ。」

 この哲学者というのは、後に述べるが、雨森信成である。これは私の解釈ですが、仏教でいう、大我界、大脳皮質の想念の存在を理解し、無明に対峙する光明の世界が理解できる民族でなければ、現実に目の前に対象人物が生きていたとしても、そのひとを生神様、神として、大我界、大脳、とくに前頭葉で理解していることは、容易に首肯出来るだろう。このような思想に、ハーンは感動し、世界に向けて、日本情報を直心をもって、発信し続けたのである。

 以上のように、この A Living God 、生神様は、きわめて難解な内容であるが、これをわかりやすい日本語訳にし、中井常蔵が昭和8年の小学校5年用の国語教科書として『稲むらの火』を発表し、こどもたちは津波の恐ろしさとともに、防災の心得と、災害時の迅速な行動、相互扶助の精神、公助、奉仕の精神、公共事業のありかたから、生神様の存在を学ぶのである。

 激越なる感動として、梧陵の話はまだ続く。和歌山出身の朝日新聞記者、楚人冠の書いた『濱口梧陵伝』を参考に、昭和52年、河出書房からの小泉八雲作品集の第3巻の解説で、平川祐弘氏(元東大比較文化科教授、竹山道雄の娘婿)が引用し、紹介している。その感動の場面を再現してみる。

 それは、梧陵の末子、濱口擔(ゆたか)氏の一佳話である。濱口擔は、明治5年生まれで、慶応義塾から、早稲田大学を卒業し、明治29年に英国ケンブリッジ大学に留学していた。31歳になって、ロンドンのThe Japan Societyに招かれて、アーサー・デイオシー氏の座長のもとで、「日本歴史上の顕著なる婦人」という題で、明治36年1903年5月13日に講演をおこなった。この翌年に、日本人小泉八雲、ハーンは急逝している。

 講演が終わって、質問にはいる。特に質問がないようであれば、解散の予定であったが、後列のウテラ・ド・ロレース嬢が、立ち上がり、「私は今夜の御講演の主題につきましては何等質問討議すべき能力をもたないものでございます。それで、ほかの皆様が、私どもには耳新しい日本の女性の上についていろいろいろ想いを馳せておいでになる間、私は自分ひとりで胸の中で、ある問題をずっと考えておりました。しかし、それは日本の女性と直接関係がないために、皆様の質疑が終わるのをお待ちしていたのでございます。」

 聴衆一同はロレースを見た。「ここにおいでの皆様はハーン氏の「佛の畑の落穂」の冒頭にあります〈生神様〉の美談のことを御記憶でございましょう。それはいまから五十年ほど前に、紀州沿岸に大津波が襲来した時、身を以て村民を救った濱口五兵衛の物語でございました」と彼女は、かいつまんで、濱口五兵衛に傾倒していることを述べ、さらに「かねがね、このように深く濱口の名に憬れております私でございます。お教えくださいませ、今夜の講演者の濱口様は私の崇拝してやまぬ濱口五兵衛となにか御親戚でいらっしゃいますか」と。

 衆目は、こんどは壇上の講演者にあつまった。しかし、濱口は激越の感動をともなって、涙をこらえ、声をつまらせていた。座長のデイオシー氏が擔さんに近づき、なにやら耳打ちした。ゆたかさんに変わって、「今夜の講師濱口擔氏こそ、正しく、ハーンの物語の主人公の御子息なのであります。お二人は父子であられるのであります。」と告げた。
 会衆一同、立ち上がり拍手し、たちまち、その拍手とブラボーの歓呼は満堂にどよめき、いつまでも鳴り止まなかったという。

 濱口五兵衛はハーンの創造した名前で、実存は濱口梧陵もしくは第7代濱口儀兵衛である。そして、いまは、擔氏の激越の感動から100年余りがすぎている。しかし、いまもなお、私自身も講壇に立って、感動に声つまらせた濱口擔氏の胸中を思いやることができる。

 最近、九州の宮崎と熊本の県境の山奥、神の地、高千穂をおとずれ、御神楽の天の岩戸を拝観させていただき、そして、宿への帰路、社の神木「秩父杉」を見あげた。すると、その枝の間から、冬の夜空のオリオンが零れ落ちるように燦めいていた。大和の国土の恩を想い、授けられた命、父母の恩を想い、そして、この梧陵とハーンに奉仕精神をおしえられた。これらの恩をオリオンに祈り、思わず合掌した。

 ハーンは単に日本の神道を理解できた数少ない外国人というよりは、日本人の心を持ち得た唯一の西洋人作家人であった。類似もなく、前にもいない。後にも、追従する作家は皆無である。
 さらに、ハーンの余りに暖かい同情を以て、ひたすら日本の風俗人情の美なる側面のみを拾ってくれた人に感謝の念を禁じえない。この「美なる側面」に感ずる心こそ、その祖先の人の恩に感ずる心こそ、美しい日本の心で、世界に通ずる心なのではあるまいか。

 小学校上級生に、防災と相互扶助、奉仕の心を教科書、国語読本を通じて、日本の道徳として教育されていた時代が羨ましい。この『稲むらの火』を復活させ、永久に語り継ぐべき、教材になることを、衷心より望むものであり、ハーンの存在は、決して忘れてはならない。

 明治23年の来邦以来、ハーン、小泉八雲の文章は翻訳され日本人に愛され、教科書にも掲載されるようになっていたのである。
 神と崇められた生神様、濱口梧陵の話を、国定教科書に寄稿したのは中井常蔵氏で、その題名が『稲むらの火』である。

 しかし、ハーンの文章が日本の教科書にのったのは、『稲むらの火』が最初ではなく、「柔術」が最初で、本人の死後5年の1908年、明治41年のことであった(久松)。
 「Jiujutsu 」は『 Out of the East 』に掲載されているが、九章からなる長文であり、どの部分が翻訳されて教科書に載っていたのか不明である。

 「生神様」が教科書に、はじめて掲載されたのは、1925年大正14年の育英書院刊行の保科孝一編『大正国語読本』からで、その教材名は『濱口五兵衛の話』とされていた。

 そして、濱口梧陵の偉業を簡明にまとめ、『津波美談』として、あらたに教科書に投稿したのは、中井常蔵という青年教師であった。
 中井常蔵は1907年、明治40年に和歌山県有田郡湯浅町で生まれ、小学校は梧陵がたてた、耐久小学校で学び、和歌山師範学校を卒業し、教師になっていた。

 1933年、昭和8年に文部省から教材公募がなされ、全国からかなりの応募があり、審査の結果、尋常小学校修身書に入選したのは20篇で、長野県中沢誉勝氏の「スキー」が特賞1本で、賞金五十円。三等賞入選となった和歌山中井常蔵氏の「津波美談」は賞金十円であった。

 この後、『津波美談』を『稲むらの火』と題目を変更し、掲載された。そして戦前の昭和20年の終戦まで、約10年間、継続で、小学校5年生用国定国語読本巻十巻いわゆるサクラ読本にでていた。
 さらに戦後のGHQの検定でも『稲むらの火』は削除されず、『浜口五兵衛』と題して、昭和25年からの中学国語2年生下に残され、昭和27年からの改訂においても残された。

 しかし、内容は変更され、最後の浜口五兵衛の公共事業、防災事業、生神様と崇められところが削除されている。したがって、戦後うまれの日本人は、『稲むらの火』の話は知っていても、題目が『浜口五兵衛』となっているため、稲むらに火を付けた話の内容は題目からは推測できないし、さらに、浜口五兵衛という人物と、実存した濱口梧陵とが結びつかないので、濱口梧陵の存在も伺い知れなくなってしまった。よって、濱口梧陵の公共事業への尽力も、生神様と崇められた理由も忘れられた結果となったのである。

 そして、ついに、1960年、昭和35年以降の国語教科書からは『稲むらの火』も『浜口五兵衛』の姿もみえない。

 府川源一郎氏は、これらの『稲むらの火』の辿った文化史をみて、国定教科書の在り方がしめされていることに気づいた。則ち、明治以降の国定教科書は、教育、教訓面の二面性をもっていたのである。

 その教材の内容として、皇国、軍国主義日本を含んでいる教材もあるが、寧ろ、高徳、教訓を備えた文章の方が多い。例えば、卷8第14の、正月元旦であることも忘れるほど、『自動織機』の制作に熱中した豊田佐吉の「名人元旦を知らず」の話や、明治36年10月28日におこった青函連絡船の衝突沈没事故を扱かった卷10第13の『久田船長』の話などが選ばれており、その教訓性は評価に値する。

 そして、卷10第10の『稲むらの火』は、災害、とくに津波防災への教訓面では、もっとも優れた教材で、一つの教育と三つの教訓を含ませている。
 教育面では、津波という災害への知識で、教訓面では、ひとつは行政のありかた。ひとつは災害予知と行動について、さらに防災教育についてであった。そして、ハーンが指摘したような日本人の独特の高い道徳性が見いだせれば完璧である。

 スマトラ大津波災害をうけて、2005年1月6日にASEAN緊急首脳会議がインドネシアのジャカルタでひらかれた。この席で、シンガポールのリー・シェンロン首相が昼食会のとき、小泉首相に、日本には、稲むらの火という話が残っているそうだが、その話は本当ですかと尋ねたという。小泉は、むろんこの話は知っていたが、外国の首脳が知っていたことにいたく感心したという。

 折しも、阪神・淡路大震災から10年目で、国連防災世界会議が神戸でおこなわれた。ここで小泉首相はこのことを演説で紹介したという。そこで、災害についての知識、その教訓、災害の際の迅速判断と行動、これらを日頃から訓練しておく重要性をのべたのである。この時の問題点は行政のありかたの反省を指摘していないことである。

 この項の最後に、災害とは関係はないが、10代濱口儀兵衛の三男の濱口陽三は、世界でもっとも有名な日本人で、あのカラーメゾチントの創造者である。故濱口陽三の作品は、ヤマサ醤油と千葉市立美術館に大量に保存されている。

1)ローエルとハーンの直心

 「大和魂の恩人」、ハーンの来朝は、天文学の奇才ローエル自身の来邦が導因であった。奇縁というか、瑞縁というか、天文学といえば、ハーンの晩年、東大を退職後に、星の語りべ、プルートーを冥王星と命名した野尻抱影や坪内逍遙らが、早稲田への誘致を試みている。ハーンと天文、星をめぐって、このような人々の組合わせがあったのも興味深い。

 このハーンの来日の動機について、さすがに、比較文化学、ハーン研究家の寵児、平川祐弘氏自身は、ローエルの存在には一度もふれていない。
 最初に指摘したのは、おそらく、ローエル研究家の横尾広光氏(杏林医大教養課程)の「パーシバル・ローエルと火星文明論」とおもわれるが、原論(平成11年)にあたっていないので不明。これを、比較文化の國嶋一則氏がローエルの『極東の魂』川西瑛子訳の解説のところで述べておられる。

 最近では、能登の宮崎正明氏の、『知られざるジャパノロジスト』、丸善ライブラリーでも紹介されているが、ハーン自身が『極東の魂』は、「素晴らしい!本の中の本!」と激賞し、晩年の、1902年明治35年8月付けのヒルン宛の書簡に「何度もよむことをおすすめしたい」と、そして、ウェットモア夫人にも「他と比べものがないくらい素晴らしい本」と、ローエルの『極東の魂』の感動を綴った書簡を送っている。眼科主治医グレーンは、ハーンがローエルに傾倒していたことを、ハーンの追悼記でのべているので、間違いない事実であろう。これらの書簡については、里見繁美氏の『ラフカディオ・ハーン再考続』の「ハーンとローエル」の論文にでている。
 ローエルの著書は、米国、西欧では、いまだにロングセラー本とのことであるが、ローエルの日本文化の理解は、一部を除いては、ハーンが激賞するほどのものではない。

 その、パーシヴァル・ローエル(Percival Lowell;1855-1916)はボストンの生まれ。米国の天文学者で、アリゾナ州フラグスタッフに天文台を創設し、天空の観察をはじめ、ついに火星に、運河があることを発見し、これを造った火星人が火星には存在するといったり、冥王星の存在を予知したり、天文の方ではきわめて有名な人物である。

 冥王星は、野尻抱影氏の命名であるが、英語名はプルートーで、PlutoのPLと、パーシヴァル・ローエルのPLを掛けて命名されている。ローエルは1916年に亡くなっているが、その後14年目の1930年、昭和5年に、ローエル天文台のクライド・トンボーが写真撮影に成功し、この年の、ローエルの誕生日の3月13日に、新惑星の発見を公式発表している。

 余談であるが、昨年、平原綾香さんが歌ったジュピターは、もとは神秘主義グスタフ・ホルスト(1874-1934;イングランド)の1916年作曲の『惑星』からで、これが作曲されたときは冥王星の存在を予知されていたが、まだ発見されておらず、したがって曲は海王星でおわっている。最初はどういう訳か、火星からはじまり、地球と冥王星の楽章はない。1920・11・15、エイドリアン・ボールト指揮でロンドン・クインズホールにて初演された。

 ローエルは、21歳の時、ハーバード大学を卒業後、1876年(明治9年)に、モースや美術家でボストン美術館の日本美術部をつくった、医師のスタージス・ビゲローがローエルの後を追って来日している。

 因みに、モースの来日は明治10年、フェノロサは明治11年で、ローエルの来日が早い。

 ローエルの日本長期滞在中の、1889年、明治22年2月11日に大日本帝国憲法発布の日に、森有礼(ありのり;1847-1889)初代文部大臣が、自宅で、国粋主義青年、西野文太郎の襲撃にあい、腹部を2箇所刺され、翌日有礼は死亡し、西野はその場で、首を刎ねられて即死するという事件がおきた。
 この2年前に、伊勢神宮に参拝した時に、自分のステッキで、御簾を押し上げ、長靴の下足で神座にちかづくという、森の非礼行為が報道されていた。森は、曠古の憲法発布式典に参列するため、大礼服にきがえて、自宅をでるところで、西野に襲われたのである。手口は、暗殺計画が発覚したので、本人に直に会いたいといって自宅に入りこみ、犯行に及んだ。

 その時、日本の各新聞は、西野を、褒め讃えたのである。伊勢神宮での非礼は許されるものではない。殺されて当たり前の罪を森は犯したのだという。
 ローエルは、この日本神道の考慮を、一般民が理解していること、日本の非個人性、国民一致の大和魂の存在を、この事件で知った。そして、これを、『ある日本改革者の宿命;The Fate of a Japanese Reformer』と題して、1890年の11月号のアトランティック・マンスリー誌に発表した。

 日本地図をみると、太平洋側には半島が多いが、日本海側には能登半島のみが恐竜のように、顎を僅かに持ち上げ、首を長くしている様にみえ、何故か、一目惚れしてしまい、ローエルは、森有礼暗殺事件の3ヶ月後の明治22年5月3日に、山田栄次郎と二人で、能登の穴水町への旅を決行した。帰京の際、天竜の川下りを楽しんでいる。
 日本文化、日本人の思考と、これらの紀行文を、『極東の魂 ; The Soul of the Far East』(1888)、『能登;NOTO』(1891)としてボストンのMifflinから出版した。

 思い立った能登への旅のルートは、往路は高崎、碓氷峠、軽井沢、上田、長野、直江津、能生(のう)、親不知子不知、三日市、氷見、能登島、荒山峠、穴水(あなみず)で、復路は、倶利伽羅峠、石動(いするぎ)、富山、針ノ木峠、塩尻、諏訪湖、天竜川、飯島、時又、浜松である。

 宮崎正明氏は、自ら、このルートを辿る旅をしているが、ローエルは天文学者をめざしていたのに、残念ながら、能生で、芭蕉の「荒海や佐渡によこたう天河」を知ることはなかったこと、「汐路の鐘」を聴けなかったことを残念に、荒山峠で、能登を腑瞰できたこと、佐々成政の針ノ木峠を通過し、立山越えをめざし、これが不可能で、三日市にもどり、善光寺を見て、その後、天竜川の川下りを経験したことをよろこんでいる。

 ローエルは、1893年明治26年、伊勢神宮に参拝し、これで自らの日本研究の終止符となし、帰国した。ハーンは自身の来日後、チェンバレンを通して、ローエルと文通していたが、直接には会っていない。

 最近、ローエルを偲び、星空の町、穴水町では、昭和58年からローエル祭りを興し、2001年平成13年には『知られざるジャパノロジスト』を出版した宮崎正明氏が会長を勤める日本ローエル協会が発会している。

 ハーンは、1888年、明治21年に出版されたローエルの『極東の魂』を、米国内で、何度も読み返し、感動の連続で、これに刺激されて、ついに日本をめざしたのである。
 特にローエルの謂った「他の人たちがなんと述べようとも、私は日本人が地球の上での最も幸せな民族の一つだと謂いたく、それは彼らに接すると、こちらの心が非常に魅きつけられる事実でも明らかだ」を、ハーンは堅く同調していたのである。

 ハーンは1890年明治23年4月に日本上陸後、松江の1年半で、神の國日本に惚れ込み直し、その、大和魂の真髄を探り続けるが、1891年、明治24年の11月の19日から熊本の第五高等中学校に転任となる。

 松江の冬の寒さから逃れようと熊本にやってきたが、松江のように、芯から日本情緒を楽しむわけにはいかない。現実的に、月給百円から二百円の格あげが魅力で熊本に移ったが、授業時間は週に27時間と過酷で、眼の不自由なハーンには重労働であった。
 明治10年の西南戦争の14年後で、熊本の町自体が内戦から立ち直っておらず、宿舎として五高の外国教師の官舎があてられたが、これを断り、手取本町34番地に住むが、狭い為、後に西外坪井堀端35番地に引っ越している。この邸内は比較的広く、庭に弓道場をつくている。熊本には住処も気にいった所がなかったのである。これらのことはハーンの著書には記載されていない。『小泉八雲回想と研究』(平川祐弘)で、藤崎八三郎が「小泉八先生の追憶」で述べている。

 当時の五高は、嘉納治五郎(灘酒菊正宗、東大出身、柔道の父)が校長で、「柔術」を書く動機となっている。漢文教師として秋月悌次郎(胤永かずひさ;旧会津藩士)が招かれていた。秋月とはきわめて親密となり、父と慕い、漢文の魅力にも取り憑かれるが、モノにはならなかった。長男の誕生祝いに盆栽を頂戴し、非常な感激を受ける。東京時代には漢学者、根本通明(周易の大家;秋田藩;1822-1906)を知る。

 焦土化した熊本の町に、少し、生活の余裕がでていれば、また、阿蘇や高千穂の古事記の世界に触れていれば、熊本に少し違った感想をもっていただろう。しかし、高千穂の天孫降臨伝説をハーンに伝えた人は見あたらない。

2)雨森信成とハーン

 この熊本時代、米国海軍主計官のマクドナルドが、明治21年来日し、横浜グランドホテルを利用している時に、雨森と知り合い、雨森の通訳で日本を知ることになるが、同時に熊本にいるハーンに雨森を紹介した。後に、マクドナルドは横浜グランドホテルの社長に就任したが、関東大震災で、ホテル倒壊の犠牲となってしまった。

 熊本時代のハーンと雨森とは文通での付き合いであったが、この雨森信成(あめのもりのぶしげ)の影響で、仏教の方に興味が移っていく。この人物は『心』のなかの「ある保守主義者」のモデルであるが、比較文化学の森亮教授の研究でも、近く、雨森の足跡が判然としていなかった。

 ところが、平川祐弘氏の執拗なハーンの研究で、これも、神の仕業としかいいようがないが、昭和59年の横浜開港資料館の講演会に、なにか雨森の情報がえられないかと、出席していたが、この時、横浜とは無関係と思い込んでいた福井の県立武生工業高校教論山下英一氏の篤学研究の成果、『グリフィスと福井』を聞き、偶然に雨森が勤王派福井藩の出身であることを突き止めたのである。
 この後、雨森のさまざまな情報を得ることになり、これを『破られた友情』の第二部の「日本回帰の軌跡」で詳細に紹介されている。『日本への回帰』は、フランス洋行後に日本の良さを再発見した萩原朔太郎の言葉である。

 信成は福井藩士の松原十郎の次男として、安政5年1858年うまれる。明治39年1906年に45歳、横浜で逝去。ハーンの死後2年であった。幼少時代、福井のグリフィスが理化学を教えていた明新館に学び、明治6年に福井藩家老職の雨森家の家督を継ぐため養子となり雨森と名乗る。この時代に、早やく英学の秀才誉れ高く、さらに、グリフィス、ワイコフらの宣教も受けていた。英語に更にみがきをかけるため、横浜に出た。雨森は、本邦で最初に喫茶店を開業している。文久2年1862年に横浜の千軒山の見晴台に店をひらいていた。

 さらに、英語とキリスト教の知識を深めるため、明治学院大学の前身の一致神学校に就学した。キリスト学を修め、サミュエル・ブラウンから感化されて、新潟まで、キリスト教布教運動に参加する。しかし、新潟は親鸞の真言宗が最もさかえた佛教土であったので、雨森は暗殺されそうになる。横浜にもどっても、キリスト教をすてきれないまま、明治14年から21年まで、西欧に出国するが、この間の雨森の行動は全く不明である。

 21年に帰国後は、洋行にもかかわらず、日本への回帰で、佛教に帰依したため、日本キリスト教団体から転向者あつかいで、除名されるが、佐々木高美らと明治会を作り叢誌発行をおこなう。
 そのほか、実業で、西洋洗濯屋を興し、横浜のホテル、外人商館、外人宅の洗濯物を一手に引き受ける実業家になった。雨森は、恰幅もよく、キリスト教、佛教に精通し、思想家であった。極めて高尚で、流暢な、英語論文を、『大西洋評論』に投稿していた。遺稿になってしまったが、ハーンの死後、「大和魂」を投稿している。

 ハーンは明治24年頃より、熊本、神戸、東京の時代と、雨森と深く付き合い、日本精神について彼から多くの教えを受け、大の雨森のファンになり、仏教の本髄も教わったことで、『心』を彼に献呈したのである。雨森は明治の忘れられた鬼才で、対馬の雨森芳洲とは無関係である。
 ハーンは1894年(明治27年)10月から神戸に2年間、1896年(明治29年)の9月から学長外山正一の推奨で、東京大学で教鞭をとった。1902年(明治35年)の春、西大久保265番地に転居したが、1903年明治36年の3月、東大を解職された。後任が夏目漱石、上田敏である。それから、わずか1年後の1904年、日露戦争勃発7ヶ月後の明治37年9月26日、54歳で心筋梗塞のため急逝した。市ヶ谷で葬儀が行われている。葬儀に雨森が出席し、ハーンの死を悼む。

 「生神様」、「ある保守主義者」をみても、ハーンがジャパノロジスト、日本解釈家としては、チェンバレン(1850-1935)や、ローエルなど、日本文化のとらえかたは、他とは格段の違いをみせている。
 平川祐弘氏の『破られた友情』に示したように、ハーンは54歳で早世したため、85歳まで生きぬいたチェンバレンが、その晩年にハーンを回想して、かつての友情を裏切っている。
 チェンバレンは謂う、ハーンは日本を過剰評価し、間違った解釈をした。自分で勝手に思い込んだ日本の美徳や才能などはありもしなかった。ハーンはハーバート・スペンサー(1820-1903)の『社会進化論』に批判的で、明治の日本は西欧文明により解体過程にあるとし、懐古主義で、進化しない日本を愛した。実にくだらない、女々しく、非文明的で、進化のない精神異常者であったと、断定を下している。

 だが、ハーン自身の評価は21世紀にはいっても、日本のみならず、英米独仏の海外諸国での評価は高まる一方である。日本の自然をこよなく愛し、和の生活を耳で感じ、西洋にはない、静寂の中の、日本の習慣すべてに感動し、これに鋭敏に反応して、文章化した巨匠である。

 日本を書いた外国人作家は少なくない。然し、ハーンほど、日本あるいは日本の心の美しさを発見し、日本の風土に対する直心(ひたごころ)の愛から滲み出た理解、観察、更にすすんで深い洞察を、麗筆をもって世界に紹介した文人は空前であり、あるいは絶後である。

 日本を外から調べた人と、日本を内から愛した人との違いが、ここに截然と区別されるのである。だが、欧米人の多くの日本評価は、チェンバレンの日本回想に近かかった。ここに比較文化学のおもしろさと怖ろしさがみられるが、世界は日本も含め、帝国主義、植民地政策、世界大戦、ヒットラー出現と、進化?し、日本はついに敗戦で挫折する。その結果、その精神、大和魂まで、米国の支配を甘受するのである。

 日本を外から調べた人といえば、あの『菊と刀』がある。これは、終戦直前に、日本に関する膨大な史料を、病弱のため、米国本土で待ちかまえていた文化人類学者ベネディクト女史に送りこんでの成果である。ベネディクトは日本関連史料整理のうえの結論として、プロテスタント系文化を「罪の文化」、日本文化を「恥の文化」と呼んだ。この結論が、各国の文化の正鵠を射抜いた文化人類学論になっているだろうか。

 もし、ベネディクトがハーンの様に、日本に長く滞在していれば、日本の矛盾、たとえば、軍国主義であると同時に耽美的で、刀を愛すると同時に、菊の花をこよなく愛する、その矛盾を理解できたのかもしれない。

 ハーン、ローエルの日本への直心と、『菊と刀』のどちらが日本評価として正しいか、もう一度『菊と刀』を読み直していただきたい。ローエル、ハーンの日本観と比べて、ベネディクト女史の日本文化評が、いかに不当であるかが理解されよう。

 また、和辻哲郎は、昭和25年の8月、戦後5年の時点で、民族学研究の石田英一郎氏の要請をうけて、イヤイヤ、『菊と刀』の読後感想を寄稿している。
 則ち、他国の文化を一、文化人類学者がのべた文章にしては、一部をとらえて、全体を語る印象記にすぎない、現実、事実にまったく、似(そぐ)わない内容で、科学的、学問的価値は皆無と、『民族学研究』で痛烈に批判している。

 これに対し、『菊と刀』の訳者長谷川松治氏は、和辻の、イギリス人気質から考察した「アメリカの国民性」の論より、ベネディクトの日本観のほうがましだと贔屓しているのも、滑稽なほど、ばからしい。長谷川氏は「学」の本質を理解していない。
 ハーンやローエルの短文は学術論文ではないが、再話文学で、日本を鳥瞰図でみるように、細部から全体を壮観的に観察がなしえる文章に仕上っている。しかし、『菊と刀』は、印象記であって、文化の本質を探る人類学の学術的論文の形態をなしていない。
 学問的考察では、普遍的真理がなくてはならない。和辻は、この点から『菊と刀』は、ただの、それも他人から送られた史料の整理での日本印象記であって、民族学、人類学の学問としては、到底、認められないことを謂っているのである。したがって、『菊と刀』はタダの読み物である。

3)国語読本

 明治以降の学校で使用する教科書の始まりは、明治4年の中村正直(敬宇)が、英国からもちかえった、木版刷りのサミュエル・スマイルズの『西国立志編』や『西洋品行論』の教訓的教育からはじまっている。
 その後、明治5年1872年5月に文部省から学制が発布され、国定教科書が配布された。箕作麟祥(みつくりりんしょう)らの立案で、「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」と、初代文部大臣に第一次伊藤博文内閣の森有礼が就任し、国民皆教育をめざした。しかし、20年経過しても就学率は悪く、1889年明治22年では50%にしか、達っしていない。

 そこで、1879年、明治12年に、明治天皇の侍講の元田永孚(もとだながざね;熊本藩)が「教育聖旨」を著していたのを参考に、1890年明治23年に井上毅(こわし)のときに天皇の言葉として『教育勅語』が発表された。さらに『小学校令』が明治33年1900年に発布され、就学率は80%に、1902年明治35年では90%、1907年明治40年に97%になっている。じつに学校教育が確立するまで、40年を要している。

 このうち、読み書き、作文、習字の言語教育で使用された国語読本についてみると、第1期国定読本は『イエスシ読本』といわれ、1904年明治37年からの採用で、吉岡郷甫の編集で、教科書冒頭の文字をとって、イ、エ、ス、シ読本といわれる。第2期の『ハタタコ読本は、すぐ3年後の1907年明治40年で、第3期 は、『ハナハト読本』で、1918年大正7年から使われていた。第4期『サクラ読本』は1933年昭和8年からの採用で、第5期『アサヒ読本』は1937年昭和12年からである。

 言語教育上、国語読本の発刊時期を、世界の帝国主義、富国強兵、軍国主義、侵略主義という時代背景と重ね合わせて、その国民の道徳観、人生観を考察するのは重要なことである。なぜならば、言語教育に教訓性が含まれていたためである。

 『稲むらの火』については、上述したように『サクラ読本』の昭和8年1933年からの採用なので、このとき11歳の5年生の学童であった人は、1922年うまれで、平成18年の2006年では84歳である。そして、題目は『浜口五兵衛』の題目にかわり、1960年昭和35年まで教科書にのこっていたので、この時の11歳のひとは1949年昭和24年うまれで、現在57歳ということになる。

 千葉県医師会雑誌2005年57巻8号に安房の渡辺伸宏先生が2005年1月12日NHKの『その時歴史は動いた』で、スマトラ沖大地震インド洋大津波を見て、戦前国民小学校でおそわった「稲むらの火」をおもいだされている。モデルをはじめて知ったとのことであった。

 大正生まれのひとに、『稲むらの火』というのを知っていますかと問うと、あー知っているよ、津波のはなしだろう。という答えが返ってくるが、昭和10年以降の生まれのひとに『稲むらの火』と訊ねても知らない。なに?、ああー、その咄しは、知ってるが、稲むらというのか、知っているけれども、題名でいわれると解らないなあ、という人が多い。そういう自分も1949年生まれであるが、『稲むらの火』、『浜口五兵衛』を国語で習った覚えがない。

 あと30年。これまでに、南海トラフの活動で、大地震大津波が発生するかもしれない。災害を伝承することの大切さ、いざという時の迅速な判断と行動、これらの防災教育の推進、被災軽減の方法を、常日頃かんがえ、防災に怠りないように。備えあれば憂いなしである。

4)ハーンの再話文学

 はなしは変わるが、2006年平成18年2月17日金曜日、滋賀県長浜で、5歳のこども2人、武友若奈ちゃんと佐野迅くんが、鄭永善(34歳女)に幼稚園に送る車のなかで、刺殺される事件が発生した。平成日本も完全に狂気の時代といえる。自分の子供がいじめにあっているとの誤解で、二人の幼児を殺害した。それは、幼稚園側の園児の送り迎えの方法にあるようで、園側は個人の登園を許さず団体での登園策を指導していた。その集団でも、当番を決めながら自家用車で送り迎えする方法をとっていたのである。たしかに、ひとりでの幼稚園児の上下園は危険だと園側は考えての策を指導していたのだろうが、結果は裏目にでてしまった。

 ハーンの『心』の「停車場で;At a Railway Station」は、題目からすると、日本の駅の風景でも描いているのかと勘違いするかもしれないが、実は、殺人犯草部、本名野村が護送される場面を描いているのである。明治26年の実話とされている。
 丸山学氏の研究では、実話をハーンがかなり文飾しているが、日本人の道徳心と悪人の当時の裁き方に感動し、見事に再話している。

 福岡から熊本駅まで、殺人犯が護送されてくる。これを現場まで見にいった。この男は4年前に、熊本の相撲町で、押し入り、家人を殺害し、逃走したが、次ぎの日に捕えられた。

 熊本駅に大勢の人々が立ち並ぶなか、殺害された被害者の嫁杉原おきびとその子供に、警部から前もって連絡がはいって、駅前の群衆の中で待っていた。その子供の前に立ち、「坊ちゃん、これがね、四年前に、あなたのお父さんを殺した男ですぞ。おい、顔をあげろ」。突然、野村はへたへたとひざまずき、「勘弁してくんなせえ。悪気はない。あっしをゆるしてくんなさい。いまから、死刑をうけにいきます」。罪をその子供にわびるのである。

 群衆の目はつめたい。しかし、ハーンは、この日本の警察官の裁きに、不思議な教訓を心に案じた。じつに勘所をはずさぬ、慈悲に富んだ、正しい裁きがあり、そして、死刑になる罪人の悔悟をみた。この東洋的、日本的道徳心に感動するのである。

 そして、最後に日本の盗賊のなかでも最も有名な石川五右衛門は、人の家に入って家人を殺し、盗みを働く場合も、赤児だけは殺さず、この子をあやしていて、物を盗むのを忘れてしまったというはなしを紹介しているし、明治の26年頃では、警察の報告書では盗賊は家人皆殺しにするが、子供だけは殺さなかったことが多く供述されていて、日本人の道徳心のおもしろさを語っている。

 明治には、このような道徳がのこっていた。そして、戦後、日本にはこの道徳をすべて破棄し、資本主義、金儲けを優先させてきたために、社会の善行は完全に崩壊してしまったのである。

 ハーンの文学作品の一部に、「再話文学」という熟字が使われる。この言葉は平井呈一氏が、昭和40年頃に名づけられた。「洵に、こなれない熟字で恐縮でありますけれども、つまり retold tales もしくは twice-told storiesの意味でありまして、八雲独特の作品形式、あるいは手法で、かりにわたくしが名づけたことをお断りしておきます」と、平井氏は自らの造語であることを述べている。

 『生神様』、『停車場にて』、『勇子』、『橋の上』など、実際に起きた事件を、ハーンの文飾で、フィクションではないが、完全なノンフィクションでもない、独特の再話文体にしあげられている。作品中に、最も重要なハーンの目でみ、頭で考え、日本の心を的確に描いて、実に上等に推敲されているのである。これはドイツ文学の竹山道雄の作品にもみられる傾向であるが、やはりハーン独特の文学手法である。この点を考慮にいれて、中井訳の『稲むらの火』の防災教育としてのテキストの役割を評価する必要がある。

5)ハーンの防災教育

 津波防災に関してみてきたわけであるが、教科書になった中井の『稲むらの火』や、新聞記事になった津波災害への浜口梧陵の機転や梧陵という人物の伝記よりも、ハーンが神道を通して、日本の村長が、生き神様として扱われることをえがいた再話文学の中に、防災教育への重要項目が完璧に表現されていることを納得されたであろう。

 濱口梧陵は偉人であり、これを英文発表したハーンは日本の恩人である。教科書に『稲むらの火』として紹介した中井常蔵は賢人であった。

 ここまで評価される防災教育の話は他にはないので、是非、ハーンの「生神様;A Living God 」を原文英語で中学高学年の英語教科書に完全復活させてもらいたいものである。

 清水勲氏が、『歴史地震』という雑誌に防災教育と稲むらの火について考察しており、4点を防災教育の観点からまとめている。その一は文学的な価値の高さ、第二は老人と若者の分担、第三に状況判断、第四に村民は数をかぞえたこととなっている。
 これに府川氏は文化史のなかで指摘しているが、『生神様』のほうがよりはっきり防災教育事項がのべられているとしている。これは当然のことで、『稲むらの火』には文学的価値などは存在しない。文学的価値はハーンの再話文学の傑作『生神様』にあるのであって、中井常蔵の『稲むらの火』には文学の香りは微塵もない。

 最後に、その、ハーンの『生神様』にみる津波防災の教育について見ておく。それは第13項目におよぶ。

第一、防災教育は村長(行政)が日頃からおこない、真剣に防災訓練をおこなっていること。日本の村には神とたとえられる村長制度があり、公助の精神が芽生えていることが重要条件。
第二、高台に避難場所、救護所を設置すること。
第三、津波地震を予知できること。
第四、災害発生で指揮官を決めておくこと。
第五、避難行動に移るときの警報を素早く伝える方法をかんがえておくこと。
第六、避難行動は迅速に。家財道具はもたない、身一つで一目散に逃げること。
第七、災害状況、とくに家屋損害、被災人数、死亡者の確認を正確におこなう方法を、だれがどのようにおこなうかをかんがえておくこと。
第八、救護活動、復興、ライフラインの確保がすばやくおこなえるような方策を検討しておくこと。
第九、防波堤、防波林の作成を常時をおこなっておくこと。平穏時の環境保存より、防災を優先させること。この為の人力と金策を考えておくこと。
第十、防災方策は行政から個人へ正確につたえられること。中途半端な知識の伝達では大災害には通用しない。
第十一、人命救助がもっとも重要。
第十二、防災教育は継続しておこなうこと。村長は神と崇められることより、何のための村長であるかを考える。村民は防災教育をうけることと、これを伝承していくことが重要。
第十三、相互扶助の大切さ、公助、奉仕精神の育成、教育を、行政がおこなっていること。人間社会は一人では成り立たない。社会の仕組みを防災教育のなかに組み込むことが重要。

参考文献

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 2)森繁久彌、『森繁自伝』、昭和38年、中央公論、1962年
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 4)平川祐弘、『小泉八雲作品集、解説』、昭和52年、河出書房、1977年
 5)平川祐弘、『破られた友情』、昭和62年、新潮社、1987年
 6)府川源一郎、『稲むらの火の文化史』、平成11年、久山社、1999年
 7)久松宏二、『国語科教材としての八雲の作品』、平成3年、至文堂、1991年
 8)平井呈一、『対訳小泉八雲作品抄』、平成10年、恒文社、1998年
 9)平井呈一、『心』、平成9年、岩波文庫、1997年 
10)平川祐弘、『明治日本の面影、勇子』、平成2年、講談社学術文庫、1990年
11)平川祐弘、『小泉八雲回想と研究』、平成4年、講談社学術文庫、1992年
12)渡辺伸宏、千葉県医師会雑誌57巻8号2005年
13)清水勲、『地震教育』、平成8年、12号、1996年
14)里見繁美、『ラフカディオ・ハーン再考続;ハーンとローエル』、平成11年、恒文社
15)宮崎正明、『知られざるジャパノロジスト』、平成7年、丸善ライブラリー、1995年
16)國嶋一則、『極東の魂;解説』、昭和52年、公論社、1977年
17)勝部真長、『ハーンとキリスト教ー菊と刀』、平成3年、国文学解釈と鑑賞56巻11号、至文堂、1991年
18)パーシヴァル・ローエル、宮崎正明訳、『能登・人に知られぬ日本の辺境』、昭和54年、パブリケーション四季、1979年
19)和辻哲郎、『科学的価値に対する疑問』、民俗学研究、第14巻4号、昭和25年、1950年
20)和辻哲郎、『アメリカの国民性』、昭和18年、岩波書店、1943年
21)村山吉廣、『漢学者はいかにいきたか』、平成11年、大修館書店、1999年
22)丸山学、『現代のエスプリ91号停車場にて』、昭和50年、至文堂、1975年
23)原貞夫、『高木兼寛と近代外科学』、平成18年、慈大新聞619号、2006年

   

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