はじめに

 天才ピアニストのエレーヌ・グリモー(Helene Grimaud 1969- )、はフランスのエクス=アン=プロヴァンスに生まれたが、幼少のときから問題行動、反抗感情がつよく、「いうことを聞かない子供」、反抗期の長い子であった。母親は教師であったが、自らの子供教育に不安を抱いていた。

 閉じこもりで、ひとりも友達を作らない。ほかの子供たちとはちがっているということで嫌われていた。3歳の頃であるから記憶がはっきりしないが、浜辺で踵を切り、何針か縫合手術をうけている。このトラウマが、潜在的な心のトラウマになっていたようだ。

 父親に、テニス、空手、バレエなどの習い事をすすめられたが、いずれも性に合わない。とくにバレエの衣装には強い嫌悪をしめす。女の性格より、むしろ男に近い。性同一性障害に近かかったのかもしれない。ついに自傷行為をみせたために、親は、7歳からピアノを学ばさせる。

 地元のエレン音楽学院に入学させ、教師クルタンが彼女の音楽的才能を発見する。発芽された才能に、さらに磨きをかけるため、11歳でマルセイユにいたバルビゼに師事。12歳でパリ国立高等音楽院を最年少で首席で入学する。15歳でパリ国立高等音楽院を首席で卒業した。

 この、1984年15歳のときに、ラフマニノフのソナタのCDをDENONの川口義晴氏のプロデュースで、直接CDデビュー(COCO80652)している。演奏会や、コンクール優勝でのデビューではなく、直接、CDに録音してのデビューである。
 才能ある女性ピアニストが久しぶりにパリからでた。ハスキルの再来だと思ったし、CD時代に突入して、今後の楽しみができたと期待していた。

 ちょうど、クラッシク音楽界もLPからCDに転換されていく時期で、いわゆるデジタル時代に突入し、ビクター、デンオンが業界をリードしていた。
 音をデジタル化するのは、保存管理には良策かもしれないが、現実に、再生の音質といえば、高音はキンキンするし、中音は角張っていて延びがない、低音はモコモコで、最悪のものであった。

 一般に、SP、LP時代のクラッシク演奏家のデビューは、コンクールで優勝し、リサイタルをこなし、実力が社会的にみとめられた時点で、これは売れるとの確証をもってテープ録音し、レコードで販売していくのが常套であった。
 しかし、グリモーの場合は、まだ学生で、デンオンの川口氏が偶然手にいれたテープをCD化して、発売したのである。
 無名の若いピアニストのCDの突然の販売では、売れないし、誰も評価しないだろうと、高を括っていたが、これが、アカデミー・デュ・ディスクのグランプリを獲得してしまったのである。

 以来、グリモーのピアノ演奏は、デンオンから発売され、曲目はショパンのバラード、リストのダンテ、シューマンのクライスレリアーナ、ブラームスのソナタ、ラフマニノフのピアノ協奏曲2番と、立て続けに発売された。

 ところが、1990年あたりから、突然、CD発売がなくなってしまった。デンオンとの契約がうまくいかなくなったのだろうか。
 どうしたのだろう、パリ音楽界が窮屈で、結婚でもしたのかな、気がふれて精神病院でも入院したのかなあと心配していた。

 じつは、マスターコースで、右手麻痺の教師レオン・フライシャーと激突してしまっていたのだ。
 これで、パリを捨て、1991年から米国に一人旅に出ていた。1995年まで約5年間、カナダ、ニューヨークからフロリダまで演奏旅行し、その後、なんと、オオカミとの生活にどっぷり浸っていたのである。

 オオカミと天才ピアニスト

 『野生のしらべ』はグリモーの自叙伝で、2003年に翻訳されて出版されている。これによると、1991年からパリおよび欧州の音楽界から関係を断ち切り、米国にわたっていた。プロのピアニストを目指していた21歳の乙女が、オオカミとの生活で人間性を取り戻し、大変身するのである。こんなことが21世紀の現代でも、それも米国でおこりうるのだろうか。

 パリから脱出した彼女は、米国を演奏ツアーしていた。
 クリーブランドからの出発で、アメリカ、カナダのツアー終了後、パリには戻らず、タラハシーというフロリダの田舎で、友達のジェフと恐ろしく退屈な生活を送っていた。

 ある日、犬と散歩にでかけた。向こうから、狼とともに、物騒な態りをした男デニスと、道ばたで、ばったり出会った。
 デニスは雌の狼を連れていた。野生であった狼をベトナム戦争帰りのデニスが捕獲し、一緒にくらしているという。

 この時、彼女は、自分の犬をてばなし、ピアニストとして命より大切な手を、まるだしにして、棒立ちになっていた。狼に襲われて、手でも食いちぎられたらどうするつもりでいたのか。
 しかし、臆病で、人間嫌いの雌狼のアラヴァAlawaは、あとずさりしないで、グリモーにちかずき、手をかぎまわり、体をすり寄せてきたという。このようなことは、デニスもみたことがない。
 翌日の再会でも、アラヴァは彼女を憶えていて、寝転がって、腹をだして、服従のポーズをとったのである。

 デニスは、野生の雌狼アラヴァが、犬のような仕草をすることは一度も見たことがなかったので、グリモーが何か不思議な霊感をもっているのではないかとおもったという。

 グリモーは、これ以来、すっかり、アラヴァの虜となり、デニスの家の近くにすみ、アラヴァとの生活をはじめる。アラヴァのために、餌をつくり、ともに吠え、ともに笑い、ともに駆けめぐり、ともに寝た。

 狼との生活で、すっかり彼女はピアノを忘れ、野性人グリモーになっていた。これ以降、がむしゃらに野生の狼の動物行動学を猛勉強する。
 最終章の277ぺージでのべているが、自然学者ロベール・エナールによると「犬は獰猛な心をもち、狼は優しい愛の心をもつ動物」であるという。
 グリモーは、この学者の目撃談を見付けたときは、目がはれるほど涙した。それは、傷つき弱った雌狼が、足を引きずりながら、やっとの思いで雪のなかを前に進もうとしているあいだ、連れ合いの雄は、そばにいて、食物を運び、守ってやっていたという。

 そして、3年が経過したところで、資金調達のためニューヨークに演奏旅行にでかけるのである。ニューヨークに出ている途中の、1994年のある日、突然、アラヴァが寿命で死んだことを聞き、追うようにデニスも心臓発作で死亡したことを聞く。
 強いショックをうけるが、生前デニスに諭されていた。前向きに生きろ、振り向くな、二人の思いでを忘れぬために、と。そして、自力で復活する。
 そして、グリモーは、子供たちのために、ウルフ・センターを作ろう、と決心する。

 演奏旅行で工面したカネで、1997年、ニューヨークの北部にウルフ・センター用の土地を獲得した。センター設立後は、1999年に750名の子供が、2002年には8500人が訪れるようになった。
 以後、現在まで、ピアニストで世界中をかけめぐり、ニューヨークにかえってきてはウルフの世話をする、動物愛護の仕事と両立させての生活が続いている。しかし、彼女の顔からは笑みは絶えないし、演奏も、さらに磨きがかかり、強靱なエネルギーを発散し続けている。

 以上のような、オオカミと暮らす女ピアニストになっていたことを知ったのは、1枚のCDのライナーノートからである。デンオンでも、エラートでも、グラモフォンでもなくTELDECから発売になっていたCDで、平成11年(1999)のBeethoven Piano Concerto No4 New York philharmonic Kurt Masur指揮(WPCS10676)のもの。久しぶりのCDで、彼女自身のライナーノートを読んで、オオカミと生活していることを知った。この時、すでにCDデビューしてから15年が経っていた。

 30cm丸のレコードの時は必ず読んでいたライナーノートも、12cm丸のCDになってからは、説明書など碌に読みもしなくなっていた。しかし、このCDの説明書の裏表紙に犬を背負ったショートカットになった彼女の写真がでていた。
 あれ、彼女の飼っているシェパードかなと思って、説明書をみると、なんと、これがウルフ、狼だった。

 指揮者マズアと並んで拍手をうけるグリモーの写真の下に、大きななバケツを3つもかかえて坂道を行く少年のようなグリモー。
 その横には、オオカミに鼻をなめ回されて大笑いする彼女の写真、裏のページには、居間で”WOLF”という雑誌に眼を通しているグリモー。そして、オオカミ、アラヴァとともに雄叫び、ではなく、雌叫びをあげる二人。

 いやー、びっくりしました、この時は。
 この写真のウルフは、あのアラヴァなのか。ニューヨークでのウルフ・センターでの写真なのか、不明です。
 フロリダでアラヴァと別れた、その後、アラヴァは1994年に死んでいる。わずか3年のつきあいだった。
 しかし、雌オオカミ、アラヴァは極めて多くの、生きる喜びを彼女にあたえ、彼女はアラヴァの死を乗り越え、振り向かず、人間社会にもどった。
 ここ10年間、ベートーヴェン、シューマン、ブラームス、ラフマニノフ、バルトーク、これらのピアノ音楽を通して、われわれに、生き甲斐、生きる喜びをあたえてくれている。実に頼もしいピアニストに大変身したのである。

 グリモーは、演奏で、自ら涙することはなかったが、あの01.911の当日のコンサートで、パリ管弦楽団、エッシェンバッハ指揮でベートーヴェンのピアノ協奏曲4番をひいている時、グリモー自身が、涙で鍵盤をぬらす体験をしたという。
 終えた瞬間に、スタンディングオーベーションで、聴衆も涙、涙で、猛烈な、割れんばかりの拍手をうけた。
 テロ被害者への哀悼と鎮魂をこめた拍手は、天まで届けとばかりに、鳴りやまなかった。一年後の2002年にはロンドンでバルトークのピアノ協奏曲3番をひいたが、このときも涙がでたという。

 今回の2005年盤、ドイツグラモフォン発売のシューマンのピアノ協奏曲(UCCG1269)の見事なこと。ドレスデン国立管弦楽団サロネン指揮であるが、ピアノの出だしで凄い名演とすぐ解る。冒頭のタッチは非常にするどく、ハスキルの再来とおもっていたことは間違いではなかった。1995年のエラートからのジンマン、ドイツ交響楽団とのシューマンのピアノ協奏曲(0630-11727)とも僅かにちがう。

 これらの最近のCD両盤ともライナーノートにはオオカミのことにはまったく触れていない。
 伴奏はジンマンのほうが上手い。しかし、その後のピアノの流れるようなフレーズのロマンティクな表現、ちょっと内に潜めた、はにかむ様なメロディーの歌わせかたは、まさにグリモーならではのもので、ピアノテクニックは2005年盤が完全に抜きんでているし、曲の解釈は神がかっている。

 この曲の超最上級演奏でしょう。何度聴きなおしても感動する。これならばショパンも聴きたくなる。
 ショパンのピアノ協奏曲は原智恵子さんの演奏を最上とするが、これよりキレのよいショパン演奏は不可能と考えていた。しかし、今の、36歳のグリモーなら可能かもしれない。

 アラヴァに出会ってからのグリモーの演奏には、霊感が感じられるようになったし、強靱な力が漲っている。たとえばベートーヴェンのテンペストのスフォルツァンドではアラヴァとベートーヴェンの二人が肩口から、ここで、こう、ひじを動かすのだと耳打ちし、つよく押されるような感覚をおぼえるように成ったという。
 東京での演奏会でも、ロンドンでも、ウィーンでも、どの演奏会場でも、アラヴァが守護霊のように見守もってくれているのを感じるといっている。

 たしかに1995年以降の彼女の演奏から、神経質さは消えさり、素直な堂々とした感性を聴くことができる。安心してきける。以前は、これ見よがしの演奏ととられてもおかしくはなかった。
 今は、神々の火を感じ、狼の大地を感じ、魚の大洋を所有している様を感じ、小鳥の空の空間を感じ、生きている時の流れをかんじる。じつに素晴らしいピアノ音楽を奏でるようになった。
 そして、なによりも、人間としてのエレメント(本人の言葉)、元素、霊感というか、存在を発露しているし、さらに聴衆は、スウェーデン現代作曲家ペルトの「クレド」の演奏においては、アラヴァの存在をも感じるのである。

 かつて、人間の歴史で、芸術の世界で、狼から芸術の真髄をおそわったピアニストがいただろうか。それにしても、この21世紀にして不思議な事がおこるものだ。

 アラヴァは1994年に死んだ。その数ヶ月後にデニスも心臓発作で自分のベットで死んでいた。この自叙伝『野性のしらべ;Variations sauvages』はアラヴァの死から9年後の2003年にフランス語でかかれている。

 アマラとカマラ

 『 野性のしらべ;Variations sauvages 』の第7章でも紹介されているのだが、狼にそだてられた二人の女の子のはなし。これは現実にあった事件で、1920年(大正9年)10月9日に、印度のカルカッタの南西75マイルのミドナプールの小さな村ゴダムリの山奥で発生した。

 狼と一緒に生活していた彼女たちは四足で素早く走り、たべものは手をつかわず、オオカミや犬のように直接口に銜える。現場を見た村人たちが多数おり、小動物か、悪霊の祟りか、魔法にかけられた半身半獣か。村民は意気沮喪としていたところ、ついにシング牧師を団長に、徒党をくんでの捜索がはじまった。この野獣を生け捕りすることが目的である。

 蟻塚から3頭のオオカミを追い払うと、塚の中から4頭のオオカミが怯えたように寄り添っていた。とらえてみると2頭は人間のこどもであった。アマラはまだ1歳ぐらいで、カマラは8歳ぐらいであった。ゴダムリの市場で、この幼女たちは売りに出された。買って行った男が小さな檻にいれて、放置していたため、シング牧師が買い戻し、人間社会への復帰を試みた。アマラは1年で尿毒症で死亡し、カマラは9年間生存した。
 とらえた当初は、昼には言語はなく、夜になると高く鋭く、よく響く美しいつぶやきを、抑制をつけて発した。極めて強い嗅覚と視力をもち、暗闇でもよくみえ、昼より夜のほうが好き。彼女たちは抱き合って眠っていた。

 だれが、この子を捨てたのか。彼女の親の犯罪かとおもわれたが、そうではない。この時代、子を捨てるような親は世界中いなかっただろう。この子たちをオオカミがさらっていったのである。オオカミのこどもを育てるという本能のためであろか、泣きじゃくる子供を自分がそだてなくてはという本能がはたらき、掠っていったのであろう。
 猿が人間の子供をそだてることはあっても、オオカミが人間の子供をそだてるということは信じられていなかった。この事件で、人間は、オオカミを、新たに観察研究しようとした。

 雌オオカミ自身は子供を生むと、4ヶ月間、乳をあたえるが、生後4ヶ月目で巣離れさせる。そのあとは、親が取ってきたえさを一端親自身が食べて、それを吐きだして子供にあたえる。おそらく、アマラもカマラもこのように育てられたのであろう。

 この事件の発生は、カルカッタであった。ここでは衣服はいらない、餌も充分にある。印度という、亜熱帯地方だから起った事件だと考えられている。キップリングのオオカミ少年モウグリの物語、『ジャングル・ブック』の舞台も印度を設定している。
 この後、人間はオオカミの存在に恐怖をおぼえ、オオカミ退治をおこなってきた。そのため、オオカミの数は世界中で減少してきた。日本のエゾオオカミ、ホンドオオカミは、すでに絶滅している。

 しかし、動物行動学ではオオカミは肉食動物の分布の調整をおこなっている動物であることが判っている。すなわち、ライオンが増えてくるとライオンをかみ殺し、今度はライオンの餌になっていた、キツネが増えてくれば、キツネを襲うというように。森の狩人役がオオカミであるという。これをうけて、オオカミは国際保護をうけて、また増えつつある。

 カマラは17歳でなくなった。この時は手でものを食べ、ベットで横になり、夜ねむるようになり、光をおそれず、30の単語を喋るようになっていたという。

 オオカミと人間

 オオカミは、古代日本では、神の使いとしてあつかわれていたが、江戸時代から明治にかけて、野獣、悪獣とされ、遂に、1905年、明治38年に奈良の鷲家口で、米国人アンダーソンが猟師から、八円で買い取ったものが、日本の最期のオオカミとなり、現在、日本列島には、自然で生き抜いている日本オオカミは存在しない。これらの狼については平岩米吉氏の詳細な研究がのこされている。
 亀戸の生まれの平岩氏は、昭和17年まで、朝鮮狼を飼っていた。

 他に、『オオカミと人間』を、バリー・ホルスタン・ロペスが著している。中村妙子、岩原明子さんの翻訳で昭和59年、1984年、草思社から出版された。これは、オオカミの、古代からの人間との関わりを動物行動学から、ジャーナリストの立場として、可能な限り、克明に研究された論考が掲載されている。

 さて、ローマ市庁舎の前に双子のロムルスとレムスがオオカミの乳を飲んでいる銅像があるのは有名である。これは紀元前753年にロムルスが王となって、ローマ建国したためで、ロムルスが創ったので、この町はローマと名付けられたのである。

 プルタルコスの『高貴なギリシャ人とローマ人の生涯』で、伝説によるとロムルスとレムスの父親は軍神アレース(マルス;火星)で、彼は、不妊にされたレアを犯して、子供をつくらせた。
 この子供は双子で、母レアは不貞のため、その父アムリウスに殺された。軍神アレースはこの二人をすて、これを拾ったブタ飼い女がそだてていたが、金もなく、乳もでないので、不憫で、慈悲深い母親として、雌オオカミに育て上げてもらう事となった。
 成人した双子は、アムリウスを征伐し、二人で新都市を建設しようとするが、ロムルスはレムスを殺し、自らが国王になったのである。この時代にはオオカミは慈悲深い動物とされていた。

 生物分類学者リンネ(1707-1778)は、1758年にオオカミにCanis lupus カニス・ループスという学名をあたえている。これ以後、動物行動学としてオオカミの近代的研究がすすむが、逆に、この時代からオオカミの数は減少していく。

 そして医学でも、19世紀に入って、皮膚病変に尋常性狼瘡、lupus vulgarisという結核性皮膚結節、潰瘍性病変に、狼、ループスという文字が使われ始め、さらにSLE systemic lupus erythematosus 全身性エリテマトーデス(全身性紅斑性狼瘡)という膠原病(結合織疾患)、自己免疫疾患に分類されている疾患にも、ループスの文字が使用されている。
 SLEでは、両頬の蝶形の紅斑 butterfly rashやディスコイド疹がみられ、これが、オオカミの足裏の皮膚のように紅く肥厚してくるので、ループスを病名を使っているわけである。しかし、21世紀に入ってから、日本の医学書からは狼瘡という病名は消えてしまっていて、みられない教科書が多い。

 ローマはロムルスとわかったが、それでは「東京」は、だれが提案した地名だろうか。答えは大久保利通である。大久保は大阪に遷都しようと考えていたが、大阪を都にすれば、江戸、徳川を温存することになり、都合が悪い。故に地名を改名して、東都、旧江戸に遷都することに決め、東の京、江戸を東京と改名するとして、1868年慶応4年7月17日に発布した。
 徳川慶喜が大政奉還をきめたのは、前年の慶応3年10月14日で、五箇条の御誓文は慶応4年3月14日で、江戸城開城は4月11日、上野戦争は5月15日で、そして、7月17日に江戸を東京と改称したのである。そして、明治元年は9月8日からで、明治天皇が東京(江戸)入城したのは10月13日である。長岡藩の、あの河井継之助が小千谷談判後、北越戦争で戦死したのは上野の戦争から3カ月後の8月16日であった。

 性の分化と社会的性

 SEXの決定、すなわち、男の子がおとこの子として、女の子はおんなの子として生まれてくるのはどのようなメカニズムが組まれているのか。また、女の子らしく、男の子らしく育つにはどのような条件があるのだろうか。このように決まった性をgennderジェンダーという。sexとはいわない。

 現在は、性のサイエンス、いわゆる性の科学は、1975年の大野の性決定因子の発見から、急速に発展し、ほぼ解明されている。しかし、最終の段階で、どのように精子がつくられ、どのように卵子が造られかの細かい機序はいまだに解明されてはいない。

 先ず人間の染色体は23個の対になっており、計46の染色体がある。このうち、男は44+XYで、女は44+XXである。すなわち、男では性染色体はXYとなっており、Y染色体はX染色体の約半分の大きさである。女の場合はXX染色体である。
 この染色体をもった胚細胞が睾丸、卵巣で核分裂すると、半分の、精子の場合23Xと23Yの精子がつくられる。減数分裂した細胞は、卵巣では、どの卵も23Xである。男のその精子は23XのX精子と23YのY精子にわかれている。子宮に排卵された卵に射精された精子が卵膜を破り卵内に侵入すると核分裂がはじまり、胎児として子宮粘膜に着床し、妊娠がはじまる。その胎児は、Y精子がX卵に侵入すると、その胎児は男の子になり、X精子である場合は女の子の胎児となる。

 このY染色体の短腕と長腕のくびれ近くに組織適合性Y抗原(H-Y抗原)をつくる遺伝子、H-Y遺伝子(SRY遺伝子)が存在する。これにより胎児の性原細胞は睾丸をかたちづくり、セルトリー細胞、間質細胞、精祖細胞が形成される。このあと、妊娠8週あたりから、胎児の間質細胞から男性ホルモンであるテストステロンが分泌され、ヴォルフ管といわれる組織は、精管、精嚢腺、尿道、ペニスを形成していく。女性の場合はH-Y抗原がないので、卵巣が形成され、女性ホルモンのエストロゲン、プロゲステロンが分泌され、ミューラー管が子宮、卵管、膣を形成していく。

 そして、人間のこどもは1年ぐらいで、よちよち歩きをはじめ、12歳ごろから再度、睾丸から男性ホルモンが分泌され、女性の場合は女性ホルモンにより、第二次性徴期に入り、おとこの子は声変わりし、髭がはえ、毛深くなっていく。女性は胸がふくよかになり、骨端線が閉じ発育成長は止まるのである。この後、社会的性に目覚め、女はおんならしく、異性をもとめ、男はおとこらしく、異性の女を意識していく。

 これらの各段階で様々な性的異常、奇形がみられる。先ず染色体異常としてはクラインフェルター、ターナー症候群があり、H-Y抗原の異常や、ホルモン・リセプターの異常の半陰陽があり、社会的性の異常として性同一性障害などがみられる。

 乳幼児教育は絵本で

 アマラとカマラでみたように、人間として生まれてきても、社会的にオオカミに育てられると、オオカミになっていくわけで、出産後の養育が異常であれば、異常なこどもに生育してしまうのである。たとえば、親の言葉で、オオカミの、アー、ウー、とかギャーとしか喋らなければ、現実、そだてられる子供は言語障害をおこしてしまう。
 そして、最近、このような有意語をしゃべらない、自閉症のこどもが増えてきている。その原因の一つに、人間教育で最も大切な、乳幼児期に、電子メディアの充満している場で育てられる、育ててしまうことにあるといわれている。

 ここでいう、電子メディアとはテレビ、ビデオ、DVD、テレビゲーム、携帯用ゲーム、インターネット、携帯電話を意味している。

 日本の現代人で、電子メディアの渦の場外で生活していくことは、不可能である。しかし、2歳までの乳幼児には電子メディアは不要で、不要どころか、人間のもっとも人間らしさ、言語を発っする、この言語中枢の形成に悪影響をおよぼすことが判明している。

 American Academy of Pediatricsの2004;113;708-713 にEarly Television Exposure and Subsequent Attentional Problem in Childrenという題名の、Seattle の Washington大学小児科医Dimitori A. Christakis等による報告で、1歳のこども1278名と3歳のこども1345名に4時間以上の長時間、テレビをみさせ、7歳時に判定すると1、3歳の両群ともに、その10%に注意力の散漫がみられたという。

 日本小児科学会の谷村雅子先生等による「日本小児学会こどもの生活環境改善委員会」から、乳幼児のテレビ・ビデオ長時間視聴は危険です、との2004年の報告がある。1900名の1歳6ヶ月のこどもにテレビを長時間視聴させると有意語(意味のある言語)の発語の出現が遅れることが報告されている。

 幼児教育の親への電子メディアの危険性が勧告され、2004年に国際小児科学会から、その対応策が発表された。2歳以下の子供が、電子メディアの暴露により言語障害を起こす可能性が高いとされ、その注意事項を2005年4月にまとめて報告されたのである。以下を厳守することが肝要だ。

  メディアから乳幼児を守るための五原則

  1. 2歳まで、テレビ、ビデオの視聴はひかえる。

  2. 授乳中、食事中のテレビの視聴は止める。

  3. すべてのメディアに接触する総時間を制限する。

  4. 子供部屋には、テレビ、ビデオ、パソコンを置かない。

  5. 保護者と子供で、メディアを上手に利用するルールを
    つくりましょう。

 さらに重要なことは、現代の日本の親が子供に対し、テレビをつけっぱなし、電子メディアに暴露させっぱなしであること自体に、気付いていないことである。自分は子供にはテレビゲームもさせていないし、テレビ、電子メディアはきちんと時間を決めて見させていると主張する。しかし、子育て用のビデオは、つけっぱなしで、実際は4時間以上こどもたちにテレビゲームをさせていたり、テレビをみさせたりしている。

 10年前にはなかったことで、現在の親は電子メディアの環境内に存在していることを自覚していない。核家族化する前は、祖父母が注意していたし、孫の話を聞いてやったり話かけてやったりしていた。親自体が生まれたときから電子メディアの世界にどっぷりつかっているので、子供がどうなっているのか、全く気付いていない。したがって、親から再教育していく必要がある。

 これらを新しいタイプの言葉の障害ととらえている。テレビでは一方的に視聴覚から大脳刺激するが、話かけるという、会話のキャッチボールはない。話かけても返事はかえってこない。メールも同様である。話す相手がいないと構語言語中枢の機能は衰退していく。

 このままであれば、人間の子供は、アー、ウーという意味のない叫び声だけの、まさにアマラ、カマラの世界になってしまう。これを防ぐには電子メディアの世界に暴露される時間を極力減らし、絵本を読み、語らせる、そこで、親がことばを返すという環境にかえていかなければならない。

 絵本のない電子メディアで育った子供は、絵本で育った子どもより言語障害をおこしやすいし、有意語も早くしゃべるようになる。おそろしきは、あと10年先の2015年である。 わたくしたち団塊の世代が高齢者社会に突入し、認知症が増え、さらに、20代の若者のは言語障害ばかりで、この若者に介護をうけるのである。魑魅魍魎の世界がやってくるのだ。

 この点を治すには絵本を読ませ、聞かせるのが一番良い方法だという。乳飲み子、幼稚園、小学校には絵本をどんどん見て読ませるように。つまらないテレビなどみさせないほうがよい。

 あとがき

 『野生のしらべ』はグリモーが2003年に書き上げた自叙伝で、訳本は2004年5月ランダムハウス社から北代美和子さんの訳で出版されている。
 この本は天才ピアニストの誕生を自ら詳細に語られている点と、内容がきわめて正直である点、そして、今後の彼女、フランス音楽界のみならず、世界中のクラシック音楽界になにが期待されるかを解きあかしている点で、きわめて貴重で、重要な精神医学的文章である。

 しかし、本当に申し訳ないが、非常に読み辛い。各々のページには事細かく、グリモーの心の表現が上手く訳されているのにもかかわらず、これらをまとめようとすると、目次がない、索引はない、各章に番号が1から8まで打ってあるだけ。どこに何が書いてあったのか、たしかめようとしても時間がかかる。各章の頭に、内容を予測させるような題目がついていないためと思われる。

 原本はフランス語であるため、全く私はよめませんが、こちらの方も各章に番号を符ってあるだけで、章の目次はありません。

 登場人物の詳細と事象年代の不明な箇所があるため、これも、あとから考察しようとしても、いつ頃の経験からきているのか、解読できない箇所がでてくる。登場人物には音楽関係者しか理解できない人もあり、環境保護関係者が読んでも判るように、訳注を充分にとりいれる必要があるだろう。

 さらに、グリモーの音楽観に、あらたにオオカミの研究が入り込む箇所で、音楽の話の筋が飛んでしまう嫌いがある。ここに、なぜオオカミの話がはいりこむのか、スジが万人の同感のえられるような内容に改訂してもらいたい。できれば彼女と狼との写真もふんだんにとり入れて欲しい。
 本人は、まだ活躍中の人なので、邦訳の体裁を本人の意向も能く聞き、読者本位の訳本に再版していただきた。

 そこで、私の各章の題目というか粗索引がわりを、ページとともにのせておく。

 はじめに   グリモーの環境保護運動   アシュケナージ
 1章 生い立ち              9ページ
 2章 ピアノにふれる           45
 3章 バルビゼの本格的なピアノレッスン  2
 4章 パリ国立高等音楽院         95
 5章 マスターコースでのトラウマ     115
 6章 作曲家を訪ねて           173
 7章 アマラとカマラ           203
 8章 パリ脱出、狼アラヴァとの出会い   48
 訳者あとがき  天才少女グリモー     313  北代美和子

 特に、第2章と第5章が読者として、つまずきやすいので、はじめと、終わりを読むだけでも、ほぼ40%ぐらいは理解できる。

 この冊子中で、唯一日本人が紹介されている箇所が、第五章の128ページにある。ピアニストではなくて、ヨシハル・カワグチ、川口義晴さんで、デンオンの主任プロデューサーとして、バイオリン奏者のカントロフと録音曲目の相談に、パリ国立高等音楽院にきていた。
 たまたま、カントロフが不在で、ピアノ教師のルヴィエさんから、2年生のとき学校をサボって、グリモーが地元エクス音楽院での公開コンサートで、ショパンのエチュードと協奏曲2番を演奏した録音テープがあり、ちょっと聞いてみて下さいといって手渡された。 川口は、グリモーって誰ですか、と聴き直し、内の生徒で、まだ15歳ですと教えられ、テープを持ち帰って聴いた。
 川口は、録音されている、そのピアノ演奏があまりにもエネルギシュで素晴らしいので、三週後に、今度は、グリモーの演奏を直に聴きにでかけたのである。

 グリモーは、リストを練習していた。川口が、この曲をCDで発売しましょうと話かけると、15歳の少女グリモーはラフマニノフのほうがいいわ、とこたえたという。
 このような偶然というか、必然というか、通常のデビューと違った、衝撃的で、彼女の学生演奏という日常的なCD、それもラフマニノフのソナタとプレリュードでという変わり種曲目でのCDデビューであった。

 しかし、このCDは前述したように、アカデミー・デュ・ディスクのグランプリを獲得する。LP時代では、ありえない出来事であった。

 この時のCDの表紙にのっている美少女グリモーは、カールのかかった長髪に、紺の縞のジャケットを羽織り、無化粧、スッピンで、誰からか借りたネックレスをつけ、まだ、あどけない表情である。しかし、勝ち気にみえる美人グリモーの写真が表紙である。
 美貌をほめられるのを性的ハラスメントと考えていたようだが、演奏のほうは15歳とは到底おもえない、しっかりした演奏であった。とくにブラームスとラフマニノフの情熱的解釈と演奏は、比類なし。ブラームスのソナタ第2番の冒頭アレグロのma energico 極度にエネルギッシュで、あのカッチェンも影が薄い、男顔負けの力強さ、躍動感である。 一部の教授陣で、グリモーを精神的異常者とみていた嫌いがある。演奏スタイルは個性的で、強靱で、マリア・ユーディナやホロビッツに近い。

 卒業試験で、満点かとおもいきや、審査教授の7人中2人は不合格をだした。
 理由は、「わかりますね。あなたの年齢で、この、ラフマニノフを弾くなんて。それにあなたに才能があるかどうか、どうしてわかるんでしょう。まだ早すぎます。ラフマニノフよりショパンにすればよかったのよ。ショパンだって大作曲家ですよ」、「15歳では、まだ成熟していません。それにあなたの才能が確かめられたわけじゃない。永遠にひらめきが消えてしまった神童の話はいくらでもありますからね。」

 これには、我慢の子、グリモーも怒りを露わにする。この事件がパリを見捨てる一つの原因となった。このようでは、フランス音楽界、パリ国立高等音楽院のつくりだしてきた高度で芳醇なエスプリをふくんだフランス音楽の創造は、今後、期待できない。ここに、はっきりとしたフランス音楽の衰退がみられる。

 チェリスト、カサドの妻、原智恵子さんの場合も、これと同じことが、付きまとう。なにも解っていない音楽評論家の野村洸一の出鱈目批評に翻弄される。音楽家の血筋、芸大出身などの経歴を重視するあまり、芸術性を批評できていない。いつのまにか芸術性以外のフランス的とか、ロシア的とか、ドイツ的と、風土や経歴を念頭に置いてしまう馬鹿さ。

 グリモー自身が語っている。「おとなになって、なりたいものを子供に訊ねると、評論家、批評家という答えは、決して、返ってこない。それはつまり、評論家、批評家が、落伍者の職業だ、ということを証明しているのだ。」
 解説者ならともかく、人を批評して食っていく。それも、間違った批評で。

 フジ子・ヘミングさんの場合も同じである。音楽性を批評するのではなく、中年の日本女性が夢中になっている、その現象を拡大解釈して、「中年女性が夢中になるような音楽にはたいした音楽性はない」と、聴き込みもしないで、思いこみで批判してしまう評論家が日本にはあまりにも多い。韓流とはまったく違うケースだ。彼女の鐘、カンパネラのピアノ演奏は正鵠を射ており、彼女以外に、この曲を正当に、鐘の音表現として弾いて聴かせた人は、嘗て、いない。

 グリモーは、そのほかに、顎髭男、レオン・フライシャーのパリ国立高等音楽院でのマスタークラスの指導も受けていた。
 レオン・フライシャーは1928年生まれの米国で、シュナーベルに師事して14歳で、一流のピアノ演奏家としてデビュー、1962年、34歳から原因不明の右手麻痺がおこり、演奏は一線から遠のいていた。1984年にはジストニアと診断されたが、その後、1986年、小澤征爾のすすめでタングルウッドの音楽センターの芸術監督に就任し、1989年パリ国立高等音楽院でのマスタークラスもうけもっていた。1997年まで、この地位にあった。

 その彼の「両手 Two Hands」というCDが今年2005年6月発売された.VANGUARD CLASSICSから2枚組CDCOCQ83845で発売されている。
 バッハの「人の望みの喜びよ」など、軽やかではあるが、一つ一つの音の強弱が不自然で、ペダルの使用で伴奏音が次の音に重なる傾向があり、麻痺前の両手での演奏とは異なっている。バッハの曲では、左手だけの演奏方法は困難で、麻痺の右手をカバーするようなペダルの使い方が頂けない。選曲を考えなおさなければダメだ。
 曲解釈においては、両手、左手のみ、に関わらず変わりないはずが、左手のみの演奏表現に、もとの曲解釈をそのままもってきており、ムリな演奏表現になってしまっている。 このようなハンディをもった教師から天才肌の少女が、何を学べばよいのだろうか。少し我慢して、ハンディを持った人の演奏を、聞くようにしろとでもいうのか。

 実際にレオン・フライシャーのラヴェルの左手のためのピアノ協奏曲を聴き、「オーケストラに優る色彩がありました」と、グリモーが苦しまぎれに、しかし、素直に感想をのべると、フライシャーは、厭味にとり、「顔を赤くさせるようなことを言わないでください・・・」と、苦言を呈している。

 でも、グリモー本人は本当に感じたことを述べたので、ハンディをもった教師のほうがお世辞やら皮肉と捕らえるようでは、教え子はどうすればいいのか。この時にはグリモーは、ほんとうに驚き、困ってしまっている。
 天才少女グリモーに、ハンディをもったひとのこころを理解せよというのは、元より無理な咄しである。これもパリを離れる原因になっている。

 ここで謂えることはハンディをもっているひとが、過去にいかに名手であったといっても、そのひとが他の人を教育し、批評する、よき指導者になれる保証はないということである。
 それにしても、ハンディをもっている人が、可能性を秘めている、今から開花するハズの人間を教育指導するのは、きわめて不自然である。この点でもフランスの音楽院の指導教官の選択には疑問符をつけざるをえない。この人事に、もし、ボストンの小澤征爾が加担していたとなれば、これも問題だ。

 美輪明宏氏のいう正負の法則ではないが、運命とは残酷なもので、天才少女グリモーも年をとる。時の経過とともに、手の障害、事故、病気による早死が待っているのかもしれない。しかし、彼女はすでに、多くのCD録音や演奏会で世界中の人々を喜ばせ、感激させてきているので、不足はないし、グリモーは、アラヴァに見守もられているではないか。
グリモーが振り向くようなことがあれば、彼女の才能と、感受性がストップするときである。

 五嶋龍君をご存じだろうか、ニューヨークで1988年うまれで、両親は日本人で、姉がヴァイオリンニストの五嶋みどりさんである。今17歳で、母親のすすめで、男の子だから、こどものときから近くの空手道場にかよっていた。
 今年2005年8月に待望のCDデビューを果たした。彼の完璧なテクニックがドイツグラモフォンのUCCG1252で聴ける。
 こちらのほうも、クラシック音楽界とくにヴァイオリン派の人々の評価は、ハイフェッツ以上と極めて高い。そのテクニックのすばらしさは、体の軸がブレないためか、音が清く、だぶついた音がしない。

 これは空手で鍛えてあるために、姿勢がぶれないのだと、テレビで見て、納得した次第である。
 姿勢がフラフラしないので、運弓がスムースにできている。かれのクライスラーの「愛の喜び」は極品である。小品では、我流で、メロディーをゆらしまくることが多いなか、これほど完璧に弾きこなされた例は、かつて聴いたことがない。
 また。超難曲のシンディングのヴァイオリンと管弦楽のための組曲はプレストと特急なみの早さで弾き終える曲で、1分36秒で、ハイフェッツの記録より2秒早い。そのため伴奏のフィルハーモニー管弦楽団がついていけない。

 龍君の演奏は、何度聞きなおしても涙が溢れてくる。なぜだろうか。自らは苦労して、練習をくりかえし、これでもか、これでもかと鍛錬しているのだが、聴衆はムリのない、まったく自然な音楽としてきこえる。モーツァルトの作曲と同様に、天才、神童の創り出す激越の感動の音楽とはこういうものだ。

 グリモーといい龍君といい、このような感動をあたえてくれる、天の美禄に感謝の毎日である。

 そして2005年の年末に、CDに光をあてて、音質改善するあのNESPAに、Proが発売された。照度300万ルックスである。グリモーのCDに照射処置を施すと、ピアノの低音のこもったようなイヤな圧迫感がなく、伸びやかな低音の響きになり、理想的音質に様変わりし、マスターテープをきいているような錯覚をおぼえるほどに変化する。グリモーのエネルギッシュな演奏が目前に迫っていて、息遣いまで聴こえる。
 これで、オーディオもアナログ再生音にきわめて近くなった。2005年はデジタル録音での記念すべき年となった。
 このコラムは、厳寒の、2005年12月28日、書き込み了えた。
 それにしても、今年の冬は寒い。20年ぶりの寒さという。新潟は大雪だ。

 参考文献

1) グリモー、『野生のしらべ』、北代美和子訳、平成16年、ランダムハウス、2004年
2) Helene Grimaid 、『 Variations sauvages 』、Robert Laffont、2005年
3) キップリング、『ジャングルブック』、金原瑞人訳、平成2年、偕成社、1990年
4) バリー・ホルスタン・ロペス、『オオカミと人間』、中村妙子、岩原明子訳、昭和59年、草思社、1984年
5) 平岩米吉、『狼』、昭和56年、動物文学会、1981年

   

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