はじめに

 2006年10月9日、北朝鮮が地下核実験をおこなってしまった。

 日本の教育の場では、いじめ問題が多発している。そんななか、岐阜県瑞浪市中学2年の女子が自殺したことで、校長は当初、いじめはなかったと記者会見で語ったが、その3日後に、いじめの存在があり、これが原因で、自殺したことを認めた。
 そろそろ、教育現場にも検察が入る時期にきているのかもしれない。

 全国で未履修科目があったのを、単位を捏造して大学受験のための内申書を作成していた問題が、全国の高校でひろまっている。教育界も医学界と同様に、幼稚化している。

 さて、仏教のはじまりは紀元前400年ごろで、その後、中国に西暦200年頃に伝わり、以後西暦500年ごろ日本につたえられるが、人間の脳機能と宇宙からくる生活の規範は暦の導入によって、強い影響をうける。

 この宇宙の観方は、仏教の専門的な扱いから密教を生み出し、曼荼羅、寺院、仏像、仏典、法具によって、その教理が具現化されてきているので、今回、密教のおこり、空海について、さらに、その教理について述べ、曼荼羅については、次ぎのコラムで詳細に述べる。

 最澄、空海の天台宗、真言宗が、日本に持ち込まれるまでは、古京六宗であったこと、空海の後は、法然によって、浄土宗がおこされ、念仏宗、浄土真宗、法華教が弘教され、現在にいたっていることは、すでに『佛教のこころ』でのべた。

 密 教

 仏陀がインドのヴェーサーリーで紀元前386年に涅槃後、仏教教団は、迦葉(かしょう)の率いる上座部の保守派小乗と、富楼那(ふるな)の率いる大衆部の革新派大乗に分裂してしまう。
 以後100年あまり歩み寄りは見られず、さらに分裂がはげしくなり、大乗は8部に、小乗は10部に計18部に分裂してしまった。

 一方、紀元前250年頃、アショカ(阿育王)がインド全土を支配し、道徳的規範をしるした法、ダルマをしめし、仏教を擁護したが、小乗は衰退し、大乗仏教は、般若経、華厳経、法華経、浄土経典がつくられ、発展を続けた。

 その後、南インド出身の龍樹(西暦150-250)により、これらの大小乗を一乗として、まとめて、『中観』を論じた。そして、解深密経、大乗阿毘達磨経、如来蔵経、勝鬘経など経典化され、4世紀には北インドの無著(むじゃく;310-390)、世親(せしん;320-400)の兄弟が唯識論をうちたてた。

 4世紀にはいって、インドの亀茲(きじ)国出身の鳩摩羅什(くまらじゅ;350-409)によりインド仏経典は漢訳され中国に伝わり、中国仏教が栄える。

 玄奘三蔵(げんじょうさんぞう;602-664)が、629年、国禁を犯して、ナーランダ寺を訪れ、5年間に657巻の経典を中国に持ち帰り、鳩摩羅什の旧訳に変わって、あらたに、中国仏教の礎となる。

 そして、インドで、8世紀という比較的新しい時代に、呪術密法が仏教の専門家のなかで、はやり始めたのである。しかし、この密教がインドのどこで、何時、だれによって信仰されたのかは特定できない。おそらくインドの北東で起ったとかんがえられるが、だれがいつからこの秘密仏教を広めだしたのかは判然としない。

 しかし、インドの中東側の、ナーランダ寺(那爛陀)で、達磨掬多(だるまぐふた)が密教を弘めていたが、ウダガギリのグプタ朝(度烏荼)の王であった善無畏(ぜんむい;シュバカラシンハ;637-735)が出家し、このナーランダ寺で密教を伝授された。そして、彼は、700年初期には、インドのガンダーラを通り、中国、長安に大日経密教をつたえた。これが北ルートで、これより10年遅れて、スリランカの金剛智(こんごうち;ヴァジラボ−ディ;671-741)によって、南ルートで中国洛陽に金剛頂経密教が伝えられた。

 唐は楊貴妃、玄宗皇帝(685-762)の時代で、一乗、天台宗は瀕落し、密教がインドからつたえられた。北ルートの善無畏は716年に長安に、南ルートの金剛智は720年に洛陽に密教を伝えたが、その80年後の804年には、日本の空海が遣唐使として長安に辿り着き、この密教を日本に持ち帰ってきたのが、密教真言宗である。

 善無畏の弟子に、一行(683-727)、玄超がおり、金剛智の弟子には不空がいた。
 不空は師の遺命でスリランカ(セイロン)に行き、梵本1200巻をもちかえったのが746年で、その不空(アモーガヴァジラ)の弟子6人のうちの一人が恵果(746-805)である。
 空海が長安で、知った密教は、したがって、南ルートの金剛密教であるが、恵果は、すでに、大日、金剛の合体をとげていた。
 これらのことは空海の留学報告書である『請来目録』にかかれている。

 密教では、衆生は本来仏性を具有しているのであるから、煩悩を克服する必要はなく、咒句すなわち真言を誦し、密教の儀式に与れば容易に仏となることができる、いわゆる即身成仏を説く。しかし、左道仏教(邪教化)といわれ、男女の性的行為、結合を絶対視し、これを悟りを得るための方法としたために、ついに衰微堕落していった。一般化せず、専門家的になり、中国では恵果の死後、急激に衰退し、インドの密教も、1203年、回教徒によって完全に滅ぼされた。
 したがって、今日まで伝えられ、残っている純密密教は、世界中で、この高野山真言密教のみであり、その教理は、現在まで、延々生き続け、今や、情報ネットワークの設立者の、空海は、社会福祉の父としてみなおされている。

 空 海

 空海(774-835)は774年、宝亀5年、讃岐の国、多度郡屏風浦、善通寺市に、不空三蔵の入滅の日6月15日にうまれた。15歳で、漢書を学び、20歳で、『聾瞽指帰;ろうこしいき』を著す。これはのちの三教指帰と改題される。これより、修行の時期にはいる。しかし、この修行の十年は空白である。

 804年、延暦23年甲申、30歳で、遣唐使として、5月12日、空海は第1艘船に、最澄は第2船で、難波津を出立、博多、肥前松浦郡田浦(五島列島)を経由し、8月10日に福州長渓県赤岸鎮以南に漂着した。計4艘で出立したが、2艘のみ中国に到着したのである。

 最澄は、長安に向かい、30年前に渡唐し、長安の西明寺にいた永忠の世話になり、長安から天台山に向かい、1年後に、永忠とともに254巻を持って帰国する。この永忠は茶を日本にもちこんだ僧である。

 一方、空海は、12月23日に長安に入り、般若三蔵から梵語を習い、1年後のわずか、5月で、青龍寺の恵果に会い、6月に大悲胎蔵の灌頂を受けた。このとき、空海が蓮の花を平台の胎蔵曼荼羅にむかって投げたところ、中台の大日如来に落ちた。このことによって、大日如来との結縁がおこったといわれる。7月には金剛界の灌頂を受け、8月10日には「この世の一切を遍く照らす最上の者」遍照金剛の灌頂名が与えられる。

 灌頂(かんじょう)というのは、頭頂から四大海の水を注ぐ洗礼の儀式のことである。
その時の模様を『請来目録』で、空海自身がのべている。

「六月上旬、学法灌頂檀に入る。この日、大悲胎蔵大曼荼羅に臨んで、法に依って花をなげうつに、偶然にして中台の毘盧舎那如来の身上に着く。阿闍梨(恵果)、讃してのたまわく、不可思議、不可思議なりと。再三、讃嘆す。すなわち五部灌頂を沐して、三密加持を受く。これより以後、胎蔵の梵字の儀軌を受け、諸尊の揄伽観智を学ぶ。」

 こののち、半ヶ月で、曼荼羅に登場する諸尊の印や真言、そして、身・口・意の三業を駆使し、各尊と一体化する供養、すなわち観法の指導をうけている。密教での供養の作法をわずか、2週間で会得するのである。ここが、勅命での最澄でも、叶わない所である。

 恵果は「真言秘蔵の経疏は隠密にして図絵を假らざれば相伝すること能わず」といい、画工李真に金・胎両部の曼荼羅を画かせ、鋳工楊忠信に仏具を造らせ、写経生に金剛頂経などの密教経典を写させ、これらを、空海に授けて「汝宜しく本国に帰り、この秘密乗教を以て國中に流布すべし」と遺誨し、805年、永貞元年12月15日入寂された。

 次の年の、806年、大同元年丙戌、3月長安を出立し、橘逸勢(たちばなのはやなり)や高階遠成らとともに、新訳経142部247巻、真言讃42部44巻、論疏32部170巻、仏像、法具9種、法曼荼羅、三昧耶曼荼羅、伝阿闍梨の影十鋪、嘱物13種をもちかえり、8月に帰国する。暫く観世音寺に留まり、上奉文を天皇に高階遠成を介して提出した。11月に比叡山で菩薩大戒を受ける。

 これらの経済的後ろ盾は文献上はのこされていないが、四国の金の存在であっただろうとされている。しかし、私は、政府高官の高階遠成の金策ではなかったかとみている。
 そして、『虚しき往きて実ちて帰る』のである。それも2年という、いまのインターネットでも不可能な超スピードで。
 ゆくときは地獄、帰りは天国で、空海渡海後の次の遣唐使は838年、32年後のことで、この大同の帰国の機会をのがさなかったのは天佑であった。

 翌、807年、平城天皇の命により、入京し、和泉の槇尾山寺に住し、11月に奈良久米寺で、大日如来の講演をおこない、ここで真言宗立宗を宣言し、809年、大同4年に最澄に立宗の要旨を伝えている。

 7月、洛北、高雄山寺に移り、14ヶ月この地で、弘教するが、810年、弘仁元年、二所朝廷で、薬子の変が起こる。この藤原氏の謀反は空海の秘密祈祷と坂上田村麻呂の征伐により制圧され、嵯峨天皇の時代となる。嵯峨は空海に東大寺の別当補佐に任命し、自ら阿闍梨位灌頂を受けられた。そして、その皇太子の高岳親王が空海に弟子入りされた。

 高岳親王(たかおか;真如親王;しんにょ;799-865)は空海の死後、862年、貞観4年、自ら廃太子となられ、蹲踞太子(うずくまり)と綽名されたが、求法の一念は勇壮で、65歳で入唐求法され、さらに、天竺までむかわれ、羅越国、ラオスで客死されたのである。虎にかみ殺されたとも言われている。
 日本皇室の歴史で異彩を放っておられ、皇族で海外にでられたのは、この高岳親王のみである。昭和天皇まで、海外にでられた皇室家はおられない。この類例を見ない高風を仰ぎ、感激、感涙する国民は多かった。しかし、いまや殆ど忘れられた存在である。

 811年、長岡の乙訓寺(おとくにでら)は神護国祚真言寺、略称神護寺で、和気家の私寺であったが、和気清麻呂の五男の和気真綱が、空海をこの寺の別当に招き、寺の復興に尽力してもらっている。
 この寺は、785年に藤原薬子の父、藤原種継を暗殺の科で捕らわれた早良親王(750-785)が、幽閉されていた寺で、早良親王は淡路に遠投されるときに憤死された。その御霊が、この寺に乗り移っていたために、これを空海の祈祷により鎮魂するのが目的であった。

 812年、弘仁3年2月、最澄が弟子泰範とともに空海を訪れ、高雄山において密教灌頂を懇請している。最澄は、空海より11月に金剛界灌頂をうけるが、この時点で、空海は教界の最高位についたことを実感する。
 しかし、泰範は空海のもとに走った。最澄は茶十斤を空海に送り、弟子泰範に還えるように手紙をだしているが、返事は空海が代作し、団茶は喜何であるが、本人は叡山にはもどらない旨の返事をだした。

 さらに、弘仁4年には最澄は、弟子貞聰に、空海への新撰文殊讃法身体方円図と理趣釈経一巻の借覧を依頼するが、空海は、これを断り、『古の人は道の為に道を求め、今の人は名利のために求む。名の為に求むるは求道の志に非ず』と、説教をたれている。

 これに、最澄は、『法華一乗と真言一乗と何ぞ優劣あらんや』と、激怒、反撥したといわれている。
 これで、最澄と空海の仲は10年間、最澄の入寂まで疎遠になる。

 しかし、最澄は、815年、以前から桓武天皇の勅命でとりおこなわれていた天台宗の法門をまとめ、七大寺に安置させている。この時が最澄の絶頂期である。空海との教判についての論争が、最澄をさらなる高みに天台宗をまとめようと努力させ、円仁、円珍らの優秀な弟子を輩出するのである。

 空海は高野山を816年、弘仁7年に第52代嵯峨天皇より允許(いんきょ)された。青巌寺、教王護国寺、綜芸種智院、真言院が設立され、全国から信者をあつめ、真言教修禅寺院が建立された。青巌寺は854年に完成し、のちの金剛峯寺で、密教経典の『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』から命名された。

 平家物語の十之巻の高野巻に、

 高野山は、帝城を避て二百里、京里はなれて無人声、青嵐梢をならして、夕日の影しづかなり。八葉の嶺、八の谷、まことに心もすみぬべし。花の色は林霧のそこにほころび、鈴のをとは尾上の雲にひびきけり。瓦に松おひ、墻(かき)に苔むして、星霜久しくおぼえたり。

 高野山は標高1000メートルで、蓮の花が開いたような地形で、八葉の峰とよばれ、
伝法院山、持明院山、中門前山、薬師院山、御社山、神応丘、獅子丘、勝蓮華院山があり、一大山上宗教都市になっており、全体が金剛峯寺境内となっている。
 周辺の山も八葉で、今来峰、宝珠峰、鉢伏山、弁天岳、姑射山、転軸山、楊柳山、摩尼山、からなっている。

 なぜ空海は高野山を撰んだのかについて、
1) 託宣によって、丹生明神から高野の地を譲り受けたからという説と、
2) 唐から投げた三鈷秤が高野の木に掛かったとする説と、
3) 狩人にこの地を教えられたとする説の3つがある。

 817年、最澄は法華経6000部を写経し、全国に頒布(はんぷ)し、比叡山に三昧堂を建立する。

 この頃、空海は陸州の法相宗僧徳一を知る。彼から真言密教について十一箇条に及ぶ疑義をうけている。徳一の見識の高さに空海は感銘し、徳一菩薩と呼んでいた。その像が福島県会津若松湯川村勝常寺にのこっている。
 空海は治水にも努力し、821年、四国讃岐の大貯水池、満濃池の修築は空海の指導による。

 さらに、律宗を楯に、修行者を育成し、僧に認可していく教育システムが必要であると痛感し、嵯峨天皇、最澄の賛同で、822年2月に、華厳宗東大寺真言院を建立した。
 最澄はその6月4日に入寂。入寂44年後の866年、第56代清和天皇より伝教大師を、同時に円仁(えんにん)に慈覚大師の諡が贈られる。日本最初の仏僧に対して、大師の諡がおくられており、第3代天台宗座主円仁(入唐八家の一人;794-864)においては、わずか死後2年での、慈覚大師の諡である。

 入唐八家というのは、平安期に唐に渡り天台、密教を学ぶために入唐した高僧をいい、最澄(767-822)、空海(774-835)、円行(799-852)、円仁(794-864)、常暁(?-866)、恵運(798-869)、宗叡(809-884)、円珍(814-891)、をいう。

 空海は最澄の入寂直後に、『十住心論』を書き上げ、天長にはいって、830年、天長7年に、第53代淳和天皇勅命で各宗の教理をまとめるように命じられたため、この『十住心論』を提出している。平城、嵯峨、淳和は三兄弟である。

 823年、嵯峨天皇より東寺を給預せられ、824年、淳和天皇は、天長元年、東寺を教王護国寺と号す。

 828年に東寺の東に綜芸種智院という真言宗の大学を建設した。これは世界でも私立の綜合大学で初めてのことで、仏教のほか、儒教、道教もおしえる理想の綜合大学であった。
この大学創設の意が、仁和寺の済暹(さいせん)の『続遍照発揮性霊集補(門に癸)鈔』十巻に収録されていて、

 「貧道(空海)は、物を救うに意あって、ひそかに儒、道、仏の三教の院を置かんことをこいねがう。給孤(きっこ)の金を敷くことを労せずして、たちまちに勝軍の林泉を得たり。本願たちまちに感じて、名をたてて綜芸種智院という。」

 これは、院の創設の意図をインドの祇園精舎の奉献の故事を引用している。給孤(きっこ)独長者の須達スダッタは、ひとり、貧している人々に食事を給していたが、波斯匿王(はしのく)の息子の祇陀太子(ぎだ)の林園に釈尊のための精舎(寺)を建立して寄進したいと思い、土地を譲ってほしいと願ったが、祇陀太子は林園に金貨を敷き詰めた分だけ譲ってやるとからかわれ、長者はほんとうに金貨を敷き詰めはじめたので、祇陀太子は驚いて、スダッタと協力して林園を寄進したというはなし。
 公共福祉の原点が、すでに空海において日本の平安期に存在していたのだ。

 しかし、この綜芸種智院は、847年、空海入滅12年後に廃校になり、以降、千年後の1881年、明治14年になって、やっと、東寺の北側に再建され、昭和24年に、現在の京都伏見区向島に移転されている。

 遍上金剛空海は、ついに835年、承和2年、正月から床につきがちになり、3月にはいり、絶食絶水し、遺誡をおおくの弟子に残し、永遠の定に入られた。薪尽き、火滅す(弟子実恵のことば)。
 『続日本後紀』の卒伝には、万感を籠めての、「大僧都伝燈大法師位の空海が紀伊国の禅居に終わる」と、記されている。3月21日のことである。

 838年、小野篁(たかむら)が遣唐使の副使を拒否し、嵯峨天皇は小野を隠岐流罪にしている。
 円仁は864年入唐している。894年、菅原道真により、遣唐使廃止された。そのかわり民間の貿易がはじまる。

 密教教理

 大日如来の真言は、オンアビラウンケンバザラダトバンである。

 密教の教理は、教相と称し、大日如来の自証のままと見る。その中心は、体、相、用の説にあり、これらは宇宙に周遍し、広大で、広範囲であるため、体大、相大、用大といわれ、体大は六大(識、空、風、火、水、地)からなり、相大は四種曼荼羅、用大は三密(身業、口業、意業)からなっている。

 六大は識を意(こころ)とし、精神的要素で光明、大我をいい、空、風、火、水、地を五大といい、これは物質的要素で、色、無明、小我といわれる。
 六大の、識、空、風、火、水、地をもって、これ一切諸法の本体であるという。

 五大は、識大としての、色、受、想、行、識の五蘊のうちの、色をあらわしている。
これらの六大と自身は有機的関係にあり、包摂関係、円融相即にあり、互いに影響しあうことを入我我入という。天台のいう事々無碍と同様である。

 五大にみな響きあり、十界に言語を具す、六塵ことごとく文字なり、法身はこれ実相なり。

 五大、五輪は、空、風、火、水、地をいい、青、黒、赤、白、黄であらわし、六大は、これに、識が追加される。

 五輪塔では上から宝珠形が空輪、半月形が風輪、三角形が火輪、円形が水輪、方形が地輪をあらわしている。各輪にキャ(空)、カ(風)、ラ(火)、バ(水)、ア(地)が梵字でかかれている。秀吉の方広寺の耳塚山頂にも、この五輪卒塔婆がたてられた。

 六塵とは、色、声、香、味、触、法のことで、塵は煩悩をさす。

 十界は、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界をいう。

 四種曼荼羅とは、大曼荼羅、三昧耶曼荼羅、法曼荼羅、羯磨曼荼羅(かつま)をいう。
大曼荼羅は仏、菩薩総登場の壇場をいう。三昧耶曼荼羅は、密教の教義である、平等、誓
願、警覚、除障の四義と仏、菩薩の内徳をあらわす、刀剣、輪宝、蓮華、金剛杵、器杖印印契などであらわした彩画をいい、法曼荼羅は、種子曼荼羅ともいい、諸仏菩薩の子をえがいたもので、羯磨曼荼羅は、仏、菩薩の行住坐臥、行動、仕事、威儀動作をえがいた仏像などをいう。

 三密とは行者の身・口・意をいう。身には印契を結び、口には真言を唱え、心意には三昧の境地に住することをいい、この三業と合致することをいう。
三密の行とは、手に印を結び、口に真言を唱え、心は三摩地の境地にはいることをいう。
 空海は最期に、真言密教の思想的仕上げとして、真言密教が日本仏教のどのような位置にあるかを、『弁顕密二教論』、『十住心論』で、まとめ上げている。

 密教以前の仏教は、南都六宗および天台宗は顕教といわれ、これに対し、密教はさらに高い立場から見る仏教で、九顕一密と称し、前者を浅略(地論宗、法相宗、三論宗、成実宗、倶舎宗、涅槃宗、華厳宗、律宗、天台宗など、十住心で述べる一から九までの論を説く宗のこと)、後者を深秘ともいっている。

 顕教は従来の仏教、釈迦如来や阿弥陀如来の教えであるのに対し、密教は、さらに進化し、その教えの法身は大日如来であるとする。行、行動、実践面からみると、顕教では布施、禅定などの六波羅蜜行が行われるが、密教では三密、三業により、印契、真言、三昧である。

 これを論じるのを教判といい、顕教(他宗)と密教の違いを弁じたことを横の教判といい、十住の判釈を竪の教判といわれる。

 横の教判、弁顕密二教論では、顕教は現象としての仏が衆生の機根に応じて説かれた教で、密教とは真如の理としての仏が証(さとり)の境界をそのまま説いた教であるとしている。

竪の教判は

 第一住心  異生羝羊心    本能  食慾、性欲
 第二住心  愚童持齋心    倫理  儒教
 第三住心  嬰童無畏心    他宗教 ヒンドゥー教
 第四住心  唯蘊無我心    声聞乗 仏教初門
 第五住心  抜業因種心    縁覚乗 煩悩と無明の種子
 第六住心  他縁大乗心    法相宗
 第七住心  覚心不生心    三論宗
 第八住心  一道無為心    天台宗
 第九住心  極無自性心    華厳宗
 第十住心  秘密荘厳心    真言宗

 この後、日本佛教は念仏、真宗、法華とつづくのである。

 1203年にインド密教は滅亡してしまったので、今や、現存するなかで、山の正倉院といわれる高野山金剛峯寺の両界曼荼羅が世界でもっとも古い密教法具である。

 金剛峯寺にのこる曼荼羅図は、縦横約4メートルと巨大で、絹七枚を継いで一画面になっており、唐からもちかえったものを、平安時代に転写した曼荼羅で、1149年、久安5年に火災にあい、絵師常明法印が修復し、平清盛が胎蔵界図の八葉の中尊、大日の宝冠を、みずからの首(こうべ;頭)の血を混ぜて彩色したと、平家物語、第三巻、大塔建立にでている。このことから「血曼荼羅」とよばれている。
 また、近年、この図の軸内に毛髪の束が発見された。清盛一門の結縁(けっちん)のための髪といわれている。

 さらに、敦賀の気比神社は金剛界が垂迹(すいしゃく)し、厳島神社は大日如来により垂跡されていたが、気比神社は栄えているのに、厳島は、なきが如く、荒れ果てている。これは安芸守清盛の怠慢であると、夢に大明神がでて要修理の御託宣があり、清盛は高野山に参詣し、修理の約束をして、見事に、鳥居、回廊、神社の改修が施行されたという。

 真如親王(799-865)と円仁

 真如親王の研究には京都大学国文科の杉本直治郎氏の『真如親王伝研究』昭和40年という、700頁におよぶ大書、大研究がある。これには真如、高丘の名称の検討から、平假名の歴史まで克明に記載されている。

 この中に、昭和17年、大戦最中、『大法輪』の3月号に教王護国寺(東寺)に遺っていたという、空海が真如法親王に宛てた「いろは歌」の書状が写真で掲載されていた。これは贋作である。

 「いろは歌」の創作は、空海ではない。このことは、日本書紀の解釈書である、1300年頃成立した『釈日本紀』のなかにかかれており、14世紀からの常識である。
 この写真がニセモノである根拠は、空海の時代には平假名は存在していないことが一つと、写真の、空海の筆跡とされているものがあまりにも拙い字形で、年号の付けかたも現代風であり、空海と号が記載されていたり、皇太子である真如法親王と、法の字が挿入されていることや、その字体が、あまりにも拙く、三筆と称される空海の真筆とはどうみても考えられない。一見して、完璧なるニセモノであることが知れる。
 大戦中は天皇が元帥で、皇国思想が日本の社会を覆い尽くしていたなかなので、このような、まやかしの史料が堂々と本物として通用していた。したがって、大戦中のこの手の史料は信用できないので、鑑定に注意しなければならない。杉本氏も研究誌のなかで、厳しくこの点を指摘している。

 日本の平假名の成立は、空海の死後70年の905年あたりであり、「いろは;伊呂波歌」は、仏教四句、すなわち大般涅槃経の第14の偈の諸行無常。是性滅法。をもじって、

 いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす ん

 大宅透氏の『音図及手習詩詞歌考』には、これは1079年、承暦3年未巳、金光明最勝王経音義の巻子本にかかれたのが最初としている。杉本直治郎氏は、さらに百年前の970年代の、天禄(973年)、永観(985年)の時代に、空也か、もしくは千観の作とかんがえられている。

 真如親王は、空海に弟子入りし、空海の死後、仏教を極めるため、渡唐されるのである。
 新村出の『真如親王の記念と新嘉坡(シンガポール)』によると、皇室はおろか、親王後に入唐をこころみたのは、天元の慶滋保胤と天台宗の慶祚阿闍利、それに、あの明恵上人の三例にすぎない。みな渡天計画は失敗しており、明恵上人については謡曲「春日龍神」がつくられている。そして、親王の終焉の地はラオスではなく、シンガポールであろうとされている。

 謡曲「春日龍神」

 能柄は5番目の劇的夢幻能で、ワキが明恵上人で、シテが春日宮守である。
 月の行方もそなたぞと。月の行方もそなたぞと。日の入る国を尋ねん。
 栂尾の明恵上人が、天竺に渡って仏蹟を拝もうとおもい、暇乞の為に春日明神に参詣すると、老社人が出てきて、上人の入唐渡天を諫止(かんし)し、釈迦入滅後の今日では、わが国が仏蹟で、この春日山が霊鷲山であり、野が鹿野苑であると語り、自分は時風秀行で、神の告を知らしめるのであるといって消えうせる。やがて、春日の里に金色の光がさして、龍神が現れ出て、釈迦が霊鷲山で法華経を説いて会坐の様を示すという、日本の仏教の分水嶺の法然と明恵の論戦に相応しい謡曲にしあがっているではないか。

 入唐求法巡行記

 円仁(794-864)は、下野国の生まれで、第3代の天台宗座主となり、835年の空海入定後の、838年に遣唐使として、唐にわたるが、天台山入山は不許可で、五台山で修業し、847年帰国後、『入唐求法巡行記』を著す。ライシャワー大使の研究で有名になった。この入唐の842年、突然、武帝皇帝が不老不死の思想を掲げる、道教に帰依し、他宗を排斥し、廃仏毀釈、仏僧は還俗の命が下り、845年に帰国の予定を立てている。

 曼荼羅と法具

 曼荼羅の様式を説明する。これをおぼえてしまった中学生がいるという。
曼荼羅とはmandala でmandaとlaにわけられ、マンダは有する、ラは具現化する意味で、本質的なものを有するすべて、則ち宇宙観、仏教の教理を図式化したものである。

 仏教は仏陀、毘盧舎那仏が中心であるが、密教ではこれをさらに進化させ、大日如来が中心におかれる。すなわち宇宙の中心であるが、太陽系では太陽であり、大宇宙では大日如来ということである。すなわち、仏陀の教えが仏教であるが、密教では宇宙の中心として、大日如来である。

 初期の密教では仏陀が中心であり、このときの密教を雑密といい、大日如来が中心と考えるころから純密といわれる。すなわち、金剛智が南ルートで中国に密教を伝えた720年以前が雑密であった。

 叙景曼荼羅、胎蔵(界)曼荼羅と金剛(界)曼荼羅があり、これは北ルートとで伝えた善無畏の曼荼羅が胎蔵曼荼羅で、金剛智がつたえた南ルートの曼荼羅が金剛曼荼羅である。

 曼荼羅でえがかれているのは、一切経のうち観無量寿経に代表される浄土について、すべてを図式化されているのである。浄土経については『曼荼羅』で述べる。

 金剛杆(三鈷杆)、金剛鈴、金剛盤、(牛扁に建)陀穀子袈裟(けんだこくしけさ)、数珠と特別の法具が多数であり、すべては紹介しきれない。

 数珠は念仏の回数を数える道具であったので、念珠を専修念仏では数珠という。
これは、親玉、主玉(おもだま)、四天玉(二天玉)、浄明玉、弟子玉、露玉、房からなっていて、主玉は人間の煩悩の数の108個からなる。

 数珠は各宗で異なるし、作法も異なる。その理由のもっとも顕著は『法然上人絵伝四十八巻』の第19にでてくる。陰陽師阿波介(あわなり)が法然に弟子入りし、二輪珠を考えついたという。

 阿波介という陰陽師、上人に給仕して念仏するありけり。或時、上人かの俗をさして、「あの阿波介が申念仏と、源空が申念仏と、いづれかまさる」と、聖光房にたづね仰られけるに、心中にわきまふるむねありといへども、御ことばをうけ給はりて、たしかに所存を治定せんがために、「いかでか、さすがに御念仏にはひとしく候べき」と申されたりければ、上人ゆゆしく御気色かはりて、「されば、日来浄土の法門とては、なにごとをきかれけるぞ、あの阿波介も仏たすけ給へと、おもひて南無阿弥陀仏と申す、源空も仏たすけ給へと、おもひて南無阿弥陀仏とこそ申せ。更に差別なくなり」と仰られければ、「もとより存ずることなれども、宗義の肝心いまさらなるやうに、たうとくおぼえて感涙をもよをしき」とぞ、かたり給ける。

 二念珠をしいだしたるは、この阿波介にてなむ侍なる。かの阿波介、百八の念珠を二連もちて念仏しけるに、そのゆへを人たづねければ、「弟子ひまなく上下すれば、その緒つかれやすし。一連にては念仏を申し、一連にては数をとりて、つもるところの数を弟子にとれば、緒やすまりてつかれざるなり」と申ければ、上人きき給て、「なに事もわが心にそ、みぬる事には、才覚がいでくるなり。阿波介きはめて性鈍に、その心、をろかなれども、往生の一大事(悟りを開くこと)、心にそ、みぬるゆへに、かかる事をも案じ出けるなり。まことにこれ、たくみなり」とぞ、ほめおほせられける。

 二連(二輪)数珠をおもいついたのは、法然の弟子の陰陽師の阿波介である。
 したがって、二連数珠は、原則は、浄土宗、念仏宗でしか使用されない。二つ、ついているから安上がりだとか、二つの方が綺麗だからといって、他宗のひとが買い込むと、真宗の檀家の人とまちがわれます。然し、現在では、天台宗も禅宗も曹洞宗もみな二連珠をつかっていますが、使い方も厳密にはちがっています。

 天台宗では、数珠を人差し指と中指の間にかけて合掌する。
 浄土宗では、親指と人差し指の間にかけて、合掌する。
 真言宗では、中指に数珠をかけ、二重にし、親玉を上にして、房を握るようにする。
 浄土真宗では、両手の手首に掛けて、西本願寺派では房をたらすように、東は房が左側にくるように合掌する。
 日蓮宗では、真言宗と同様であるが、房を左側にする。
 禅宗では、左手にのみ親指と人指しの間にかけ、そのまま合掌する。

 浄土法然上人絵伝

 日本佛教の分水嶺、法然(1133-1212)は諡を源空というが、天皇からの大師号はなんと、7つもある。円光(東山天皇1697年)、東漸(中御門天皇1711年)、慧成(桃園天皇1761年)、弘覚(光格天皇1811年)、明照(明治天皇1911年)、和順(昭和天皇1961年)で、50年おきに大師号を頂戴しているが、今度は2011年で、あと5年である。

 法然が念仏を重視するあまり、弟子の六時礼讃で後鳥羽天皇の侍女が念仏宗に転向させた罪で、指導者の法然は四国、讃岐丸亀に流罪になる。
 しかし、その後、承久の変で、こんどは後鳥羽天皇が、隠岐に流罪になり、18年後に延び放題の髭と爪の鬼の形相で、京を恨み、舌をかみ切っての崩御であった。

 浄土のはなしで、耳四郎という天野四郎のおもしろいはなしが、法然上人絵図の第20に紹介されている。
 河内国の大泥棒、殺人もする極悪強盗天野四郎は耳がよいため、屋敷にしのびこんでも、気配で、逃げおおせたのであるが、ある日、法然の禅房の床下にしのびこんでいたとき、法然の悪人正機の説法がきこえた。専修念仏で、悪人でも平等に佛は助けていただける。このことをきいた耳四郎は、おもわず、床下から飛び出して、座敷にあがりこみ、「今のお話はほんとうですか」と、法然に迫った。
 門弟たちは、色めき立ち、「貴様、何者だ」「どこから侵入した」と、問い質すや、耳四郎は法然に弟子入りを申し込んでいたのである。そして、耳四郎は出家し、その名を教阿弥陀仏と号す。

 教阿弥陀仏は、深夜、もの音に気付き、法然の寝室をのぞき込む。一人静かに、念仏を唱えておられる。上人様は誰のため、こんな夜中に念仏しておられるのか不思議に思ったが、安堵した耳四郎は声もかけずにそのまま引き揚げた。

 後日、自分が関東に教化に出るので、法然に、別れの挨拶に伺って、このまま、こちらには帰ってこれないかもしれない。決定往生のつもりであることをのべたら、法然はこの前の夜、わたしが念仏しておるときにのぞき込んだであろう、といわれ、耳四郎はおどろいた。

 法然は白状する。そのときの念仏は自分が浄土に往くための念仏であった。決定往生の念仏である。かざる心なく、まことの心をもって念仏すれば、決定往生となると愚者法然は耳四郎に語られたのである。この平等思想に深く感激し、大泥棒耳四郎、教阿弥陀仏は関東に教化のため下ったのである。

 参考文献

1) 頼富本宏、『空海と密教』、平成14年、PHP、2002年
2) 金子大栄、『観無量寿経講話』、昭和56年、コマ文庫、1979年
3) 大野達之助、『日本佛教思想史』、昭和32年、吉川弘文館、1957年
4) 大野達之助、『上代の浄土教』、昭和47年、吉川弘文館、1972年
5) 杉本直治郎、『真如親王伝研究』、昭和40年、吉川弘文館、1965年
6) 新村出、『史傳叢考』、昭和9年、楽浪書院、1934年
7) 大宅透、『音圖及手習詩詞歌考』、昭和44年、勉誠社、1969年
8) 大橋俊雄、『法然上人絵伝』、平成14年、岩波文庫、2002年
9) 寺内大吉、『法然讃歌』、平成12年、中公新書、2000年
10) 円仁、『入唐求法巡行記』、平成18年、東洋文庫、2006年

   

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