はじめに
2006年、平成18年5月。五月晴れかと思いきや、もう梅雨だという。奇妙な天候が続いている。なにやら、地球規模で、季節と暦とに、ずれがでてきているように感じる。昔はどうだったのか。今年は稲の方も、秋の豊穣は難しいかもしれない。
つい先日、神保町の古書店老舗一誠堂で、おもしろいことに出会った。中年の外人夫婦が本を探しているようで、「ニッポンテンモンシリョウアリマスカ、カンダシゲル」と2回くりかえすが、店員は何もわからない。空かさず、私が、神田茂の日本天文史料のことだよ。おそらく手に入らないと想うよとチャチャをいれた。ネット『日本の古本屋』の検索で不能だったためだ。
もう一人の店員が、天文学の神田だ。天文学書は在庫していませんと返答した。日本人でも、もう気に留めていない神田茂を知っているとは、恐ろしき外人がいるものだと皆で、あとで、驚いたのである。
フィリップ・フォン・シーボルト、パーシバル・ローエル、バジル・チェンバレン、ラフカディオ・ハーン、など江戸後期から、明治にかけて、いわゆる日本愛好家、ジャポノロジストなる人物が多く登場するが、彼らが、日本の文化に興味をいだき、日本人以上に教養を身につけていることに驚かされる。
戦後、昭和33年に河出書房から発刊された、『現代人の日本史』の第1巻は佐藤春夫氏による「日本の誕生」で、その「はしがき」に、支那事変勃発時、昭和14年頃の話で、世界戦争に突入しようとする情勢に、ある人が、日本のイギリス大使館に勤務する、イギリス外交官に、「こんな情勢になっては、あなた方も、ご心配でしょうね」と話かけたら、そのイギリス人が、「大変、大変。前門のヒットラーに、後門のアマテラスオオカミ」といって周囲を笑わせたという。
現代人で、前門の虎、後門の狼なる諺[評史の趙雪航]が、わかるひとは少数であろうか。諄いが、天照大神、あまてらすおうみかみを、オオカミというところが味噌です。
さて、小泉政権も残り4ヶ月となった。アジア外交とともに、靖国問題で、いま、「愛国心」という言葉が話題になっている。國を愛する心に、むかしから、並行して「大和魂」という言葉がつかわれてきた。その外に、大和心、ちょっと違うが忠義、忠誠心、敬愛、信頼などの言葉もあるが、平成の時代で、ほぼ死語にちかい。
この大和魂を考察してみたい。一知半解、いつから使われだしたのか。そして、その意味は元々、なんであったのだろうか。大和魂の歴史を探り、日本という国を愛するとは何かをまとめてみる。その六まで、有りますので御注意を。
昭和14年に発刊された、国文学の吉澤義則氏の『大和魂と萬葉歌人』、昭和14年、平凡社、1939年に、「大和魂」は『源氏物語』に、はじめて登場するとでていて、また、ハーン研究の平川氏は昭和51年に、『和魂洋才の系譜』という文化比較論を発表されているが、その後、明治以降の近代における文化比較論の最終章とみられる、『米国大統領への手紙』を平成8年に発表された。その第2部には、「〈大和魂〉という言葉」があり、これは『源氏物語』からきているとし、その後、吉田松陰、森鴎外、夏目漱石、中勘助の『銀の匙』の大和魂について短くまとめられている。
戦国時代、さらに江戸の鎖国で、漢詩文は無用の長物化し、日本古典文化も洒脱な江戸庶民文化から見放された存在になっていた。しかし、江戸末期には、佐久間象山、横井小南、吉田松陰らにより、大和魂が叫けばれるようになる。これには、和魂洋才の意味をふくんでいる。
例えば、本居宣長(1730-1801;享保15年--寛政元年)の
敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂うふ 山桜花
これは、江戸時代だからといって、武士道から解釈する短歌ではない。宣長自身は源氏物語を13回精読したといわれる、日本古典文学の研究者としての短歌で、けっして、武士道の散りゆく、純潔をうたったのではない。
敷島は日本の国の意味。大和心とは何でしょうかとの質問には、朝日に映える山桜を愛でるようなこころが大和心、大和魂です、と述べているのである。宣長の養子、本居太平が、伴信友の尋ねに答えていることからも明らかだ。散り際が見事といっているのではない。
また、「大和魂」を題目にした論文は小泉八雲の友人、雨森信茂の遺稿の英文での『大和魂』しかないが、今回も原文にあたることはできなかった。
明治後期、日清戦争後には、盛んに、大和魂という言葉がつかわれだしている。このときには、まだ、文学上での日本古典文学でいう大和心として使われてきているが、その後、第一次世界大戦後、昭和にはいって、忠誠心、忠義、愛国心、天皇崇拝、国粋主義、他国排斥思想の根底となってしまった。
そこで、『源氏物語』にあたる前に、日本語の成り立ちをみておかなければならない。なぜならば、日本語の歴史上に、大和魂があらわれるのは、吉澤、平川氏によると『源氏物語』からで、その『源氏物語』は、女手假名の登場により、女性によって書き上げられた長編小説で、その文の解釈はきわめて困難なのである。この難解の原因をさぐるためには、『かなの歴史』をみておかなければならないからである。
吉澤義則氏や渡辺昇一氏が指摘したことであるが、漢語を導入し、平假名と上手く組み合わせたのが現代日本語で、その歴史は平安中期の『源氏物語』以降のことである。
そして、上代からの「大和魂」の文化比較を検討してみると、古代日本人は、すでに、国際感覚を充分身につけていたことがわかる。
大和魂の精神は古代からみられ、島国根性ではなく、視野の広い、国際的感覚をもっていた民族が日本人で、他国文化を勉強、研究し、その国際的感覚を養ってこそ大和魂であり、けっして、国粋主義者の思想を顕す言葉ではないのである。
このあと、「大和魂その二」では、日蓮の元寇を、その三では秀吉の朝鮮征伐を、その四では吉田松陰についての大和魂をみて、更に、「大和魂その五」では、硫黄島の中丸中将のルーズベルト大統領への手紙とジャコビー少年のレーガン大統領の手紙にみる愛国心、忠誠の誓いPledge of Allegianceを考察していく。そして、最後に、「大和魂その六」では、大和言葉の唱歌を紹介する。美しい、やまと言葉を、ふんだんに遣った、唱歌のうち、『四大節』と『海ゆかば』、東海林太郎の『山の夕焼け』と『野崎小唄』を掲載する。
かなの歴史
日本は、残念ながら固有の文字はもっていない。中国から伝わった漢字を文字として利用してきた。しかしながら、日本独自のすばらしい、平假名の文字文化を平安時代に作り上げたのである。ここで、詳細を示す。現在、われわれが使っている假名は1900年、明治33年8月21日に文部省の小学校令施行規則の第16条で決められた47文字である。
縄文時代の文字は発見されていない。
会話、発語はどのようにおこなわれていたかは全く不明であるが、かつて、アストン、新村出、金沢庄三郎、小倉進平、金田一京助、白鳥庫吉、大野、大津らが検討しているが確証はなかった。
アストン、金沢らは明治初期にアルタイ語(トルコ、モンゴル)と日本語とを比較し、朝鮮語と同系とした。金田一はアイヌ語と日本語は文法上相違しているとした。
大野晋は、東京下町1919年うまれで、山の手言葉との相違に愕然とし、国語、日本語の起源に興味をもったと語っている。その研究は萬葉集、人類社会学におよび、ついに、タミール語が日本語の起源であるとしている。
大野晋氏の『日本語の起源』新版によると、まず、石垣島と本土の日本語を比較するとha歯は石垣島ではpaと発音する。haka墓はpakaとhの発音がpにおきかえられており、タミール語ではpal、pakkanaiで、石垣島の発音ときわめて類似しているという。よって、
日本語の起源は、インドの最南のタミール語であるとしている。
大津氏によると、原初の日本語は、
「な と?」 なれは どこに
「わ み」 われは みずくみに
といっていたのではないだろうかと推測している。
文字としての最古は、弥生時代、西暦8-23年のころの、中国の新という国の王朝の帝王であった王莽(おうもう)が発行していた貨幣の「貨泉」と書かれている文字とされている。
貨幣自体は中国で鋳造されたもので、日本各地の弥生時代の古墳から数多く出土している。中央に四角い穴があけられており、漢字の字体は秦以前の字体で、篆書(てんしょ)といわれる表形の字体である。
しかし、実際に、この貨幣が日本で使用されたことはなく、また、記載されている「貨泉」を文字として理解していたのか、単なる模様としていたのかは、不明である。単に、中国から搬入されていただけかもしれない。
日本人の名称は、支那の、後漢の斑固の『前漢書』(32-92)にみえ、「楽浪海中倭人あり、分かれて百余国となる。歳時を以て来り献見す」、とでている。これ以外にも後漢の王充(27-96)の『論衡』にも、「倭人暢草を献ず」と、でている。
さらに、江戸時代、1784年、天明4年に、福岡の志賀島村の土地を耕していたところ、大きな石の間から、金色に光る物体を、百姓が発見し、儒学者亀井南冥が鑑定した。この福岡市立美術館蔵の金印「漢委奴国王」は有名で、中国の『後漢書』によると、西暦57年に光武帝が日本に授けたと記録されていることから、古墳時代、西暦1世紀年代のものに間違いない。
『日本書紀』および韓国の『三国史記』によると、西暦350年頃、日本武尊の孫の第15代応神天皇のとき、百済から阿直岐(あちき)が来朝し、教典(ふみ)をよくしたため、皇太子、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の教師(ふみよみ)をしていただいた。そして、応神天皇は、おまえよりすぐれた博士(ふみよみびと)がいるだろうかとお聴きになり、王仁が招聘されたのである。王仁は『論語』、『千字文』や、裁縫技術や酒造りを伝えたとされている。
この時代より、漢字記載がおこなわれていたと考えられ、中国から百済、新羅をへて、日本に漢字文化が流入していた。次の第16代が仁徳天皇である。
熊本県江田船山古墳からの出土した太刀に一字一音表記で、銀錯銘大刀の銘に无利弖(むりて)、伊太加(いたか)という人名らしき文字が刻まれている。
埼玉行田の稲荷山古墳からの出土の鉄剣には百十五文字が銀象嵌で記され、乎獲居(をわけ)、意富比■(土扁に危)(おほひこ)という一字一音表記がある。
和歌山県橋本市隅田八幡宮の人物画象鏡に篆書風の意紫沙加(おしさか)、斯麻(しま)の文字がみられ、いずれも古墳時代、西暦450年頃の文字は真名、万葉仮名で、すべて漢字で表記されている。それには意、義は含まれていない。
佛教は百済の聖明王が伝えたといわれ、同時に金銅釈迦像を招来したといわれるが、『日本書紀』には、第29代欽明天皇13年552年と記されている。『上宮聖徳法王帝説』、『元興縁起』には、戊午538年になっている。経典の内容は当然、漢文であろうが、この論語も、経典も実物はのこされていない。
弥生、古墳時代までの古代、上代の文字は、各地から出土する土器や木簡片に記載されている可能性はあるが、実際に現存するものは、以上の外に殆どみとめないが、8世紀まで、漢字による一字一音表記、万葉仮名が使われていたことが判る。しかし、その当時の漢字文字が記載されて、文章になっものの物証はのこっていないのである。
しかし、昭和20年に法隆寺五重塔(飛鳥白鳳;607年)の初層天井組木の落書きに、
「奈尓波都尓佐久夜己・・」 なにはつにさくや こ・・・、と万葉假名で記述された落書きが発見された。
これは、「なにはずにさくや このはな冬こもり いまをはるべと さくやこの花」;
難波津に 咲くや木の花 冬こもり 今を春べと 咲くや木の花、という
上代歌謡の「そへ歌」の代表歌で、法隆寺の落書きは、その初句の部分である。
905年に成立した『古今和歌集』の序の部に、和歌(やまとうた)を「そへ歌」を含め六種に分類し掲載したことがのべられており、この難波津の歌は、第16代仁徳天皇(313-399)の時代に、王仁が詠んだ歌で、「そへ歌」の代表として掲げられている。したがって、法隆寺建立の607年までの約300年後まで、この歌が正確に伝わっていたことになる。
300年の間、人間の記憶、口伝だけで、歌が残り得えるとは考え難い。応神天皇、阿直岐(あちき)、王仁の存在からみて、古代から上代、弥生、奈良時代まで、歌も記録、文字化されて、伝えられていたと考えるのが妥当であるが、しかし、この西暦300年から600年の300年間の文字の歴史は空白で、その物証がないのである。おそらく、木簡などに記録していたのであろう。
この時期、欧州では、すでに羊の皮を薄く引き延ばし、これに記述し、冊子にしていた。
紙にかかれた、もっとも古い文字は宮内庁にのこる、聖徳太子の『法華義疏』とされている。しかし、これも、今や聖徳太子自身が存在しなかったとされているので、この法華義疏が推古天皇(606)の年代に書かれたというのは怪しい。後の人物がおこした学書であろう。
確かなもので、写経として、もっとも古く、現存しているのが、第40代天武天皇の歳次丙戌年、686年の『金剛場陀羅尼経』で、飛鳥の川原寺におさめられていた写経である。現在は文化庁所蔵で、我が国最古の写経であり、その写経をおこなった期日が、奥書に丙戌と書かれているので686年という。
これより、20年後の西暦700年のものであるが、天理の東大寺山古墳から「中平」という銘が刻まれた太刀が出土している。
710年に第43代元明天皇は藤原京より平城京に遷都された。奈良時代に入る。
経典においても、現在のこっているのは平安時代の写経がほとんどで、奈良時代に紙に記された文字は数点しか遺っていない。まず、手紙とおもわれるが、保存され、現存しているものとしては、正倉院文庫の万葉假名文書の解文の二通があり、これは、奈良時代の文で、万葉假名で記されている。この時代も一般人でも漢字使用の一字一音表記である。
史書としての『古事記』について、原本はのこされていない。第43代元明天皇の712年に、太安万侶(おおのやすまろ)が書き記したとされている。写本のほうでも漢文体で、その写本は室町時代のもので、現在、多くの底本にされているのは大須宝生院蔵本、いわゆる真福寺本で、1371年室町時代の真福寺の僧賢瑜(1344-?)の書写で、これが最古。
その序には、臣安萬侶言。夫、混元既凝、気象未效。無名無為、誰知其形。然、乾伸初分、・・・と記されており、この文体は中国の漢魏に興り、六朝から隋唐にかけて流行した、四六駢儷体によっていると解釈されている。そして、この漢字の表記には意味が含まれており、漢語も含まれている。
『日本書紀』は、その8年後の養老4年720年、第44代元正天皇のとき、舎人親王が完成しているが、こちらの原本も存在しない。
889年、9世紀末の佐々木旧本がもっとも古いとされているが、1540年に卜部兼方の校合による完本完成がいまに伝えられており、これも漢文体で、漢語を含んでいる。
更に、盲目鑑真和上の手紙が正倉院にのこされている。第46代孝謙天皇の754年3月8日に東大寺良弁への手紙で、差し上げた厳経、大涅槃経を、もう一度読む必要ができたので、貸し出してほしいという漢文体での書状で、正倉院文書の塵芥文書の35卷の裏の写経雑物出納帳の一部にある。これは実物がのこっている。
そして、鑑真和上は書の聖人王羲之真跡の『王右軍』を招来したとされており、その王羲之の真筆は、現在、三井記念美術館と、宮内庁三の丸尚古館の『喪乱帖』にのこっている。入木(じゅうぼく;書道)の書聖の筆跡で、まさに王羲之の手による書である。これは鑑真和上が王羲之の孫弟子にあたることから、鑑真和上が渡日された際に持ち込まれた王羲之の真跡の書である。
天皇が選出を命じた歌集、いわゆる撰歌集として、『懐風藻』(751)は日本最古の漢詩集で、ついで『萬葉集』の歌集があるとされているが、これより以前に、歌集としては『柿本朝臣人麻呂集』、山上憶良の『類聚歌林』などがあり、詩集として、『藤原宇合集』、石上乙麻呂(?-750)の『衡悲藻』があった。日本では詩集より歌集がさきである。
石上乙麻呂の子、石上宅嗣(いしのかみやかつぐ;729-781)は、当時の国際感覚を持った学者で、大和魂から、私立の阿■(門の中に人が三つ)寺(あしゅくじ)の片隅に書庫である私立図書館、芸亭(うんてい)を設立し、これを公開した。所謂公開図書館長の日本での最初、権輿の人である。これは、新村出の『典籍叢書』の「石上宅嗣の芸亭につきて」に詳しい。〈権輿(けんよ);秤(はかり)を造るには権(おもり)から始め、車を造るには輿(こし)から始めるから、事の起こり、発端の意〉
この芸亭は宝亀2年、755年に公開され、納められていた図書、書肆は、萬葉假名と漢文が混同していたものと考えられる。平安遷都まで、存在していたことが『日本続紀』にでている。
石上宅継の和歌は当然『萬葉集』に、選ばれており、卷19の4282番で、
辞繁 不相問尓 梅花 雪尓之乎礼之 宇都呂波牟可母
事しげに あひ問はなくに 梅の花 雪にしをれて うつろはむかも
この句については、あとがきでのべる。
その、『萬葉集』は大伴家持(718-785)が編集し、759年頃、第47代淳仁天皇のときに完成している。全20巻、4516首がおさめられている。
萬葉かな
漢字は元々、形、音、義の三要素から成り立つ表意文字であるが、これを日本人は苦肉の策として、義を無視して一音に一字の漢字をあてて文字化したのである。発音総べてを漢字で表記し、一字一音に一漢字をあてていく、日本語独自の表記用法で、男手假名(おのこで)、真名(假名の相対語)、萬葉假名で、「益荒男ぶり;ますらお」とよばれる。
萬葉集では、義を省略した、音(おん)のみにあてた假名文字は、大野晋、大野透氏によると973種におよぶ。いまは、明治に整理されて、あ、い、う、え、お・・・ん、の47かな文字である。
この『萬葉集』の原本は、のこっていない。26本の写本があるが、最古の書写本は桂宮家に伝わり、現在宮内庁所蔵で源兼行の作と伝えられる桂本がある。これは、巻4の一部のみしかのこっていない。藍染の京都国立博物館蔵の藤原伊房(これふさ;1030-1096)の藍紙本も巻9のみである。
元暦校本がもっとも多くの巻数をそろえている。これは右近権少将が元暦元年1184年に記したもので、伊勢の松坂の中川浄宇の蔵物であったものを、昭和26年東京国立博物館が買い取っている。これらの26本の校合により、現在20巻、4516首がそろっているのである。
平安時代は、第50代桓武天皇から第81代安徳天皇まで、781年から1185年までの約400年間をさす。
その初期は第50代桓武天皇から第55代文徳天皇の80年間であるが、朝廷は社会不安により784年に平城京より長岡京に遷都となった。造長岡京勅使の藤原種継が大伴継人に射殺される事件がおこった。これに、桓武天皇の弟の早良親王(さわら)が関与していた科で、淡路に流罪になるが、旅中に病死された。
この藤原と大伴・佐伯氏の勢力権争いが絶えず、大伴家持の家系はこの時、官位剥奪されている。そして藤原氏が実権をにぎるが、桓武天皇は多妻であったが、その妻藤原旅子は他界、母高野新笠病死、ついで、皇后の藤原乙牟漏も病死するなど、早良親王の祟りであろうとされ、桓武天皇は794年に朝廷を平安京にうつされたのである。その後、蝦夷征伐(東北)のため坂上田村麻呂を送り込み、東北地方を制圧した。
桓武天皇崩御後、母が藤原乙牟漏の安殿親王(あて)が第51代平城天皇として、即位するが、尚侍に藤原薬子が就任し、兄の藤原仲成と傍若無人の政務をおこなう。しかし、平城天皇は三年で、病気のため皇位を、弟の神野親王(のちの嵯峨天皇)に譲る。そして、一端隠居するが、その後、体調は回復し、重祚しようとする。しかし、嵯峨は認めず、「二つの朝廷」となる。すなわち、平城京に安殿が、平安に神野がそれぞれ、皇位についていたのである。
そこで、この時期、すなわち、平安初期を、国風衰退、国風暗黒時代と称する人がいる。
大同4年810年に、嵯峨側が、仲成を殺害し、薬子と平城天皇は東北に逃げるが坂上田村麻呂に行く手をはばまれ、平城京にかえり、薬子は自害、平城天皇は剃髪出家し、24年後に崩御された。いわゆる薬子の変で、いまは平城太上天皇の変という。
さて、その大同2年808年、斉部廣成の『古語拾遺』が残っていて、この序文に、
蓋聞、上古之世、未有文字、貴賎老少、口口相伝、前言往行、存而不忘。書契以来、不好談古。浮華競興、還嗤旧老。遂使人歴世而爾新、事遂代而変改、顧問故実、靡識根源。
蓋し聞けらく、「上古の世に、未だ文字有らざるときに、貴賎老少、口口に相伝へ、前言往行、存して忘れず。書契より以来、古を談ることを好まず。浮華競い興りて、還旧老を嗤ふ。遂に人をして世を歴ていよいよ新に、事をして代を逐ひて変改せしむ。顧みて故実を問ふに、靡識根源を識ることなし。
『古語拾遺』は、古事記、日本書紀がでてから、100年後の書であるが、日本の歴史について、上記のように漢書でかかれている。これも原本はのこっていないが、卜部兼直の書写の嘉禄本(1225)が遺っている。これにおいても、日本の上古には文字が無かったと記している。
まだ漢文の時代であり、特に第52代嵯峨天皇(786-842)の『凌雲集』(814)に代表され、天台の最澄(767-822)、密教の空海(774-835)など、この850年頃までの時代は、漢文詩、萬葉假名、男手が中心であった。
平安中期は第56代清和天皇から第70代後冷泉天皇の850年から1068年の約200年をさすが、その第56代清和天皇16歳のとき、貞観8年866年に応天門の変が起っている。
「応天門の変」というのは、源信(まこと)をおとしいれるための伴善男の策略で、御所の朱雀門をはいって直ぐの八省院(朝堂院)の門である応天門に放火し炎上させた事件である。当初は左大臣の源信が放火の容疑者とされたが、備中権史生、大宅鷹取らが、大納言伴善男の仕業と白状し、告発したため、今度は、伴の指示で、その弟子、生江恒山らが、大宅鷹取の娘を殺害する事件が発生し、ついに、主犯者の伴は伊豆に流されたのである。
これは、書肆ではないが絵詞巻物として、国宝『伴大納言繪詞』(出光美術館蔵)に描かれている。日本の四大絵巻は『源氏物語絵巻』、『信貴山縁起絵巻』、『鳥獣人物戯画』と、この『伴大納言絵詞』(出光美術館蔵;1177年、後白河天皇の命で常磐光長ときわみつながえがいた。詞は藤原教長の筆)をいうが、各絵巻の成立時期については、またの機会としよう。
867年、貞観9年に書かれた、讃岐国司の任官の藤原有年の上申文がのこっている。これをみると、草假名でかかれている。現在、東京国立博物館蔵である。さらに、滋賀県園城寺蔵の円珍(814-891)の「病中上申案文」も草假名で書かれている。このころ、即ち9世紀中頃から徐々に、女手、平假名で書かれるようになったと考えられる。
以上のように、萬葉假名の時代を経て、平安時代の中期、850年のころより、手紙など至急の場合などに便利なように、草假名、平假名が用いられるようになっていた。草書体の段階の仮名、いわゆる男手にもあらず、女手にもあらず、の草(そう)、草假名(そうがな)の段階を経て、まったくの假名、平假名、女假名(手弱女ぶり;たをやめ)での表記に変化してきて、漢語と平假名のくみあわせで、現在もつかわれている日本語が誕生していた。そして、905年の古今和歌集には、大和言葉での詩集として、女假名での和歌という、三十一文字の五七五七七調の和歌(やまとうた)に移行していく。
第59代宇多天皇(867-931)の『周易抄』も、草假名であり、897年に書かれている。これは東山御文庫に保存されている。この後、8年後に、突如として、平假名での『古今和歌集』が登場するが、起因は、第60代醍醐天皇の御代、菅原道真(845-903)の登場で、850年頃より和魂漢才として、女手假名、草假名が使われはじめ、894年の道真の建議で、遣唐使廃止を契機に、和風化、大和言葉が中心となり、905年には大和言葉、女假名での『古今和歌集』が撰進され、その後、女手假名、和歌文化の隆盛がみられるとされていた。当事者の道真は讒言により、太宰府に左遷されたのは延喜元年、901年のことである。
しかし、堀江知彦氏は『書道の歴史』で、事実は、逆で、850年頃の草假名の時代から、一部で、すでに平假名がもちいられており、漢様と和様の使い分けがおこなわれていた。日本国民に、支那の文化を見習うよりも、自立した文化が芽生えはじめ、さらに、唐の政治状況悪化もあり、最終的に政治判断として894年に遣唐使が廃止されたとかんがえている。すなわち、純日本文化誕生の胎動が始まったればこその遣唐使廃止であったとのべておられる。こちらの方が説得があると想えるが、しかし、この850年から905年の間での、完全な平假名でかかれた物証がのこっていないのである。
道真の書以外に、三善清行の昌泰4年901年の『革命勘文』に、内容は『古事記』を参照に日本上古には文字はなかった、百済の阿直岐が漢文字を伝えたことを記載している。
平かな
醍醐天皇の勅撰和歌集で、紀貫之の『古今和歌集』の実本も存在していない。1111首が選ばれているが、その首数は万葉集の約1/4である。成立は905年で、天皇に納めた原本の紀貫之の真筆はのこされていない。よって、古今和歌集が完全に平假名で書かれていたか、後の書写が平假名に書き換えたのかは不明なのである。その写本で、最古は平安後期の伝紀貫之(868-945)の『寸松庵色紙あきはきの、しものたて』で、五島美術館が所蔵している。これは筆跡からみて紀貫之の真書ではないとの見方もある。
『古今和歌集』の書写本もしくは巻子の切は、古筆、写本中もっとも数多で、33本が残されている。藤原公任(きんとう;966-1041)のは僅か三枚のみであるが、905年から80年ほど経過している。
東京春敬記念書道文庫の藤原行成(こうぜい;971-1027)の関戸本や、源兼行(かねゆき;1023-1074)の巻五の高野切や、源俊頼(としより;1055-1129)の元永本古今和歌集は東京国立博物館蔵であり、これは20巻完全にそろっている。しかし、この書写、元永本は、現在は藤原定実(さだざね;1077-1119)の筆とされている。さらに藤原定家(1162-1241)の冷泉家時雨亭文庫所蔵もあり、いずれも平安後期から鎌倉時代の写本である。
ここで、重要な人物が登場する。それは小野道風(894-966)で、平安中期、醍醐、第61代朱雀、第62代村上天皇の時代の人で、三跡(藤原佐理944-998、藤原行成971-1027)の一人であるが、残されている書は漢文と平假名と、2種類で、漢文体は『玉泉帖;ぎょせんじょう』で、宮内庁三の丸尚蔵館蔵である。平仮名のほうは五島美術館にのこされている『継色紙よしのかは』である。
小野道風以前の人々、たとえば最澄、空海、嵯峨天皇はすべて漢文体である。特に嵯峨天皇(786-842)の『凌雲集』(814)に代表され、天台の最澄(767-822)、密教の空海(774-835)など、この時代は、漢文詩、萬葉假名、男手が中心であった。
以上から、萬葉假名が使われていた期間として、奈良時代の300年の空白期間はあるものの、『萬葉集』の成立759年を経て、905年あたりまで、日本語は改まった時には漢文体で表記していたが、平素は、草假名、平假名を使っていたのではないだろうか。この時期は、平安時代の中期から後期にかけての、850年頃からで、950年までの約100年の間に和様式、平假名書きが発達してきたものと考えられる。
『釈日本紀』には空海が、「いろは」を発明したとあるのは、まちがいであると、榊原芳野は『文藝類纂』の「字志総論」で述べている。日本のかなの歴史、書道の歴史からは、この905年が重要な年代である。
そして、この「かな」という呼び名がはじめてみえるのは、『宇津保物語』である。これは第64代円融天皇の984年に成立したとされており、そのなかの「蔵開の中」に、主人公、藤原仲忠が俊蔭の父の文集が納められた櫃を架け開けて、
「小唐櫃開けさせて、御覧ずれば、唐の色紙を中より押し折りて、大の草子に作りて厚さ三寸ばかりにて、一には例の女の手、二行には一歌書き、一には草、行同じごと、一には片假名、一には葦手、先づ例の手を讀ませ給ふ。」と、でている。
歌を、1)男にてもあらず、2)女手で、3)片假名で、4)葦手と書き分けて書いていたという。
10世紀は『竹取物語』や『源氏物語』がつくられて、「和魂漢才」を唱えられていた頃で、小野道風はこの頃、うまれている。これより以前の時代には萬葉假名であったが、僅か9年間ののち、道風がまだ10歳にならない間に、世は平假名になったとされている。道風は大人になって、漢文体、漢才を見据えて、その反面で和様の完成に尽力したのであろうから、道風以外の多くの日本人が平假名表現に努力したものとかんがえられるが、その人々の書はのこされていない。
したがって、誰が、いろはの平假名を発明したかについては、未だに不明である。おそらく、草書で漢字のくずしから、様々な平假名が徐々に作られていったものと考えられる。
『竹取物語』は日本最古の小説で、910年成立し、作者は紀貫之、源順、僧正遍昭など諸説があり、判然としない。これも、原本は遺っておらず、註釈本としては、天保2年(1831)、本居宣長の弟子の、田中大秀の『竹取翁物語解』がある。原本は草假名か、平假名かは不明なのである。いま、われわれが読める『竹取物語』は、鎌倉以降の写本であろう。『平家物語』あたりの文体に近いので、鎌倉時代以降の写本によっている可能性が高い。もし、原本に忠実な写本があれば、極めて難解な小説となっていたであろう。
『源氏物語』は、作者は紫式部で、平安後期に当たる第66代一条天皇(980-1011)のころ、紫式部(973-1016)の手に成り、大きく三部に分かれ、桐壺から夢浮橋まで54帖からなる画期的平假名長編小説である。しかし、原本はのこされていない。式部の假名書きはないので、これも完全に平假名書きされていたかは不明。
写本したもので、もっとも古い絵巻は、藤原隆能(-1147-)の4巻のみで、徳川美術館と五島美術館に3巻と1巻がのこっている。藤原定家(1162-1241)の『青表紙本』は、宮内庁書陵部にのこっている。
『源氏物語』の写本は『竹取物語』に比べ、真本にかなり近いのではないだろうか。よって、萬葉假名での文法がはいっており、その文法は難しく、古語がふんだんで、さらに平安朝の古式に則った儀式の理解、いわゆる有職故実(ゆうそくこじつ)の解釈も必要なので、日本古典文学中、読解度は最も高度、困難である。
したがって、明治の与謝野晶子が最初に現代文訳をおこなっているが、この期より以降に極めてよみやすくなっており、与謝野晶子の古語理解力と訳力には驚嘆を感じ、それとともに後人は晶子の苦労に感謝しなければならない。
これらの以降の小説としては、『竹取物語』を嚆矢とし、紀行文の嚆矢、紀貫之の『土佐日記』は935年で、その後、『伊勢物語』、『宇津保物語』、『荻窪物語』などがあり、『枕草子』、『更級日記』、が1000年、1059年で、源氏物語以降には、『大鏡』、『今昔物語』、そして『徒然草』1330年、『平家物語』、『義経記』、があり、これらはすべて読破は容易である。
この『源氏物語』の読破難解は渡部昇一氏の『日本語のこころ』の後半で、古英語の難解さと比較してのべられており、きわめて、説得力のある説明である。
彼は以前から日本古典文学のなかで、なぜか、『源氏物語』のみが難解で、1年がかりの大学授業でも到底読破したとまではいかないといっている。これに対し、専門のイギリスの古英語の研究をしていたときに気付かれたのである。
イギリスにおいては西暦1362年に北フランスのノルマンディ領主ウィリアムが、エドワード王なきあと、イギリスにのりこんだ。この時、イギリスにフランス語が持ち込まれたのである。この時期を分水嶺として、古ゲルマン語を元とした、古英語に、フランス語を加味した現英語がつくりあげられた。したがって、この古い英語は現代のイギリス人にも難解なのである。
『源氏物語』の最初の部分は、桐壺で、
「いづれの御時にか。女御、更衣、あまたさぶらひ給ひけるなかに、いと、やむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふ、ありけり」
1219年頃書き上げられた『平家物語』などには、漢語が導入されて、平假名を交えた、平假名と、漢字の義、形を利用した合成語が、日本語として利用されるようになったのである。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。驕れる人も久しからず。ただ春の夜の夢の如し。」
日本では、『源氏物語』の以後に、「和魂漢才」として、漢語を導入して、漢字の、形、音、義を利用出来る、平假名を加味した独特の日本語をつくった。これが現代まで、日本語として使用しているので、現代人は『源氏物語』以降の文は理解しやすいが、源氏物語も含め、それ以前の文章はきわめて、理解困難なのである。
あまた、さぶらひ、やむごとなき、時めき、などの、やまと言葉は、現代人の理解している日本語からは、想像できない。一方、祇園精舎は、慣れているせいか、理解できるのである。
ついで、古代の大和魂、和魂(にきみたま)の意味を、頼山陽の『日本楽府』からさぐってみることとする。
三韓征伐
1966年、昭和41年に岩波書店からでていた歴史学研究会編の『日本史年表』には、日本の天皇は、神武から25代までの神話時代の天皇は、すべて削除され、継体天皇から始められている。さらに、1986年、昭和61年の吉川弘文館からでていた『標準日本史年表』でも、第15代応神天皇からである。
これは、戦前の非科学的で、根拠のない神話をもとに、日本歴史に天皇を登場させ、これを神として崇めさせて、軍部とくに陸軍部の国家統帥の精神的支柱としたことに対する反省とみられる。しかし、冷静に考えて、かな文字の歴史や樹齢1500年の幹廻り20メータにおよぶ神木の存在や、さらに、地震による地形の断層の変化からみても、古事記と日本書紀を完全に無視することは、逆に非科学的で、短絡的である。
アメリカ合衆国の歴史は、政治的には、1776年7月4日、僅か230年まえからの歴史である。しかし、アメリカ大陸の歴史を掘り下げていけば、これは日本の歴史と同様で、インディアンの神話の世界を語ることになってしまう。
戦後に出された日本史の特徴は、古事記や日本書紀の古代を史実でないとして否定、もしくは無視することである。しかし、その内容には史料価値は充分みとめられる。
地名の記載などは実在で、この点からも史実として記述されており、ロシアなどの革命史よりははるかに科学的である。
古事記、日本書紀にはデッチアゲ、虚像はみとめられない。旧約聖書よりもさらに正確な日本民族の歴史が記載されているのである。
人皇第一は神武天皇で、高天原から、日向、高千穂に降臨された。その後、東にむかわれ、大和の橿原に都をさだめられたのが日本、大和のはじまりである。その即位の年は辛酉の年であるが、いつの辛酉か西暦何年であったのかは不明なのであるが、今年、皇紀2666年で、わずか紀元前660年前のこととされている。
その後、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化の八帝については事蹟は詳らかでない。第10代崇神天皇のとき、三種の神器を御祀りになり、第11代垂仁天皇は伊勢神宮に天照大神を祀られ、第12代景行天皇のとき、その皇子の小碓尊(おうすのみこと)、すなわち日本武尊は東征伐、熊襲を征伐し、日本を平定された。第13代は成務天皇である。
頼山陽の日本楽府の第二■(門に癸)から 日本武尊と神功皇后をあつかった「三韓来;三韓征伐;さんかんきたる」、日本武尊(やもとたけるのみこと)、神功皇后(じんぐうこうごう)、応神天皇の新羅征伐にみる大和魂をみておこう。
第二■(門に癸) 「三韓来」
東征渉冥勃。 東征、冥勃を渉り
吾妻先我没。 吾が妻、我に先ちて没す。
西伐入嶢■(山に兀)。 西伐、嶢■(山に兀)に入り
吾児先妻沒。 吾が児、妻に先ちて沒す。
何知娘子攝軍擣巣窟。 何ぞ知らむ娘子攝を摂して巣窟をつくを。
両死社稜昌其後。 両つながら社稜に死して其ののちさかんにす。
患難持家有健婦。 患難、家を持するに健婦あり。
胎中天皇腕肉凸。 胎中天皇腕肉たかし。
肖乃父祖非肖母。 乃父祖ににたり母ににたるに非ず
龍顔垂涙侍臣哀。 龍顔垂涙侍臣哀
先皇不目三韓来。 先皇目せず三韓の来るを。
吾、我は日本武尊(やもとたけるのみこと)のことである。その私は、第12代景行天皇の命をうけて、東國征伐にでて、三浦半島から相模湾の海をわたろうとした。相模の走水(はやみづ)といわれ、この海の潮の速いことは、幸田露伴の「剣崎沖の嵐」の中でも活写されている。突然の嵐で、船が進まない。その時、妻の弟橘姫(おとたちばなひめ)が犠牲、生け贄になって、海にとびこみ、荒海を鎮めた。
日本武尊の息子の第14代仲哀天皇は、西、九州の熊襲退治に出られた。西の嶮しい山、嶢■(山に兀)(ぎょうこつ)の山とは阿蘇、高千穂のことではないだろうか。ここで、敵の矢にあたり、吾児、すなわち、仲哀天皇は死亡。その妻、神功皇后(じんぐう)がのこされた。
戦前の1円札になっていた神功皇后だが、足が長く、八頭身で、貌容壮麗で評判がたかかった。気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)といい、第9代開化天皇の5世の孫で、母方からいうと新羅から日本へ帰化した天日槍(あめのひぼこ)の6世の孫にあたる。この神功皇后は熊襲の時、すでに妊娠されていたが、仲哀天皇に随行していた。夫の天皇は矢に打たれ死亡したが、手強い熊襲は新羅と連携していたので、神功皇后が新羅を討伐に出ることとなった。
冬十月の己亥の朔辛丑、対馬の和珥津(わにのつ)を経由して、新羅に攻め入り、いとも簡単に降伏させたという。どうして、知る事ができるだろうか、若い婦人が軍を指揮して、敵の根元をつくなどと。
さらに隣国も同様に降伏した。馬韓(百済)、辰韓(新羅)、弁韓(任那)、この三つの国を三韓という。社稜で、社とは土の神、稜とは穀の神で、社稜とは國のことである。両死とは日本武尊と仲哀天皇がなくなったことをいう。皇室、国家は、神功皇后のおかげで、のちまで繁栄するのである。艱難辛苦、患難に遇いながらも、健気な婦人が家、即ち皇室を維持、安泰させたのである。
神功皇后は、帰国後、筑紫の宇瀰(宇美;うみ)で、槐(えんじゅ)の木に取りすがって、立ち産で、誉田天皇(胎中天皇)を出産された。胎中天皇とは応神天皇のことである。
今も福岡県粕屋郡に宇瀰(宇美;うみ;生む;出産)町と町名がのこっている。
江戸時代、綱吉の命で1682年に黒田家は祭田を寄付しており、宇美八幡宮、宇美山誕生寺という。ここには国定の衣掛の森、湯蓋の森、蚊田の森があり、樹令、二千年以上と見られる、樹廻り8メートルのクスの巨木、巨樹がのこされており、神功皇后伝説は史実であることが解る。
その応神天皇は上腕の筋肉の盛り上がり、その祖父、日本武尊に似ていた。母が鞆(とも)を付けている男装の姿に似たのではない。祖父に似ていたのだ。鞆とは、弓を射るときに左手につける手袋である。
三韓が貢ぎ物をもってきたときは、龍顔は天子の御顔、すなわち、応神天皇は泣いてよろこび、侍臣たちも泣いていた。先の天皇仲哀天皇も三韓が来朝したことを知れば泣いてよろこんだであろうに。
これらは、年代は不詳であるが、史実であることは、高句麗の鴨緑江中流に現存している好太王の石碑からも明かで、これによると、辛卯の年、西暦391年に、倭人が百済や新羅に海を渡って攻め入ってきたと説明している。
西暦350年頃、日本武尊の孫の第15代応神天皇は、百済から史(ふびと)の祖、阿直岐(あちき)が来朝し、すぐれた博士(ふみよみびと)としての、書首(ふみのおびと)の祖、王仁が招聘されたのである。
王仁は『論語』、『千字文』や、裁縫技術や酒造りを伝えたとされ、この時代より、漢字記載がおこなわれていたと考えられる。中国から百済、新羅をへて、日本に漢字文化が流入していた。次の第16代が仁徳天皇である。王仁が詠んだ、難波津に 咲くや木の花
・・・・の句は仁徳天皇の朝である。
このように神功皇后と応神天皇の和魂(にきみたま)で、とくに、神功皇后の国際感覚で、朝鮮半島の混乱を治められ、日本をまとめられたのである。
白村江の敗戦
ついで、頼山陽の日本楽府は第3■(門に癸)が「炊煙起」で、第16代仁徳天皇の御事蹟を、その後、第29代欽明天皇の時に百済から皇子、豊璋を人質として預かっている。第4■(門に癸)では「四天王」として聖徳太子を、第5■(門に癸)では「大兄靴」として、大化の改新をあつかったあと、さらに時代は上り、朝鮮半島との関わりで、第37代斉明天皇のあと第38代天智天皇が661年に即位し、直後の、663年に白村江(はくすきのえ)の戦いで、日本は敗れるのである。内乱としての壬申の乱が672年に発生し、天智天皇の朝は上代の動乱の時代であった。因みに天智天皇は671年4月25日に漏刻、水時計を作成していることは、『時を大切に』のコラムで述べた。
第六■(門に癸)「復百済」、白村江の戦い
唐欲取百済。 唐は百済を取らんと欲す。
吾欲復百済。 吾は百済を復せんと欲す。
怕婦男子是皇帝。 怕婦の男子これ皇帝。
佳賊為将逞呑噬。 佳賊将となりて呑噬をたくましうす。
資汝兵食護汝行。 汝が兵食をたすけ汝が行をまもる。
奈汝自壊万里城。 なんすれぞ汝自ら万里の城を壊りすや。
唐与吾。孰得失。 唐と吾と。いづれか得失。
忠義孫子踏海来。 忠義の孫子海を踏みて来り。
長為王臣護王室。 長く王臣となりて王室を護る。
天智天皇の朝、即ち7世紀の日本と朝鮮半島と、支那とのかかわりをみておく。天智天皇は第36代孝徳天皇と第37代斉明天皇の時代に、中大兄皇子として執政されていた。
朝鮮半島では唐が新羅を助ける形で百済まで進出していた。挟み撃ちの形となった百済は日本に助けを求めてきた。唐は百済を取らんと欲す。日本は百済を復せんと欲す。
斉明天皇の6年660年に、唐は高宗、則天武后の時代で、海軍の将軍、蘇定方(そていほう)が尾資津(みしのつ)に攻め入った。そして、新羅王の春秋智が、百済の怒受利之山(ぬずりのむれ)をせめ、百済を挟み撃ちにし、百済を滅ぼしてしまった。
百済は祖国をうしなったが、功臣の鬼室福信(くいしちふくしに)と余自進(よじしに)が、日本の天智天皇の協力のもと、逆襲して、祖国百済をとりもどした。そして、日本に捕虜となっていた、百済の王子豊璋(ほうしょう)が祖国に復帰している。
則天武后は政権を握り、唐を思うが儘に治めていた女傑で、これを怕婦(はふ)といい、この男子是皇帝とは、則天武后を極端にこわがる男、高宗のことである。彼女は再興した百済を全滅させようと、李勣(りせき)を投入した。
佳賊といわれる、ヤクザな唐の大盗賊の李勣は、呑噬(どんぜい)とは呑んだり食ったりをたくましくするとは、侵略のこと。この李と蘇が663年に百済に侵入してきた。
汝とは豊璋のことで、天智天皇は、彼に兵と食糧をもたせて、百済に帰国させたのであった。しかし、豊璋は帰国しても暗愚であった。
一部の臣下に、鬼室福信の躍進を妬み、謀反ありと讒言したため、豊璋は鬼室福信を捕らえ磔の刑にし、ついに斬首してしまう。この功臣をなくして弱体化しているところを則天武后が攻め入ったのである。豊璋のとった行動は、自壊万里城である。
支那の南朝時代、宋の彭城王の義康は、その忠臣の檀道済を疑い、殺してしまった。檀は死ぬ時、頭巾をすて、「乃ち汝が万里の長城を壊る」と叫んだ。これは、自分を護ってくれる万里の長城を自分から破壊したようなものだという故事をあげている。将に豊璋が功臣鬼室福信を処刑したのは同じことだ。
そして、この白村江の戦いには、日本からも援助軍をだしたが敗北し、豊璋は高句麗に逃げたのである。百済の人々と唐の捕虜たちは日本に護送され、北九州をはじめ、近江、関東で開拓などに従事していた。
唐と吾とは、唐と日本と、どちらが得をし、どちらが損をしたか。忠義の臣下の子孫たちは皆海を渡って来て、長く日本の皇室に仕えて皇室をまもったのである。
このように、7世紀までは、倭人は朝鮮半島の南に多く住みついていたし、入唐、入隋には朝鮮半島を経由していたとかんがえられる。しかし、この白村江の敗戦で、倭人の半島への乗り入れは不可能になり、入唐の方法も、以後、すなわち奈良時代には、東シナ海海路を利用する方法しかなくなったのである。
第38代天智天皇(626-671)は、聖徳太子のあとの田村皇子、舒明天皇の子で、中大兄皇子である。乙巳の変645年、壬申の乱672年、冠位十二階、時計の設置、四の大和魂も、百済を救済しようとした国際感覚での大和魂であった。
萬葉の大和魂
萬葉集は大伴家持(もしくは橘諸兄)により、759年に編集が終了したもので、もっとも古い歌は2巻85-89番の仁徳天皇の皇后磐姫(350年頃)の御歌で、一番新しいのは第47代淳仁天皇の天平3年731年、大伴家持がよんだ20巻4516番である。
第21代雄略天皇の歌からはじまり、全部で4516番まであるが、重複している歌があり、計4496首である。
萬葉集はマンエフシフとよみ、岡田正之氏の『近江朝廷の漢文学』で、葉は木の葉で、多くの歌をあつめたことをさし、葉は世に通じ、萬世まで伝わるようにの意味を込めた題目であるという。
表記は、所謂、萬葉假名、男手、一音一字をあてはめてあり、漢語はつかわれていない。
大和魂ということばは萬葉集にはでてこないが、存在しないかというと、漢字自体は存在しないが、天皇から兵士、農民、乞食、遊女、となりのおばさん、男女の差別なく全国津々浦々、国民全参加の歌集で、渡部昇一氏が『日本語のこころ』でいう「法の前の平等」を捩った、「和歌の前の平等」がみられる。そのこころ、根太の、大和魂を知ることができる。
雑歌
第一巻の1番、雄略天皇;泊瀬朝倉宮御宇天皇代
天皇の御製の歌
籠毛与 籠もよ
美籠母乳 み籠持ち
布久思毛与 掘串もよ
美夫君志持 み掘串持ち
此岳於 菜採須児 この丘に菜つます子
家吉閑名 家宣らへ
告証左根 虚見津 名告らさね そらみつ
山跡乃國者 押奈良戸手 やまとの國は おしなべて
吾許曾居 師吉名倍手 吾こそをれ しきなべて
吾己曾根座 我許背歯 吾こそませ
告目 家呼毛名雄母 我こそは告らめ 家をも名をも
この求婚の歌に秘められた恋い心こそ、大和の起源から男神と女神の協力から日本人が誕生したことを思えば、国際感覚をやしなう、地球上のすべての人々、人類を愛することこそ、大和魂なのである。まことに、わが國は男女の愛、夫婦の愛で國がはじまり、夫れが日本の魂のもっとも根源的な表出としてここにみられるであろう。
萬葉集には自然を扱った歌でも、比喩的で、花鳥風月を直接愛でる表現はでてこない。
三卷328番 太宰少貳小野老朝臣歌一首
青丹吉 寧楽乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有
青によし、奈良の都は 咲く花の 匂うが如く 今盛りなり
青い瓦、丹塗(にぬり)、赤い、朱色の柱が、白壁に映える伽藍、唐風の衣装をつけ、白馬が通る奈良の都は、咲く花のように、繁栄しております。天平10年、738年ごろ、第45代聖武天皇の朝。とくに吉澤氏は、結びが、ズカリと千鈞の貫禄を示されて見事としている。
しかし、大和魂を持たぬ臣下の揉め事のため、繁栄の奈良を捨てて、天平12年に恭仁京(くに;相楽)へ遷都されるのである。その後、奈良の京は寂れていく。
巻1の8番に、
熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜
熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
潮が満ちて、海は高くなってくるが、にぎたつの港から、さ、出立。出船だ。これは緊張感がつたわってくる、雄大な歌ではないか。額田王は後の第40代天武天皇に稼している。
大君をまもり、日本をまもるため、勇気をだして、出陣しようという大和魂がみえる。
白村江の戦で、女帝、第37代斉明天皇は中大兄皇子をともなって博多まで向かわれた。博多に到着後、朝倉宮の木を、勝手に伐採し、宮を造営されために、雷神が怒り、鬼火がでて、661年に斉明天皇は焼死したと伝えられている。
大伴家持の 巻18 4094番の長歌の後半
海行者 美都久屍 山行者 草牟須屍 大皇乃 敝尓許曾死米 可敝里見波 勢自
海行かば 水づくかばね 山行かば 草むすかばね 大君の辺にこそ
死なめ かへりみはせじ。
あの唱歌にもなった、信時潔作曲の「海行かば」である。三韓征伐の、白村江の戦いで、日本の國のため、大君のため、海に、野に、屍となるまで戦いましょう。国民挙げての唱歌である。
廿卷4373番には、
祁布与利波 可蔽里見奈久弖 意富伎美乃 之許乃美多弖等 伊泥多都和例波
今日よりは 顧みなくて大君の 醜の御盾と 出立つ我は
此は第46代孝謙天皇の天平勝宝7年の防人の火長として下野なる我が家を出立する際に、今奉部与曾布が応詔の歌で、防人とは外寇に備え壱岐、対馬、筑紫の海岸に配布された守備兵で、東国から選抜で、3年毎交代の勤務であた。あの山本元帥が懐の手帳に大切に自筆していたことは有名で、戦前、戦中派の日本人は、暗記しているひとが多い。
萬葉集には大和魂という言葉はでてこないが、大君への忠誠心にかくれた大和魂が貫かれており、外寇から、祖国を守るとともに、家族、女房をまもる愛を感じるのである。
森岡美子氏の『萬葉集物語』は、戦前にかかれた、中学生用の教材冊子であるが、内容はきわめて深く、仕上がりは完璧で、私の超愛読書で、2冊ももっている。1冊はボロボロである。
ここでは、萬葉集は日本の寶であり、純朴で、雄大にして、明瞭で、まことのことを素直に表現した、国民全体の歌集で、忠君愛国の精神が貫かれ、この萬葉精神こそ、大和魂と表現されている。
紫式部の大和魂
菅原道真(845-903)の登場で、850年頃より和魂漢才として、女假名、草假名が使われはじめ、894年の道真の建議で、遣唐使廃止を契機に、和風化、大和言葉が中心となり、905年には大和言葉、女假名での『古今和歌集』が撰進され、その後、女手假名、和歌文化の隆盛がみられる。
和魂漢才という言葉は、菅原道真の創語で、生田長江によると、近年の、森鴎外を洋魂和才、夏目漱石を和魂洋才という。
小野小町(809-901)、在原業平(825-880)、僧正遍昭(816-890)、文屋康秀(?-885)、貴撰法師(不祥)、大伴黒主(不祥)の六歌仙の時代をみると、だれが、平假名、女假名がもちいだしたのか特定するのは可能かもしれないが、古今和歌集以前の平假名文字の書は遺っていない。したがって、誰がいつの時点から平假名を用いたのかは正確には不明なのである。その後、小野道風(894-966)にしても、宗尊親王(1242-1274)においては白氏文集などの漢詩文ももてはやされ、草書、平假名、すべてを使い分けていたものと考えられる。
さて、問題の『源氏物語』は、平安中期に当たる第66代一条天皇(980-1011)のころ、紫式部(973-1016)の手に成った、画期的、平假名、長編小説である。これ以前の小説としては、『竹取物語』を嚆矢とし、紀行文の嚆矢、紀貫之の『土佐日記』は935年で、更級日記『伊勢物語』、『宇津保物語』、『荻窪物語』、などがあり、『更級日記』、『栄華物語』、『枕草子』、が同期で、その後、『徒然草』、『平家物語』、『義経記』、『大鏡』、などがある。
世界的にも有名な、アーサー・ウェイリー Arthur Waley の源氏物語の英訳版が出版されたのは大正11年のことで、それまでは、淫靡で、誨淫(かいいん;淫をおしえる)の書で、平安朝の娼婦の卑猥な話と誤認されていた傾向があり、与謝野晶子の現代語訳後でも、その評価はひくかった。是は日本人が、江戸の武士社会を長く経験しているために、その大和魂は武士道、国粋主義に傾き、その視点から平安朝社会を酷く淫靡と認識していたものを、海外から雅な日本古典文学と指摘されてからの再評価である。
しかし、日本古典文学の中でも源氏物語を読むのは一苦労であるし、長い。そして他の平家物語や徒然草より遙に難解である。
この謎を渡部昇一は『日本のこころ』で、解きあかされている。
これは萬葉集から古今まで、萬葉假名をひきずったまま、その一音一字の訓読みに変換する間に、もとの、やまと言葉の意味が変更され、文法的にも整理されたためと考えられている。
「大和魂」は、乙女の卷の 光源氏の長子夕霧に漢学教育を施すに際してのことばとして、
猶、才を本としてこそ、大和魂の、世に用ひらるる方も、強う侍らめ。
才(ざえ)とは漢才、すなわち漢詩文を読み書きする才能のことで、そのような外国、海外の文化を勉学する学問的基盤があってこそ、この生得の大和魂も、世に大いに用いられ得るのだと、式部は、夕霧の元服に際し、光源氏が夕霧に学問をさせておこうとする考えをのべさせている。
この時代でも、大和魂とは、外国語の漢語を勉強し、国際感覚を身につけておかなければ、生涯困ったことになるよ。良き就職、良き嫁にはなれないよと諭しているのである。
則ち、大和魂は、外来文化に接した時に、快くこれを懐に抱き入れつつ、真の国粋的観点に立って、その一つ一つに厳正なる批判を加え、取るべきは取って、日本文化に培い、すてるべきものは捨てる、日本の文化を守り、けっして、海外文化を無意識に排斥しないそのような心をいうのである。
これが、伊莽諾(いざなき)、伊莽册(いざなみ)の二神が、つくられた島国の、大和魂なのである。しかし、これは、太平洋戦争前に国粋主義の言葉として使われ、戦後も間違った解釈のまま伝えられている。
さらに、昭和初期の国文学者の吉澤義則氏も、昭和14年刊行の『大和魂と萬葉歌人』に、この、源氏物語の大和魂と赤染衛門を比較されており、平安の賢い女性が指摘し、使っていた言葉としている。
赤染衛門(あかぞめえもん;956-1041)は女流歌人、三十六歌仙の一人で、栄華物語の作者と考えられている。赤染時用の娘であるが、母が前夫の平兼盛のときに妊娠しているので、この娘である。大江匡衡(おおえのまさひら)と結婚し、鴛鴦、文章博士で、藤原道長の正妻倫子と、その上東門院彰子につかえていた。
『後拾遺和歌集』の最後に夫の大江匡衡(おおえのまさひら)が1218番
はかなくも思ひけるかな 乳もなくて 博士の家の乳母せむとは
これに、赤染衛門が1220番
さもあらばあれ 大和心し 賢くば 細乳(ほそち)につけて あらすばかりぞ
則ち、乳と知をかけて、学才知識豊富な博士の家に雇われた乳母が乳がでないとは情けないとよんだところを、学才などは無くてよろしい、大和心がはたらけば善いのですと言い返している。
大和魂、大和心は、平安の女性が使い出したことばで、国際感覚、たとえば漢才に対応する言葉として、我が国の学才、知識をもった心を言った。いわゆる和魂洋才のことである。唐かぶれで唐のことばかりをグタグタのべて、うるさいはね。国際感覚を持った、日本を思う、日本独特の大和心でもって考えなおしなさいよ、といっているのである。
ついで、『今昔物語』の第廿九の「明法博士善澄、強盗に殺されたる語、第廿」に、清原善澄が強盗に殺害されるはなしで、明法博士とは法律関係の学者のことで、学科四道即ち、明経道、明法道、文章道、陰陽道の一つである。清澄は、このうちの法律関係の学者であった。このような学者が泥棒に殺されてしまう話がのっている。
或夜、強盗に押し入られて、板敷きの下に隠れて難をのがれるが、器具什物を破壊奪掠された。忌々しさに、強盗が立ち去ったあと、後を追って、門前に飛び出し、畜生、よーく、お前の顔を見ておいたので、夜が明けたら検非違使別当にいいつけてやるからな。とわめき立てた。強盗は、逃げる足早を止め、引っ返してきて、この博士を斬り殺したという。
才は微妙かりけれども、露大和魂なかりける者にて、此(とめ)る心幼き事を言ひて死ぬる也とぞ、聞きと聞く人に云ひ、被謗(そしられ)けるとなむ語り伝えたるとや。
ここでは、大和魂は、国際的感覚とは関係ないが、常識という程度の意味と解釈されるが、才能があるとも、ないとも言える微妙なケースで、完璧に大和魂がある学者とはいえない者の悲劇として紹介している。
しかし、考えてみると、この清澄学者が叫きたてたことを、だれが知っていたのだろうか。ただの作り話のように思うが、清原清澄という博士は実在していたのである。
刀伊(とい)の入冠
1019年、第68代後一条天皇(1008-1036)のとき、藤原道長は左大臣を、その子頼通に譲ったのが1017年で、その、2年後のこと、九州の壱岐、対馬、筑前に、満州民族の女真族(じょしん)の刀伊(とい)が侵略してきた。
約50隻の賊船で、壱岐、対馬を襲撃し、島民1300人が拉致された。是に対し、太宰権帥の大貳殿藤原隆家が、逆襲し、これを撃退したのである。朝廷は派兵せず静観していたようだ。刀伊(とい)というのは高麗より北方の民族を蛮族のことで、女真族は満州民族の前身の族で、拉致により農耕力の獲得のためといわれている。
これは『日本書紀』ではなく、『大鏡』にでていて、その155段に、
筑紫には、かねての用意もなく、大貳殿、弓矢の本末も知り給はねば、いかがと思しけれど、大和心かしこく おはする人にて、筑後・肥前・肥後、九國の人をおこさせ給ふをば さるものにて、府の内につかうまつる人をさへおしとりて戦はしめ給ひければ、かやつが方の者ども死にけるは。さはいへど家たかくおはしますゆゑに、いみじかりし事平らげ給へりし殿ぞかし。
ここでの大和心は 雄々しき心、とみるが、藤原隆家が単に、武力に優れていたのみならず、国際感覚を身につけた、他国からの侵略に日本を守り、闘うという心いきをもった賢い人のことである。
『大鏡』は作者不詳であるが、平安後期の作で、原本は遺っていないが、底本は近衛本といわれる京都大学附属図書館蔵がもっとも原本に近いとされているが、三巻のみである。
内容は190才の大宅世継と180才の夏山繁樹が、おもに藤原道長の栄花などを話す物語に仕上げられている。
おわりに
以上の平假名の発明に伴い、日本の学問、和歌などの平安文化は開化していくが、政治は藤原道長、頼通の絶頂期で、これを第70代後冷泉天皇、71代後三条天皇(1034-1073)が、大江匡房(まさふさ)、源師房(もろふさ)の協力で、政務を奪回され、記録荘園券契所の設置など、画期的政策が推進された。
無双の才人、一条兼良(1402-1481;足利義尚時代の関白)は、やまとごころ、大和魂とは、「わが国の、目明かしになる心、魂」をいう、とかたっている。
このように、その国の心意気というか、国家の成立で、その国を守り、育てていく、住みよい国造りは、その国民のこころ、魂を鼓舞させるのである。日本には上古より、大和魂をもっていた。
森岡美子先生
『萬葉集物語』の森岡美子氏は、大正2年東京のうまれで、昭和10年に日本女子大学国文科を卒業され、叔父で女子学院院長の芝田徹心先生の御指導で、大戦前の昭和15年、中学生の教材として、とくに学習院学生用に書かれた冊子ですが、これが超名著であるが、わすれられている。
わたしは、月刊新聞『日本古書通信』の平成12年3月15日発刊848号の高橋英夫氏の「木漏れ日の読書みち3」で子供向けとかかれていたので飛びついた。
当時は、萬葉集の紹介は、斎藤茂吉の岩波新書赤判『萬葉秀歌』上下しかなかったという。森岡先生は学習院女子部の教論をされ、昭和53年より、長崎出島史跡整備審議会の委員をされていた。この時の研究論文『世界史の中の出島』も超名著である。
この『萬葉集物語』にも紹介されているが、公開図書館の石上宅継の短歌は、
卷19の4282番に、
辞繁 不相問尓 梅花 雪尓之乎礼氏 宇都呂波牟可母
事しげに あひ問はなくに 梅の花 雪にしをれて うつろはむかも
漢才に長けていた石上が、梅、雪を詠むところは、チョット違和感があるが、これは、漢詩が身近にあり、唐の漢詩詩人の影響が強く、当時としては、かなり進歩的で、遺憾なく、その大和魂を発露した短歌である。
しかし、萬葉假名の『萬葉集』も、第62代村上天皇の御代、天暦5年951年には、萬葉集ができて、200年後で、すでに、訓読がむずかしくなり、「梨壺の五人」、大中臣能宣、清原元輔、源順、紀時文、坂上望城に、研究を命じられている。
言葉、文字は生き物で、日々変容する。平安の人々が萬葉集の万葉假名の解読、解釈に難を感じるのは、現代人の、戦前、明治、江戸の文字が解読出来ない、その困難さ以上である。
和歌の韻律
森岡萬葉集物語の、解題(かいだい)にもかかれているが、和歌はその音句のくみあわせで、6種類ある。
その韻律は
片歌は、 577
施頭歌(せどうか)は、 577577
短歌は、 57577
長歌は、 57575757・・・
仏足石歌(ぶっそくせきか)は、 575777
混本歌は、 5757
反歌は、長歌をうけての、長歌の要旨を補足し、詠った短歌をいう。
そして、漢詩では韻を踏むわけで、いわゆる脚韻で詩の体裁を整え、諧調美を味わうわけであるが、和歌は、反対に頭の音を繰り返す頭韻法がもてはやされた。
歌で遊ぶ俳諧のなかに、連歌がある。連歌というのは、575を長句。これを、発句として、他のひとが77の短句をつけ、ついで、この短句に相応しい、他の長句を作成していく。この流れを連歌という。鎌倉から室町時代に流行った。連歌集として、旧い者で、1217年、建保5年4月14日に御所でおこなわれた第82代後鳥羽院の連歌が、二条良基が1372年にまとめた『菟玖波集抄』(つくば)があり、下って、江戸明暦2年、1656年『玉海集』、宗祇法師の百韻が選ばれている。
『菟玖波集抄』は、つくばと読ませるが、これは、茨城の筑波山からきている。『古事記』に、景行天皇の時、倭建命(日本武尊)が東征し、御火焼翁と筑波山を読み込んだうたがでてくるが、ここから、連歌を「筑波の道」といったことからである。筑波を詠った和歌は百人一首にも撰ばれていて、陽成天皇の筑波のうたが、のこされている。
倭建命のうた
新治(にひばり)、筑波を過ぎて 幾夜か寝つる
御火焼の老人が、続きて歌ひ
日々並べて、夜には九夜 火には十日を と読まれた。
百人一首第13番 第57代陽成天皇、『後撰集』から
筑波嶺の 峰より落つる男女川
恋いぞつもりて 淵となりぬる
さらに、連歌集として有名な、明智光秀の『愛宕百韻』がある。これは本能寺の変、1582年、天正10年6月2日の10日前の5月24日に、京都北西上嵯峨で、渡月橋からも見える、京都市最高峰924メートルの愛宕山の威徳院で催された連歌の会があった。出席者は明智光秀、その長男光慶、連歌師里村紹巴、愛宕西之坊威徳院住職行祐ら9名で、
光秀の初句
「ときは今 天が下しる 五月哉」 光秀
これをうけて、 「水上まさる 庭の夏山」 行祐
これをうけて、「花落つる 池の流れを せきとめて」 紹巴
「風に霞を吹き送るくれ」 宥源
とさらにもう一句できるのである。一種の尻取り遊びである。
天正10年6月2日、水色桔梗の紋は、「敵は、本能寺にあり」といって、信長を追いつめたのである。
『信長公記』によると、謀反のあと、秀吉側からのクレームで、この句が問題となり、ときは今とは、明智の旧姓の土岐で、明智は今、とよんだのではないか。さらに雨であればよいが天となっている。さらに、下なるではなく、下しるとしている。下しるとは治めるという意味である。したがって、この会は、クーデターを仕組むための句会で、出席者は皆知っていたのではないか。との疑惑がうまれた発句である。
俳句(5・7・5)は、小西甚一氏によると、俳諧連歌の長句、発句からきていて、これもいつから流行りだしたのか不明であるが、芭蕉で最高潮をむかえる。そして、明治に入って、1892年、明治25年のころから、松山出身の正岡子規が俳諧、発句のかわりに俳句ということばを使った。
忠君愛国の精神
さて、日本人の気質、容気、について述べられた書で、明治40年から大正の期に大ベストセラーとなった、『国民性十論』があり、筆者の芳賀矢一(1867-1926)は、福井県出身の東大国文学者で、のちに國學院大学の学長になっている。
国民の性質というものは、その國の政治、法律、言語、文学、風俗、習慣等により影響を受けるが、逆に政治、法律、言語、文学、風俗、習慣も国民の性質から影響を受ける。
その、日本人の性質、精神は、歴史が古いことから、金甌無欠(きんおうむけつ)の国体から自然とうまれたのが大和魂で、根本的な、禀性(ひんせい)というか、天性であって、その十項目をあげている。
1. 忠君愛国、2. 祖先崇拝、3. 現世的、実際的、4. 自然愛、5. 楽天洒落、6. 淡泊瀟洒、
7. 繊麗繊巧、8. 清浄潔白、9. 礼節作法、10. 温和寛恕。
このなかの先ず、忠君愛国の章にでている話であるが、彼がドイツに留学している明治30年ごろに、男爵シーボルトの講演で、「ヨーロッパの革命は王室の権威を縮小するものであるが、日本の革命は、全く逆、顛覆するもので、皇室の稜威を益し、繁栄を増進するもので、ヨーロッパ人には理解できない革命で、これには日本人の忠君愛国の国民性をみることができる」、という内容の講演を聞いたと述べている。
ちょっとまて。ここで問題が発生。この論文が、書かれたのが明治40年で、芳賀は明治25年に東大を卒業し、ドイツ留学したのが明治30年頃である。あのシーボルトが死亡したのは慶応2年1866年のことで、したがって、本人が講演に登場するはずがない。男爵シーボルトというのは、あのシーボルトの子孫か、もしくは、芳賀氏のウソ、粉飾であろう。しかし、このようなに国民性の相違は充分理解、首肯できる。
革命、Revolutionというのは「天之命維革」という、毛詩周頌の清朝之什からきている言葉で、支那では、天子は天の命を受けて百姓を治めるとされており、聖人賢者のだれでも、天子になっても構わないのである。しかし、日本の天子は、古代より天皇と定められており、皇室が、萬世一系にして、日本を治めていた。
日本語のカミは、長上(かみ)であり、神で、ある。即ち、髪、上、お上のことで、また、雷のカミにも通じ、貴い、畏しという意から転じたのである。
『古事記』には、上代、天地剖分してのち、高天原(たかまがはら)から、天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三神が、各々独神で、この地に降りられた。その後、宇摩志阿斯詞備比古遅神、天之常立神、ここまでを五柱の天神といい、その後、國之常立神、豊雲野神の二神が、その後、宇比地邇神、妹須田比較智慧邇神、角杙神、妹活杙神、意富斗能地神、妹大斗乃弁神、於母陀流神、妹阿夜詞志古泥神がおりたたれ、ここまでを神世七代と称う。ついに伊邪那岐神(いざなき)、妹伊邪那美神(いざなみ)、の男女の二神が、この島にくだって、泥状の淡島から淡路島を、壱岐、対馬などの、大八洲の島々の日本を作られた。
つぎに、この二神の子は大事忍男神、石土毘古神、石巣比売神、大戸日別神、天之吹男神、・・岩、砂、戸口、屋根、海、河などを司る十神を造られ、速秋津日子、風の神、志名伊那都比較古い神、屎から、尿(ゆまり)から身弥勒、ついに伊邪那美神(いざなみ)は火の神をうみつける。この火により伊邪那美神(いざなみ)は焼死してしまう。
伊邪那岐神(いざなき)は意気消沈し、伊邪那美神(いざなみ)を出雲と伯耆國との境の比婆山に葬った。
なにをおもったか、この時、腰につけていた十拳剣で、子の迦具土神の首を刎ねると、その剣先の血から、石の神など八神ができ、さらに刎ねた頭から八神がうまれた。
伊邪那岐神(いざなき)は寂しくて、黄泉の国の伊邪那美神(いざなみ)会いに行くが、そこでみたのは、蛆のわいた伊邪那美神(いざなみ)の亡霊で、黄泉の国から逃げ帰るが、醜女が追ってくるので、髪につけていた、蔓をなげすてると、これが、葡萄の実になった。櫛を投げ捨てると、これが筍になった。追いつめられて、ついに、桃の実、三つをなげつけると、醜女は退散した。
伊邪那美神(いざなみ)の亡霊と夫婦喧嘩になり、伊邪那岐神(いざなき)の造った神を一日に1000人殺してやるといわれ、伊邪那岐神(いざなき)は、それでは私は1500人造ってやると言い返した。
伊邪那岐神(いざなき)は筑紫の日向の、橘の小門の阿波岐原で、禊ぎで目を洗うと、左目から天照大神が、日の神として、右眼から月の神、月読命をつくられ、鼻から建速須佐之命をつくられたのである。
天照大御神、素戔嗚尊、大國主命の話は割愛させて頂くが、機会があれば、神話として、興味深いので、高千穂の御神楽とともに、また紹介します。
ここで、少し話は逸れるが、佐藤春夫の甥の娘が、春夫氏に「ダイコクセイメイは本社は東京にあるはずよね、デクモになってるけど、デクモって、どこのこと」と聞いたという。
この笑い話は、河出書房の『日本の歴史』に紹介されている。
平成の人間には、この大国生命なる生命保険会社も無くなっているので、チンプンカンプン(珍紛漢紛)であろう。大黒主命の主を生と読み間違えて、さらに出雲(いずも)をデクモと読んだものだから、会話ではチンプンカンプンになってしまうという笑い話で、これを、大津栄一郎氏は『日本語起源論』で紹介している。
そして、天の岩戸、八俣の大蛇、須佐之男命、大国主命の因旛の白兎や、猿田彦、海幸彦、山幸彦などのはなしのあとで、天孫降臨、高千穂に降り立った、神倭伊波礼毘古命、この神が、すなわち、人皇、神武天皇で、初代の天皇で、日向の高千穂から、日本平定のため、筑前、吉備、難波、熊野、八咫烏(やたがらす)の先導で大和にたどり着く。
137歳で崩御、御陵は畝傍山白梼尾という。
日本史上で、天皇を無視して、自らが天子に立とうなどという、袞龍(こんりゅう)の袖にかくれて、不敬な行動をとった人物は、さほど多くはないが、源義朝、源義仲、平将門らがいた。
また支那では『平家物語』に盛者必衰として語られているが、秦の趙高、漢の王莽(おうもう)、梁の朱■(己の下に廾)(しゅい)、碌山すなわち楊貴妃を溺愛した玄宗帝らがいた。
最後に、仮名を假名としたのは、高島俊男の『漢字と日本人』で、仮という漢字は、假の略字で、相応しくないとの理由からで、正しくは、萬葉がな、平がな、片かな、と記載すべきだというのが、彼の主張である。
さらに、高島氏は、明治以降の日本語、国語の在り方、現在の日本語の危機について詳しく検討されているので参照されたい。
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