はじめに

 空海が、インドで発生した密教を長安経由で、日本に持ち込んだのは806年で、平成18年2006年で、丁度1200年になる。
 日本の密教は、山の正倉院、高野山金剛峯寺が本山で、全国に真言宗としてひろめられていたが、平成の時代の現在では、発祥の地のインドにも中国にも密教は存在していない。したがって、密教は、日本のみに遺された世界の文化遺産といえる。

 その高野山には、空海の入寂後も、とくに中世の天皇、宇多天皇、鳥羽天皇、御白河天皇、後鳥羽天皇らが御幸されたり、その他、後醍醐天皇、護良親王、楠木正成、足利尊氏らの南北朝、室町時代の人間劇場の中心地であった。

 そして、歴史的に重要な役割をはたしてきた、地、高野山は、日本の歴史と日本の仏教を語るとき、どうしても省くことが出来ない聖地である。以下、日本史と高野山についてみていく。

 空海入滅後の高野山と東寺

 823年、空海は、高野山での最初の法会、万燈万華会で、「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きねば、わが願いも尽きなん」と、願文された。
 しかし、12年後、835年に入定され、その後、弟子が伽藍を造築していくが、中でも、東寺の実恵僧都の協力で、真然大徳が、887年に高野山のすべての伽藍を完成させた。その後、密教を高野山金剛峯寺を本山として、弘教されていくのである。

 高野山開創のあけぼの

 835年62歳で空海入定のあと、86年後の921年、延喜21年、第60代醍醐天皇より、空海に、弘法大師の諡と御衣が贈られた。このことは、真言宗の首座の観賢によって、奥之院廟窟に禅定されている空海に、報告された。

 994年、正暦5年、藤原氏全盛、第66代一条天皇の御代に落雷の類焼で、御影堂をのこし、他の多くの伽藍を失う。

 995年、雅真検校が山麓天野社に避難し、曼荼羅院を建立し、その後、1016年、興福寺の祈親上人定誉が入山した。

 弘法大師信仰、高野浄土信仰は全国に風靡し、今昔物語、枕草子などにもとりあげられている。
 そして、1023年には藤原道長が参詣している。そして、白河、鳥羽上皇の参詣があり、天台との関係も密となる。
 1026年、藤原道長の娘上東院彰子が落飾後、その髪を弘法他大師廟前に埋納された。これ以来、高野山への納骨納髪信仰が皇族、貴族の中にひろまっていく。

 1040年に中院を再興し、1048年には藤原頼通が参詣し、1057年に御影堂での御影供を始行、明算とともに1072年に中院流を興した。
 その後、1084年性信法親王により、灌頂院が建立され、1088年には、72代白河上皇の参詣で、大塔再建がなされ、高野山の浄土観、弘法大師信仰は全国に定着する。

 熊野御幸

 熊野御幸の回数は下記の如くである。これはインターネット『み熊野ねっと』」による。

 宇多天皇  59代(867-931) 1回
 花山天皇  65代(968-1008) 1回
 白河天皇  72代(1053-1129) 9回
 鳥羽天皇  74代(1103-1156) 21回
 崇徳天皇  75代(1119-1164) 1回
 後白河天皇 77代(1127-1192) 34回
 後鳥羽天皇 82代(1180-1239) 28回
 後嵯峨天皇 88代(1220-1272) 3回
 亀山天皇  90代(1249-1305) 1回

 1124年、74代鳥羽上皇の参詣で、西塔が再建された。1127年、覚法親王が勝蓮華院を建立し、1148年に再度、落雷火災で、灰燼となる。
 1149年、久安5年に安芸守となった平清盛が厳島神社再建の祈願に高野山を訪れ、血曼荼羅事件をおこす。くわしくは曼荼羅のところで述べる。

 1159年、美福門院が鳥羽上皇の菩薩を祈り、金泥一切経を納経し、六角経蔵が建てられた。山岳信仰でもある高野山は、女性禁制ではなかった。
 1162年、平治の乱での、明遍が入山。1173年、西行法師が蓮華乗院移建を勧めている。

 1177年、京都東山の麓、鹿ヶ谷で平家打倒の陰謀が西光、俊寛、藤原成頼が陰謀を企て、発覚。平家物語巻一の鹿谷に、その内容が記されている。

 俊寛の山荘で、平家の世の転覆をねらって、後白河法皇も出席されていた。浄憲法師が「こんなに多くの人が聴いているところで、口にされては、秘密が洩れて、天下の一大事になりましょう。」というと、藤原成親が顔色を変えて、御前をさっと立ちあがって退席しようとした時、その狩衣(かりぎぬ)の袖をひっかけて、瓶子(へいじ;徳利)を倒した。
 法皇が、「あ、これはどうしたことか。」
 成親、「瓶子は、もう倒れてしまいました。」
 法皇は満足げに、お笑いになると、
 平康頼が、「あまりの瓶子が沢山ありますので、酔って目がまわりまする。」
 俊寛が、「さて、それはどうしたらよいでしょう。」
 西光法師が、「首をとるのがよろしかろう。」といって、瓶子、徳利の首を折った。
このとき、武力行使をたのまれていた多田行網が、平清盛にチクッタのである。

 西光は斬首。成経、康頼、俊寛は九州鬼界ヶ島に流罪。俊寛が、島より流した卒塔婆が、潮流にのって、厳島神社に流れ着いたといわれる。

 武士政権と高野山

 1184年、守覚法親王(後白河天皇の子;1150-1202;経正から琵琶「青山;せいざん」を託された)が義経に乞うて、平経正(つねまさ;-1184;経盛の子;但馬守、琵琶の名手;一ノ谷で戦死)の遺骨を奥之院に納めている。

 平経正は清盛の甥で、仁和寺法親王守覚法親王に仕えていたが、戦場にも琵琶青山を持参していたが、ついに戦で都落ちが予測されたとき、この宝器を親王に返還し、この世の別れと数曲を奏で、一座の涙を誘ったといわれる。

 翌1185年、元暦2年、3月、壇ノ浦で、平家を滅亡に追い込んだ27歳の義経(父義朝と妾常磐御前の三人の子、今若丸、乙若丸、牛若丸の三男)は、異腹(腹違い)の兄頼朝(父義朝、母由良御前)からの報奨金の交渉で鎌倉に入るが、面会叶わず、逆に征伐されそうになり、京都にかえる。追討をおそれ、11月に、静御前と吉野山の吉水神社に逃げ込んだ。その後、弁慶らとともに奥州に向かったのである。翌年の閏4月末、義経、弁慶は頼朝の命を受けた藤原泰衡に討たれた。

 源頼朝(1147-1199)は1192年に後白河天皇崩御後、征夷大将軍となり、鎌倉幕府を開いた。1192年に次男実朝が誕生。しかし、頼朝は長続きせず僅か7年で、落馬により頭部挫傷で死亡。
 長男の源頼家が第2代となるが、1203年、外祖の比企能員により修善寺に幽閉され、母方の北條氏の暗殺にあい、1204年8月14日死去、遺体から多数の妖怪があらわれたという。ついで実朝が第3代となる。

 1197年、鳥羽上皇の皇女八条女院の希望で、高野山に一心本堂が建立される。1200年には後鳥羽上皇の御願で孔雀堂が建立された。

 1206年、建永元年、第82代後鳥羽天皇(1180-1239)が熊野詣されているときに、法然の弟子の安楽房が中心に、鹿ヶ谷で「六時礼讃」を続けていた。これは六時間おきにおこなう善導大師のつくった念仏を唱える会で、後鳥羽上皇の女官の鈴虫と松虫が、法然、念仏宗に転向し、六時礼讃にでかけたまま帰ってこない。この処罰で、後鳥羽天皇は安楽房らを死罪とし、専修念仏そのものを否定するために、法然、その弟子を全国に流罪とした「建永の法難」である。

 1218年、北条政子が熊野詣し、御影堂を建立し、厳島と気比神社の合祀を勧められた。そして、源頼朝の菩提の弔いで、禅定院を建立する。さらに、1219年には実朝の弔いのため、金剛三昧堂を建立している。

 その1219年、正月に右大臣就任で鶴岡八幡宮参詣するため27歳の源実朝(1192-1219)が参拝をし了えて、階段を下ったところで、兄頼家の子、19歳の公暁により、首をはねられた。公暁は実朝の首をもって、備中阿闍利の家で休んでいるところを、義時、政子の命をうけた兵に惨殺されるが、実朝の首がなくなっていたという。
 これで源氏の正統は絶えた。将軍職は九條へ移り、執権は北条氏にのこった。

 承久の変

 この九條頼経が征夷大将軍に就任していたときに、1221年、承久の変が勃発した。発端は時の執権北条義時の御家人の仁科盛遠が、子、二人を連れての熊野詣で後鳥羽上皇と会い、上皇はこの二人の若武者が気に入り、西面の武士に取り立てられた。これに、義時は怒り、仁科の関東の所領を没収してしまった。
 また上皇が白拍子の亀菊に鎌倉の荘領をあたえたことに、義時は猛烈に抵抗した。これに対し、上皇は兵をあげられたのである。緒戦は京都守護の伊賀光季を朝廷が討ち取り有利であったが、逆に幕府兵にせめられ、ついに、朝廷側の敗北で、こんどは後鳥羽上皇が隠岐に流されたのである。この時から、幕府の警察、六波羅探題が京都におかれた。

 屈指の歌人、稽古の君、『新古今和歌集』で藤原定家と犬猿の仲であった後鳥羽は、高野山まで逃げおおせず、京都で捕らえられ隠岐へ流罪。
 増鏡の第四のふぢ衣によると、17年後の1239年、延応元年2月22日に、60歳になられた帝は、髭、爪は延び放題で鬼の形相となり、北条を恨み、今一たび、都へ帰らむと無念を最後に、舌をかみ切って自害された。隠岐西ノ島海士町で火葬され、その御骨を北面武士能茂入道が頸にかけて都に供し、大原の法華堂におさめられた。

 土御門は10年後に自ら出家し土佐へ、順徳は佐渡への流罪で、20年後の1242年に佐渡で、崩御されているが、その30年後の1271年に、1222年生まれの日蓮が佐渡に流罪となっている。
 また、達磨大師を祖とする禅宗が、栄西、道元により弘められ鎌倉武士の信者が多くなる。

 このように、天皇継代が、臣下北条によって、これほどの屈辱を受けたのは日本史上ではじめてのことで、しかし、これを教訓に皇室の永続を真剣にかんがえるようになる。結局、順徳天皇の第3子の4歳の懐成親王が第85代天皇に即位されることになったが、在位わずか70日で、廃帝になられ九条家に預けられた。
 この天皇は明治になって、追諡され仲恭天皇(ちゅうきょう)と号されたのであるが、歴代天皇より除外される例もみられる(第39代弘文天皇も明治に追号されている)。次の天皇は第80代高倉天皇の皇子守貞親王の第3皇子茂仁親王が第86代後堀河天皇となられたのである。
 従って、『太平記』では、以降の天皇は一代繰り上がり、例えば、後醍醐天皇は95代の帝として紹介されている。

 後堀河天皇のあと第87代四條天皇がわずか2歳で、1232年、天皇即位されたが、転倒で頭部挫傷により、12歳で死去され、ついで、土御門帝の系から、後嵯峨天皇が第88代として1242年に即位された。

 その後、1246年に、後嵯峨天皇の長男が第89代後深草天皇に即位され、1259年、次男が第90代亀山天皇に即位されて、天皇の継代の様子が二系列、すなわち、後深草の持明院統か、亀山の大覚寺統に分かれてしまった。この両統迭立の継体を、鎌倉幕府の方から交代で即位するよう指示をだした。

 第91代後宇多天皇(大覚寺統)が1274年に即位されると、蒙古襲来で、幕府は真言律宗の叡尊思円菩薩(1201-1290)、忍性菩薩(良観;1217-1303)に祈祷を願う。(1274年、文永11年文永の役、1281年、弘安4年弘安の役)

 この後、宇多天皇が大覚寺にすまわれていたので大覚寺統で、次の伏見帝が、持明院に入られたので、この名がついている。

 1280年、弘安3年には北条時宗が高野山に、勧学院、観修院を建立している。

 天皇は伏見(92;持明院)、後伏見(93;持明院)、後二条(94;大覚寺)、花園(95;持明院)と続く。

 1315年、京極為兼(定家の孫)が京都で、謀反のうたがいで、処罰され、佐渡流罪となる。このことが、『徒然草』の153段にでている。歌人でありながら、持明院統の伏見に仕え、大覚寺統の批判をおこない、二条派、幕府政治にも批判的であったためである。

 付言一則。追伸で、『徒然草』の154段には、今年度2006年からはじまった障害者自立支援法に関連することがでており、偏見の観察をもった京極の感想がかかれている。

 為兼が東寺の門に雨宿りしているとき、多くの、「かたは者」があつまっているのを見た。手足がねじ曲がり、反り返っている者もいる。「いかにも愛するにたれり」と想ったが、帰宅してから、自分の庭の折れ曲がった植ゑ木をみると「興なく覚え」、まっすぐになるように、鉢に植え替えたけれど、結局、みな焼き捨てた。吉田兼好は、「さも有ぬべきことなり」と為兼に同情している。

 1317年には、『文保の御和談』で、幕府は天皇両統迭立を10年毎の交代という指示をだした。ここで、第96代の大覚寺統の後醍醐天皇が1318年に即位されたのである。為兼の方は1319年に京に戻ってくるが、亦、逮捕され、今度は土佐にながされた。

 元寇来襲後、40年で、日蓮(1222-1282)の『立正安国論』の「自界叛逆の難」は現実化し、内政の難で、両統迭立の朝廷と幕府の三角関係の齟齬が激しくなってくる。

 このような中、1324年、元亨4年に美濃の土岐頼兼、多治見国長の接待の酒宴で男女の裸踊りの無礼講をはたらいた朝廷方の日野資朝と、日野俊基は、志士をあつめるため、観光、温泉旅行と称して関東、紀伊に旅にでた。これは、後醍醐の命での幕府の目眩ましの策略である。

 正中の変

 幕府方は1324年、9月、これらの朝廷の動きから、後醍醐天皇に謀反の確証ありと判断する。これが『正中の変』であるが、これは逆の表現のほうがよいだろう。すなわち、朝廷が武士の勝手政治を倒幕する勅意をおこされたのである。
 そして、土岐頼兼、多治見国長が京都に再度参上したところで、船木頼春の密告で、六波羅が彼等を逮捕し、自害に追い込み、日野資朝、俊基も捕えられた。しかし、万里小路宣房が鎌倉に遣わされ、御告文を北条高時にわたしたため、この時は、後醍醐の処分はおこなわれていない。

 一方、鎌倉幕府も執権でお家騒動となる。1326年、執権の北条高時(1303-1333)が24歳で病気のため執権職を辞し、出家して崇鑑と号するが、後継者として長崎高資(円喜)の推す実子の邦時と、弟の泰家を推す安達氏の間で、騒動が発生(嘉暦の騒動)。北条(金沢)貞顕が就任するが、高時の反発で、僅か十日で辞任し、結局、赤橋(北条)守時が就任している。狭隘(きょうあい)な鎌倉の地での、陰惨な仲違いが続いていく。

 朝廷では、親王を後伏見上皇の御子の量仁親王か、後二条の邦良親王にさせるかで、もめていたが、1326年、後二条天皇の子、邦良親王が鶴膝(かくしつ、鶴の脚のように極度に細くなる、筋ジストロフィーか)で薨去。量仁親王擁立となり、持明院統はこれを君臣相慶賀するが、後醍醐は逆鱗する。かくの如く内外事漸々(ようよう)に切迫してきた。

 1328年、後醍醐と中宮藤原禧子(礼成門院)の仕女の阿野廉子とのあいだに義良親王がうまれた。この親王の存在が護良の存在をおびやかし、後醍醐の次天皇の後村上天皇となるのである。

 1329年、中宮藤原禧子自身が懐妊し、皇子の無事降誕を願って、密教の五壇修法で祈祷を行っていたが、これを、関東調伏の祈祷と幕府に伝えられたため、北条高時は大いに怒る。降誕されたのは女子で、内親王であった。
 このように、朝幕の間は日一日と反目するに至りぬ。

 1330年、元徳2年、3月、しかし、後醍醐天皇は突然の行幸を決行する。奈良東大寺、坂本の日吉神社、比叡山の北畠師親の娘親子との間の子の大塔宮護良親王(もりなが;1308-1335)と面会し、幕府処分の折りには僧兵を用意するように指示したのである。

 1330年、4月、検非遺使大判事の公家の中原章房が何者かに殺された。犯人の刺客は後醍醐天皇と勘違いして殺害したのではないかと噂された。天皇自身は安堵し「まだ、天運は、我が上にあり」と、呟いたという。
 1330年、6月、「後の三房;万里小路宣房、北畠親房」の一人、吉田定房が天皇に幕府の扱い方について諫言する。

 後醍醐天皇には源親子(ちかこ)とのあいだの第三皇子として護良親王がおられ、10歳で、比叡山の座主になられ、大塔に居られたので、大塔宮(だいとうのみや)尊雲法親王とよばれていた。弟の宗良親王の尊澄法親王とともに比叡山におられた。

 元弘の変

 1331年、8月、ついに、痺れをきらした幕府は朝廷を攻める。『元弘の変』である。二階堂貞藤の率いる幕府軍が先手をうって、謀反ありとみて、後醍醐天皇を処分するつもりで京都に入った。

 比叡山の四明ヶ岳から京都を見下ろしていた大塔宮護良親王(比叡山座主尊雲法親王)が多数の兵が六波羅館に到着しているのみて、天皇に危険の報をつたえる。

 帝は、御所の記録所に出御され、諸事をおこなわれたあと、清涼殿で休んでおられた。そこへ、急使が伝える。
 急遽、藤原花山院師賢が天皇に偽装し、比叡山に行幸するカモフラージュをおこない、幕府軍の目をそちらにむけさせておいて、天皇は万里小路藤房、尊良親王をともなって、陽明門を出て、三条河原で衣冠を脱ぎ、直垂(ひたたれ)に着替えて、元弘元年8月24日、残暑厳しき夜陰の中、三種の神器と水石『夢の浮橋』を懐に吉野の北東の笠置山に、籠城された。いわゆる後醍醐天皇の笠置行幸である。

 25日の緒戦は大塔宮護良親王が比叡山の麓、琵琶湖の西の唐崎の浜に兵を出し、卯の花おどしの鎧に、鍬形の兜たてまつり、大矢を背負いての、麗しき武士姿(もののふすがた)で、比叡山の偽天皇を追ってくる六千の幕府軍をやぶった。途中、天皇が笠置に逃げたことがバレて、幕府軍は笠置に向かう。

 親王も8月29日には比叡山を捨て、播磨の豪族赤松則祐と小寺頼季をともなって、笠置に向かうが、東大寺で待ちかまえていた幕府軍にせめられ、経塚山から般若寺にむかった。

 護良親王が、般若寺にひそんでいることを興福寺の按察法眼好専が幕府軍に密告した。般若経の納められていた大きな櫃(ひつ)にかくれるが、三個あり、その一個に入り、蓋をあけておいた。他の二つには蓋がされてある。ここに幕府軍の内侍原好専の兵がせめてきた。蓋を開けて、中を確認し、家捜ししたところ、気配なし。逃走されてしまったかと、周章てて寺をでる。

 護良親王は幕府軍が舞い戻ってくることを予感し、櫃から出て他の櫃にうつり、こんどは蓋をする。そこに案の定、幕府方が舞い戻り、蓋が開いている櫃の中を確認するが、親王はいない。「大般若の櫃の中をよくよく探して見たら、大塔宮はおられないで、大唐の玄奘三蔵がおられたわい。」と、洒落を言って、足早に、追走に寺を後にした。
 この奇策で危機をのがれた護良親王は、このあと、高野山、十津川に向かう。直接では危ないので、遠回りして、海岸線にでて、熊野道をえらんだ。

 一方、笠置に着かれた後醍醐天皇は、だれか、助けがいないかと憂問されていたところ、ある夜、夢に紫宸殿の南の木に多くの武士がそろっている夢をみた。夢占いで、南の木は、楠と書ける。笠置寺の僧、快元に、このあたりに楠という氏がいるかと問われた。河内国金剛山に弓の名手の楠木多聞兵衛正成というものがいます。敏達天皇の子孫橘諸兄の後裔といっています。すぐによばれ、楠木、曰く。幕府の暴虐に、天誅として、成敗いたしますと。しかし、この霊夢も太平記の作り事で、殷の武丁(22代皇帝)が夢に良弼(傳説)を得た故事による。

 南朝、笠置、吉野の地図配置

             京都

                              宇治
   桜井の駅                         有王山
                              笠置
                 奈良
                  大和郡山

   富田林           橿原   桜井
     生駒           明日香
      千早赤阪
          金剛山    吉野山
    紀ノ川
           高野山
            十津川

 笠置山に攻め込む幕府軍を、足助次郎重範(あすけ)が、三人張りの弓で射倒し、本性房が怪力で、巨岩を投げつけるなどして、防戦し、背後から楠木が攻めこんで、挟み撃ちにするが、幕府軍は多勢で、退去させるまでにはいかない。

 一ヶ月後の9月20日、京都で光厳天皇が北朝第1代として即位された。

 9月27日暴風雨となり、このなか、幕府軍の陶山義高と小宮山氏真が決死隊をくみ、北面の絶壁を伝って、笠置山の山頂付近に達し、ここから、朝廷軍に火を放ち、陣中を大混乱に落とし入れる。

 翌、28日に、幕府軍の天皇への攻めは激しさをまし、後醍醐天皇は笠置から楠木正成の赤坂に向かわれた。道は闇のなかで、遅々として歩まず、伴の万里小路藤房、藤原師賢、源具行と帝、四人だけがとりのこされる。ついに道に迷い、北西の宇治の方角に向かっていた。山城の多賀の郡なる有王山の麓に辿り着く。

 後醍醐天皇御製歌は『新葉和歌集』におさめられているが、次のうたは『太平記』の「主上笠置の御没落の事」にでている。

  さして行く 笠置の山を 出でしより 天が下には 隠れ家もなし 後醍醐天皇

  いかにせん たのむ陰とて 立ちよれば なお袖ぬらす 松の下露 万里小路藤房

 遂に、9月29日、有王山(笠置の北西、宇治と笠置の中間;松ノ下露蹟)で、後醍醐天皇は捕らえられ、他の随行61名も生け捕りにされ、あさましかりしありさまにて、京都にもどされたのである。太平記では越王勾践の会稽山での敗戦に喩えている。

 さて、楠木正成は、ただちに笠置の南西の赤坂に城を築き、鎌倉勢とたたかうが、二十万八千と多勢で、苦戦する。天皇が捕らえられた事を聞き、9月28日、楠木は不利とみて、奇策に出る。死体30名を城内に埋め、あたかも自分が闘死したかのようにみせかけた。これで、幕府軍の金沢貞冬は正成自害とみて、10月21日、関東にひきあげた。楠木正成は生死、行方不明となる。

 後醍醐天皇の隠岐流罪

 1331年、10月、後醍醐天皇は三種の神器を京都の光厳天皇にさしだされた。光厳天皇は18歳であり、北条の独断でもなく、西園寺公宗の執次で、花園上皇が吟味せられ、御意として、側知なく、直接、後醍醐天皇に、翌年1332年の3月7日、隠岐流罪がつたえられた。
 隠岐、帝遷幸のとき、千種忠顕、中宮の後京極院の上ろう(じょうろう)として仕えていた阿野簾子が同行し、尊良親王は土佐へ、尊澄親王は讃岐、恒良親王は但馬に流されている。

 さて、さて、誠忠の臣下、備後の児島高徳(たかのり;1311-1382)が登場する。隠岐までの道中で後醍醐天皇救出の方にでるが、まず部下に志を述べる。

 「論語の為政に、義を見て為さざるは勇なきなりという。志士と言われる者は、身を捨てて仁を成すのであるが、自分の命を無駄にしてはいけない。自分の命を大切にして、仁を捨てることをしない。仁を尽くしきって、身を献げるのである。
 支那の衛の懿公(いこう)は北狄(ほくてき)に殺され、その肉を喰われてしまった。臣下弘演は見るに忍びず、自分の腹を掻き切って、その中に懿公の肝を入れて死んだという。
 君子を奪い取り奉り、たとえ屍を戦場にさらすとも、名を子孫に伝へん」と。

 これを聴いた心あるものは高徳の計画に参加し、船坂山(現岡山県備前市三石舟坂)で、待つが、後醍醐天皇は今宿から山陰道にはいっていた。急遽、美作の杉坂にむかう。しかし、すでに、一行は院の庄(津山市西端)に着いていた。児島の一族は諦め帰国したが、高徳は志を伝えるため、ひとりで御宿に向かい、庭にしのびこみ、その桜の木の皮を切り剥ぎ、その白くなったところに、十字詩を大書した。

   天莫空勾践   天勾践(こうせん)を空しゅうするなかれ
   時非無范蠡   時に范蠡(はんれい)なきにしもあらず

 これは史記、春秋時代をしっていないと意味はわからない。古典に長けた高徳と稽古の君、流謫(るたく)の天子でなければ理解できない。

 勾践、范蠡は史記の第66巻の「列伝伍子胥」に、でてくる。
 越の王であった勾践は呉を攻めるが、逆に会稽山で捕まり、忸(てかせ)、桎(あしかせ)をかけられ牢獄にいれられた。これを臣下の范蠡は魚屋になりすまし、魚の腹に手紙をいれて、獄中に放り込んだ。

   西伯はいう里(いうり)に囚われ
   重耳は(羽の下に隹)(てき)に走る
   皆以て王覇たり
   死を敵に許す事勿れ

 周の文王は〈いう里〉にとらわれ、晋の重耳は〈(羽の下に隹)〉に逃げた。しかし、二人とも後に天下を取った。あなたもこれで命を敵に与えないようにしてください。
 じつに、勾践は耐え、范蠡が身代わりになり、勾践は帰国する。この時の苦しさを忘れないため、苦い胆を嘗めてくらし(これが臥薪嘗胆の語源)、ついに呉の夫差を滅ぼすのである。

 呉越同舟、臥薪嘗胆、牛耳る、絶世の美女西施についてはあとがきで述べる。

 隠岐の島は、諸島になっており、島後の府島と、島前の西ノ島、中ノ島、知夫里島からなっていて、後鳥羽上皇のおられた西ノ島から、その北東の府島の周吉郡西郷町国分寺に行在所(あんざいしょ)がおかれ、ここにおられたわけであるが、後醍醐天皇は腐ることなく、府島で苦難に耐え、幕府方の佐々木富士名判官義綱を身方に引き入れ、彼の手引きで、1年後の1333年、3月24日に釣舟で隠岐の島をでられたのである。
 府島の西郷の港から、25日、船出し、出雲に到着後、伯耆(ほうき)の名和長年(長高)によって、船上山に迎えられた。ここより、全国に綸旨(りんじ)を出され、京に上る、車駕東上の議を決意される。

 足利尊氏

 1333年、4月に、幕府軍である足利高氏が、後醍醐を討つために、伯耆にむかう。そして、三河の矢矧(やはぎ)に到着したところで、高氏と一緒に朝廷をやぶるために京都入りした七千騎の名越高家が、赤松円心、千種忠顕の軍との久我縄手の戦で、佐用範家(さようのりいえ)という継早の者に射殺されたのを知る。
 昨年、高氏は、父の喪に服していたときに、無理矢理に幕府の北条高時が徴兵したことを怨みとしていたので、ここで、ついに、幕府を裏切り、海老名季行(えびなすえゆき)を船坂山につかわせて、後醍醐天皇方に帰順することを決意し、綸旨にしたがって、丹波篠村八幡宮社前で、旗揚げする。この綸旨は、太平記巻18、瓜生挙旗事に、亘里新左衛門(わたりしんざえもん)が、この密書を紙縒(こより)にして、髪の中に隠して京まで運んだ。

 京に入り、赤松円心とともに、逆に京都の六波羅を討った。4月7日には六波羅の北条探題仲時ほか430人は、光厳、後伏見、花園上皇とともに関東に下らんとするが、近江の番場峠でこれを塞がれ、麓の一向堂で、全員自決した。院は官軍により、伊吹山の太平護国寺に入られ、後日、帰洛される。

 同時に、東国には新田義貞が挙兵し、鎌倉を攻撃し、これで、1333年、6月、後醍醐天皇は京都御所に入られた。
 建武の中興である。源氏以前の朝廷政治が140年ぶりに戻ってきたのである。
 そして、足利高氏改め、後醍醐天皇の名の尊治親王の尊を頂戴し、尊氏となった。

 護良親王

 さて、護良親王の方は、1331年、元弘元年9月に後醍醐天皇が捕まったあと、般若寺で、櫃に隠れて難を逃れたのち、再起を期して、熊野にむかった。途中、十津川郷で、戸野兵衛、竹原八郎入道の世話になり、太平記は義経の静御前にみたてて、竹原の娘の滋子に一目惚れをする。

 ところが、芋瀬庄司という鎌倉方に襲われ、熊野三山にいくには、ここで、合戦して、芋瀬が勝ったことにしてくれなければ通せないといわれ、錦の御旗を手渡す。ここは義経記の安宅の関の勧進帳を読む弁慶に似ている。
 その後、村上義光が御旗を腕力で奪い返したことになっている。このように、太平記には義経記での義経奥州下りとそっくりに護良親王の熊野下りとしてえがかれている。ここでも、片岡八郎、武蔵房が登場する。

 吉野山の愛染宝塔に城を築き、立て籠もっていた護良親王は、翌年1332年3月に後醍醐天皇が隠岐にながされたことを知り、その後、隠岐から天皇の言葉が書き上げられた綸旨がとどけられ、武力強化しておくようにとの指示で護良親王も全国に令旨を発する。

 そして、吉野をくだって、隠岐の天皇の綸旨で、楠木正成に左衛門少尉の除目をつたえ、1332年、11月、護良親王は吉野で挙兵され、赤坂城を奪回し、金剛山の西の麓に千早城(千剣破城)を築いて、ここを根拠地とし、親王からは地方豪族に令旨をだされた。

 楠木正成は1333年には四天王寺で六波羅を撃退した。しかし、これに対抗して、80万と唐天竺にもない巨大勢力で、この時護良親王は高野山にのがれるが、この地も危うく、十津川をくだって、逃亡され、還俗され、吉野に向かうが、熊野別当定遍が賞金をだすおふれをだしている。

 1333年、6月、後醍醐天皇は京都に還幸し、ただちに天皇親政で、護良親王に征夷大将軍を任じ、記録所および雑訴決断所が設置され、縉紳には洞院実世、坊門清忠をおき、武人に楠木正成、名和長年を、守護、国司とし武蔵守に足利尊氏、相模守に足利直義、越後守に新田義貞、摂津守に楠木正成、伯耆守に名和長年がおかれた。
 6月7日には、後伏見上皇、花園上皇、永福門院は播磨の光厳院にうつられた。
 後醍醐天皇は大燈国師に帰依し、約3年間は京都御所ぐらしであるが、その後、尊氏の謀反となる。

 ここで、「龍馬;りゅうめ」進奏の話を挿入する。
 天皇親政の時、出雲の国の佐々木塩冶高貞というものが名馬、龍馬をさしだした。高さが四尺三寸あり、月毛で、走れば早く、出雲から76里の富田まで、11時間で走ってきたという。
 この龍馬に惚れ込んだ天皇は、藤原公賢に自慢げにはなすと、彼は、これは嘉瑞、舜の時代に鳳凰があらわれ、孔子の時代に麒麟があらわれ、周の穆王(ぼく)は八頭の天馬で、釈迦の西方、浄土をみられたという。これは皇位長久の知らせでしょうと祝言をのべた。

 万里小路藤房

 しかし、苦難をともにした万里小路藤房は、これは兇、周の穆王は房星(さそり座)が降って八頭になり、これを乗り回していて王室は傾き、漢の文帝は千里を走る馬を献じられたが、要なしとして、返却された。後漢の光武帝でも同様のことがあった。
 この龍馬は、人心をかきみだす房星の精の化身で有ろう。今の政道の悪化が原因であるから、不要、玩物の志をすて、仁政に心されよといって、忠諫した。
 しかし、聞き入れられず、藤房はここで、遁世する。

 足利尊氏が叛いた時、新田義貞を尾張から呼び寄せるための早馬をだした。引他九郎がこの龍馬に乗って出かけた。ところが、龍馬は途中で急病で死んでしまった。
 戦乱が起こったら使者を乗せるために使うことになりましょう、と言った藤房の予言はあたった。藤房を後醍醐は探すが、行方不明のまま、再会することはなかった。

 建武の中興と護良親王の幽閉

 このように、楠木、護良親王(大塔宮)らの活躍があっての建武の中興にもかかわらず、戦後処理、戦勝金は、はかばかしくなく、不平、不満が多くでているのに、後醍醐天皇の紊乱な政治になっていく。これは、足利尊氏の戦略と考えられる。

 1334年10月22日、大塔宮護良親王は突然、和歌の会に呼ばれ、御所に出向いたとき、結城親光と名和長年の二人が跳梁し、親王は、取り押さえられ、馬場殿に拘禁された。のちに鎌倉まで護送され、鎌倉の東光寺の土蔵に幽閉されてしまう。

 1335年、建武2年、6月、関東申次の役目の西園寺公宗が、北条の残党、高時の弟泰家と伴に、後醍醐天皇を西園寺山荘、鹿苑寺に招き、殺害を計画し、あげくに後伏見法皇を擁立して、新帝で朝廷を覆す謀略であったが、弟の西園寺公重の密告で発覚し、共犯の日野氏光とともに逮捕され、出雲にながされ、当地で名和長年に処刑された。現職の公家が処刑されるのは、1159年の平治の乱以来である。

 中先代の乱

 1335年、7月、中先代の乱といわれ、鎌倉幕府の残党で信濃の北条時行が鎌倉に入る。これで、鎌倉に警固役で入っていた足利直義(尊氏の弟)は、淵野辺位伊賀守義博に親王を殺傷するように命令し、約10ヶ月間の牢中の大塔宮護良親王は、胸を一突きされ、首をはねられ、28歳で死去。皇族、親王が臣下の手で殺害されたのである。直義らは三河に逃走する。
 太平記の巻十三の、中先代蜂起の事、兵部卿宮薨御の事。

 建武の中興で最も勲等のあった立役者が、拉致、殺害された。これは、後醍醐天皇の戦利恩賞の紊乱につけこむ足利尊氏の謀略で、護良親王を陥れて、天皇の羽翼を殺ぎ落すことにより、結果的に尊氏自身の征夷大将軍への野望が一歩進めらたのである。

 そして、10月、尊氏は直義をともなって鎌倉に向かい、後醍醐天皇の召還を無視して、鎌倉に留まり、ここに第を於き、11月に尊氏の命で、直義が新田義貞を討伐を計画し、朝廷は義貞に尊氏討伐の命をだすが、盛り返し12月には箱根竹ノ下で足利軍が義貞を敗る。義貞は逃れ、朝廷軍の北畠顕家が陸奥より、尊氏討伐に西下する。

 1336年2月には尊氏軍は敗れ、摂津で楠木、新田軍に敗れ、九州まで、落ち延びる。しかし、尊氏は菊池、一色を破り、再び、東上し、5月には兵庫湊川で、楠木正成を破る。そして、後醍醐の綸旨にそった武士集団は、新田以外を、すべて滅ぼした。

 楠父子訣別

 1336年2月に尊氏が九州に下るが、その後、上京に対し、朝廷側の楠木正成が動く。5月16日、楠木正成は山崎の桜井の駅で、子の正行と今生の別れとさとり、足利と最後まで戦えといって、正成は湊川に向かい、子正行は河内、金剛山にもどる。
 太平記の名場面で、楠父子訣別の所。巻16、正成兵庫に下向の事。

 桜井の宿にて、11歳の正行に、泣く泣く申し含めて、庭訓を残しけるは、「獅子、子を産んで三日を経る時、数千丈の石壁よりこれを投ぐ。その子、獅子の機分あれば、教へざるに宙より跳ね返りて、死する事をえずといへり。
 いはんや、なんぢ、すでに十歳に余りぬ。一言耳に留まらば、わが教誡に違ふ事なかれ。正成すでに討死すと聞きなば、天下はかならず将軍(尊氏)の代に成りぬと心うべし。しかりといへども、一端の身命を助からんために、多年の忠烈を失って降人に出づる事あるべからず。金剛山の辺に引き籠つて、敵を矢さきに懸けり。これ、義を紀信が忠に比すべし。これをなんぢが第一の孝行ならんずる。」、と。

 1336年、延元元年8月に尊氏の奏請で光明天皇をたて、11月に後醍醐天皇が神器をわたされ、吉野にうつられ、尊氏は征夷大将軍として、建武式目を発表し、室町幕府が成立させた。尊氏は北朝を担ぎだしての、天下取りで、後醍醐院の座は剥奪である。室町幕府の執事を高師直がおこなう。直義は鎌倉で政務をおこなうこととなった。

 1336年12月21日、北畠親房の案で、隠岐より還御され、僅か3年で、後醍醐天皇は吉野に遷られ、行宮を金峰山寺にさだめ、南朝を成立されたのである。そして、3年後に薨去されるのである。

 1337年、3月尊氏の謀略で、金崎城をせめ、尊良親王竟自害され、新田義貞は逃亡し、恒良親王は捕らえられる。6月には尊氏は、堺と吉野の交通を遮断し、後醍醐天皇の南朝は孤立化していく。

 1338年、高師直は北畠顕家の摂津をせめ、ついに顕家は戦死。7月、新田義貞は斯波高経に敗れ越前で戦死。8月、足利尊氏が光明天皇を擁立で、尊氏が北朝から征夷大将軍に任命される。9月には義良親王は、伊勢大湊から船で、陸奥にむかうが、遭難し、伊勢にもどられ、宗良は遠州に、親房は常陸につく。南朝側は懐良親王を征西将軍として、九州に派遣し、結城親朝に協力をもとめるが、拒否される。

 後醍醐の死

 竟に、1339年、延元4年、8月16日、尊治親王(たかはる)の英邁剛毅なる精神は毫も屈し給わざるのみならず、王政復古の御決心は堅く、万死を冒しての、その不撓不屈の精神は、皇室の淵源となるが、52歳で、吉野金輪王寺(実城院、実成院)で、北轅ならず、崩御され、諡を後醍醐天皇とされたのである。

 南朝朝廷は、後醍醐天皇の薨去に際して特別の葬儀はおこなっておらず、むしろ、尊氏は、直義とともに、丁重に七七日の仏事を修め、さらに天竜寺を開設し、後醍醐天皇の追善を行った。
 この天竜寺の管理費を、元との天竜寺船での貿易費で賄っていく。

 前日には義良親王が、12歳で、南朝第97代後村上天皇に即位されたが、北畠親房が万機を裁すべきであったが、常陸と遠い。そこで、御若年の天皇の御教育書として、ただちに、『神皇正統記』、『職原鈔』の二書を吉野に進め、洞院実世、四条隆資が軍事を掌ったのである。そして、後村上天皇は1368年まで、39年間という長い在位期間で、次の長慶天皇まで、南朝を牽引されたのである。

 南北朝合一

 北朝は光厳天皇から光明天皇にうつったのは1336年で、その後、1391年、明徳3年、足利義満の時代の第100代後小松天皇で、南北朝合一となり、南朝の第99代後亀山天皇は即位10年で神器を返還され退位された。経済的破綻が原因であり、京都へは数十名の供奉者という侘びしい行幸であった。この間、北朝は光厳、光明、崇光、後光厳、後円融と五代を輩出するのである。

 しかし、1350年、南北朝時代の中間時期に、室町幕府内の権力闘争で、観応の擾乱、1351年、正平6年(南朝)=観応2年(北朝)、11月、尊氏は南朝に降伏し、南朝に正平一統で天皇、皇太子、年号の廃止が検討されるが、1352年2月には一統は崩れる。この後の6年間には足利尊氏の親族内と執事の間の争い絶えない。

 1348年、正平3年、生駒の北端の飯盛山の西側で、高師直の軍勢が三千の南朝方楠木正行勢は完勝した。四条畷の戦いである。足利直冬(尊氏の子、直義の養子)が中国探題となり、備後にむかう。

 1352年、直義が一気に天下とりを仕組んでいるとみられ、南朝から尊氏、義詮(よしあきら)に直義を討つように命をうけ、鎌倉まで逃げていた直義を2月、足利尊氏自身が討伐に出て、彼を毒殺する。1355年、懐良親王が一色をせめる。1357年、尊氏は九州親征を計画する。8月には倭寇が高麗を攻める。

 尊氏の死

 とうとう、1358年、延文3年4月に尊氏は、京都万里小路の館で、背中の癰(よう)が悪化し、倉公、華陀らの外科手術、薬も奏効せず、陰陽頭、有験の高僧の祈祷、様々の懇祈したが、29日寅の刻、春秋54歳で、急死した。
 天下を牛耳った、強靱な体力、知力の最後はいかにも、あっけない。
 太平記巻三十三の将軍御逝去の事。
 5月に倭寇が高麗を攻める。2代将軍に義詮が就く。

 南北朝は戦前は吉野朝時代といわれたが、この時代、すなわち1333年から1391年までの58年間をいうが、これ以降の日本はさらに混乱の室町時代、戦国時代に入っていく。

 1398年、室町幕府の第3代将軍足利義満が、政治で三管領をきめ、斯波、細川、畠山の三家で交替でおこなっていき、四職として、山名、一色、赤松、京極をおいた。

 1434年、6代足利義教将軍の弾圧を受け、能、猿楽師の世阿弥(1363-1443)が、佐渡に流されている。

 1464年、第102代後花園天皇は出家され、後土御門天皇が即位され、第8代義政の時、将軍職継続で、山名と細川の間で、闘争になり、ついに、京都全土を戦乱と化してしまう。

 1464年、高野山では実質経営していた行人たちの間で、懸銭の問題が拗れて学侶方とと行人方の合戦がおこる。

 1467年5月の山名・細川の京都での戦争、応仁の乱が起こり、終結を見ないまま、戦国時代に入っていき、秀吉の天下統一まで、混迷化、下克上の時代に突入するのである。

 戦国時代の高野山

 1521年、永正18年、1630年、寛永7年、1843年、天保14年に落雷により伽藍焼失している。

 1553年に上杉謙信が高野山に参詣し、無量光院の清胤に帰依し、綜芸種子院式を贈った。
 1560年には、武田信玄が、成慶院と宿坊契約している。

 1580年、天正8年、織田信長に反論した荒木村重はひとり、妻も家臣も捨て、にげてしまったため、家臣たちは高野山に助けをもとめたが、信長はこれを許さず、高野山攻めを決行。堺奉行松井友閑が高野山にはいり、僧徒1,383名を生け捕りにし、安土城外、京七条河原で惨殺された。しかし、本能寺の変で、かろうじて、比叡山とともに高野山も難をのがれた。

 1584年の秀吉と家康・信雄の小牧・長久手の戦では、家康が紀州根来寺の衆鉄砲隊を味方にいれての戦であった。根来寺は紀州の真言宗寺で、室町時代に創建されているが、信長の時代から鉄砲集団となっており、信長の味方であったものが、この戦が終結しても、根来衆の勢力は河内にまで広がる一方であったので、秀吉は根来衆総崩しにかかる。

 1585年、天正13年、根来衆は高野山に逃げ込んだため、これを討つために、秀吉軍は高野山にはいり、増田長盛が根来の津田堅監物を討ち、根来は降参する。応其(おうご)
上人(木食応其、興山上人、高山上人)が交渉係りとなり、寺領を返納し、高野切本古今集の一幅を寄進したため、秀吉の許しが出ている。

 1593年には大政所天瑞寺殿の墓を天瑞而に青巖寺を建立した。

 1595年、文禄4年、7月15日、豊臣秀次が謀反の冤罪で高野入りの命をうけ、青巖寺、今の金剛峯寺で自害となった。享年28歳。

 近世封建時代と高野山

 徳川家は、高野山の蓮花院と師壇関係をむすんでいたため、この院が菩提寺になっている。そして、江戸時代には民衆の各大名が高野山に墓石をもとめた。

 1830年、天保14年と、1860年、万延元年に 火災をおこしている。

 明治以降、廃仏毀釈と学侶、行人、聖の三派が廃止され、明治2年に清巖寺が金剛峯寺に改名され、ながきにわたり蓄積された文化遺産から「山の正倉院」と称される。

 2006年8月には、高野山真言宗総本山金剛峯寺第412世座主に松長有慶大僧正が就かれた。

 東寺について

 東寺は第50代桓武天皇の794年に創建され、第52代嵯峨天皇の823年空海に下賜された。第91代後宇多天皇の神護をうけ、第96代後醍醐天皇は隠岐から、京都に入られた時には、この東寺から還御の第一声をあげられた。その後、京都の六波羅を討つときの拠点地、東寺であった。

 足利尊氏、織田信長が本陣として利用していたし、秀吉には保護され、家光からは五重塔が建設された。

 金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅は、絹本著色で、180cm×で、各菩薩、如来が完全に判定でき、色彩も平安時代のまま、曼荼羅が完品で残されている。

 あとがき

 義を見て為さざるは

 児島高徳の云った、義を見て為さざるは勇なきなりは、論語の為政篇からの、荳所謂見義不為無勇者邪、から引用しているが、しかし、もとは、史記の管晏列伝にも登場する晏嬰の話からきている。

 春秋時代の斉の大臣晏嬰(あんえい)は、霊公、荘公、景公の三君に仕え、節倹、力行の人である。

 荘公は、太子に光をたてていたが、妾腹の牙に変更した。そして、荘公は権臣崔杼(さいちょ)の妻にも手をつけたので、これに憤慨した崔杼は、自宅で、荘公を殺害した。

 大臣晏嬰は、ただちに崔杼の邸にかけつけ、「わが君が国家のために殺されたのならば私も供に死にましょう。わが君が国家のために逃亡されたのならば私も供に逃げましょう。しかし、わが君が私欲のために殺されたのならば、個人的に親しくしていただいた者でもない限り、誰がお供できようか。」といって、荘公の屍に膝を乗せて哭泣し、三踊(さんよう;三度じだんだを踏んで哀悼を表す)の礼をして退出した。
 他の者が、なぜ、崔杼をころさなかったのかときかれ、晏嬰は「彼は人望の篤い男だから」といったという。

 さらに、景公の時代には、右大臣に崔杼、左大臣に慶封がなり、彼等は味方しないものは死刑にするというお触れをだした。晏嬰は、これを嘆き、「私は、国家のために働くもののみに従う」といって、彼等にはしたがわなかった。慶封は晏嬰を殺そうとするが、崔杼が止めにはいり、忠臣であるので、許すように指示をだした。しかし、その後、崔杼は慶封にころされ、慶封は斉の有力者に殺されてしまった。

 さらに、晏嬰は晋の田氏による支配を予言し、囚人の越石父を助けたが、絶交をいいわたされた。「君子は己を知らざるものに屈して、己を知る者に信ぶ」と、自分を信じてもらえる人に仕えると越石父は志をのべたので、晏嬰はかれを優遇した。

 司馬遷は、史記の管晏列伝で、この晏嬰を「義を見て為さざるは勇なきなり、進みては忠を尽くさんと思い、退きては過ちを補わんと思う」と語っている。そして、景公が孔子を大臣に選ぼうとしたとき晏嬰は、これを拒否している。

 臥薪嘗胆

 臥薪嘗胆とは、薪の上に臥し、苦い胆をなめる、事を成しとげるために、わが身を苦しめ、辛い苦労に耐える事のたとえ。
 この熟語では登場人物は二人である。ひとりは呉の夫差で、もうひとりは敵の越の勾践。

 呉の王の闔閭(こうりょ)は越の勇将霊姑浮の槍で、足の親指を刺され、これを抜き取りにげるが、ここから化膿して、敗血症となり死亡する。この時、子の夫差に「越の勾践がおまえの父親を殺したことを忘れるでないぞ」と遺言した。夫差は、この怨みをわすれないように、寝るときも、床に薪を敷き、憎悪と復讐の執念を継続させていた。これが臥薪。

 この気合いが功を制し、夫差は会稽山で、越を破り、越の王勾践を生け捕りにし、てかせ、足かせをかけて、投獄させる。
 その弟子の范蠡は自ら、身代わりになり勾践を救うが、勾践、は、この投獄の苦しみを忘れないように、苦い胆汁を嘗めながら復讐策を練ったのである。その後、弟子の種がいうように、傾国の美人西施をおくりこみ、呉を崩壊させた。これが、嘗胆である。

 呉越同舟

 出典は孫子からで、仲の悪いもの同士が、同一の場所・境遇にならび立っていることをいう。呉と越は仇敵同士で、仮に呉人と越人が同じ舟に乗り合わせ川をわたるとき、強風で今にも舟が転覆しそうになれば、敵対心を忘れて仕舞い、お互いに助け合って危機を乗り越えようとするものだという。兵法の孫子は、兵は死地におかれても、呉越同舟、兵の心を一つに固めることが重要だと説いている。

 牛耳る

 もとは、左氏伝の哀公十七年からのことばで、春秋時代の諸侯が同盟を結ぶとき、盟主が牛の耳をそぎ落とし、皆で、その血を吸って同盟、忠誠を誓いあったことをいうが、いまは、これを転じて、組織をおもうがままに動かす立場をいう。

 西施

 李白の楽府に「烏棲曲」という唐詩があり、時計、漏刻のところでも引用したが、西施が登場する。

     姑蘇台上烏棲時  呉王宮裏酔西施
   呉歌楚舞歓未畢  青山欲衡半邊日
   銀箭金壺漏水多  起看秋月墜江波
     東方漸高奈楽何

 芭蕉の奥くの細道の鳥海山、象潟(ひさかた)で、

   象潟や雨に西施の合歓(ねぶ)の花  という俳句がある。

 支那の古きから、その『史記』の「萬石張淑列伝」により、「漢の高祖、萬石君のその姉を召して、美人となす」と、されており、女官の等は14にわけられていた。その等は、昭儀、(睫の扁が女)好、美娥、榕華、美人、八子、充依、七子、良人、長使、少使、五官、順常、無涓とわかれ、
 楊貴妃にみられる唐代の女官は、19にわかれていた。貴妃、淑妃、徳妃、賢妃、昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛、(睫の扁が女)好、美人、才人、宝林、御女、采女をいう。

 項羽の愛したのは女官は虞美人といわれ、劉邦に追い込まれ、さすがの抜山蓋世と勇壮気概の項羽も四面楚歌の状態で、最期に、虞美人に一舞させて、終わるや彼女は項羽の剣を奪い自刃(じじん)する。項羽は、あしげの駿馬の騅に跨り、一端、にげるが、烏江で刎死(ふんし)する。虞美人の墓には美しい花が咲き誇ったといわれ、これを名づけて虞美人草といい、麗春花、仙人草ともいう雛罌粟(ひなげし)、ポピー、芥子、けし、である。

 中国の絶世の美女は四人で、西施(せいし;呉の人)、王昭君(おうしょうくん;匈奴の人)、貂嬋(ちょうせん;後漢の人)、楊貴妃(ようきひ;唐)で、西施以外は、いずれの美人にも悲劇がまちうけている。
 夏目漱石の虞美人草は、これからとっている。私は、小説はくだらないので読まないが、比叡に山登りする時からはじまることだけを示しておく。

 王昭君は、匈奴に漢から嫁に出されるとき、漢の元帝が宮殿に仕えるもっとも醜い女を差し出すつもりで、似顔絵師に女の絵を描くように指示した。この中から、元帝は絶世の美女であるはずの王昭君を撰んでしまった。これは、悪臣下から賄賂をもらってた似顔絵師は、美人を醜くえがいていたので、美人の王昭君を匈奴に差し出す羽目になってしまったのである。

 貂嬋は、三国志のなかにでてくる、連関の計、董卓と呂布との三角関係で、呂布が董卓、を殺害し、貂嬋を手にいれるが、ついで、呂布が関羽に敗れ、最終に関羽が貂嬋を抱え込む。しかし、あまりの美人に、関羽の心の動揺が激しくなるので彼女を殺害する。

 楊貴妃は、牡丹、ライチを愛し、玄宗帝の寵愛をうけるが、溺愛で傾国の美女といわれ、安史の乱で長安をはなれ、縊死する。

 さて、西施は、越の勾践が、呉を傾国させる目的で、夫差に、この美人をおくりこむ。夫差は案の定この策にはまり、美人の西施を溺愛し、政治を忘れてしまう。このスキを狙って、勾践は強国呉を破滅に追い込み、夫差は自害した。
 このあと、西施は范蠡の妻となり幸せな人生を送ったといわれる。これらのことは史記にはかかれていないが、呉越春秋の勾践陰謀外伝にかきこまれている。

 十二年、越王謂大夫種曰、孤聞呉王淫而好色、惑乳(さんずいに冗)湎、不領政事。因此而謀、可乎。越王曰、可破。得芋蘿山鬻薪之女、曰西施、鄭旦。

 傾国の美人は、西施のほかに、妹喜(ばっき)、妲己(だっき)、褒(ほうじ)、驪姫(りき)
などがいた。支那美人には、ほかに、卓文君、(女に亘)娥、織女、飛燕、真真、聶榮などがいた。

 顰みに倣う

 また、西施には、顰(ひそ)みに倣(なら)う、という格言がのこされている。顰みとは、まゆをひそめることである。

 西施には持病の癪があり、普段から、胸をさすり、眉をひそめることがあり、この動作がいかにも悲壮感をともなっていたので、男は心がときめき、惑わされ、魅了されてしまう。
 これを醜い女が、真似をして、男を誘惑することが流行った。
 美人の西施であったから、男は惑わされるのであるが、醜い女に同じ仕草をされても、男の気持ちは動かない。このような女心を、顰(ひそ)みに倣(なら)うといい、今の女優の髪型や服装を真似る女心をいうのである。最近は男も顰(ひそ)みに倣(なら)うという傾向があるのか。

 史記から発生した格言、熟語の多くは人生訓として、ためになる言葉が豊富であるが、いずれ総括し、まとめて公表したい。

 楠公のミステリー

 ミステリーというほど大袈裟なことではないが、日露戦争の乃木大将は楠公を崇敬する念、頗る篤く、楠公精神に学ばんとして、様々な遺書を漁り、研究しておられた。
 どの時代か不明であるが、『楠公兵法書』の写本を手にいれて、これを医師井上哲次に紹介している。

 将軍が怪我で赤十字病院に入院中、井上が見舞った時、さらに、赤松円心筆の『楠公遺書』二巻をみせている。また、小笠原長生子爵にもこれをみせ、これは末松子爵からの借用品で、もとは伊藤公の所有物であるとのべており、小笠原子爵はこれを借りて、海軍水交社記事に掲載したという。

 佐伯仲蔵氏によると、明治31年の大阪での大演習の時、河内郡の深瀬郡長から、ある寺に、『楠公兵法書』が所蔵されているときき、乃木は、これを披見するとき、先ず水を汲みて手を浄め、口を漱ぎ、頭髪を洗い、恭しく稽首再拝して拝観されたという。

 この楠公兵法書、楠公遺書が、現在、のこされているのか、行方不明である。もしかしたならば、神戸の湊川神社にのこっているか、大戦戦禍で焼失したか、米軍に没収されたか、そこがミステリーである。

 また、伊豆凡夫少将の発起で、桜井に楠公の碑建立計画をたて、乃木将軍に揮毫を願ったが、拒否された。
 「楠公は我国無双の忠臣である。斯かる尊き遺跡に自分如きものが筆を染めるは僭越の沙汰である。他の遙に立派な人にたのむように」と拒否されたが、伊豆は、じつは小碑が草叢に埋没している。これは英国人パークスが立てたもので、パークスは、日本人は曾ての楠木正成、正行を尊敬しながら、その遺跡のある桜井の駅は草叢化しているので、小さいが記念のために碑を立てたという。

 伊豆は、より大きな碑の建立の必要性を説き、この現実をきいた乃木は、尊敬している楠公のこともあって、それも外人に、日本人が楠公を粗末にしていると指摘しているとのこともあり、揮毫することにし、「楠公父子訣別之所」と大書した。
 そして、数日後、字のあやまりがあったので、これと差し替えて欲しいとの連絡が伊豆にはいった。その訂正とは楠公の公の字の冠は八と書くのが正しく、ハではないとのことであった。几帳面な乃木の一端を覗き見できる逸話である。

 この碑は、大阪府三島郡島本町桜井1-3の桜井の駅跡という場所にあり、楠の木立ちの中に巍然と聳えている。 
 当地は東から、淀川、阪急京都線、JR東海道本線、名神高速道路が斜走しており、阪急の水無瀬駅と東海道本線の間にある山崎の盆地で、パークス、乃木の碑のほかに、東郷元帥筆の明治天皇製歌の碑がある。

   子わかれの 松のしづくに袖ぬれて 昔をしのぶ 桜井の里

 また、近衛文麿公爵書の「滅私奉公」の碑があるが、セメントでつくられているため、台上の父子像の傷みが激しい。

 さらに、乃木将軍は欧州からの帰途、敦賀に上陸し、東京にむかう予定であったが、金ヶ崎神社に参拝したいと、旅団長の久能少将に希望をのべられた。汽車の時刻がないので、断ったが、どうしてもといわれ、駅より北の海岸線の社まで、人力車でとばし、神官に拝殿をたのみ、尊良親王、恒良親王、後醍醐天皇、新田義貞を偲ばれて、急遽、敦賀駅にもどってこられたが、汽車がおくれていたので、漸く、間に合ったという。

 楠公の忠誠を讃えて、頼山陽は漢詩をつくっているのでこれを披露して畢竟とする。

  楠公子に別るるの図    山陽詩鈔・七絶

   海甸陰風草木腥   海甸(かいでん)の陰風草木腥(なまぐさ)し
   史編特筆姓名馨   史編特筆姓名馨(かんば)し
   一腔熱血存余瀝   一腔の熱血、余瀝を存し
   分与児曹灑賊庭   児曹に分与し、賊庭に灑(そそがし)む

 足利と世阿弥

 南北朝の争乱が下火になり、室町幕府の基礎が固められた頃、大和、近江、近畿一円に存在していた田楽、猿楽(さるごう)の歌舞が、能、狂言に生育、発展してくる。
 大和の多武峰近辺で山田猿楽をおこなっていた観阿弥(1333-1384)が台頭し、結崎座を組織し、旋律主体の猿楽に拍子も組み入れ、リズムと旋律の音曲として、謡を発展させ、京でもてはやされたのである。

 観阿弥(かんなみ)、世阿弥(ぜあみ)、善阿弥(ぜんなみ)、能阿弥(のうあみ)など、この期の能、茶の道を究めた人に阿弥号がおおい。これは、南無阿弥陀仏の真ん中の阿弥をとっている。
 これは、つまり、出家の僧でもなく、俗人でもない、中間的職業で、芸術家ではあるが、僧のように剃髪し、世俗のことを忘れて、一つの芸に身を献げ、なげうつ心で、修行することが肝要であるために、この号がうまれたと考えられている。これは、桑田忠親氏の『茶道の歴史』に見られる。

 第3代足利義満(1358-1408)は、11歳で将軍についているが、1382年、永徳2年に北朝の第5代後円融天皇が後小松に譲位され、10年後の1392年、明徳3年、南北朝合一で、第100代後小松天皇が日本国王になられた。しかし、義満の実権は強化され、1402年、応永9年、明の使いが訪れたときには、日本国王は、44歳の義満とされていた。

 義満は北山に金閣寺を建立し、茶、能を嗜み、これを胚胎させてきた。晩年に、北山第に、世阿弥(1363-1443)を招き、猿楽を楽しみ、ついに1408年、応永15年3月8日には後小松天皇の行幸で、天覧能を催したが、日本国王の義満は其の年の5月6日に死去。

 能の世阿弥は1363年、貞治2年に生まれ、南北朝中期で、12歳の時、京都の今熊野でデビューしており、義満が18歳の世阿弥の猿楽(さるごう)を観覧し、以後、義満の絶大な庇護を受ける。

 世阿弥は、近江の猿楽の犬王の面白き能から、歌舞中心の能に変えていった。
 その後、応永15年義満死後、後嗣の義持は父、義満が自分を冷遇したことから、悉く、方針を変更し、猿楽より田楽を後援した。しかし、義持も死亡し、弟の義教が還俗し、将軍につくと、世阿弥の弟の四郎の子、甥の元重をひいきにした。

 世阿弥は後継者として、もっとも非凡で、『隅田川』、『盛久』の作者の長男の元雅をおしていたが、伊勢で客死してしまい、次男の元能は出家してしまった。
 義教の強引な方針で、観世大夫(棟梁)に、元重がついだが、義教の怒りはおさまらず、1434年、永享6年、71歳の世阿弥は佐渡へ流罪となってしまったのである。
 世阿弥の死の年は、1443年とされているが、どの地でなくなったのか不明である。

 茶道(ちゃどう)のほうにも能阿弥がいて、南北朝時代からでて、連歌の会、猿楽、庭師とともに茶会がひらかれるようになるが、武士のなかにも茶人同朋がいる。
 武士仲間には余り評判はよくないが、群飲迭遊、遊侠、バサラ大名の佐々木佐渡判官入道道誉が、その人で、1350年ごろ彼が、床の間、違い棚の書院飾りを考案したとされている。道誉に関する話は太平記の巻三十二以降に頻回に登場する。

 文献

1) 岩佐正、 『新葉和歌集』、昭和15年、岩波文庫、1940年
2) 永峯清成、『怨みの皇子たち』、昭和63年、新人物往来社、1988年
3) 田中義成、『南北朝時代史』、昭和54年、講談社文庫、1979年
4) 和田英松、『増鏡』、昭和6年、岩波文庫、1931年
5) 山下宏明、『太平記』、昭和52年、新潮日本古典集成、1977年
6) 藤田恒春、『豊臣秀次の研究』、平成15年、文献出版、2003年
7) 渡部昇一、『甦る日本史』、平成11年、PHP、1999年
8) 陳舜臣、 『小説十八史略』、平成4年、講談社、1992年
9) 趙曄、  『呉越春秋』、平成11年、江蘇古籍出版、1999年(中国版)
10) 青木五郎、『史記の辞典』、平成11年、岩波書店、1999年
11) 宮崎市定、『史記を語る』、平成8年、岩波文庫、1996年
12) 飯塚朗、 『中国故事』、昭和49年、角川書店、1974年
13) 長谷川正道、『敬仰乃木将軍』、昭和17年、宮越太陽堂、1942年
14) 桑田忠親、『茶道の歴史』、昭和62年、講談社、1987年

   

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