はじめに

 平成16年度の日本男子平均寿命は78.64歳、女性85.59歳、一方、出産率が減少し、人口は減少しはじめた。

 2006年、平成18年4月から、社会福祉の方策が大きく変り、障害者が小泉政治の構造改革の生け贄になってしまった。
 この障害者の法律は2004年頃から検討されていたが、2005年9月、郵政法とともに廃案扱いになっていたもので、小泉チルドレン選挙で、大勝利をおさめた小泉が、その12月に急遽成立させた法案である。これを障害者自立支援法という。

 『厚生の指標・国民の福祉の動向 2005年版』を参考にすると、平成17年度の社会福祉関連の国家予算は20兆8千億円に達しており、前年度の3.1%増で、全国家予算の25.3% をしめていた。これを各市町村での施策とし、身体障害福祉法、精神障害者福祉法、知的障害者福祉法、児童福祉法を統括して、介護サービスをおこない、本人も1割、負担を支払う方法に変更したのである。

 小泉氏に大和魂がみられるのか。靖国神社参拝も政治思想としては貧弱である。日本を守っていただいた魂柱に感謝し、参拝することと、国際感覚を基に日本の社会を治める大和魂とが同一の座での想念の問題とされねばならない。これは違う問題だという小泉氏の大脳の思念は、支離滅裂、バラバラである証拠だ。

 人間の行動と思想、則ち小宇宙と大宇宙、無明と光明、小我と大我の世界は一致していることが望ましい。真の大和魂があれば、他国から多くの批判をうけるような靖国参拝の行動はえらばないと想える。
 このような想念の持ち主が総理となり、そのチルドレンたちがでっちあげた政策への評価は不可である。でたらめ政策をつくりだすことが構造改革の結論で、その悪法にしばられて、日本人は苦難の道を歩み続けねばならないのである。
 将来の日本に幸福論は存在しない構造をつくってしまったのである。

 6月15日、青戸病院前立腺癌殺人事件では、長谷川、斑目、前田医師三人とも殺人罪有罪で、禁固2年6ヶ月執行猶予5年の求刑したことを東京地裁は発表した。

 6月20日に、イラン自衛隊派遣は中止となった。しかし、北朝鮮からミサイルテポドン2号の発射が騒がれ、そして、7月5日未明から7発が発射され、日本海100キロ沖に落下した模様。

 秋田県能代市藤里町の女性畠山鈴香が豪憲君7歳を殺害した事件では、その動機が問題となっている。7月についても不明で、発作的犯行ということである。

 6月20日には、山口県の本村洋氏の1999年4月の妻子殺害事件で、最高裁が無期懲役を山口地裁に差し戻しの判決を出した。本村氏は当時未成年者の被告には死刑しかないとの確信で、上訴されていたもので、事件後7年たっているが、また裁判判決まで、8年はかかるだろう。

 村上ファンドのインサイダー取引は有罪となり、これと関連していた福井俊彦日銀総裁の株儲けが発覚。

 ドイツでのワールドカップで、ジーコ・ジャパンが敗退し、7月4日に、中田英寿が29歳という若さで、引退を表明した。優勝決定戦は7月6日、フランス、イタリアの間でおこなわれ、フランスがチャンピオンになった。
 さらに不景気な話が続き、7月になっても、天候の方も不景気で、梅雨明けはいつになることやら。気候も、政治も、経済も、スポーツも、はやく梅雨明けして、カラと晴ればれとした國風を迎えたいものである。

 さて、大和魂という言葉が、『源氏物語』に出ていたのを知ったわけだが、島国日本は攻められると、人々は、突然、目がさめたように大和魂を呼び熾す。

 日本が攻められのは過去4回で、刀伊の入冠と、蒙古の襲来と、幕末夷人来航での開国と、太平洋戦争である。
 全土が壊滅状態になったことはないが、太平洋戦争敗戦の進駐軍による日本支配は、史上最悪で、ほぼ壊滅状態に近かかった。

 日本が一丸となって国外で戦ったのは、三韓征伐、白村江の戦い、秀吉の朝鮮派兵、日清、日露戦争、第二次世界大戦の6回で、この中で、大和魂が正しく評価され、戦に勝ったのは神功皇后の三韓と元寇と日露戦争の3回である。

 今回は、日蓮と元寇をとりあげる。

日蓮と大和魂

 昭和47年、1972年は日蓮生誕750年をむかえ、1982年、昭和57年は、没後700年で、生誕800年を2022年に、没後750年を2032年に迎える。

 鎌倉時代は三期に分けられる。それは、第一期は源頼朝(1147-1199)が、1185年に幕府を鎌倉においた時から、承久の乱の1221年までで、第二期は承久の乱後から北條泰時の貞永式目の制定の1232年をへて、蒙古襲来の直前までで、第三期は、弘安の蒙古襲来1281年から北条高時が滅亡する1333年とされる。
 日蓮の活躍は、その第二期、鎌倉中期にあたる。

 日蓮(1222-1282)は法華経を国の政治、精神、大和魂の柱とすべきであると法華宗を弘教した。この経典をひろめるだけでなく、同時に他宗を強烈に謗法(ほうぼう)として、排斥したのである。この点が、自身が迫害、法難を受ける原因で、自ら作り上げた法華宗のみが正法という強い信念で、政治、國、一般衆生にこれを求め、強引なまでの説法に、周りは戸惑うばかりか、自らの身も危なくなり、日蓮をこの世から消滅させようという迫害行為を受けてしまうのである。自ら撒いた種である。しかし、この信念は崩れない。

 日蓮には六僧の弟子がおり、入寂後も、この弟子たちが布教につとめ、これがいまだに、2006年現在にも、その法燈は消えることなく、逆にさらに、きらめきを強め、光り続けて800年になろうとしているのである。

 身延山久遠寺を本山とした日蓮宗、日興の大石寺(たいせきじ)を本山とした日蓮正宗、京都の宥清寺の本門仏立宗、田中智学創立の國柱会、藤井日達創立の日本山妙法寺、久保角太郎、小谷キミ創立の霊友会、庭野日敬、長沼妙佼創立の立正佼成会、牧口富三郎創立の創価学会など、約50派以上に達し、日本の信徒戸は750万世帯で、全国民の20%以上で、公明党として、政治政党まで作り上げられ、これが大活躍している。まさに日本近代史上の奇観である。

 世には従わず、天下の反抗を事ともせず、堅く自己の所信を貫き、大才大器で、堅忍不抜のところを宜しく看取なして、法華の一宗を守り抜く、鬼神。その大和魂をみてみたい。

出 自

 日蓮は、承久の乱のあった翌年の1222年、承久4年、釈迦の涅槃の日と伝えられる次日、2月16日に、千葉県鴨川市天津小湊(安房国長狭郡東條郷市河片海小湊;あわのくにおがさごうり)でうまれた。千葉房総の漁民から、闘争的思想家がうまれたことを不可思議におもっていたが、じつは、藤原氏を祖とする祖父の貫名四郎政直は、遠江国山名郡貫名に領居しており、前執権北条時政のとき、原因ははっきりしないが、1204年、建仁3年5月7日、家禄没収のうえ、安房に流罪になっている。
 その子の貫名次郎重忠と、梅菊の間にできた子が日蓮であるとされている。

 このことは、明治27年、少年むけの読本として、幸田露伴が著した『日蓮上人』にでていた。誕生日については『法華本門宗要鈔』下巻にでている。
 したがって、日蓮の出自について、賤民説、武家説、公家説、皇胤説、荘官説、権守説、文筆官僚説、豪族説などがあるが、豪族説をとりたい。
 幸田露伴は、この書末付記で、自分は法華宗徒ではないが、『大聖日蓮深密伝』という誌に、悪意をもって、賤民説をとっていると激怒反論している。
 しかし、日蓮自ら、旃陀羅(せんだら)が子、ただの貧しい漁民の子であるといっている。これは下層から、國、社会を観て、自ら上行菩薩とならんとするには、賤民の出自でなければならないとの考えからであろうか。

 日蓮が誕生した、この1222年、承久4年、貞応元年は、法然は滅後10年、栄西寂入後7年、親鸞53歳で行化中、道元23歳で建仁寺にて明全について就学の身であり、入宋の1年前で、高雄、高山寺の華厳宗明恵上人は1173年に生まれ、1232年に寂入されているので、当年50歳で、存命修業中という時代にあたる。

修 学

 幼名「善日麿」、12才で千光山清澄寺(もとは密教、天台宗、真言宗で、のちに日蓮宗へ変山)にはいり、16才で剃髪、出家し「是聖坊蓮長」と名を改めた。この時の指導者は道善密師である。18才で天台宗比叡山に入山、熊野で真言宗も学ぶ。

 虚空蔵菩薩に願を立てて日本第一の智者となし給えと、さらに京の五条油小路で書肆を営む天王寺屋浄本に仮寓しながら、禅宗臨済派高僧円爾和尚、大徳道源禅師、さらに、中興智證大師の三井寺にて顕密両途に学ぶ。南都学七大寺六宗の三論宗、倶舎宗、法相宗、華厳宗、鐙三蔵の成実宗、律宗はもとより、天台宗にも、真言宗にも、仏陀の真言はふくまれていないという考えに至る。

 時代は、平安から鎌倉へ、平家、源氏の時代から、足利、鎌倉の時代に入り、外国文化の取り込みもほぼ不可能な時代で、仏教、経典からの勉学が、最も才ある時代であったので、蓮長の取った行動は時代背景からして、成るべき行動であったものと考えられる。すなわち、蓮長の大和魂は、インド仏教のおしえの一つ、法華経を知り尽くし、この教え、漢才をもって、日本を救おうとの考案である。

 蓮長は、日本に伝えられた既存の仏陀の教えは不完全ながら、聖徳太子以降、天台がつたえた法華経が、唯一、仏陀の教えの真髄にちかく、日本を仏国土とし、浄土の娑婆世界に人々を救済する法は、法華経にあると思惟するに到る。

 世は末法思想で、源信、法然の念仏宗の台頭で、日本中が佛教の本髄から離れ、新教である念仏宗が日本の佛教を支配し、これに救済をもとめる民が急増するばかりで、しかし、日本の世は一向に好く成らない。日蓮の一切経読経、蛍雪の功では、これは法華経を誹謗し、仏陀の教えの本質からはなれた、身勝手な念を唱えることに原因がある。

 如来出世の本懐を求めることに求学の目的があったが、京都においても蓮長には不毛であった。しかし、横川の樺芳房で、既存の戒体即身成仏義は間違いで、一切経、及び大乗法華経にはそのようなことは書かれていない。天台智等頭の判教こそ最勝の教義であることの結論を得て、この法華経を広宣流布して日本の国家国民を救おうとの大願を立てるに至るのである。

立 宗

 ついに、遊学の京を捨て、一端同郷の比企判官能員の子、大学三郎能本を訪れ、そして23年ぶりの、1252年、建長4年の冬、31歳で故郷小湊に帰る。清澄寺の道善が、蓮長を後継者、法脈を継がせんときめて、久しぶりに、立派に成長した蓮長をむかえる。
 蓮長は、今後の日本佛教のありかたについて説法するが、周囲の既存の仏教は謗法(ほうぼう)として、これを信じれば無間地獄(むけんじごく)に落ちるであろうとした。すべての日本佛教はダメで、信じるな、法華経のみを信じよといったものだから、天台宗の道善は困惑する。

 ここから、蓮長への繰り返す迫害、苦難苦行がはじまるのである。強く、他の宗を折伏(しゃくぶく)、排斥し、法華経を勧めれば勧めるほど、他宗からの怨嫉は強まり、迫害を受ける羽目となる。しかし、蓮長は屈しない。さらに奮い立つのである。

 翌年の1253年、建長5年4月28日、早朝、清澄山旭ヶ森の山頂に立ち、外房、太平洋のかなた、紅光満る東天に向かって、おもわず「南無妙法蓮華経」と不惜身命の声が十回繰り返し唱えられた。これが法華一宗誕生の初声であるという。その午後、清澄寺に帰り、そこで真言宗派の地頭の東条左衛門景信に、たのまれ、説法をおこなう。

 「抑も、成仏得脱の因となるべき大善は、妙法蓮華経に拠り信念堅固に行ずるにあり、法華経は、これ経中の王、開顕真実の御経なり。如来一代の御説法多しと雖も、これに超すべき事なし。されば御経第二譬喩品を、もし信ぜずして、この経を誹謗せば、即ち一切世間の佛種を断ぜんとあるべし。無量義経には四十余年未顕真実と説きたまいて法華経の真実なるを明したまえるぞ。
 然るに浄土の法然は念仏を勧めて選択集を著し、真言は大日を尊んで釈迦如来を蔑視し、禅宗は教外別伝と称していたずらに彼方此方へ濘り止らぬ法門を立て、律宗等南都六宗は帰伏状を書きて桓武天皇に奏しながら、猶、衆生をば済度するに堪ふべきや。
 無得道の権教は夢中に夢の如く、有名無実にして益無きことぞ。かかる諸宗を去らずんば、成仏思ひもよらざるぞよ。念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊、邪法小法頼むに足らず。
 是我が一己の料簡ならで、皆経文にて見決めし事なり。今こそ法華経流布の時、上行菩薩の出たまふ時なり。汝等迷ひを執るなかれ」、と説法し終えるや、

 聴衆は、この馬鹿、無法の売僧め、烏滸(おこ)の痴人め、と怒り、真言宗の地頭東条左衛門景信は、ついに怒り心頭、蓮長に刀杖し、抜刀、斬りかかるが、道善が間にはり、事をおさめ、蓮長を渋々、破門とする。

 これほど過激に他宗を攻撃するようでは話ならないと清澄寺を追い出される。他宗はこれを幕府に提訴。国賊、売僧、狂僧、扱いをうける。他宗を完全に排斥し、とくに真宗、念仏宗を排斥し、「南無妙法蓮華経」、法華経のみが唯一の仏陀の教えとし、末法五濁の暗夜を照らさんとする大願を立て、弘教するのである。

辻説法

 1253年、建長5年の5月、弘教の為、鎌倉の東、名越の松葉ヶ谷(まつばがやつ)に仮寓し、草庵を開く。
 その年の末、比叡山の学友、成弁がたずねてきて、年上ながら弟子を請うたため、第一号の弟子、日昭となる。

 1253年、建長5年8月には、道元がなくなっている。

 蓮長は建長6年1254年、青蓮房を訪れるが、そこでも阿弥陀堂の開堂供養で念仏破斥したため、またもや擯出(ひんずい)を蒙る。一端、父母の許に立ち寄り、父に妙日、母に妙蓮の法号を与え、みずから父母の号から日蓮と改名した。

 日昭とともに、鎌倉の町にでて、念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊の四箇格言で他宗を否定し、法華の利益を辻説法する。これで、南条時光、四条金吾頼基、進士太郎善春ら、徐々にではあるが、信者は増えていく。

 この中に、下総の能手の印東治部左衛門有国という人がおり、その子吉祥はのちの第2の弟子、日朗となる。

 資金を援助していたのは上総下総の富木播磨守胤継で、さらに、房州天津城主の工藤左近、武州荏原千束の池上右衛門太夫宗仲、荏原左衛門義宗が信者となり、甲州巨摩郡波木井の南部六郎実長と信者は増えていく。南部六郎実長はのちに、身延山を法華宗の本山とした貢献者である。

 当時、日本の政治の中心地は鎌倉で、鶴岡八幡宮には、天台密教の学匠、僧正隆弁が、祈祷しており、大蔵阿弥陀堂には真言宗の別当野沢二流の加賀法印定清がいた。寿福寺に台密、禅の悲願房朗誉がおり、建長寺には北條時頼の師、蘭渓道隆がおり、名越の善光寺には法然の孫弟子道教がおり、佐介ヶ谷の光明寺には浄土宗鎮西派の祖弁長の高弟然阿良忠がおり幕府要路の帰依をうけていた。
 ここで、これらの宗すべてを排斥することが肝要と辻説法をおこなうのであるから、折伏された既成諸宗派は黙ってはいない。ついに日蓮は、受難、迫害を被るのである。

 日蓮の佛教弘教で、他宗排斥する理由は、混乱を極める日本を救うのは法華宗のみであり、念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊の四箇格言を強烈にうちださないかぎりは自らの立場もないわけで、このような過激な弘教行為は、末法思想が広まり100年近くたっており、飢饉、災害が繰り返されていたので、止む終えないことであったろう。

 また、自然、天変地異としては、ウィルス疾患が建長8年ころは頻発し、第89代後深草天皇(1243-1304)もウィルス性発疹になやまされ、元号改変、亀山天皇が即位され、康元2年1257年には京都で大地震が、その後8月に鎌倉に大地震がおきて、人心の乱れ、社会不安、農作物の飢饉と惨憺たる状況であった。

 特に富士山は、活火山として、噴火をくりかえしており、864年貞観6年から937年承平7年、952年天暦6年、993年正暦4年、1017年寛仁元年、1033年長元5年、1083年永保3年と平安中期には激動の富士山の火山活動がみられていたが、12世紀から以降やっと休火している。『竹取物語』の最終部に、富士山の謂われが書いてあることは、コラム『関東大震災』で述べた。

立正安国論

 1257年、正嘉元年8月1日、鎌倉に地震があり、23日の夜8時には、さらに大きな地震がおきた。大木が倒れ、伽藍が倒壊、地面の亀裂から火を噴き、山は崩れ、海は鳴り、阿鼻叫喚の巷に化す。愈々、人々恐れをなすのをみて、これらの災禍の原因を探るため、一切経のある駿洲岩本実相寺を訪ね、これを調べ直す。

 その結果、日本の大地震及び、累年の災禍は、正法すなわち、法華経を忘れ、謗法邪宗におちいったからであると、金光明経、大集経、仁王経、薬師経の四経に書いてあったとし、法然の撰択集を破斥し、三部経の他の余経を捨閉閣抛するの非、法華経の謗りを喝叱し、真実経、大乗経、最勝経を説き、守護国家論、念仏追放宣伝状抄を纏めて、1260年応元年年7月16日、奉行宿屋左右衛門光則から将軍時頼に『立正安國論』を上書したのである。

 かなり長い勘文(かんもん;意見書)は、預言集で、政務者への批判書になっている。中国の易からくる宇宙観がふくまれており、西洋での自然の物理法則をみいだしたガリレオガリレイの登場の1582年の300年も前のことである。

 この時、三井寺に遊学していた伯耆坊が第3の弟子となり、日興と命じられた。そして、日蓮の父が逝去した。

 立正安国論の最初の部分
  旅客来。嘆曰。自近年至近日、天地夭飢饉疫癘遍満天下広迸地上。
  観夫二離合壁五緯連珠。三宝在世百王未窮此世早衰其法何廃。

 旅人が語るような勘文となっている。

 このなかで、薬師経から、七難、人衆疾疫の難(悪病流行)、星宿変怪の難(天変地異)、日月薄蝕の難(天候の不順)、非時風雨の難、過時不雨、他国侵逼の難、自界叛逆の難をあげている。火災がぬけている。

 政府の北条時頼執権は、これを完全無視していた。しかし、善導、法然を邪師とし、執権に訴えるとは、阿弥陀如来の怨敵と、念仏宗の人々は日蓮を襲うのである。

 この『立正安國論』の原本は、大学三郎能本の真筆がのこっていたが、明治8年の身延山久遠寺の火災で、焼失してしまった。その写本が、中山法華寺にのこっている。国宝である。

松葉ヶ谷法難

 執権時頼はこれを黙殺していたため、その1260年、文応元年8月27日に、日蓮こそ、邪師、阿弥陀如来の怨敵として、北条長時の父の極楽寺重時を後盾とした念仏宗の数万の民衆が日蓮の松葉ヶ谷の草庵を襲う、いわゆる「松葉ヶ谷法難」をうける。

 山岡荘八の『日蓮』は、この箇所で終稿っているが、この日は庚申の日で、一匹の人なつっこい白猿があらわれ、裏山の社に導き逃げて、栗の実を日蓮に手渡すところで終了している。

 日蓮の逃げ込だ所は、下総の母方の親戚筋で、日蓮の後見人富木常忍(ときじょうにん)であった。当初、富木も日蓮の他宗排斥には反対であったが、法華経の完璧さを聞くに及んで逆に感激し、信者となっている。その後、多くの信者をえて、千葉中山に法華経寺が建立される。

伊豆法難

 8ヶ月後に鎌倉に戻るが、『御成敗式目』の12条「悪口の咎」抵触で、何の取り調べもなく、突然、1261年、弘長元年5月12日、伊豆に流罪となる。いわゆる「伊豆法難」で、1261年、弘長元年5月12日、第2の弟子日朗が、由比ヶ浜から伊豆に旅立つ日蓮を見送る。

 伊東に着き、「まないた岩」の上に置き去りにされていたところを川奈の漁師弥三郎に助けられ、生き延び、伊豆の人々の法華経信者を増やしていく。伊東領主荘司八郎左衛門朝高、綾部正清、江川太郎左衛門吉久らが信者となる。そして地頭伊東祐光の病を、念仏をやめさせ、法華経に帰依することを条件に祈ると、その病は平癒し、その謝礼として、伊東の海中から網にかかった釈迦立像を譲りうけている。

 この時、『教機時國鈔』を著す。五義とは教、機、時、国、序をさし、教とは釈尊一代仏教の真実、機とは教えを受ける人々の能力を知ること、時とは釈迦三尊滅後の時代の変遷を知る、国とは仏土の実義を知ること、序とは教法流布の必然の順序を知ることである。
 法華経には佛教のなかで唯一最上で、この五義の教えが示されているとしている。
 このように、いよいよ法燈の光を揚げ、42歳でますます折伏を激しくするのである。

小松原の刃難

 1263年、弘長3年2月、北条時宗に赦免され、3年の伊豆の流罪を終え、鎌倉にもどる。この時、駿洲の松野六郎左衛門の子、松千代が弟子入りし、第4の弟子日持となる。

 1264年、文永元年10月3日に、千葉小湊の母梅菊を訪ねた時に、小林民部実信の子、藤十郎が、第5の弟子、日向と呼ばれるようになった。

 釈迦においても、キリストにおいても、その布教には強烈に迫害されてきたが、これに比すれば日蓮への迫害など、しれたものとおもわれるかもしれないが、小松原の受難は、殺害におよび、迫害ではなく、殺戮であった。

 1264年、文永元年11月、天津の城主工藤吉隆が法華経の信者になりたいというので、そちらに向かっていたところを、東条景信におそわれる。
 あの地頭念仏信者東条景信と領家との間に所領争いがあり、日蓮は領家に加担し、勝訴した。これを逆恨みし、徒党を組み、松原大路にて待ち伏せし、日蓮の一行を襲撃した。
 多勢で、刃で、阿弥陀の仏敵めと叫び声をあげ、遮二無二に、日蓮めがけて切り込むところを、弟子の乗観房、長英房が助けにはいるが、刃傷をうけ二人は重傷を負う。鏡忍房日暁は斬り殺され、更に、急を聞いて駆けつけた金鉄の身の工藤吉隆が逆に斬り殺される。 得たりと東条は日蓮に二つになれと斬りかかるも、日蓮、数珠をもってこれを払う、母珠は、まっ二つになって飛び散り、日蓮の眉間は切られ、三寸あまりの創を負った。しかし、眼を見開き大喝一声叱退すると、東条は怯む。この時とばかり、一目山に、逃げだす。日蓮は命からがら花房蓮華寺に避難する。いわゆる「小松原の刃難」である。

 辛くも難を逃れた日蓮は花房蓮華寺に数か月、滞在していたが、その後、鎌倉に戻ったが、翌、1265年には殉教した門弟の一周忌で、清澄寺に舞い戻る。
 日蓮43歳。茂原の斎藤兼綱、上総興津の佐久間十郎左衛門重貞、宇都宮城主下野守景綱が信者となり、法華の香風を塩原、藤原の山奥まで薫じせしめる。

 母梅菊が死亡し、小湊に帰り、この時、富木胤継の子どもが弟子入りし、第6の弟子で、日頂と呼ばれる。

 翌、1266年、文永3年1月6日、清澄寺で『法華題目抄』を著す。あの東条が病死した。皆、安堵し、鎌倉に戻る。

蒙古フビライの國書

 しかし、こんどは国外、国難、外寇の問題、立正安國論で予想した「他国侵逼難」が発生する。1268年、文永5年に、日蓮の予想どうり、第6代元の世祖フビライが宋、高句麗を制圧し、新勝建国の雄威に乗じて、日本に、元の属国になるように国書を送りつけてきたのである。時の執権北条時宗は18才で、蒙古の通問結好の国書がその正月にとどけらたのである。

 朝廷は第90代亀山天皇で、四天王寺をはじめ、諸国の寺に蒙古調伏の祈祷を命じる。
日本の仏教史上で、天皇から菩薩の号を授けられたのは、のちの弘安の役で祈祷にて神風を喚んだ真言律宗の叡尊思円菩薩(1201-1290)とその弟子、忍性菩薩(良観;1217-1303;ハンセン病救済の父、介護、奉仕の父)の二人のみである。

 さらに、朝廷は「軍勢催促御教書」を発令し、北九州の対蒙古策を整える。

 宿屋左衛門入道から大蒙古からの牒状が来ていることを聞きつけ、日蓮は『立正安國論』の見直しを執権にせまる。法華経のみならず天照大神、八幡大菩薩も登場させ、日蓮こそ、日本国中で一人西戒を調伏する人間である。君のため、神のため、國のため、仏のために見参いたす。というが、一行に沙汰なし。
 極楽寺良観忍性に、建長寺、奈良大仏別当に、寿福寺に、浄光明寺に、多寶寺、長楽寺に赴き書を送るが、みな無視される。

瀧口法難

 1271年、文永8年は干魃で、極楽寺の真言律宗の僧良観房忍性が祈祷で雨を請うが、無効で、ついで、日蓮が行ったところ、たちまち雨になったという。このことで、忍性側が批判されたため、その真言律念仏僧らの評定所へ讒訴により、逆に、煩わしいと、日蓮が佐渡への流罪を言い渡されたのである。
 侍所所司の平頼綱が三百の兵を率いて、1271年、文永8年9月12日午后4時に日蓮に縄をかけ、引き連れ出そうとする。

 「法華経のため命を捨つるは悦ばしくこそあれ、悲しくは無し、何を女々しく嘆き給ふぞ。我願わくば法のため身を犠牲にして亡き父母より卿等にまでのためとならん。しかれど、予を失うは日本国の柱橦を倒すなり。必ずや、日本は滅ぶべし。」
 まるで、キリストではないか。
 日蓮は縛られたまま、肌背馬に乗せられ、市中を引き回しのうえ、処刑場に連行されようとするが、この時、依智(厚木)の三郎が助けに入り、さらに南条七郎が馬にて駆けつけ、日蓮を助け出し、本間六郎左衛門重連の館に預ける。

 しかし、その夜、執権より、再度、佐渡への流罪の由伝えられる。一方、弟子の日朗、日進は宿屋左衛門の預かりとなり、土牢に閉じこめられる。

 日暦は翌の13日、しかし、丑みつの刻、午前2時に、平頼綱が、佐渡へ向かうといって、日蓮を連行し、江の島に近い片瀬の瀧口に到着。日蓮を斬首しようと、真っ暗闇の浜辺に座らせる。日蓮は祈祷をはじめる。頼綱の部下が、刀を振りかざす。そこに、江の島の南西の方角から、突然大流星が接近し、あたかも兵士の刀めがけて、突進してくるではないか。

 『種種御振舞御書』に「江の島の方より、月の如くなる光物、鞠の様にて、辰巳の方より戌亥の方へ光り渡る。十二日の夜のあけぐれに、人の面も見えざりしが、物の光り月夜の様にて、人の面も皆見ゆ。太刀取目くらみたふれ臥し、兵共おぢ怖れて一町計馳りのき、・・・」、
 大流星さわぎで、兵士たちは恐怖の余り、刀を捨て、逃亡する。日蓮は九死に一生を得る。その足で依智(厚木)の本明重連宅まで、逃げ戻る。

 これが、有名な「瀧口法難」で、日蓮は得意の宇宙を操る祈祷師に化する。

依智の星下り

 『種種御振舞御書』はつづく、「其夜は十三日、兵士共数十人、坊の邊り並に大庭になみゐて候き。九月十三日の夜なれば、月大に晴れてありしに、夜中に大庭に立出、月に向ひ奉って、自我偈少々よみ奉り、諸宗の勝劣法華経の文、あらあら申して、抑も、今の月天は、法華経の御座に列りまします名月天子ぞかし。寶塔品にしては佛教をうけ給ひ、嘱累品にして佛に頂をなでられまいらせ、如世尊敕當具奉行と誓状をたてし天ぞかし。仏前の誓は、日蓮なくば虚しくてこそおはすべけれ。今かかる事出来せば、いそぎ悦をなして法華経の行者にかはり、佛教をもはたして、誓言のしるしをとげさせ給べし。いかに今しるしのなきは、不思議に候ものかな。いかなる事も國になくしては、鎌倉へもかへらんとも思はず。しるしこそなくともうれしがほにて澄渡らせ給はいかに。
 大集経には日月不現明ととかれ、仁王経には日月失度とかかれ。最勝王経には三十三天各生瞋恨とこそ見え侍べるに、いかにいかにと責しかば、其のしるしにや、天より明星の如くなる大星下りて、前の梅の木の枝にかかりてありしかば、もののふども皆えんよりとびをり、或は大庭にひれふし、或は家のうしろへにげぬ。
 やがて即、天かき曇りて、大風吹来て、榎の島のなるとて、空のひびく事、大鼓を打がごとし。夜明ければ十四日、卯時に、十郎入道と申すもの来て云く、昨の夜の戌の時計に、守殿に大なる騒ぎあり、陰陽師を召して御うらなひ候へば申す。」

 元東京天文台長、広瀬秀雄氏は『年・月・日の天文学』の冒頭で、日蓮が「三光天子」、天体現象と不離不可分の生の営みをしていたことを紹介されている。光明すなわち、日蓮の想念、考え方、脳機能、とくに前頭葉機能は、法華経と易経からくる天体現象と暦とをとりいれた、超人的、預言者のような存在であった。

 三光天子とは、太陽、月、金星のことで、「瀧口法難」での一閃光は、『ショッホの表』や、神田茂の『日本天文史料』から、エンケ彗星とかんがえられている。
 この彗星の母体は、牡羊座と牡牛座流星群に属し、この流星群の一小破片がこの爽昧であったとおもわれるし、さらに、「依智の星下り」での星とは金星のことで、金星が地球にもっとも近づき、最大光輝になることで、マイナス四等、すなわち、一等星の百倍もの光を放つ時をとらえている。
 月と見違える程とは、少し大袈裟であるが、それでも、月没時刻が午前3時44分と丑刻をすぎていれば、真っ暗闇での夜空を皓々と照らすことであろう。この時刻この時期を日蓮は処刑時刻場所をえらんだのである。じつに恐ろしき、天との問答を得意とした日蓮の知力、能力、面目躍如である。

 また、隠遁の地を身延山久遠寺を選んだことについて、小湊生まれにしては不思議で、奇異に感じられる方がおられるかもしれないが、実は身延山は霊峰富士の真西にあたる。お彼岸の日、立春、立秋には、太陽は、久遠寺の真東の、日本一の駿河の不二山の頂上から昇るのが見られるのである。
 この地を選んだ佐渡帰りの日蓮ほど、じつに、にくいやつといわずになんというか。日本史上で、このようなに三光天子を我が身の味方につけた男は登場していない。陰陽師でも無理であった。

佐渡法難

 1271年、文永8年の10月の10日、瀧口の法難後、依智を立ち、寺泊を経由し、一ヶ月後、10月28日、佐渡の羽茂郡松ヶ崎甲の瀬に到着する。佐渡では、守護代本間重連の館の傍の塚原墓所の三昧堂に囲まれ居た。

 50年前の1221年、承久3年。ときの兇臣北條義時により、乱の責任をとり、この島に流罪に成った、あの順徳天皇の佐渡での侍臣遠藤為盛は、この時すでに80歳と老齢で、念仏宗の阿仏と名乗っていたが、彼は、この阿弥陀の怨敵、売僧を殺してやろうと、三昧堂をおそうが、日蓮のあまりの甲斐なく痩せ法師を、みて怯む。

 「我は念仏の行者なるぞ。汝みだりに舌を動かして法華ばかりが成仏なし。その他は無間に堕つるなんどと口より出任せる罵る由、確かに証拠あれば可、左なくば生命は助けじ」と大声あげて、斬りかかろうとするや、
 「ものものしき其の問事かな。汝、念仏業者ならば、他の経文を説くまでもなし。汝が頼む阿弥陀経に舎利弗、舎利弗、と三十幾たびか、呼ばれたる。その舎利弗はその経にて得道なせし証拠やある。法華経第二の会坐にして、かえって華光如来となりしとあるにあらずや」と当意即妙、一言を冒頭に、諄々と細かく説明されるのをきき、阿仏は妻とともに慚愧後悔し、法弟となったという。

 日蓮は、その阿仏房と女房や千日尼、国府入道らが、念仏宗を捨てての帰依による給仕をうけた。
 一方、鎌倉で牢屋に入れられていた日朗らは、免罪され、一路佐渡にむかい、日蓮と再会している。

 その佐渡での他宗の排斥、強い弘教に対して、1272年、文永9年1月16日に、念仏宗・律宗派の僧から法論の申し入れがあり、「塚原問答」で論破し、その後、2月に『開目抄』を著す。
 なぜ、正法の法華経を弘教しているにも関わらず、天の加護もなく受難をうけているのかの説明である。

 鎌倉では、北条時輔の、時宗に対する謀反が発覚し、北条義宗の手で、時輔は、京都で誅殺される。「二月騒動」という。今度は、まさに、日蓮の『立正安國論』の「自界反逆難」である。この4月には、日蓮は石田郷一谷入道の館に移された。ここで、『観心本尊抄』を著す。
 幕府は、ついに、1274年、文永11年2月14日、日蓮の言動、預言の的中により、斟酌すべきだとするものが増え、さらに、大学三郎能本、安達泰盛の斡旋もあって、赦免されたのである。

 日蓮の赦免を、日朗が3月8日に伝え、3月26日鎌倉にもどってくる。夷堂橋に庵をもつ。4月8日平頼綱、幕府と面談し、第三国諫(こっかん)を説く。第一國諫は立正安國論の上奏、第二國諫は瀧口法難時の平頼綱への直諫、第三はこの諫言で国家諫暁をいう。
しかし、聞き入れられず、日蓮はここで國への説得に見切りをつけ、千葉清澄寺の別当もことわり、日興と南部実長のすすめで、身延山に1274年53歳で、文永11年5月17日入山した。

身延入山と森ヶ谷問答と熱原法難

 この地は、駿河の国が南、東に富士山をあおぎ、西に富士川が流れ門弟の指導と著作活動に負われる中、他宗の迫害は続いたものの信者は増え続けたが、そのようななか、1276年、建治2年3月、恩師清澄寺の道善密師が逝去した。日蓮は日向を遣わし『報恩抄』等の五大部を授ける。

 新教を興し、信者をふやしていくことには、大変なエネルギーを要する。日蓮は身延山久遠寺に来てから、強引な他宗の排斥はおこなわなくなったが、その弟子たちは、身延山を拠点に全国各地で弘教の動きが活発化する。

 そのような中、1277年、建治3年6月、鎌倉の桑ヶ谷において、天台宗僧竜象房が、法華経の間違いを指摘し問答に及んだが、日蓮の弟子三位房に論破された。これを怨み、この問答の聴衆の一人であった真言律宗江馬の部下の四条金吾を訴えた。四条は真言律宗から、法華経に改宗するつもりでいた。竜は、四条に法華経の説法を聞き入れろと刀で脅されたと讒言してきたのである。
 江馬氏は四条の所領を没収してしまう。これをきいた日蓮は、冷静な判断を江馬氏に求め、四条は江馬の部下として努めること、改宗しないことを条件に事態を乗り切ったのである。

 さらに、これは、弟子の日興が、駿河国富士下方熱原に行化して、天台宗滝泉寺の供僧下野房、越後房らを法華宗に改宗させたが、弘安2年1279年8月には、熱原の百姓神四郎、弥五郎、弥六郎が念仏宗から法華宗に改宗したことに、院主代の平左近入道行智が奸計を設け、窃盗罪で、瀧の口で日蓮斬首に失敗した侍所の平左衛門尉頼綱に訴えた。
 頼綱は行智の悪巧み、作り話を知りおきながら、改宗者の百姓神四郎らを囚え、斬首、入牢させたのである。新教の法華宗への改宗は認められず、生命も奪われる処罰をうけていた。当の日蓮、日興らは、改宗者の処罰に怯むことなく、辛抱強い説得をおこなっていくが、当事者は処罰をおそれ、念仏宗におさまっているものが多発した。

 この頃、日蓮自身は、『撰時抄』、『報恩抄』など多数の執筆をおこなう。

蒙古再襲来

 ジンギス汗がおこした蒙古帝国は元の第6代世祖フビライに至って、南宗を滅ぼし、高麗を通じて、1268年、文永5年元旦、国書を太宰府にとどけた。朝廷、幕府はすべて無視した。日蓮の小松原の法難のあとで、立正安國論での日蓮の予想が的中した。

 3年後の1271年、文永8年の秋に、高麗使の徐称および蒙古の趙良弼らが、筑前の今津に国書を携えて国交をせまった。幕府は書辞不遜として、そのときも、追い返した。その翌年、高麗王から国交の求めの使者がくる。さらに、その翌年1273年に蒙古の趙良弼が再び太宰府にあらわれる。彼は帰国して、フビライに、つまらぬ小国日本は「撃つ勿れ」と報告している。しかし、フビライは聞き入れない。

 その翌年の1274年、文永11年10月5日、フビライの元と麗の連合軍が、対馬に上陸し、宗助國が玉砕。島の男は皆殺され、女は掌のひらに穴をあけられ船べりに吊されたという。14日には壱岐に上陸、守護代平景隆は自害。肥前松浦に寇掠し、19日には博多湾に入り、今津湾長浜、早良潟、麁原、百道松原に上陸してきた。

 20日、太宰少弐景資を総大将に、菊池武房、竹崎李長、が逆襲するが、全滅し、筥崎八幡宮も焼かれてしまう。しかし、この夜、神風がおこる。志賀島沖合いに停泊していた、元寇軍は暴風雨にのみこまれ、約1万5千人が死亡した。これが、「文永の役」で第1回目の神風で10月である。

 その翌年、再度、杜世忠が国書をもって、来邦、かれらは幕府により斬首された。フビライは南宋を征伐後、再度日本攻撃である。

 ついに1281年、弘安4年5月3日、福岡に約14万という蒙古軍の二度めの襲来、弘安の役である。約2ヶ月の攻防で太宰少弐景資は戦死。またもや、日本は苦戦。敵軍が博多に上陸しようとしていた時に、7月1日、台風が起こって、壊滅的となる。これで元寇は3名だけが生き残ったという。

頼山陽の蒙古来

  筑海颶気連天黒。    筑海の颶気、天に連りて黒し。
  蔽海而来者何賊。    海を蔽うて来る者は何の賊ぞ。
  蒙古来。来自北。    蒙古来る。北より来る。
  東西次第期呑食。    東西次第に呑食を期す。
  嚇得趙家老寡婦。    趙家の老寡婦を嚇し得て。
  持此来擬男児国。    此を持して来り擬す男児国。
  相模太郎肝如甕。    相模太郎は肝甕の如し。
  防海将士人各力。    防海の将士人各力む。
  蒙古来。吾不怖。    蒙古来る。吾怖れず。
  吾怖関東令如山。    吾は怖る関東の令山の如きを。
  直前斫賊不許顧。    直ちに前んで賊を斫り顧るを許さず。
  倒吾檣。登虜艦。    吾が檣を倒して。虜艦に登り。
  擒虜将。吾軍喊。    虜将を擒にして、吾が軍を喊す。
  可恨東風一駆附大濤。  恨むべし東風一駆大濤に附す。
  不使羶血盡膏日本刀。  羶血をして尽く日本刀に膏らしめざるを。

 筑紫の海に逆巻く浪は黒闇々天に連なる。海を覆うて寄せくるは、いずこの艦隊ぞ。蒙古来襲。北より来襲。世界制覇の夢の牙剥く大艦隊。趙家の老未亡人をあっぱれ嚇して国奪い。その勢いで東海男児の国もひとのみに、できるつもりの蒙古軍。迎え撃つは相模太郎、豪胆無双の時の執権。令下に守備の将兵みな奮い立つ。蒙古襲来。おれは蒙古兵など怖れはせぬわ。怖れるのは鎌倉幕府の命令の重さばかりよ。ためらいなく突き進み次々敵を斬り倒す。乗艦の帆柱倒し、よじ登り敵艦に躍り込む。敵将を捕虜にして、どっとあげる勝ちどき。いや実に残念な、東風ひとたび吹けば敵艦隊は怒濤の餌食、敵兵の血を尽く日本刀に塗れなかったことが。

 第91代後宇多天皇のとき、西大寺の叡尊(えいそん;興正菩薩1201-1290;真言律宗)が奈良を中心に近畿を異国退散降伏の祈祷の旅にでる。これで神風がおこったとされている。さらに、弘安の役では、鎌倉石清水八幡宮に招かれ、「東風を以て兵船を本国へ吹き送り、来人を損なわずして所来の船を焼失せしめ給う」と祈ると、上空、にわかに、雲の中から西大寺愛染堂の秘仏、愛染明王座像が持っていた鏑矢が現れ、北九州多々良浜へ飛んでいき、蒙古大将の胸を射止め、博多では大風が吹きまくり、蒙古軍は退散したという。

 身延山の日蓮はお呼びでなかったし、執権としては新興宗教に國を懸けるわけにはいかず、弟子たちも他宗からの法難がおこるといけないので、きつく日蓮に口止めさせていた。日蓮も弟子には弘安の役では箝口令をだしていた。

 しかし、この叡尊の神風を呼ぶ祈祷に対し、富木入道への書簡『承久合戦之間事』で、「秋風に纔(僅か)ノ水ニ敵船賊船なんどの破損仕りて候を、大将軍生取たりなんど申し祈り成就の由を申し候げに候也。又蒙古の大王の頭の参りて候かと問ヒ給べし。其外はいかに申シ候ともご返事あるべからず」と負け惜しみの批判している。
 神風大風を僅かな雨と秋風でたおしたそうなと皮肉っているが、真実はどうであったのか。

立正大師示寂とその後

 法華経のなかに大和魂と日本人の救済方策ありとした堅忍不抜の大才大器、日蓮は、体調不良で、湯治で常陸国隠井に行く途中、ついに、弘安の役の翌年、1282年、弘安5年、10月13日の辰の刻(早朝8時、太陽暦で11月21日)、武蔵國(東京千束)池上本門寺で、六僧(日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持)の見守るなか、慢性下痢からくる脱水で死亡。根拠はないが腎不全のように思われる。世寿61歳。

 伊豆であたえられた釈尊立像を安置し、遷化、地震が発生、晩秋にかかわらず、桜が開花したとつたえられ、日蓮宗の会式では桜が供えられる。

 日蓮入寂後は六僧にて順次交代で、一ヶ月間身延山久遠寺で供養することがきめられていたが、三回忌で、日興のみで墓所を守ることとなった。

 しかし、久遠寺の地頭波木井南部実長が三島神社も参拝していることは、「三箇の謗法」であり、中止して頂きたいと日興は波木井実長を批判したため、実長は逆切れして、「我は民部阿闍梨を師匠にしたる也」と公言し、日向を住職とした。

 これをうけて、日興は身延山を下り、富士の大石原で、大石寺を開くのである。これが日蓮正宗となる。ここを本山とするのが創価学会で、創価学会の創立者は牧口常三郎である。この日興の下山で、一丸となっていた日蓮宗、法華宗の門は崩壊したが、頭書でのべたように、六僧のがんばりで、弘教され、仏教のなかの新教として、りかい、帰依する人々は増加し、現在では50派以上にわかれる。おもに、国柱会、日本山妙法寺、霊友会、立正佼成会、本門仏立宗などがある。

 そして、大正11年、1922年に大正天皇から立正大師の号を贈られている。実に死後、640年のことである。1982年、昭和57年には入寂700年の大法要が執り行われた。しかし、日蓮入寂後は法華宗と称していたが、一般には宗祖の名をとって日蓮宗という。日本の仏教界で、宗祖の名で呼ばれるのは、この宗のみである。

 日本史上で、かつて、外国からの本格的な襲撃をうけたのは四度しかない。その一つは刀伊の入冠と、蒙古の襲来と、幕末夷人来航での開国と、太平洋戦争である。全土が壊滅状態になったことはないが、太平洋戦争敗戦の進駐軍による日本支配は、史上最悪で、ほぼ壊滅状態に近かかった。

 しかし、今や、国技といわれる大相撲は、このときからはかんがえられないが、モンゴル出身の朝青龍が横綱である。

 この元寇の折りに日本をまとめ大和魂を奮え立たせたのが、北条時宗(1251-1295)で、その墓所は鎌倉円覚寺にある。元寇は時宗が29歳の執権の時であった。

 歴史は後醍醐天皇の南朝、足利尊氏からの戦国時代、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の江戸時代にはいっていくが、やっと、明治になって、明治天皇が日露戦争の時、北条時宗の功績を正式に認められ、じつに600年後になって、勅使を円覚寺に派遣され、従一位を追贈されたのである。昭憲皇太后の時宗を讃える御歌。これは渡辺昇一氏の情報である。

   讐波(あだなみ)は 再び寄せずなりにけり 鎌倉山の松の嵐に

 また、蒙古襲来の時の蒙古と日本の狭間にたった高麗王については、井上靖の渾身の大著、『風濤』があり、これに非常に詳しい。韓流は、井上靖からはじまっていたのである。

法華経と日蓮宗

 経典は仏陀の教えをサンスクリット語、梵語でかきとめられたもので、法華経は、そのなかの一部である。仏陀の涅槃(紀元前466年)後、迦葉(かしょう)が保守的、形式尊重で、律を重んじ、厳重に釈迦の教えを守るように教団をまとめようとした。これを小乗グループとして、富楼那(ふるな)の進歩派はどんどん改革していくべきだとし精神尊重派、自由派で、大乗グループとして、小乗を批判し、ついに完全に二派にわかれてしまった。
 これをもとのように一つにまとめ、一乗として、紀元前2世紀に竜樹が大智度論を著し、この中に法華経がはいっており、これが、中国に伝わって西晋の竺法護が最初に漢訳し、ついで亀茲(きじ)の鳩摩羅什(くまらじゅ)が、紀元406年に妙法蓮華経7巻を漢訳している。

 この鳩摩羅什の漢訳は35部300巻あり、これを中国に伝えたわけだが、それに『摩訶般若波羅蜜経』もあり、このなかの大般若経のエッセンスが般若心経である。日本の仏教宗派では、この般若心経は、法相宗、天台宗、真言宗、禅宗で使用されるが、日蓮宗では唱えられることはない。なぜなら、日蓮、法華宗では、妙法蓮華経(サダルマ・プンダリーカ・スートラ)を根本経典とし、このなかには般若経は入っていないから。

 中国で、この経典がつたわったことで、仏教がひろめられてゆき、慧文(えもん)が一心三観の思想を読み取り、これを慧思(えじ)に伝え、これを禅定(ぜんじょう;定、三昧ともいい、心身を安静にして真理を思惟すること)して、智(ちぎ;538-597)によって浙江省の天台山に天台宗をひろめた。その弟子が灌頂(かんじょう)であり、かれが天台で小乗大乗のあらゆる思想を網羅包摂したのである。すなわち、仏陀の教えに戻ったのである。

 一心三観(いっしんさんがん)とは、竜樹の書いた『中論』からのことばで、「因縁所生法、我説即是空、亦是為假名、亦是中道義」からきており、一心とは梵語エーカ=チッタの漢訳で、専念専注して散乱しない状態をいう。
 三観は、中論の、即空、即假、即中の三諦(さんたい)をさす。諦、観とは、ものの見方、考え方、すなわち思想、想念をいう。
 人間の体験する世界は自らの想念、大脳機能、とくに皮質の前頭葉の機能をふくめて、因縁の法によって成り立っており、何か原因があって、夫れが縁で、みえたり、きこえたり、物体が存在していたり、物体はみえないが、頭の中には、物をかんがえたり、思ったりすることができる。
 このような状態を空といい、物体が存在することを仮に有るという。そして、その中間が存在する。たとえば肉眼には見えないが、ウィルスは存在することなど。これを一心三観といい、空の概念は般若心経にもでてくるのである。

 日本には、この法華経は、615年、聖徳太子の時代に法華義疏として伝えられているが、これは註釈書で、経典ではない。その後、736年、天平8年に道せんが天台宗をつたえ華厳章疏をつたえたが、鑑真も、753年、天台章疏をつたえている。
 これらをもとに、最澄(767-822)は20歳で、東大寺戒壇院で受戒し、日本に天台宗をひろめるため、桓武天皇の叡慮で、宗祖を比叡山にひらくが、その後、804年、延暦23年に入唐し、経論疏記230部460巻をもちかえり、その中に妙法蓮華経7巻がはいっていた。

 其の後、平城天皇から平安時代にはいり、これを写経し、仏法、妙法蓮華経は弘められていく。とくに皇室、藤原氏、平家、源氏のあいだで持て囃される。
 平安時代後期には平清盛の自筆と伝えられる、法華経の写経が、平家納経として、1164年、長寛2年9月、厳島神社におさめられている。

 厳島は神社で、お寺ではないが、平家加護の神社というのはなんだか変ですが、平家の繁栄を願った寺は平家が神として祭られるために神社となっている。栄華の後、法華経を平清盛が厳島神社におさめている。

 この平家納経は30巻からなっており、願文、無量義経、法華経28巻、観普賢菩薩行法経、阿弥陀経、般若心経から成った装飾経で、雁皮紙、料紙の美しさ、豪華絢爛、繊細耽美、は類をみない。法華経の写経の文字は清盛自筆に間違いないとされており、品格あり、立派で、法華経の理解度が高かったことを伺わせる。

 これを日蓮が目にしたかは不明であるが、西国には行業していないので、見ていないとおもわれる。それでは日蓮がどこで法華経の全30卷をみたか。比叡山でうつしたか、立正安国論を書いた駿洲岩本実相寺かであるが、確証はない。

 現存する妙法蓮華経は国立国会図書館に保存されているが、最古のものは1189年、文治5年、鎌倉時代、後鳥羽天皇の時代、親鸞、栄西の時代で、春日版といわれ奈良法相宗大本山興福寺から出版されていた木版刷りの経典で、このころ経典は日本全土に一気にひろがっていたものと考えられる。日蓮はまだうまれていない。

 そして、真宗、念仏宗、禅宗などが台頭してくるが、法華経の存在は強化されず、むしろ軽視されていたのである。日蓮は経典、一切経を学び、法華経の重要性を再確認し、これを仏教の最重要経典と認め、法華宗、日蓮宗を創設するのである。

 この日蓮宗の所依となる経典は、妙法蓮華経8巻と、その開経としての無量義経、結経としての観普賢菩薩行法経の所謂、法華経三部からなっている。

 その無量義経は、三章(品)、徳行品第一、説法品第二、十功徳品第三からなっており、釈迦が王舎城の霊鷲山で、菩薩、比丘に、その体験から説法をはじめられる様子がかたられている。

 法華経は28章(品)からなり、一乗妙法、久遠本仏、菩薩行の三大テーマを説明している。春日版といわれる奈良興福寺が刊行した、経典の木版刷りがあり、日蓮の時代には相当普及していたようだ。これでは
 序品第一、方便品第二、譬喩第三、信解第四、薬草譬品第五、授記品第六、化城喩品第七五百弟子受記品第八、授学無学人記品第九、法師品第十、見宝塔品第十一、提婆達多品第十二、勧持品第十三、安楽行品第十四、一から十四までを 迹門(しゃくもん)として入門書で、従地涌出品第十五、如来寿量品第十六、分別功徳品第十七、随喜功徳品第十八、法師功徳品第十九、常不軽菩薩品第二十、如来神力品第二十一、嘱累品第二十二、薬王菩薩本事品第二十三、妙音菩薩品第二十四、観世音菩薩普門品第二十五、陀羅尼品第二十六、妙荘厳王本事品第二十七、普賢菩薩勧発品第二十八で、本門という。
 この門は、さらに、序分、正宗分、流通分の三段にわけられるので、これを二門六段の分類という。唐の天台宗開祖の智(ちぎ)がおこなった分類である。

 観普賢菩薩行法経では、法華経を守護とする普賢菩薩を観じれば、六根(眼、耳、鼻、舌、身、意;五感プラス大脳皮質機能)は清浄となり、菩薩の導きによって懺悔滅罪を教示され、仏陀の智慧を得る事が出来るという。
 すなわち、仏陀の教えである仏教では、大脳の世界、想念の世界が存在することを説明され、これは他の動物の本能的行動ではなく、人間のもっとも人間らしい、大脳の世界が存在する、すなわち光明の世界を説かれたのが仏教の教えで、これをすべて延べられたのは法華経であるという。

 念仏については、法然上人にとっては行住坐臥をえらばず、時節の久近を問わない念仏で、親鸞の称名、南無阿弥陀仏は、名利を追っかけていないか、愛欲に走っていないか、自分をみうしなっていないかと、われを呼び戻すための念仏であり、南妙法蓮華経は、われを呼び覚ます、眠っている自分を呼び覚ますための称名である。

 日蓮が、どの、どこの寺におさめられていた妙法蓮華経を参考にしたかは不明であり、その写経ものこされていない。したがって、日蓮の真蹟の法華経というものは存在していなかったのか、存在していたとしても紛失したのか、不明である。この重要な事項を過去、検討された文献はみあたらない。見付けられた人は一報ください。

 そして、日蓮には大著というものが無く、その時、その時に、法華経から学んだことを手紙などにかきとめられたものが、約760ほど遺されていたが、1875年、明治8年の久遠寺の出火で焼失してしまった。現在全国から集められた遺文が148篇のこされている。
 そのなかで、三大部として、『立正安国論』(39歳)、『開目鈔』(51歳)、『観心本尊抄』(52歳)で、そのほか『撰時抄』(54歳)、『報恩抄』(55歳)をいれて五大部という。

 日蓮入寂後の日蓮宗は、室町時代には、京都でも信者は増える。これは、日蓮の苦難に耐えての現実への積極的な立ち向かう姿勢が、町衆の日々の暮らしの刻苦奮励に符号したためと思われ、当時の芸術にも影響をあたえている。

 長谷川等伯(1539-1610)、狩野永徳(1543-1590)、本阿弥光悦 (1558-1637)らは日蓮宗の信者で、更に江戸時代にも普及は達み、近松門左衛門(1653-1724)、菱川師宣(1618-1694)、葛飾北斎(1760-1849)らも信者であった。

 しかし、秀吉(1536-1598)の切支丹禁止令とともに、日蓮宗が再度、法難にあう。これは、妙覚寺の日奥(1565-1630)が、秀吉の政策を批判したためで、秀吉と家康が朝鮮征伐の供養で、方広寺で千僧大供養会をひらくために、各宗派の僧呂の出仕をもとめたが、秀吉が法華宗の不信・異教者であり、日蓮宗はこの会に賛同するわけには行かないと拒否したためである。

 当時、日蓮死後300年であったにも拘わらず、佛教内でも日蓮宗は法華経に帰依し、他の真宗などを批判しており、日蓮宗は不受・不施の方針(日蓮門徒は謗法者の供養はうけないし供養もしない)をまげなかったため、秀吉は亡くなっていたが、家康の命で、日奥は1599年、慶長4年、対馬に流罪になり、後に一端放免されたが、江戸時代にはいって、1630年、寛永7年、死後流罪の扱いになり対馬に流されている。

 その後の、日蓮宗の信者では、明治以降には田中智学(1861-1939)、内村鑑三(1861-1930)、高山樗牛(1871-1902)、北一輝(1883-1937)、井上日召(1886-1967)、矢内原忠雄(1893-1961)、宮沢賢治(1896-1933)、尾崎秀実(1901-1944)、石原完爾(1889-1949)らがいる。

 田中智学は、文久元年に多田玄龍の三男として江戸でうまれるが、10歳で日蓮宗に入り、明治5年より田中智学と称し、日蓮宗から一端還俗し、のちに、蓮華会をおこし、その後、明治17年に立正安国会を設立し、大正3年に国柱会を結成している。
 明治36年には日本書紀の第三、神武天皇の条にある、「掩八絋而為宇」から、日蓮を中心にして「日本国はまさしく宇内を霊的に統一すべき天職を有す」といい、「八絋一宇」を造語し、太平洋戦争の大和魂として皇国、神国、神州日本のイメージを造り出したのである。日蓮自身も神祇信仰で、天照・八幡を包括し、日本は「八万の国に超たる国」と表現している。
 したがって、仏陀の教えでもないし、天皇制そのものを祀り上げているわけでもなく、これを上手く合体させて、国体を語ったのである。

 内村鑑三は高崎藩士内村宜之の長男で、江戸で、1861年、文久元年、正確には万延2年2月13日にうまれた。東京英語学校を卒業後、札幌農学校に学び、クラークの薫陶をうけ、キリスト信者になっているが、本人は激情型で、短気、呑気の表裏の二面性性格をもっており、信条的には日蓮をも信じているところがあった。
 1890年、第一高等学校での明治天皇の教育勅語奉読式で、天皇親筆の署名で最敬礼をおこなわなかったため、不敬を指摘され、解嘱した。『代表的日本人』を著し、日蓮をとりあげ、人間として最も不適なる人間であるが、この彼の勇気を讃え、法華経の伝道者たるの資格にありて、彼の実は天地一切の重要さを有すると、論じて、自らの性格が日蓮に近いことを暗に示してた。その弟子の矢内原も、その『余の尊敬する人物』で、同様のことを述べている。

 高山樗牛(ちょぎゅう;1871-1902)は、明治4年、山形鶴岡市にうまれた。東京英語学校を卒業、井上準之助と同級で、東大入学し哲学科卒業、土井晩翠と同級で、徴兵をきらって、北海道に本籍をうつす。讀賣新聞に大学生某の匿名で平家物語の時頼と横笛との恋慕を主題にした『滝口入道』で、一位なしの二位で入選。その後、日本古典文学、ニーチェを紹介し、1901年、明治34年、最晩年には田中智学の影響をうけて日蓮研究をはじめたが、結核のため1902年、明治35年死去。社会的評価は低いが、その文学は本物で瑕瑾なく、絶佳である。

 宮沢賢治(1896-1933)は、自家にのこされていた法華経をよみ、身震いするほど感激し、その宇宙観を日蓮の法華経から学び、南無法蓮華経をナム・サダルマ・プンダリーカ・スートラとサンスクリット語でよんでいた。「大きな勇気を出して、総ての生き物の本当の幸福を探さなければならない。それはナム・サダルマ・プンダリーカ・スートラというものである」と、語り、人類無限の宇宙の実相のなかで、農業、土地の開墾に、共歓同苦し、生きていく策を日蓮宗から学んでいる。

 尾崎秀実(ほつみ)は、ゾルゲ事件の連座で逮捕死刑になったが、日蓮宗徒ではないが、獄中で『法華経講義』を読み、その悠久な宇宙の生命にふれ、死を超克する『愛情はふる星のごとく』という題で手紙をのこしている。

 このように、日蓮は明治後期から大正、昭和初期にかけて、大和魂に大きな影響を与えている。排斥を試みられた、真言宗、念仏宗、律宗、禅宗は、平成の時代でも完全に廃宗にはなってはいないが、衰退化していることは確かだ。

 この仏教の興りから日蓮までの倫理思想については、和辻哲郎に『仏教倫理思想史』があるが、これは遺稿で、京都大学での講義ノートがみつかり、死後刊行され、全集の最期の19卷におさめられている。

 日蓮の思想は、このように、巨大、強靱で、死後700年にわたり、大和魂に強烈な影響を与え続けている。
 今頃、嘸かし、三光天子に愛された日蓮め、大宇宙の彼方で、エンケ彗星に跨って、フフと北叟笑んでいることであろう。

おわりに

 「セレンディピティ SERENDIPITY」ということばがある。映画の題名にもなったが、これはイギリスの文筆家ホレース・ウォルポールHorace Walpole (1717-1797) が1754年に友人への手紙のなかで使用した彼の造語で、こどもの頃よんだ童話『セレンディップの三人の王子』から捩った字句である。

 その意味は、「当てもしていないものを偶然にうまく発見する才能のこと」で、常識とおもっている、そのうらに真実がかくされている。物事の真理を、本質を、探り当てることをいう。

 日蓮は仏教に興味をもち、勉学し、ついに、法華経がもっとも仏陀のおしえの本随であることに気付く。そして、政治も自然現象もすべて、法華経から学ぶのであるが、それも、思いがけなく、セレンディピティともおもえる現象を発見し、予知、予見できるまでに、智慧を得た。日蓮の大脳、頭脳の機能は、なぜか、偶然であってはならないほど命中するのである。しかし、周囲の人間は、全く理解できない。

 さらに、なぜ、これほど長期にわたり、日本で信者をふやすことが可能になったのであろうか。それは日蓮宗のなかの、一は、全体主義への反抗、第二に既成を嫌うことではないだろうか。日蓮を生んだ、日本は、これからはどこへゆくのだろうか。

 ホレース・ウォルポールの活躍した18世紀というのは、自然科学分野で、新発見が相次ぐ時代であるが、偶然に発見することも屡々みうけられる。しかし、これもガリレオ(1564-1642)が自然界には法則が存在することを指摘したおかげで、以降に、ニュートン(1642-1727)の万有引力の発見など、物理、医学関係で様々な発見発明がはじまったころで、日本では平賀源内、杉田玄白が活躍していた宝暦の時代である。

 最近といってもすでに40年前になってしまうが、スクリーンの妖精、オードリー・ヘップバーン(1929-1993)は、われわれ日本の団塊の世代の憧れの人です。その魅力に取り憑かれたファンは膨大な数で、嫌いなひとは、まず、皆無でしょう。「麗しのサブリナ」から「オールウェイズ」まで、全映画をみました。とくに、「昼下がりの情事」でゲーリー・クーパーが列車に引き揚げる最後のシーンは何度みても感動します。

 これを中学生のときに神戸国際会館の映画館で、ひとりで、授業をさぼって、学校の制服のまま、かぶりつきで観賞し、感激して、いつか、チェロを習おう、彼女ができて、東京に発つときは、このシーンを使ってやろうかなどと考えながら、阪神電車で自宅の鳴尾まで帰宅。翌日、教官室に呼び出されて、非行により罰則で、廊下に立たされたことがあります。

 クラスの受け持ちの先生が近づき「おまえ、なぜ立たされてんだ」、「昨日映画を観にいって」、「なんて映画だ」「ヘップバーンの昼下がりの情事です」、「いい映画だよな、最後のシーンまでみたか? ン、まてよ、そうか、風紀委員の先生が題目から日活ポルノの成人映画とまちがえたのか」というわけで、放免になりました。今からすると、なんと老成(ませ)ていたことか、そして、懐かしく、苦い思い出です。

 「シャレード」、「パリで一緒に」でのウィリアム・ホールデンとの駆け引きもすてきでした。この「パリで一緒に」は、一端お蔵入りになっていた映画だったそうですが、秘書のヘップバーンがセレンディピティの意味とスペルを聞き直す場面があります。ホールデンが、「セレンディピティとは、人生を二倍楽しめる言葉さ」と、味わいのある回答をします。ぜひ、もう一度DVDをもっている方は確認して下さい。

 コーヒーか紅茶か、英語の発音は難しい。飛行機内で、スチュワーデス stewardessに coffee or tea?ときかれることがあり、これにカフィーと発音を英語らしくして返答しても、やっぱり、ティー紅茶がでてきて、頭にきたことはありませんか。
 これをよく観察し、よく考察すると、スチュワーデスが、返答相手、お客さんの唇の動きで判断していることがわかる。則ち遠くの方から、コーヒーの場合は、ヒーのところを下唇で上歯を擦るような動きがみえればコーヒーで、テ・ィーの前半から舌先が上顎を刎ねるような動きがみえると紅茶をもってくることがわかる。英語の発音と日本語の発音の違いを、偶然、発見するのである。

 冥王星が2006年、平成18年8月24日のプラハで開かれた国際天文学連合の全体会議で、多数決で、太陽系惑星から除外された。第9番目で、アメリカのパーシバル・ローエル(1855-1916)が、これは偶然ではなく、計算上予測し、彼の死後14年の1930年、昭和5年、弟子のクライド・トンボーが写真撮影に成功し発表され、プルートーと名付けられた。和名は野尻抱影氏が命名した惑星である。
 今回の騒動は、ネガティヴ・セレンディピティである。すなわち、偶然ではなく、計算上必然として発見された冥王星を、現在の太陽系惑星の条件から考えなおして、削除されたわけで、冥王星を発見した時の太陽系惑星の条件がすでにまちがっていたことになる。

 現在の太陽系惑星の条件は3つで、1、太陽を回る。 2、自らの重力で球状である。 3、軌道周辺で、圧倒的支配的天体であること。この最後のあやふやな3番目の条件にあわないというのが理由。2003年に冥王星より大きい矮惑星セレスが発見されてしまったのだ。

 アニメ、戦艦大和のめざすは太陽系のかなた、冥王星の向こうであったが、目標はなくなり、夢は壊れた。

 ほんものの大和72,808トンは、いま、大変なブームで、第二次世界大戦のときの世界最大の戦艦で46センチ主砲が9門そなえていて、40キロさきまで、発砲できた。
この、戦艦も昭和20年4月7日午後2時23分、米軍の30発の魚雷を受け、ついに鹿児島の坊ノ岬沖90海里(1海里1,852メートル)、北緯30度43分、東経128度4分、水深345メートル(現在では長崎県五島列島のさきにある男女群島)に轟沈してしまったのだ。
 この大和ミュージアムが呉市海事歴史科学館にあり、ここに10分の1という戦艦大和の巨大な模型が展示されていて、昨年の入場者は、140万人という強烈な人気を誇っている。
 呉の誇り、日本の造船技術の進歩のあかし、母国日本を守る、大和魂が籠っているかのような、巨大な母なる戦艦大和には、大和ホテルと揶揄されても、なぜか神にちかい感覚をおぼえてしまうのが、不思議だ。

参考文献

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2) 渡辺昇一、『甦る日本史』、平成8年、PHP研究所、1996年
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