はじめに
9月21日は世界アルツハイマー・デーです。なぜ、この日が撰ばれたのか、不祥ですが、1994年9月21日にイギリスのエジンバラで、国際アルツハイマー病学会がひらかれており、このときの会長ヤスミン・カーン氏の提案で、この開催日を世界アルツハイマー・デーと宣言したからとされています。
なんだかな〜、記念日の選出にかなり無理矢理、適当の感があるなぁ〜。アルツハイマーの誕生日とか、症例が初めて報告された日とか、であれば納得できるのですが。
平成18年、2006年7月2日、柏アミューゼで、第21回日本老年精神医学会の一分科会として、慈恵大学柏病院精神科教授の笠原先生が会長で、市民講座がひらかれた。400名以上の聴衆で、なかなかの盛会でした。
この日のメイン講座は、高齢者痴呆介護研究・研修東京センター長の長谷川和夫教授のお話しで、日本では、今後、急激にアルツハイマー病、認知症がふえてくること、記憶障害、見当識障害、判断力低下で日常生活障害がでたときに、アルツハイマー病発症といっていいのではないかと定義されていました。
そして、認知症予防にタバコ、暴飲暴食はさけること、趣味をとりいれること、運動で、ナンバ歩行がよいと説明されていました。ナンバ歩行というのは、手と足とが同方向に動く歩行で、極度に緊張して、歩行命令をうけるとギコチナイ、ナンバ歩行になってしまいますが、これを、意識的におこなうと、認知症予防に効果的だそうです。
これは語源的にどこからきているのか不明です。いつもの歩行は「常足」とかいて、なみあし、と読ませます。
江戸時代のヒトはナンバ歩行であったといわれています。
無理のない、ゆっくりとしたテンポで約50分講義されました。さすが世界の、長谷川といわれるだけのことはある。市民にわかりやすく、素晴らしい内容でした。
ドイツの神経学者アロイス・アルツハイマー(1864.6.14-191512.19)が1907年、明治40年に記銘力低下をともなった進行性の痴呆例の病理解剖で、大脳全般の著明な萎縮、老人斑がみられ、これを南西ドイツ精神医学会に報告した。ハイデルベルグ大学精神科教授のクレペリンが彼を大学に招請し、1911年に、この進行性痴呆症に報告者の名前を使うことを提案し、アルツハイマー病と命名したのである。
来年でアルツハイマー病が発表されて100年になろうとしていますが、この脳の萎縮や、認知症の原因はいまだに不明です。アリセプト内服薬で、余命を少しのばせるようになってきましたが、脳萎縮の原因は解明されていません。優性遺伝であることから、1qのプレセニリン2、14qのプレセニリン1、21qのAPP、などが関与していると考えられていますが依然不明です。発症に、遺伝子要素があることが確定的であれば、今後、世界中で、増加していくことは確実です。
さらに、2006年7月9日、「東大、千葉大、柏市合同シンポジウム」と標して、増尾に新設されたリフレッシュプラザ柏の多目的ホールで約400名の市民の方に、『さあ、生活をもっと健康的に、元気に、楽しくしよう』と題して、千葉大学の環境健康フィールド科学センター教授徳山郁夫氏(1947年生)によるスポーツ教育学からみた、健康についての講演があり、自己の殻をやぶる、ライフスタイルをかえる、健康は心のふれあい、笑顔で挨拶をしようとの提案があった。
ついで、東京大学生涯スポーツ健康科学研究センター客員教授小林寛道氏(カンドウ;1943年生)は体幹深部筋を強化することで、脳は活性化され、認知症予防効果抜群であることを自ら改良したトレーニングマシーンK9551の紹介とともに愉快に解説された。
東大学生、静岡市民で実証ずみで、柏市で介護予防の施策に取り入れて貰いたい。予定として、20台設置目標であるという。このマシーンでMRIで腸腰筋、大腰筋が10%強化されることで、認知症、閉じ籠もり予防が可能であるという。いままでの有酸素運動、筋トレマシーンとは考え方は全く逆の、東洋的発想であると本人は語られた。
どこの医師会でも非協力的であったが、今回、柏医師会会長小沼宗心が、是非K9551を試してみたいとのべ、これに対し、やや皮肉をこめて、医師の協力がえられたことは嬉しいとのべておられた。
さて、今回は大和魂のその三で、戦国、安土桃山時代の秀吉と、江戸の吉田松陰です。秀吉に大和魂ありやなしや。松蔭の大和魂は国粋主義を意味しているのだろうか、これらを検証する。
秀吉は前立腺癌、ピック病の疑いがあり、最晩年には、急激に体調をくずしており、日本の政治に大きな影響をあたえている。醍醐寺の桜見屏風にでている秀吉は歩行障害をともなっている。
秀吉の朝鮮征伐
日本の歴史で、天皇になりかわって日本を支配しようとした不敬の輩は、さほど多くはないが、弓削道鏡、源義朝、源義仲、平将門などがおり、もっとも、徹底して馬鹿騒ぎをしてしまった男は豊臣秀吉のみである。その他、天皇を欺して、利用した人間はあとを絶たないが、國を敗戦の犠牲までに追いやってしまったのは太平洋戦争でのA級戦犯者のとくに陸軍の統帥連である。
前の大和魂その一でのべた、神功皇后の新羅への侵攻は皇后みずからの先頭にたっての戦であったので、一国民として海外まで侵攻を司令してしまったのは、過去秀吉以外にはいない。
秀吉は、正月に、太陽の子、日輪の子としてうまれた。母、仲、は「日輪の胎中に入る夢をみた」という。
秀吉に大和魂があったかどうか。織田信長は日本統一後には世界をも、手中に納め、世界の天子になろうとしていた。秀吉は、これを教わっていたものと考えられるが、結論からいって、秀吉には大和魂はみとめられない。
秀吉は、愛知県名古屋市中村の出身で1536年、天文5年丙申(ひのえさる)1月1日生まれで、両側か、片側か、どの指か不明であるが6本指の多指症であった。遺伝的特異性をもっていたのであろう。確率として、両手で、両足の親指が2本の多指症であったろうと推測されるが、一般には右手の親指のみとみられている。しかし、1598年慶長3年8月18日62歳で胃ガンのため死亡。
信長(1534-1582)に足軽として仕え、その奇才が冴え渡り、天下統一まで昇り詰める。これは、奇形をもった障害者のコンプレックスの裏返しの頑張りと、母親のプラス思考から来ているのかもしれない。
足軽の木下藤吉郎24歳。26歳の信長から熱田神宮の拝殿内に鎧と鳩を一羽、しのばせてくるように、指令をうける。1560年永禄3年5月19日の仏暁(ふつぎょう)、信長は、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如く也。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきか」と『敦盛』を謡い幸若を舞い、突如、具足、鎧、兜に武装し、法螺貝を合図に出陣するのである。家来は岩室以下藤吉郎をいれて、たったの六人。
熱田神宮に着いて、戦勝祈願のときには僅か6騎200の雑兵が集結し、拝殿の扉を細目あけると、鎧は鏘然(しょうぜん)と鳴り、鳩が飛び立つ。信長、「これ吉報なり、わが志は、神も御照覧あり。みなのもの、敵、今川は桶狭間にある」。この秘計、秘策、奇襲によって、信長は少数で桶狭間の今川軍4万に勝利するのである。
大町桂月(1869-1925;高知出身)は、これを「英雄、人をあざむくものかな」と詠んだ。これは『現代人の日本史14』尾崎士郎の序章で紹介されており、戦前の小学校の教科書にでていたようだ。
元亀元年、1570年4月25日、当時、木下藤吉郎34歳。越前手筒山、浅井、朝倉との戦で、「金ヶ崎の退き口」といって、信長が挟み撃ちにあうところを、殿軍(しんがり)で、金ヶ崎城で堪えた。これ以降、28年間、秀吉は天運に尽きまくっていくのである。
天正2年1574年正月の酒宴に、浅井備前長政・浅井下野久政・朝倉義景の三雄の曝首、髑髏が信長の発案で、漆塗り金粉をかけて、盃がわりにだされた。信長の妹お市の方は浅井に嫁でいた。この場面は、信長の親衛隊6名のうちの一人、弓の名手、太田和泉守牛一の書いた『信長公記』に描かれている。
その巻七、「天正2年甲戊、朝倉義景・浅井下野・浅井備前三人が首。御肴の事、正月朔日、京都隣国の面々等、在岐阜にて、御出仕あり。各三献にて、召しだしの御酒あり。他国衆退出の已後、御馬廻ばかりにて、古今に参り及ばざる珍奇の御肴出で候て、又、御酒あり。昨年北国にて討ちとらせられ候、一、朝倉左京大夫義景首。一、浅井下野、首。一浅井備前、首。已上三ツ、薄濃にして、公卿に居ゑ置き、御肴に出だされ候て、御酒宴。各御謡・御遊興。千々万々。目出たく、御存分に任せられ、御悦びなり。」
お市と長政の間の子、万福丸、万寿丸は秀吉の手で処刑された。のちにお市が秀吉を憎み遺恨となる。
信長の戦法のうち、鉄砲を用い馬防柵から列をなして、次から次へと間断なく一斉射撃していく方法は長篠の戦い(1575年)で採用された。
この方法はヨーロッパでは、まだ用いられておらず、一斉射撃法はスウェーデン王グスタフがハプスブルグ軍を破った1630年が最初で、馬防柵を用いたのはヨーロッパ軍とオスマン・トルコ軍の戦いで、1691年のことで、信長が、当時、世界一の戦術思想家、天才頭脳の持ち主であったかがわかる。秀吉は、身近にいて、信長の天才的知能を知りつくしていたのであろう。
秀吉は、播磨姫路、但馬、備前、高松の水攻めで、落城の名手とうたわれ、織田家来中でも筆頭に上り詰める。
1582年天正10年6月2日の本能寺の変で、曠古(こうこ)の天才信長は、逆心光秀に倒された。
この時、天下四茄子の一つ、茶入の珠光小茄子(しゅこうこなす)など多くの茶道具の名品も焼失している。この頃の茶会は、今の政治パーティーのようなもので、茶人、ポルトガル人も含まれていて、国際色豊かな会であった。いわゆる信長の「茶の湯御政道」である。
長男信忠は妙覚寺で、変の報をきいた。本能寺のすぐ西にある二条城まで、500名の軍勢をすすめたが、事遅し。皇太子・誠仁親王(さねひと;第106代正親町天皇の長男で、天正14年病死、この長男が後の第107代後陽成天皇である)を逃がさせ、自分は父の死を聞いて、光秀軍と戦わずに、自害してしまった。
小紫の肩衝(かたつき;茶入)、豊後天目(茶碗)を遺して、所司代村井貞勝も殉じた。この茶道具は後、秀吉のもとに届けられている。
信長の実弟信澄は、本能寺の変の3日後の6月5日に、信長の三男信孝と丹羽長秀に大坂城で殺害され、堺で晒し首にされた。信澄は光秀の次女の婿であったためとされている。
信長を討ったことを、光秀は毛利に急告し、秀吉の動きを封じ込めようと使者を出した。しかし、使者は、偶然、秀吉の網にひっかかり、6月3日に高松で秀吉にしられてしまう。秀吉は、高松城主清水宗治切腹落城、毛利軍との和議を急ぎ、急遽、主君の仇きと、京都に向かう。高松から2日後の6月6日に姫路城につき、6月10日に尼崎に到着している。いわゆる、「中国大返し」で、13日、秀吉に伊丹城主池田恒興、高槻城主高山右近、茨木城主中川清秀らが加わり4万の兵で、光秀の1万5千の兵と、山崎で戦い、数時間で光秀軍は敗北した。
光秀自身は大津に逃げるため夜陰に紛れて脱出し、伏見から山科に抜ける小栗栖の竹藪のなかに潜んでいたところを、百姓に襲撃され、殺された。
安土城にいた明智秀満(光秀の長女婿、この娘は荒木村重の嫁であったが天正6年11月に村重逃走で離縁になった)は、堀秀政に包囲され焼け落ちる城内で自害した。明智光秀の家老斎藤内蔵佐利三は堅田でとらえられ首を刎られている。
この後、清洲評定が開かれ、秀吉は次男信雄、三男信孝は無視し、信忠の長男、3歳の三法師(織田秀信)の後見人となる。お市の方は三姉妹とともに、織田家宿将筆頭柴田勝家の北の庄に入り、信長の百日忌法要を9月12日に山城妙心寺で執り行った。その後、10月15日に秀吉の手で京都紫野龍寶山大徳寺において大法要の葬儀を行ったが、これには市、勝家は参列していない。
天正10年1582年11月から、大坂城の普請をはじめる。小豆島から巨大な基礎石を運ぶように小西行長に命令している。
天正11年1583年4月21日賤ヶ岳の戦いで、勝家と市は自害した。後に、市と長政のあいだの子たちの、茶々は秀吉の側室淀君、初は京極高次に嫁ぎ常高院、お江与は徳川秀忠に嫁いだ崇源院である。因みに、明智光秀の家老斎藤利三の娘がお福、春日局で、お江与を大奥で毒殺している。
次いで、信雄(のぶかつ;次男)が家康の援助を受け、叛乱をおこし、小牧・長久手の戦いをおこす。秀吉不利の状況であったが、このとき、奇抜なアイデアを考えつく。
朝廷、第106代正親町天皇(おおぎまち)に相談したのだ。百姓の出の人間が、である。1585年、天正13年、2月、信雄に正三位権大納言の地位をあたえる。これで、納得させておいて、休戦。秀吉はすぐ3ヶ月あとで、1585年、天正13年、5月に自分を関白・内覧・氏長者に認めさせ、藤原朝臣の姓を賜り、御所への参上も馬で可能な兵仗牛車を許され、天下人になったのである。後に豊臣の新姓を考え出す。
これによって、家臣をもたない百姓あがりの人間が、織田家のみならず、武家の筆頭にのしあがった。これが秀吉の見事な日本統一の原理を発見した一瞬である。
信雄は以後、秀吉側につくが、小田原征伐後、駿河國転封を命じられる。これを拒否したため、常陸國佐竹氏に預けられ、その後、伊予道後、京都にうつりすみ、最後は能の名手、茶人として、悠々の生活ののち逝去。墓はどういうわけか、東京練馬の広徳寺にある。
三法法師の秀信は、安土城、坂本城に移され、1596年慶長元年5月に従三位中納言となるが、キリスト教に入信し、関ヶ原で石田三成に説得され、大阪側につき、敗退。高野山に逃げ込み、慶長10年26歳で死去。
織田家から相続を奪った秀吉は、四国、北陸を平定し、天正13年9月3日付一柳末安宛の朱印状に、「日本国は申すにおよばず、唐国までも仰せ付けられ候心に候か」と述べている。
京都の住居として聚楽第を1586年、天正14年9月に平安京の大内裏跡、上京区にたてる。9年後、1595年、文禄4年に伏見城に移ったため取り壊されている。第107代が後陽成天皇で、1586年、天正14年12月19日に即位している。
そして、第107代後陽成天皇の即位後、天正15年3月の九州の平定を2ヶ月で終える。
この時の、兵站の係が石田三成、長束正家(なつかまさいえ)で、兵30万、調達馬2万頭を小倉に集結させ、食糧、糧秣を1年分あつめるという、近代的兵站業務、後方補給の思想、ロジステックス兵法を展開している。
とくに近江出身の長束の算勘術能力は抜群で、彼のおかげで大軍を動かす能力は格段に近代化されたのである。家康は蕭何(しょうか;漢の高祖劉邦を助けた)の才ある長束を採用した太閤秀吉の人の見る目に感歎している。この頃から、秀吉は世界一の政治力を身につけたことを実感し、印度、明、台湾、朝鮮を侵略する用意があることを何度も記している。
味をしめた秀吉は、1587年、天正15年6月15日に対馬の宗に、朝鮮との交渉にはいるように指示している。対馬の宗は、秀吉には朝鮮李国王を必ず参洛させるからと約束するが、果たさず、秀吉には朝鮮李王が日本にくると虚偽の報告をする。
さらに、博多で、6月19日バテレン追放令5箇条を発令する。日本は神の國、仏教の國であるので邪教の弘教はゆるされない。即刻、10日以内に邪教者は国外追放となった。
これらの政治、外交ブレーンに、相國寺の西笑承兌(1548-1608;さいしょうじょうたい)がいた。秀吉を持ち挙げて、漢才を駆使して、関白政治の一員に採用され、外国交渉の国書を草案している。彼が曲者で、秀吉に仕えてる時は朝鮮侵略の草案『征明嚮導』を起草し、逆に家康では、終戦処理、国交をまとめている。
さらに、強い軍隊をつくるために、「身分統制令」を出し、兵農分離の政策として、1588年天正16年に刀狩を施行し、さらに徴兵の陣夫の獲得のために戸口調査をおこなっている。
1589年、天正17年5月27日に茶々が子鶴松丸を出産。
そして、1590年、天正18年3月小田原へ出陣し、7月11日北條氏政は自刃、続いて東北も平定した。これで、天下統一である。
その後、京都に戻り、聚楽第で利休の茶会を9月23日にひらき、10月には本願寺の顕如のすすめで有馬温泉で湯治。国民の心は翕然(きゅうぜん)として秀吉に向かっていた。
天正19年、正月20日、征明準備の為諸国に軍船建造命を出す。「東は常陸より南海をへて、四国、九州にいたって、海にそいたる國々、北は秋田、酒田より中国にいたって、その國々の高、十万石について、大船二艘ずつ用意これあるべきの事」
しかし、これらの超強運も1591年、天正19年1月22日異父弟秀長の郡山での病死から、その調子はおかしくなる。同年2月28日利休自害。8月5日3歳で鶴松丸病死。
8月6日には朝鮮出兵準備の命令を下している。10月に九州唐津の肥前名護屋城の普請をはじめる。12月28日秀次に関白をゆずり、自分は太閤となる。この時55歳で、跡継ぎ問題に悩みはじめる。
天正20年1592年1月5日に朝鮮へ16万人出兵の「掟」を発表。2月27日、先鋒を小西行長、宗に決定。ついに、朝鮮経由で、後陽成天皇が明入唐させることを決意し、假途入明、すなわち「朝鮮に明への道を借り」る名目で、まず朝鮮に派兵するのである。
朝鮮征伐いわゆる文禄の役(壬辰の倭乱)で、一番乗りは小西行長と宗義智の軍で、1592年、天正20年4月12日に釜山上陸し8000人を斬首した。第二軍が加藤清正で、第三軍は黒田長政で、計16万人を投入。20日後の5月3日には早くも、ソウル陥落。東門から小西、南大門から加藤清正が入京。
これは平和の国、朝鮮国と戦国時代の日本との違い。しかし、この後、日本軍は朝鮮全土をどのように攻めていいか、不可解になってしまう。また、秀吉の命令と、戦争現場、特に小西行長の状況判断が食い違ってくるのである。
秀吉は3月京都を出発し、「山伏の御したて、頭巾、すずかけ、かいのををひかせられ」た奇妙な出で立ちにて、九州の唐津肥前名護屋城に4月25日に到着し、この名護屋城から指令をだしていく。このとき、相國寺の西笑承兌、南禅寺の玄圃霊三、東福寺の惟杏永哲を同伴させている。
名護屋城に着いて、すぐに、ソウル陥落で、以後、攻め込んでも、攻め込んでも、明国からの反応はない。ズルズルと戦はすすむ。
朝鮮では、8ヶ月後に民兵がたちあがり、反撃。1593年文禄2年2月、幸州山城の戦いで、宇喜多、小西が朝鮮兵の逆襲にあい負傷。3月、龍山の兵糧倉を焼き討ちされ、小西と沈惟敬の間で和議にはいる。1593年文禄2年3月に和議三箇条がだされるが不発。4月にはソウルから倭軍は撤退した。朝鮮半島の南岸に倭軍待機の状態が続き、約3年の長い休戦期にはいる。この間、引き揚げは許されず、倭軍は、朝鮮本土で、食いつないでいくのである。6月和議につて、秀吉の要求と戦場での交渉内容とが合致しない。
天正20年1592年7月22日、仲、大政所死去。この為7月29日、大坂城に帰城。自ら朝鮮に海渡しようとするが、後陽成天皇より、中止するように勅下向うける。10月1日再び名護屋に出立。名護屋城から京都伏見区に伏見城の普請見積もりを1592年文禄元年年末12月11日にだす。
1593年天禄2年1月5日正親町天皇崩御。和議交渉について、秀吉は名護屋から指令をだすが、解決されず名護屋に滞在。
淀君(茶々)の子秀頼が1593年文禄2年8月3日にうまれる。秀吉は8月15日名護屋を発つ。8月25日に大阪城に帰城。文禄2年1593年閏9月20日に普請中の伏見に移住する。これより、以降は名護屋に行くことはない。
1594年文禄3年、体調崩し有馬温泉の湯治が続き、4月には尿失禁がはじまる。視力も低下。
8月23日石川五右衛門が三条川原で釜茹での刑に処される。五右衛門は伏見城に盗みに入り、秀吉の寝床で茶道具の宗の青磁の香炉の「千鳥」に手を付けた。蓋の飾りの千鳥が鳴いて知らせ、捕らえられたと伝えられている。おそらく、手が滑って落下してしまい、大きな音がしたものと思われる。「千鳥」は今も完品で徳川美術館に遺っている。秀吉がどこから入手したかは不明。
1595年文禄4年4月8日に秀頼の病気見舞に伏見城に入城。まだ、聚楽第、大阪城、有馬御殿を転々としている。
弟の秀次は殺生関白といわれ、古筆マニアで、前田利家の妻、まつ、芳春院の所有する源兼行筆の桂本万葉集の巻一の巻頭と巻末の奥書の部分を切り取って、自らの手鑑にしてしまった。
4月16日郡山の羽柴秀保(秀次の弟)が17歳で横死、十津川に入水自殺とみられている。その3ヶ月後、1595年文禄4年7月15日殺生関白秀次を謀反のため自害させる。さらに、秀次の妻、子、側近すべて京都三条河原で斬首という極端な処分をおこなった。
秀頼に世継ぎさせるため、自分の弟、関白まで任命させた秀次を自害に追い込み、さらに親族すべてを斬首という、気違い沙汰の行為にでたのである。淀君の遺恨で、呪われたのか、このころから、感情不安定で、前頭葉萎縮症状、ピック病の症状が顕著となる。
秀吉の体調すぐれず、1595年文禄5年まで、聚楽第、名護屋、有馬温泉御殿、家康伏見御殿、大坂城を転々として暮らし、1596年文禄5年2月14日にやっと伏見城に入城する。しかし、伏見城は1596年文禄5年、5ヶ月後に大地震で崩壊。天守閣は修復されたものの、江戸時代家光のとき1623年に取り壊されている。
1596年、文禄5年閏7月9日に、伏見に大地震発生。伏見の千畳敷、城内外の金箔、15万人の軍隊パレードを予定していたが、この大地震で秀吉の予定は崩壊する。明の使節との交渉の場を大坂城に急遽、変更した。
大坂城において、9月1日、気が滅入っている秀吉に、その使節、楊方亨、沈惟敬が、明国書封冊の始めを読み上げた。
頼山陽 日本楽府の第66■、最終■(■は門の中に癸)
裂封册 封册を裂く
史官遺倒日本王 史官は読みて日本王に到る。
相公怒裂明册書 相公は怒りて明の冊書を裂く。
欲王則王吾自了 王たらむと欲すれば則ち王たり、吾自ら了す。
朱家小児敢爵余 朱家の小児、敢て余を爵せむや。
吾國有王誰覬覦 吾が國に王有り誰か覬覦せむと。
叱咤再▲八道血。 叱咤して再び▲む八道の血。(▲は蝶の偏が足)
鴨緑之流鞭可絶 鴨緑の流、鞭して絶つ可し。
地上阿鈞不相見 地上に阿鈞と相見ず。
地下空唾恭献面 地下に空しく唾す恭献の面。
明の王は貴殿秀吉を日本の王と認めてやるという。これに相公秀吉は激怒し、封冊を裂いた。自分が勝ちとった王座である。明に今、攻め入ろうとしているのである。勘違いも甚だしい。おれが王である。
明の小倅になんで、任じてもらわなければならないのか。わが日本には唯一の王、帝おわしまし、何びともその位を犯すことはできないのである。
叱咤して、八道の朝鮮に、再び攻め入るぞ。鴨緑江に鞭を投げて、この川の流れをせき止めてやる。
然し、この世で明の王に会うことはできなかった。あの世で恭献王義満の面に唾を吐き捨てていることであろう。
この明の大使が引見したことは事実であるが、秀吉が册を裂いたというのは粉飾である。なぜなら、その册は絹製で厚く、簡単には裂けないことと、堀尾茂助吉晴があずかっていて、その後、伊勢亀山城の石川主殿頭の手にわたり、現在大阪市立博物館に引き裂かれずに遺っているからである。
1597年慶長2年2月、怒った秀吉は、再度、朝鮮征伐派兵を命じる。朝鮮の慶長の役(丁酉倭乱)である。まだ地図のない時代であったので、どこまで攻め込めば、明、朝鮮が降伏するのか不明で、倭軍も長期の朝鮮南岸の駐屯にウンザリしていた。
戦略基本方針は慶尚道南岸の倭城の備え強固、全羅道の穀倉確保、忠清道、京畿道、ソウル再攻略であった。
うだつは上がらず、ズルズルと、士気も低下してきている。斬首の首を戦果のために塩付けにして日本に送らせていたものを、今度は鼻のみでよいとして指令する。
5月14日に伏見城の天守閣が再建される。
8月、島津義久らは南原城を陥落させ、421の鼻を日本に送る。以降、月に3000以上の鼻が届けられる。鼻供養塔が方広寺に造塚され、あの西笑承兌が導師となり、卒塔婆を書いている。9月舜臣ひきいる水軍に鳴梁の海戦で倭軍が敗退する。11月に明軍がソウルに到達し、加藤清正軍敗退。
年は変わり、1598年、慶長3年3月15日に醍醐寺で花見、これが最後となった。この様子を描いた醍醐花見図屏風は国立歴史民俗博物館蔵で、傘下で、亀背で、前屈みで、足下も覚束なく、架け橋を渡ろうと、つんのめった姿はどうみても62歳とは思えない、老人の姿である。早老症であったのかもしれないが、ガンに冒されていた。
4ヶ月後の7月15日、いよいよ、秀吉の病状は悪化し、6歳の秀頼を宜しくと諸大名に起請文を提出する。
「秀より事、なりたち候ように、このかきつけ候衆としてたのみ申し候、なに事も、このほかにおもいのこす事なく候、かしく。秀より事たのみ申し候、五人の衆たのみ申し候たのみ申し候、いさい五人の者に申しわたし候、なごりおしく候」。利家、家康、毛利輝元、上杉、宇喜多秀家ら5大老が誓約血判書を提出。
ついに、8月18日、62歳で、秀吉は伏見城で永眠。征夷大将軍ではないため、幕府は開けず、朝鮮征伐の終戦処理もあり、秀吉の死はかくされ、死体の処置、安置所も不明で、法要、葬儀も執り行なわれてはいない。密葬であった。
その後、家康、利家らで、朝鮮派兵、終戦処理をおこなう。8月22日には朝鮮在番衆と和議について相談している。8月25日二人の王子を引き取り、調物と釜山城は残すとの和議3箇条をおくりつけている。しかし、秀吉快気したと伝える。9月27日明郡加藤清正が撃退する。終戦処理がおえたのは 1599年慶長4年の小西行長がやっとのおもいで、帰国。秀吉の葬儀は慶長4年2月18日に奉行のみで密葬でおこなった。しかし、その直後に前田利家が慶長4年閏3月3日に死亡。家康の一人舞台となる。
朝鮮出兵がなぜおこなわれたのかは、この愚挙の原因ははっきりした事実はわかっていないが、経過からみていくと、やはり秀吉の思い上がりと、見当識障害、認知症のためだろうと考えられる。
昭和60年、わたしが37歳の時ソウルで、日韓泌尿器科会議がおこなわれ、はじめて、大韓民国にわたったが、ソウルのひとびとの、豊臣秀吉、伊藤博文、関東軍嫌いは強烈で徹底していた。文禄・慶長の役を壬辰・丁酉倭乱として、朝鮮側からの目を通しての史実を精査し直す必要がある。日本の史料では小西および清正の確執、軋轢もあり、真実の情報とはなっていない秀吉への報告書が、多数、存在しているためだ。
結論として、「英雄、人をあざむくものかな」の信長におそわった秀吉の大和魂は崩壊しており、それゆえに、国外侵攻には大義名分はなし。みずからの力を誇示したにすぎないのである。
おわりに
ヘルマン・ヘッセのことばに、Mit der Reife wird man immer junger というのがある。人は成熟するにつれて、いよいよ以て若くなる。老いて、益々、壮んなるべし。
このように、その国の心意気というか、国家の成立で、その国を守り、育てていく、住みよい国造りでは、その国民のこころ、魂が鼓舞されればされるほど、その國はいよいよ以て若くなり、益々繁栄し、文明文化国家が熟していくのである。
日本には上古より、大和魂が、芽生えており、他国との戦争がある場合は、この大和魂が強調されるのである。
日本の海外進出は、大和魂その一でのべたが、古代より見られ、中世においては、後醍醐天皇を吉野に遷都させた足利尊氏が、自ら天竜船をつくって、元との貿易に手を付け、海外進出をおこなっている。尊氏の時代の1350年から1444年の間、倭寇と称した日本の海賊船が朝鮮に侵入し、天竜寺建立の資金にあてられている。南無八幡大菩薩の長旗を立てていたため、八幡船ともいわれ、九州士族および室町幕府の収入源になっていたのである。1592年の秀吉の御朱印船がはじまるころまで続いたといわれる。いまや歴史で語られることもすくなくなっている事実である。
日本人気質と能
幸若舞の『敦盛』は、平家物語からのもので、謡曲、能には入っていない。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如く也。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきか」の下天は、佛教用語で、人間界をさすのではない。之は『倶舎論』の「人間五十年、下天一昼夜・・・」からきており、下(げ)にある天界は、天のうちのもっとも下級、具体的には四天王の世界をさしている。よって、四天王の界に比べれば、人間界は夢幻のごとくであるという意味である。
日本人の気質、容気、について述べられた、明治40年から大正の期の大ベストセラーである、『国民性十論』は、筆者者は芳賀矢一(1867-1926)で、福井県出身の東大国文学者で、のちに國學院大学の学長になっている。
このなかで、忠義のはなしとして、芳賀は能、謡曲から「鉢木」、「鳥追船」、「望月」「藤」、をあげている。その内容を掻い摘んで紹介する。
鉢木(はちのき);鎌倉時代、ある旅の僧、実はこの僧は足利幕府執権北条時頼で、彼が上野国佐野(高崎の東)で大雪に遭い、貧困民家に一夜、泊めて貰う。民家の主人は生活零落のなか、粟の飯を出してくれ、大切な鉢の木(盆栽の木)をもやして、暖をとらせてくれた。僧はこの主人はただものではないと思い、主の素性をききだした。佐野源左衛門尉常世といい、一族に本領を横領せられて零落している。しかし、鎌倉に一大事が起ったならば、一番に駈け参じて、討死する覚悟だという。
この僧は最明寺時頼で、鎌倉に帰り、軍勢を集めると常世は参上しているのを見て、その忠節を感じ、本領を復せしめ、梅桜松の盆栽を与えたという話。元の話は、吾妻鏡増鏡卷11の「草まくら」である。
鳥追船(とりおいぶね);薩摩の日暮という殿が訴訟のため、京にのぼっていた。留守を守る左近尉(さこんのじょう)は、浦に毎年やってくる野鳥が騒がしく、これを追いやる人手が不足しているので、殿の若とその母を使用人が逆に使って、船にのって鳥を追いやる仕事を強制していた。もし、この仕事をしなければ、この家から出て行けといわれていた。そこに、日暮が訴訟に勝って、郷里にもどってくるが、そこで、鳥追船の光景をみて、急いで、近寄ってみると、吾が子ではないか。
帰宅し、左近尉の無礼、不忠に怒り、かれを、殺そうとするが、妻は許してやってくれと窘める。その罪を免じ、忠義をつくすように諭す。
「さてこの後にかの人は。さてその後にかの人は、家を花若つぎ櫻。若木の里に隠れなき。五常正しき弓取の。末こそ久しかりけれ末こそ久かりけれ。」その後若君が家督し、その道徳も正しく、家は栄えたという。
忠義なきものは亡びる、妻は夫を恋し、その仁愛の籠められた話である。
望月;仇討ちのはなし。信濃国安田荘司友治が望月秋長に殺害された。安田家臣は離散となった。家臣の一人小澤刑部友房は近江で宿屋を営んでいた。安田の妻子は望月の迫害から逃れるため、さすらいの旅にでていた。近江に宿をとったおり、小澤の甲家で思いがけない邂逅(かいこう)によろこぶ。たまたま、その宵、仇の望月が宴会をひらいていた。小澤は酒を望月に鱈腹、呑ませ、酔っているところを安田妻子が望月を殺し、本懐を遂げるというはなし。
藤;零落した都の藤原一門の僧が善光寺に参る途中、藤の名所、越中の多ごの浦に到着し、盛りの藤の花をながめ、藤の花に寄せてわが身の零落を嘆くが、花の精が現れて、忠義を怠るなと励まされる話である。
新古今和歌集の慈圓の歌で、
おのが波に同じ末葉ぞしをれぬる藤咲き多ごのうらめしの身や。
萬葉集の大伴家持の歌で
多ごの浦や汀の藤の咲きしより波の花さへ 色に出でつつ
万葉の19巻
続後拾遺集の藤原房実の
多湖の浦や汀の藤の咲きしよりうつろふ波ぞ色に出でける
零落といえば、夏目漱石の『行人』のなかで、紹介されている「景清」がある。来訪以来、フェノロサ(1853-1908)は日本の能、謡曲に興味を持ち、英語文学の平田禿木の協力で、実際に、梅若実に入門していた。そして、フェノロサ未亡人が大正2年1913年の年末、エズラ・パウンド(1885-1973;アメリカの詩人1903年からロンドン居住)を通じて西洋に謡曲、能を紹介しており、ウィリアム・バトラー・イェーツ(1865-1939;アイルランドの詩人、神秘主義、ノーベル文学賞)らが『日本の高貴なる演劇』として、欧米に紹介し 、さらに、彼等は『錦木』を英訳し、『鷹の井』を創作している。
最近では、免疫学者の多田富雄氏は鼓、能面のコレクターとしても有名であったが、『一石仙人』アインシュタインを題材にした能を創作していた。現在、脳梗塞で右完全麻痺で、特訓リハをうけておられる。国際会議と恩師石坂公成先生の介護という重責が原因と自ら語っておられる。
モーツァルトはすでになくなっているが、ワーグナー(1813-1883)が楽劇を興し、ヴェルディ(1813-1901)もアイーダを発表したのは明治後期であり、このように、ヨーロッパに日本の能NOHOが紹介された大正2年から、すでに93年にもなっているのである。
景清;平家の勇士悪七兵衛景清(かげきよ)は源氏に追われ、宮崎に落ちぶれて、清光を見ざる盲目で乞食をしていた。熱田で、遊女にうませた娘、鎌倉の江が谷の長にあずけられた人丸という女が、父を慕って、遙々日向まで来たが、本人は盲目である。しかれども、その声をば聞けば面影を見ぬ。名のらで過ぎし心こそなかなか親の、絆なれなかなか親の絆なれ。しかし里人にきけば父に間違いないという。景清はかつての屋島の合戦の三保谷で自らの兜の錏(しころ)を取り外し、卑怯なる義経に飛びかかった武勲の一端を披露し、このまま死ぬのが本望と、はや、立ち帰り亡き跡を、弔い給いぬ。さらばよ止まる行くぞとの。唯一つ声を聞き残すこれぞ親子の、形見なるこれぞ親子の形見なる。
錦木;旅の僧が陸奥の狭布の里で、細布をもった女と錦木(にしきぎ;落葉樹)をもった男が売り物をしている。細布は鳥の羽で織ってあり、胸あい難き恋いに喩えて、錦木は色どり、飾った木で、女の門に立てて求婚のしるしにするものだという。
三年間も錦木を立て求婚していた男がついに死んでしまった。その墓、錦塚に、このふたりの男女につれていってもらうが、そこで二人は塚のなかにきえてしまった。ふたたびあらわれ、舞いをまう。しかし、これは、夢であった。
キリシタンの人々
1492年に西廻りで、コロンブスがアメリカ大陸に到達し、葡萄牙(ポルトガル)のバスコ・ダ・ガマが東まわりで、喜望峰から印度に辿り着いたのが1497年である。日本は、明応6年で足利義稙(よしたね)の時代で、戦国時代のはじまりである。この60年後にザビエルが日本にキリストを伝えている。
日本初の南蛮外科医、ルイス・デ・アルメイダ(1525-1583)は、1564年、永禄7年堺に着いてフロイトとともに京都にのぼった。彼はすでに九州の大分に孤児院、病院を建設し、診療治療をおこなうとともに、弘教もおこなっていた。アルメイダは行長が宇土に赴任する5年まえの1583年に天草で死去、記念碑が長崎市春徳寺にある。
ルイス・フロイス(1532-1597)は1563年に長崎横瀬浦につき、1564年に京都に到着し、信長に就き、教会建設にも力添えをえて、『日本史』を著した。フロイスは京都の下京区四条坊門姥柳町の協会で、永禄8年、8歳の行長に会っている。
秀吉の九州征伐のとき、1587年、天正15年に伴天連追放令がだされ、フロイスは京都を追われ、長崎に逃げ帰っている。そして、九州の大友宗麟らの名代として、天正10年に送られた遺欧少年使節の4名が10年ぶりに帰国した時、フロイスは長崎から彼等に同行し、天正18年、1590年、聚楽第で秀吉に謁見している。この時、ジョスカン・デ・プレの曲を演奏したといわれている。1597年、慶長2年5月24日に長崎で没した。
小西行長は(1558-1600)、永禄元年、京都で、商人、小西隆佐(りゅうさ)の次男として生まれた。父の隆佐は、堺で薬種商を営んでいたが、フランシスコ・ザビエル(1506-1552)が1550年、天文19年九州平戸に上陸し、翌年1月に堺に着き、隆佐は同伴して京都にのぼり、日比屋了珪とともに宿を世話している。
ザビエルは、わずか11日間の京都の滞在で、第10代足利義輝将軍、第105代後奈良天皇への謁見は不可能で、失意のうちに平戸にかえっている。この時、隆佐自身が熱心なキリシタンになった。ザビエルは翌年1552年、ポルトガル船でインドに渡るが、マラッカで死亡してしまう。
行長は幼少弥九郎と称し、岡山の魚屋九郎右衛門(ととや)に養子にはいり、その後、20歳で、備前の宇喜多直家に仕えていた。秀吉が播磨平定のおり、天正6年1578年、行長は、宇喜多直家の使者として、信長との和睦交渉にあたっている。ここで、歴史上はじめて行長が登場し、このときから秀吉の目にかかかり、茶人、堺商人、ポルトガル人との仲買人になっている。
天正10年には小豆島の拝領領主になり、大坂城の巨大な基石を瀬戸内海から、淀川をへて、大坂城に搬送している。天正16年1588年、31歳で、熊本と八代の間に位置する宇土の14万石の城主となっている。
その4年後の天正20年2月、文禄、慶長の役で、先鋒として、功をあげ、帰国。関ヶ原では、石田三成の西軍につき、伊吹山中で竹中重門の手勢におわれ捕らわれ、六条河原で斬首された。三成、安国寺恵瓊、水口城で自殺した長束正家ら、文治派の首とともに、三条大橋のほとりに懸けられた。本人はキリシタンとしてではなく、武士として闘った。娘は対馬の宗義智に嫁いでいる。
細川ガラシャ(1563-1600)は、明智光秀と熙子の間に生まれた三女玉で、細川忠興に嫁ぎ、相思相愛であったが、本能寺の変で、逆臣の娘として丹後に幽閉、その後大坂城に移され、侍女の清原マリアの教えでキリシタンとなる。関ヶ原で細川は家康側につき、三成が大坂の細川屋敷にいたガラシャを人質にとろうとすると、家老の小笠原に胸を突かせて死んだ。
高山右近(1552-1615)は、摂津高槻城城主であったが、かなり早期、1564年12歳で、ロレンソ了斎からキリスト教の洗礼をうけていた。信長からは保護を受けるが、秀吉のキリシタン追放令をうけて、城主をすて、小豆島にわたり、行長に世話になるが、その後、天正16年には金沢の前田利家に扶持する。利家も亡くなり、徳川の世となり、1614年慶長19年には迫害つよく、日本を脱出しマニラに移住し、当地でその1年後になくなった。
最晩年については加賀乙彦氏の『高山右近』にくわしい。細川忠興にあてた最後の書状が国立博物館にのこされている。
秀次については別のコラムに掲載したいが、関白をひきうけて、実務をこなしていたのである。なぜ、急に殺生といわれ、謀反を問われ自害においこまれたのか、この人を遺しておけば、淀との間の秀頼とかんがえたのか。純にかんがえれば、豊臣の地代はさらに少なくとも50年以上は引き延ばされていた。
ふりかえってみれば、九州征伐の折り、1587年、天正15年6月15日に対馬の宗に、朝鮮との交渉にはいるように指示し、さらに、博多で、6月19日バテレン追放令5箇条を発令する。日本は神の國、仏教の國であるので邪教の弘教はゆるされない。即刻、10日以内に邪教者は国外追放とした。
この天正15年、1578年は日本外交にとって、きわめて重要な年で、地上で、世界の覇者と思いこんだ秀吉が、外交を一方的に拒否し、日本を世界から孤立させた、完全に大和魂を消失してしまった年である。
徳川時代にはいり、家康の死後、幕府は1616年元和2年8月8日に、伴天連宗門御禁制奉書を発して、キリスト教を厳禁し、徹底的に排除していく。
黒船来航の1853年嘉永6年6月3日までの275年間の急速な変動、とくに科学、産業革命の情報を得ないまま、日本独自の社会をおくってきたのである。
信長の茶道具の行方
茶道(ちゃどう;茶頭をさどう、というので、これと混同しないように、ちゃどう、とよむ)は、武士としては、北山の義満の時代から興隆し、将軍の収集した茶道具は、東山の第8代足利義政に引き継がれたので、これらの品を東山御物といわれる。御物は元々皇室所蔵の品々をいうが、武士の足利が使用している。この東山の品整理を能阿弥(1397-1471)がおこなっていた。
そのころの御物として寵愛された茶釜で、五島美術館に今ものこる、「芦屋獅子牡丹地文釜」がある。芦屋は灘の芦屋ではなく、筑前の芦屋で、鋳造された釜で古いものは、1200年頃、栂尾明恵上人が、この地で釜を鋳造したことが、古文書にのこされている。
茶道、点前に必要な道具と、その作法を、台子(だいす)の法というが、これは、南浦紹明が入宋して、径山寺(きんざんじ)の虚堂智愚から受け継ぎ、1267年、鎌倉時代、文永4年に持ち帰り、筑前の太宰府の崇福寺で什物として使用していたのがはじまりである。したがって、仏僧が利用していたものを、足利時代、尊氏のころから、連歌や能とともに、武士が嗜むようになった。
茶道は、日常茶飯の芸術で、起居の礼法であり、社交の規範でもある。人と人との温かい心のかよいであり、なごやかな、静かな雰囲気のなかで、人々の感覚に訴える極致の美の饗応である。日本文化は茶道の文化といっても過言ではない。だがしかし、平成の現在は、これを忘れ去った大人が大半をしめ、グルメだ、旅行だ、温泉だと、狂乱の沙汰の生活をおくっている。
さて、道具ではおおきなものは茶室、書院飾り、違い棚から掛け軸、茶、花入、香合があるが、これらをのぞいて、茶の点前で濃茶、茶入、茶碗、茶杓、茶筌、柄杓、茶釜、風炉、炭、灰、蓋置、棗、茶置き、皿、水指、茶巾、茶巾台、花入が必要である。
茶入は、濃茶をいれる小さな壺で、棗というのもあるが、茶入四品といって、茄子、肩衝、文琳、丸壺の形がある。一等級茶入で、「九十九髪茄子」、付藻茄子(作物茄子;つくもなす)とも書くが、これは足利義満の所有していたもので、その後、山名政豊にわたり、これを村田珠光が99貫でかったので、この名がある。朝倉、松永から信長が所有となった。本能寺の変で、焼いてしまったとおもわれたが、焼け跡から掘り起こされ、岩崎家に伝わり、現在静嘉堂文庫にのこっている。
「珠光文琳」は、宗及から信長へ、また宗及へもどされ、袴田、三斎、南部家にわたり、現在、東京国立博物館蔵。
天下三肩衝は、「楢柴肩衝」、「新田肩衝」「初花肩衝」をいうが、楢柴(ならしば)は行方不明、その他は、信長が所蔵していた。「新田肩衝」は大坂城落城のおり、藤重藤元が拾い出してきて家康に渡した物で、現存し、徳川美術館蔵。
「初花肩衝」は、足利義政が命名したもので、疋田宗観から、信長に、信忠、家康、秀吉、宇喜多、綱吉にわたり、現在、徳川美術館蔵。家康が賤ヶ岳の戦いの勝利祝いに秀吉に送ったとされている。結果、茶入肩衝の名品は徳川美術館に多く残されているのである。
信長とは関係ないが、「四聖坊肩衝」(ししょうぼうかたつき)東大寺の四聖房の什物であったが、家康、山内一豊にわたり、加賀前田家にあるはずだが不明。
天下三茄子とは、「国司茄子」、「富士茄子」、「珠光小茄子」をいい、「国司茄子」は、伊勢国司北畠家所有のもので、現代、藤田美術館にある。「富士茄子」は、形状が富士山ににているためつけられ、漢作唐物茶入で、足利義輝所有で、曲直瀬道三、祐乗坊から信長にわたり、道三、秀吉、利家にわたり、現在、前田家育徳会所有。「珠光小茄子」は、本能寺で焼失。
「上杉瓢箪」は上杉景勝が所有していた瓢箪型の一等級茶入で、大内、大友、信長、秀吉、徳川にわたり、現在野村美術館蔵。
茶壺では、「三日月」が有名であるが、「松島」とともに本能寺で焼失。しかし、話はもう少し複雑で、天正元年、河内國高屋城で、一乱あり、この時壺が六つにわれてしまった。これを太子屋に頼み一万貫で修理し、利休が修繕した三日月を信長に献じたという。しかし、現物はのこっていない。松島の名の茶壺が出光、宇和島伊達家にのこっているというが、これは同名異品である。
三日月も松島もなく天下一の茶壺は、「四十石」しじっこくであるとされたが、現物は所在不明。「松花」は信長、秀吉、油屋、家康にわたり、壺下部の灰釉の垂れ方が優麗で一度みれば忘れられない景色で超一級品、徳川美術館蔵。
「村雨」は野村美術館蔵とされていたが、2年ほど前に20歳の女性が個人所有していたものが、ナンデモ鑑定団でテレビ出演した。
茶釜では「平蜘蛛釜」が有名。松永久秀は乱世の梟雄、悪党悪爺と信長は家康に伝えたというが、実際はかなりの教養人であったらしい。信貴山城を信長が攻めたおり、「平蜘蛛」を差し出せば許すとのことであったが、この愛蔵は絶対にわたさぬといいきり、釜とともに爆死した。
茶碗はやはり信長では「一文字」が有名。信長は相当量の茶碗を所有していたものとかんがえられるが、井戸、楽、天目で、名がきまっているものは、柴田井戸のみか。信長が勝家に与えたもの。天下三大井戸は、細川井戸、加賀井戸、喜左衛門井戸をいう。青磁松本は本能寺の変で焼失している。
花入では「曾呂利」(そろり)が代表的。曾呂利新左衛門が創作したともいわれ、首が細長く、鶴が真上を向いているような姿で、徐(そろり)としているからともいわれているが、定かではない。
園城寺(おんじょうじ)は、竹の真ん中より少し上を切り取って、そこに花を生ける一重切り花入ですが、竹に直接水をいれると竹は縦にヒビ割れてしまいますので、焼きをいれるか、落としを工夫する必要がありますので御用心。これは利休の工夫によるとも、秀吉が、北条からもらいうけたもの、ある武士が竹に切り込みをいれて、利休にわたしたものなどの説があり、定かではありません。
茶杓には利休が信長のためにつくった「泪」があり、これは本能寺で焼失、「関の孫六」、「弱法師」、水指には、「芋頭」をつかっていた。
多指症、遺伝子について
遺伝学のミニレクチャーとしてまとめておきます。
19世紀の発生学上の三大理論は、ダーウィンの進化論、メンデルの遺伝の法則、ミーシャーの遺伝物質の発見である。
ダーウィンは遺伝形質と獲得形質の区別が不完全であったし、メンデルはエンドウマメで遺伝形質の法則は発見できたが、ヤナギタンポポの遺伝については法則がみいだせなかった。これはタンポポは受精することなく母方遺伝子だけで遺伝していたためで、すべての多細胞動物植物の遺伝の法則を解明することはできなかったのである。
そして、スイスのミーシャーの核酸、遺伝物質の発見は、いまだに評価は低いが、遺伝は物質、DNAでおこることを予見したのである。この後、次々と遺伝物質は証明されていく。
1859年、安政6年、イギリスのダーウィンは種の起源として、進化は偶然に生じる変異とそれに続く自然選択に基づいて遺伝する。
1866年、慶応2年、イギリスのメンデルにより受精と遺伝の法則が発表された。
1871年、明治4年、スイスのミーシャーがリンパ球から核酸、ヌクレインを分離。これは遺伝物質で、遺伝は物質でおこることを予見した。
1909年、明治42年、ウィルヘルム・ヨハンセンによって遺伝子 gene という単語が使用された。
1928年、昭和3、フレッド・グリフィスがバクテリアの遺伝的形質転換を発見。
1944年、昭和19年、アベリー、マックロードらにより遺伝物質はたんぱく質ではなくDNAであることが確認された。
1953年、昭和28年にワトソンとクリックにより遺伝子DNAの構造がらせん二重構造であることが発見された。
1958年、昭和33年、鈴木、ヤコブらによりメッセンジャーRNAを発見
1966年、昭和41年、ニーレンバーグがコードン遺伝暗号を発見
1966年、昭和41年、バーンスティールがリボゾームRNA遺伝子を単離
1973年、昭和48年、バーグらにより、遺伝子クローニング
1979年、昭和54年、コラナ、遺伝子合成に成功
1984年、昭和59年、ゲーリングによりホメオボックスのクローニングに成功
2003年、平成15年、ヒトゲノムマッップ完成
ミーシャーのいう遺伝伝達物質のヌクレインはDNAで、DNAは一組の塩基と糖とリン酸からなるヌクレオチドである。核酸の末端の塩基の種類は4種で、アデニン(A)、チミン(T)、グアニン(G)、シトシン(C)で、その相対する塩基は決まっていて、AとT、GとCと対になっている。そのため、構造はねじ花のように捻れていて、二重らせん構造になっている。
RNAは一本鎖のリボヌクレオチドで、この遺伝情報伝達過程で媒介物質RNAが存在することが、パスツール研究所のジャコブらによって発見された。RNAの塩基はチミン(T)がウラシル(U)にかわって、AとUが対になることがわかった。
さらに、1958年発見されたm-RNAはRNAから蛋白質合成のためにメッセージを運ぶのでこの名前があり、日本の鈴木義昭が蚕の絹糸腺から分離に成功した。
20種のアミノ酸が配列されたのがタンパク質で、これはRNAから細胞質でできあがるが、それはRNAの塩基の配列で決定される。三つの塩基配列で、一つのアミノ酸を配列していく仕組みになっており、これを遺伝暗号、コードンという。
例えばATGの配列であればメチオニンを、TGGであればトリプトファンを撰ぶ様になっている。しかし、このコードンは1種類とは限らない。たとえば、アラニンの場合はGCA、GCG、GCT、GCCからよみとられ、イソロイシンではATA、ATT、ATCといった具合である。これは、1966年に、ニーレンバーグが解読したのである。
ついで、このRNA、DNAを同型で、それも大量に生産しておかないと、効率よく遺伝子実験が出来ない。これに対し、他方面であるが、細菌の抗生剤抵抗性の研究で、細胞質に存在するRNAであるプラスミドの存在がしられていた。このプラスミドに増やしたいRNAをくみこんで、細菌に同型のRNAを大量に即座に合成出来る、クローニング技術が1973年に開発された。
その方法の1つは、プラスミドという細菌の細胞質にあるDNAで、核内にある染色体DNAとはことなる。このプラスミドにRNAをリンクさる。
プラスミドを切る酵素処理をしておいて、切断酵素処理したRNAをこのプラスミドにくみこませる。このRNA-プラスミドを抗生物質入りの培養液にいれて、この細菌を大量に同型のRANがつくられる、クローニングの方法が開発された。もう一つの方法はウィルスファージにRNAをつくらせる方法でえある。これで、遺伝子の解析には弾みがついたが、逆にクローンの技術開発で、地球上に同体の生物が作成できるため、研究の制限がもうけられた。
紀元前の意味の、B.C.というのは、英語で、Before Christの略で、ラテン語ではAnte Christumで、A.C.と略す。これを捩って、遺伝分野ではB.C. Before Chroning、クローンの前という。すなわち1973年以前をさす。
以上の技術発展で、発生学上で、一つの幹細胞が分裂し、多細胞を形成していくが、肝臓ならば肝細胞、膵臓ならばインシュリンを分泌する細胞、腎なら尿再吸収作用の尿細管細胞など、順列正しく、配列させ、その臓器の形と機能を持ち合わせるように細胞が造られるのを担っている遺伝子が発見され、これをホメオティック遺伝子となづけられた。
このホメオティックはホメオーシスhomeosisからきている。これは、1894年、明治27年に「種の起源における不連続性について」のべた、ウィリアム・ペイトソンの造語で、「あるものがほかの同様なものに変化すること」をいう。
そして、1984年に発生学のスコットとともにゲーリングが、このホメオティック遺伝子は、180塩基対からなるDNA配列をなし、この遺伝子の座をホメオボックスといい、これのクローニングに成功している。
Carrasco,A.E.W.J.Gehling.Cloning of an X. laevis gene expressed during early embryogenesis that codes for a peptide region homologous to Drosophila homeotic genes.
ホメオティック遺伝子、ホメオボックスが、形質遺伝子、たとえば、アンテナペディア遺伝子では、その8つのエクソンの最後のところにホメオボックスとしてくみこまれていることをゲーリング、スピレールらがつきとめている。
そして、1992年に、ヒトホメオボックス遺伝子がクローニングされ、ついで、マイケル・レビンが、他の動物のホメオボックスと比較検討したが、おどろくべきことに、ヒトのそれは、カエル、マウス、鶏などと全く同一の塩基配列であった。
そして、2003年にはヒトゲノムマップが完成されたのである。
このDNAが人間の場合46の染色体の各座に存在していて、蛋白を作り出しているのである。
そして、現在、植物、動物の多細胞生物の形態、かたちを構築するための遺伝子はほぼ解明されている。
例えば、男子における精巣、睾丸の組織形態の構築に必要な遺伝子は、性染色体のY染色体のくびれに存在するH-Y遺伝子からつくられるH-Y抗原Histocompatibirity-Y antigenである。たとえば、この短腕が欠損している染色体異常では体形は女性形で、精巣組織は未分化なかたちをとる。
さらに、短指症などのホメオティックの突然変異などの形質異常や、形態異常の発生的メカニズムについては、1998年にかかれた、ワルター・ゲーリングの『ホメオボックス・ストリー』に詳しい。
ホメオティック遺伝子 homeotic genes とは、スイス・バーゼル大学の若き遺伝子学者ゲーリング(スイス人;1939- )が発見した多細胞生物の形態を創り出す遺伝子のことで、その内容は、Cell 37 (1984):409、に発表されている。
この冊子に、ゲーリングが、いつのことか記載がないが、大滝哲也夫妻とともに奈良の大仏の見学に行ったとき、大仏の前の台座の蓮の花の彫刻に4頭の蝶々が据えられていて、その二頭の足が8本あるのに気がついたという。
普通は昆虫の足は6本である。第一腹部体節にあるはずの肢が胸部体節に転換している、ホメオティック変異を示している。
世界最古のホメオティック変異を具現化された例である。台座は奈良時代の建設期当時のままであるので752年、1250年前にすでに、奇形が存在していたことがわかり、さらにこれを観察し、観たままを正確に表現していたことがわかる。スイス人ゲーリングの、この発見は日本の新聞でも報じられた。
因みに、蝶々の数え方は、何匹でもなく、何羽でもなく、頭です。
短指症brachydactylismはphalange指節骨もしくはmetacarpals中手骨の発生異常で、古典的分類ではA1、A2、A3、B、C、D、Eにわけられ、A2の第2指の中節骨の発生がナイ、タイプがおおい。
ノルウェーの一地方で多い奇形であるが、第2指の中節骨の形成不完全でみじかくなっている。この現象は左右、足の指も同じように短い。これは手、足の指の形態をしめすホメスタティック遺伝子が同時場所に存在していることを示している。
このように、ホメスタティック遺伝子は、まるで、バッハのフーガのように規律を守って配列されているのである。
多指症polydactylismについての記載はないが、現在、人間では解明されていないが、軸前側多指症マウスでは、手、足の第1指の中手骨、中足骨から異常発生する肢芽前後軸形形成異常で、中胚葉増殖異常とかんがえられており、短指症とはことなり、Sonic hedgehog (Shh)遺伝子の劣性変異であることがわかっている。この遺伝子には細胞増殖調節因子Gas1や、中胚葉形成遺伝子Ptchがふくまれている。したがって、顔や頭部、胸部にも形態異常がみられ、秀吉の場合はこれにより、サルと綽名されていたのかもしれない。
通常、指は、5本で、先端から、末節骨、中節骨、基節骨、中手骨からなっている。第一指(親指、親趾thumb/hullax)だけは末節骨、基節骨、中手骨で、中節骨はなく、なぜか他より短くなっている。
多指症は臨床的には異常発生している骨の位置から大きく2つに分けられている。1つはPostaxial Polydactyly(PAP)軸後側多指症と、Preaxial Polydactyly(PPD)軸前側多指症に分けられていて、軸後というのは、体肢軸の尾方、すなわち、指の場合は尺骨側(第5指、小指側)に発生するタイプで、軸前側は橈骨側、親指側/腓骨側に発生するものをいう。
Preaxial Polydactyly(PPD)軸前側が多く、則ち親指の中節骨が2つにわかれているタイプが多く、1978年、昭和53年、Temtamy and McKusickの臨床分類で4タイプにわけられており、TypeTはthumb/hallux の中手骨は一本で、基節骨、末節骨が過剰で、各々2本のタイプで、TypeUというのは親指に、他の指と同じのように、中節骨があるタイプ、したがって、親指が異常に長い、TypeV 親指がなくて、指がさらにも1組あるタイプ、
TypeWは、多くの指が橈骨側に発生しているタイプをいう。これらはH.V.FirthのOxford Desk Reference の『Clinical Genetics 』に掲載されている。
TypeUおよびTypeVはSonic hedgehog (Shh)遺伝子の優性遺伝で、TypeWは7q36にリンクしている遺伝子異常である。
関連の疾患として
Acrocallosal syndrome(ACS; Schinzel syndrome)では、autosomal recessive 常染色体劣性遺伝で、corpus callosum 脳梁の発生がみられず、軸後、軸前多指症があり、軽度の hypertelorism 隔離症がみられ、精神遅延障害をともなう。脳嚢胞症があり、GL13の変異がみられる。
Carpenter syndromeは常染色体劣性遺伝で、多指症もしくは短指症をともない、craniosynostosis頭蓋骨癒合症をともなう。
Fanconi anemia、汎血球減少症、骨髄形成不全、奇形常染色体劣性形質MIM227650,227660小人症、小脳症、性器発育不全、斜視、精神遅延、小眼球症、多指症をともなう。
Greig cephalopolysyndactyly 常染色体優性遺伝で、frontal bossingをともなった、high foreheadで、macrocephaly hypertelorism 鼻、手の指は多指症で、central syndactyky 足もGL13が7p13に変異している。
Lacrimo-auriculo-dental- digital (LADD)syndrome涙・耳介・歯・指症候群では、atresia lacrimal puntae 涙点がない。
Pfeiffer syndrome;常染色体優性遺伝で、coronal craniosynostosis頭蓋骨癒合症、broad thumb halluces 親指が肥満している。 軟組織syndactyly Crouzon syndromeの顔貌に似ていて、clover-leaf skull 癒合不全のためクローバーの葉様の頭蓋骨 FGFR1 FGFR2 FGFR2 craniofacial phenotypeをおこす。
Diamond- Blackfan anemia;大球性貧血があり、白血病を生後3ヶ月でおこす、。
DOOR syndrome deafness-onychodystrophy-onycholysis retardation 、難聴、爪ジストロフィー爪甲破壊、精神発育遅延をともなう。
Holt-Oram syndrom ;心臓と手の異常疾患、TBX5 penetrance遺伝浸透度は100%で、
Townes -Brock sydrome; 常染色体劣性遺伝で肛門閉鎖、多指症、耳の奇形、SALL1 zinc finger 心奇形がみられる。
参考文献
1) 尾崎士郎、『現代人の日本史14』昭和36年、河出書房、1961年
2) 桑田忠親、『太閤史料集』、昭和40年、人物往来社、1965年
3) 渡辺昇一、『甦る日本史』、平成8年、PHP文庫、1996年
4) 北島万次、『秀吉の朝鮮侵略』、平成14年、山川出版、2002年
5) 木村紀八郎、『小西行長』、平成17年、鳥影社、2005年
6) 山室恭子、『黄金太閤』、平成4年、中公新書、1992年
7) 桑田忠親、『信長公記』、平成9年、新人物往来社、1997年
8) 渡辺一雄、『封印された名君豊臣秀次』、平成11年、廣済堂、1999年
9) 加賀乙彦、『高山右近』、平成11年、講談社、1999年
10) 佐成謙太郎、『謡曲大観』、昭和6年、明治書院、1931年
11) 平川祐弘、『謡曲の詩と西洋の詩』、昭和50年、朝日選書、1975年
12) ゲーリング、『ホメオボックス・ストーリー』、平成14年、東京大学出版会、2002年
13) H.V.Firth、『Clinical Genetics 』、Oxford Desk Reference、2006年