
柏の地においては、古代、石器時代の古蹟、遺跡から、人の生活で使用されていた土器が多く発掘され、暮らしやすい風土であったことが確認されている。
中世の古典籍、続日本記に大化元年(645)、下総国府が、葛飾郡国府台(市川)に置かれたとあり、10世紀には恒武天皇の子孫とされる坂東平氏、とくに相馬小二郎こと在地武士団頭領平将門が権勢を奮った土地で、茨城を含め、利根川(刀禰川)周囲の開墾と出羽、奥羽の征夷、鎮守のために下総国府の地を治め、ついに板東八箇国を制圧し、国司を追いやった後、独立国家を宣言し、本拠地として猿島を都と定め、自らを新皇と名乗った。
朝廷はこれを鎮圧するため派兵、承平天慶の乱である(天慶 3年940)。この乱により将門は、藤原秀郷と平貞盛の軍に松戸小金原で敗れ、その首は首実検のため京都まで運ばれた。が、途中、首が空に飛び、落ちたところが今の東京大手町の首塚(三井物産ビルそば)である。
鎌倉時代に真教上人が、この塚の荒れていることを疫病の祟りとみて再興し、将門の霊を慰めた。
これを江戸時代に秀忠が、神田明神に地を移し、江戸武士の鎮守とした。天野屋の甘酒とともにいまも賑わう神田明神に将門が祀られている所以である。
さて、近世以降にあらわれる柏市の地名は布施、篠籠田、酒井根、船戸、増尾、高田、藤心、名戸ヶ谷、逆井、戸張などがあったという。江戸時代は天領、大名領、旗本領が錯綜していたが、大名としては本多氏(現市長とは無関係)が勤めていた。享和二年(1802)には昌平校医薬教授芳野金陵を排出している。氏は巻石堂病院の先鋒である。
廃藩置県で明治6年、千葉県下になり、明治22年には葛飾郡内に豊四季、十余二、千代田村、田中村、布施村ができ、明治29年には土浦線が、明治44年に野田線が、大正12年に船橋線が敷線されている。大正13年に県立東葛飾中学校が千代田村に設立され、大正15年に千代田村が柏町となっている。ここで初めて柏が地名として登場した。柏という地名の由来は手賀沼の港津、「河岸場」の転訛といわれている。
戦中は帝都防衛地帯として陣営が張られ、軍需工場、陸軍病院が設置されていた。
戦後、昭和29年9月1日(1954)には柏町、小金町、田中村、土村が合併し東葛市が誕生したが、その直後、11月に小金町を分離、富勢村の一部と合併し、11月15日に柏市となっている。
平成16年2004年が市政50年にあたる。
柏市の人口は、昭和32年の光が丘団地入居で5万人、昭和39年豊四季団地入居で10万人、昭和48年にはそごう、高島屋がオープンするなど市の繁栄はめざましく、人口増加率が1.7倍と急増し、災害、救急医療対策が急務となり、昭和62年に私立医学校である慈恵医大が柏下に大学附属病院を開設した。この時の人口は29万人であった。市民病院が平成5年に布施に設立されている。
平成14年の柏市(面積72.91km2:緯度35°51’、経度139°58’)の人口は327,851人である。
此の間の災害としては、昭和30年12月25日に柏駅前の大火を経験している。その他の大きな災害は発生していない。関東大震災(大正12年)でも運河堤塘の亀裂は大きく、復旧に五千人を費しているが、大水害までには至っていない。しかし、利根川氾濫の水害は寛保2年(1742)の大洪水が有名で、過去幾度となく繰り返されており、坂東太郎の治水がこの地の最大関心事であったことは忘れてはならない。
日本全国の人口は平成14年で1億2743万で、その増加率は0.11%。昭和48年には1.4%であった増加率は下降し続け、3年後の2006年には増加率はマイナスになると予測されている。高齢化、少子化であるが、柏では常磐新線の増設もあり人口は増加傾向にあると予測されている。
以下、今回は9月1日の防災訓練の日も近い事から柏市死因統計、柏市消防救急、日本の近世の災害、明暦大火、災害事後対策について述べる。

ひとの生命を預かる業を職としているのは医療関係者以外に救急消防関係者があり、国、県、市はこれを統轄し行政しているわけであるが、長期不況のため管理能力が低迷してきている。
ひとのくらしの安全を確保するには、そのために働いて頂くための財源が必要だが、柏市の財源歳入は平成15年度予算としては917億円で、このうち国民健康保険事業に224億使用予定で、市財源の約25%を使用している。介護には60億、消防関係には40億円を要している。
市民の健康管理の結果、死亡例の傾向をみておく必要があるが、柏市の死因統計については、毎年柏保健所が事業年報で報告している。柏保健所の管轄範囲は柏、流山、我孫子、沼南町の4カ所と広い。
柏市の年間死亡総数は12年度で1,730例で、人口の0.5%で、高齢者が98%である。乳児死亡は7例、新生児死亡7例、死産42例、人工死産47例、周産期死亡後期17例、早期5例で、このうち70.5%が先天奇形であった。死因別統計では悪性新生物 613例、心疾患 260例、脳血管疾患 215例、肺炎 134例、自殺 76例,不慮の事故 66例、肝疾患 35例,老衰 28例、慢性閉塞性肺疾患25例、腎不全 24例であった。
全国死因統計での順位と差ほど変化はないが、自殺が5位で不慮の事故より10例多いことが特徴的である。悪性新生物は増加傾向にあり、とくに肺ガン、乳ガンが増加してきている。心、血管疾患は減少しつつある。くらしやすい、充実した人生を送るための、市政の工夫が求められるところである。
遺体は火葬しなければならないが、火葬場は柏市布施281-1のウィングホール柏斎場のみであり、火葬炉は9基、1日最高16件火葬処理が可能である。しかし、この対象が流山、沼南町、我孫子であるため、12年度で総数3,549体の火葬で、ほぼ満杯稼働と思われる。

人の死亡のうち、不慮の事故では今では交通事故が多いが、地震、雷、火事、大雨、大風、冷害、加熱害などの災害には消防団が対応する。その全責任、統轄は市長が負う。
消防年報によると、消防庁舎の配置は西部署が本部で、根戸分署、大室分署、東部署、逆井分署、光が丘分署、旭町消防署、西原分署の8署で、現在の消防長は17代目で宇佐見義雄氏である。
消防団は、団長14代目鈴木良紀氏を筆頭とし、柏方面(1,2,8,9,10分団)、土方面(11,12,13分団)、田中方面(3,4,5分団)、富勢方面(6,7分団)で、13分団で消防にあたっている。
救急を含め消防力として、救急車8台、消防ポンプ自動車13台、化学車1台、はしご車2台、救助工作車2台である。
消防職員は361名で、このうち本部に60名、本署には57名が、その他の署に約30名配属されている。団員数は436名である。
13年度の火災の出動回数は375回で、火災による損害額は30億で、消防への予算額の1/3が灰燼となっている。風水害等の自然災害の出動が25回。
救急隊は西部、根戸、大室、東部、逆井、光ヶ丘、旭町、西原の8カ所であるが、柏市の救急車の出動回数は計10,227回、日平均で28.01回、7月が927回ともっとも多く、署では東部の年間2,321回がもっとも多い出動回数で、最少は大室の492回であった。出動の目的では、急病、交通事故、一般負傷の順で、救急隊の応急処置での医療機関までに死亡してしまった例は74例と以外と多い。在宅療法継続は1例のみで死亡77例のうち5例が自殺行為である。
救急搬送告示医療機関は柏市立柏、岡田、深町、柏厚生総合、田中農協、名戸ヶ谷、柏南、森永胃腸外科、慈恵医大柏の9機関である。
医療機関搬送者は7,957名で、このうち市外は1,702名であった。曜日別では統計上は差は認められず、やや月曜日が多い。
消防員年報酬は団員で23,500円、分団長で54,500円程度で、1回の出動手当は2,550円と低額である。
往診、在宅診療ではかかりつけ医の死亡確認がおこなわれず、検死により死亡確認されている例が年間300例を下らないという。死亡者総数1,730例で、病死は1,500例、自殺、不慮の事故死をのぞくとおよそ200例の検死があり、年間死亡総数の約12%が検死扱いであるのは異常事態といわなければならない。約1日1件で担当の先生らは大変な努力をされている。在宅患者を担当している市医の先生、勤務医は患者さんを最後迄看取る努力、気力を養う必要がある。かつての村の感覚で死亡確認を検死任せにすることは許されない時期にはいっていることを強く自覚すべきです。ゴルフに現を抜かして患者を介護まかせにしてはいませんか?医師として絶対に許される行為ではない。

さて、ついで近世の災害のまとめを表とした。日本は古来より地震、飢饉での災害が続発し人々の暮らしを脅かし、これと戦ってきたわけであるが、その被害規模から特に江戸時代以降の災害では明暦の大火(1657)、安政大地震(1855)。最近では関東大震災(大正12年、1923/9/1、土曜日、11時57分、M6.3、14万人死亡)、阪神大震災(平成7年、1997/1/17、金曜日、5時46分 M7.3、死亡 6,432人)があげられる。およそ70年間隔に起きている。
400年以前からの近世の災害をみると地震にともなう火災のほか水害、飢饉で多大の犠牲者を出してきた。日本の自然の変化とともにくらしをどう工夫していくか、知恵くらべである。
次に江戸時代のおもな災害をあげる。
| 西暦 |
和 暦 |
名 称 |
将軍代 |
| 1596 |
文禄5 |
豊後地震(M7.0) |
秀吉 |
| 1604 |
慶長9 |
東海地震(M7.9) |
家康1 |
| 1611 |
慶長16 |
会津地震(M6.9) |
秀忠2 |
| 1641 |
寛永18 |
飢饉2年間 |
家光3 |
| 1657 |
明暦3 |
江戸大火 |
家綱4 |
| 1662 |
寛文2 |
近江地震(M7.6) |
家綱4 |
| 1666 |
寛文6 |
大坂大火 |
家綱4 |
| 1682 |
天和2 |
江戸お七火事 |
綱吉5 |
| 1684 |
貞亨1 |
三原山噴火 |
綱吉5 |
| 1694 |
元禄7 |
能代地震(M7.0) |
綱吉5 |
| 1703 |
元禄16 |
関東地震(M8.2) |
綱吉5 |
| 1707 |
宝永4 |
富士噴火(M8.4) |
綱吉5 |
| 1708 |
宝永5 |
京都大火 |
綱吉5 |
| 1710 |
宝永7 |
美作地震(M6.5) |
家宣6 |
| 1718 |
享保3 |
三河地震(M7.0) |
吉宗8 |
| 1724 |
享保9 |
大坂大火 |
吉宗8 |
| 1730 |
享保15 |
京都大火 |
吉宗8 |
| 1732 |
享保17 |
飢饉2年間 |
吉宗8 |
| 1742 |
寛保2 |
洪水・戌の満水 |
吉宗8 |
| 1751 |
寛延4 |
越後地震(M7.4) |
家重9 |
| 1755 |
宝暦5 |
飢饉2年間 |
家重9 |
| 1771 |
明和8 |
宮古島地震(M7.4) |
家治10 |
| 1772 |
明和9 |
目黒行人坂大火 |
家治10 |
| 1777 |
安永6 |
三原山噴火 |
家治10 |
| 1779 |
安永8 |
桜島噴火 |
家治10 |
| 1783 |
天明3 |
浅間山噴火飢饉 |
家治10 |
| 1786 |
天明6 |
関東大洪水飢饉 |
家治10 |
| 1788 |
天明8 |
京都大火 |
家斎11 |
| 1789 |
寛政1 |
大坂大火 |
家斎11 |
| 1792 |
寛政4 |
普賢岳噴火 |
家斎11 |
| 1793 |
寛政5 |
陸奥地震(M8.0) |
家斎11 |
| 1797 |
寛政9 |
江戸大火 |
家斎11 |
| 1802 |
享和2 |
佐渡地震(M7.0) |
家斎11 |
| 1804 |
文化1 |
象潟地震(M7.0) |
家斎11 |
| 1806 |
文化3 |
文化丙寅の大火 |
家斎11 |
| 1810 |
文化7 |
男鹿地震(M6.5) |
家斎11 |
| 1819 |
文政2 |
伊勢地震(M7.2) |
家斎11 |
| 1822 |
文政5 |
コレラ流行 |
家斎11 |
| 1828 |
文政11 |
越後地震(M6.9) |
家斎11 |
| 1830 |
文政13 |
京都地震(M6.5) |
家斎11 |
| 1833 |
天保4 |
越後地震飢饉 |
家斎11 |
| 1834 |
天保5 |
江戸甲午火事 |
家斎11 |
| 1837 |
天保8 |
大坂大火大塩乱 |
家斎11 |
| 1843 |
天保14 |
蝦夷地震(M7.5) |
家慶12 |
| 1847 |
弘化4 |
善光寺地震(M7.4) |
家慶12 |
| 1853 |
嘉永6 |
小田原地震(M6.7) |
家慶12 |
| 1854 |
安政1 |
南海地震(M8.4) |
家慶12 |
| 1855 |
安政2 |
江戸地震(M6.9) |
家定13 |
| 1858 |
安政5 |
飛越地震(M7.0) |
家定13 |
| 1862 |
文久2 |
コレラ流行 |
家茂14 |
| 1863 |
文久3 |
大坂の大火 |
家茂14 |
| 1864 |
元治1 |
京都大火 |
家茂14 |
(小学館;江戸時代館2003より引用;一部加筆)

1657年、明暦3年1月18日未の刻、午後二時ごろ、江戸幕府の大名中屋敷が立ち並ぶ本郷四丁目にある本妙寺から火の手があがり、折からの80日間のカラカラ天気で火の手は拡大し、19日、20日と燃え続け、江戸の6割を焼失、10万8千人が焼死、凍死した過去火災被害最大で、振袖火事とよばれている。有名で聞いたことがあるでしょうが、今更取り上げる理由は、二つ。防災の日に備えて早期消火がいかに大切かを再認識することと、災害後処理の難しさを知るためである。
火事がおこったのは、江戸時代初期、江戸開府1603年から54年目であった。3代将軍家光の時代は、大名潰しにあった武士、浪人、豊臣残党ら、政務不満の多い中、由比正雪による慶安の変(1651年)がおこっている。大火の6年前に家光の急死のあと家綱が弱冠11歳で4代将軍となっている。
由比正雪(1605-1651)は駿府生まれ。17歳で江戸鶴屋に奉公し楠不伝に軍学を学び、神田連雀町(神田須田町)で多くの浪人をあつめ、軍学を教授していた。1651年4月20日に家光逝去。この期をみて幕府政道改めを企て、金井半兵衛、丸橋忠弥らとともに騒乱を計画したが、7月23日事前発覚し、正雪が切腹となった事件である。連累者は二千名であったといわれる。
このような擾乱処理で騒然とするなかの大火で、将軍家綱はまだ16歳。老中は三名で筆頭老中松平伊豆守信綱、久世大和守、阿部伊予守らが政務に当っていた。
大火の火元は幕府管轄の本妙寺からとされているのは事実と異なる。実は本妙寺前の老中阿部伊予守の中屋敷の女中が蝋燭を倒したのが火元とみられている。しかし、老中中屋敷からの出火となれば被害者への責任問題が起こり、老中と雖も、切腹、御家断絶の罰は免れない。そこで本妙寺が出火として発表。被害の割に、寺への咎めが軽くされた理由とみられている。また、放火の疑いもあるという。
江戸文学者浅井了意(?〜1691)の明暦大火を書いた「武蔵鐙」の文を古書として手にいれたが(大正13年2月、至誠堂書店発行、東京市編纂の”明暦安政及大正の難”)、今後再版される見込みが全く無い事、火事の状況、火災後の処置など、いまでも参考にする点が多いことから、一部の転載を試行した。
冊子には、武蔵あぶみの撰者は楽齋房と記せる箇所もあるが、世上多く浅井了意の作と伝えられ、活東子珍書目録にも浅井了意とあるを以て暫く之に随って置く。此の書名を武蔵鐙と名付けたるは蓋し火事は江戸の名物なることを常時鐙が武蔵の名産として知られ、然も明暦の火事の火元たる本郷四丁目本妙寺が其の頃武蔵鐙の工匠等の住せる鐙坂に隣せる等の関係から、かく名付けたるものと思われる。との文から始まる。

さても、明暦三年正月十八日辰の刻ばかりのことなるに(朝八時頃)、乾のかたより風吹出し(北西)、しきりに大風となり塵芥を中天に吹き上げて、空にたなびき渡る有様、雲かあらぬか煙の渦くか、春の霞のたな引くかと怪しむほどに、江戸中の貴賤門戸を開き得ず、夜は明けながらまだ暗闇の如く、人の往來もさらになし。
やうやう未の刻におし移る時分に(午後二時ごろ)、本郷の四丁目西口に、本妙寺とて日蓮宗の寺より俄かに火燃え出て黒煙天をかすめ、寺中一同に焼あがる折ふし魔風十方に吹き廻し、即時に湯島へ焼出てたり。はたごや町より遙かに隔てし堀を飛び越え、駿河臺永井信濃守、戸田釆女守、内藤飛騨守、松平下総守、津軽殿その外数ヶ所、佐竹よしのぶを始めまゐらせ、鷹匠町(大手町)の大名小路数百の館忽ちに灰燼となりたり。
それより町家鎌倉河岸へ焼け通りぬ。かくて酉の刻(午後三時)にいたりて風は西になり烈しく吹きしぼりければ、神田橋へは火移らずして遙かに六七町隔てて一石橋の近所(呉服橋)、さや町へ飛び移り、牧野佐渡守、鳥井主膳正、小濱民部少輔、その他町奉行の同心屋敷、八丁堀の御舟藏御舟奉行衆の館数ヶ所、海邊には松平越前守(新川)、さしも大きにつくりならべられし殿舎とも、風にしたがひ煙につつまれて焼けあがり、猛火の盛んなる事四王刀利の雲の上まで登るらんとぞ覚ゆる。
ここに於て数萬の男女煙を逃れんと風下を差して逃げる程に、向ふへ行詰り霊岩寺へ駆け籠る。墓所のめぐり甚だ廣ければよき所なりとて、諸人爰に集りゐたる處に、當寺の本堂に火かかり、それより数ヶ所の院々燃え渡り一同に焼け上がり黒煙天を焦し、車輪程なる焔飛散り風に放されて雨の降る如く、大勢群がりゐたる上に落ければ、頭の髪に燃えつき、袂の内より焼け出し、誠に堪へ難ければ、諸人あわてふためき火を逃れんとて、我先きにと霊岩寺の海邊を指して走り行き、泥の中にこけ込みけり。寒さはさむし食はくはず、水に浸りて立ちすくみ火をば逃がれたりけれども精力盡き果て、大方凍死す。猶それまでも逃げ伸ぶることの叶はざるともがらは、炎五體にもえつきて悉く焦れ死す。
うめき叫ぶ聲凄まじくものの哀れを止めたり。すべて水火二つの難に死に亡ぶる者九千六百餘人なり。此海邊まで塵も残らず焼き払ひ、海のむかひ四五町西の方佃島の内石川大隅守のやしき、同じくそのあたりの在家一宇も残らず焼け失ふ。
その日の暮方に及んで、西風いよいよ烈しく吹き落ちて海上は波高く上り、其上に去年の冬より久しく雨降らず乾き切つたる事なればなにかは堪るべき、風に飛び散る焔十町二十町を隔てたる所へもえ付きもえ付き焼き上がる程に、神田の明神皆善寺社頭仏閣といはず、堀丹波守、太田備中守、村松町材木町に至るでの家々悉く、柳原より和泉どの橋を切つて 皆焼け通りぬ。
扨又右の駿河臺の火頗りに須田町へもえ出て、一筋は真直に通りて町屋を差して焼け行く。今一筋は誓願寺より追廻して押し来る間、江戸中町屋の老若こはそも如何なる事ぞやとて、おめき叫び我も我もと家財雑具を持ち運び、西本願寺の門前に卸し置きて休みける程に、辻風夥く吹き巻きて寺の本堂より始めて、数ヶ所の寺々同時にとつと焼け立ち、山の如く積み上げる道具に火もえ付きしかば、集り居たりし諸人あわてふためき命をたすからんとて、井のもとに飛び入り溝の中に逃走り入りける程に、下なるは水に溺れ、中なるは友に押され、上なるは火に焼かれ、ここにて死する者四百五十餘人なり。
さて又始め通りの町の火は傳馬町を焼き、数萬の貴賤此よしを見て、退き足よしとて車長持を引連れて浅草を指してゆくもの千百とも数知らず。人の泣く聲、車の軸音、焼崩るる音に打ちそへて、さながら百千の雷の鳴り落つるもかくやと覚えて、おびただしともいふばかりなし。親は子を失ひ子は又親に遅れて押し合ひ、揉み合ひ、せき合ふ程に、或は人に踏み殺され、或は車に牽かれ疵を蒙り半死半生になりておめき叫ぶもの又その数を知らず。
かゝる火急の中にも盗人ありけり。引き捨てたる車長持を取つて方々へ逃げ行くこと、更にをかしかりけるは、位牌屋の某が我が一跡は是なりとてつくりたてたる大位牌小位牌、漆塗り箔綵いろいろなりけるを、車長持に打ち入れ引出しあまりに間近くもえ来る火を逃れんとて打ち捨てたるを、いつの間にかは取りて行き、浅草野邊にて鎖をねぢ切り蓋を開けたりければ用にもなき位牌どもなりけり。火事を幸に物を取らんとねらひたる盗人共、或いは糠俵を米かと思ひて取って退き、或は藁草履の入りたる古かはごを小袖かと心得て奪ひ取って逃ぐるもあり。其中に此日頃重き病を請けて今を限りと見えし人を火事に驚き、すべき方なく半長持に押入れかき出し、辻中におろし置きたりしに何者とは知らず盗み取り行方なくなりにけり。是を尋んとする程に家財一跡皆焼き捨てたる人もあり。或は我子をば取失ひ他人の子を我子と思ひ手を引き背ろに負うて遠く逃げたるもあり。年老たる親、幼なき子、脚弱き女房を肩にかけ手を引き背中にかき負ひて泣く泣く落ち行くものもあり。
爰に籠屋の奉行をば、石出帯刀と申す。しきりに猛火燃え来り既に籠屋に近付しかば、帯刀即ち科人共に申さるるは、汝等今は焼き殺されん事疑なし。誠に不憫の事なり。爰にて殺さんも無惨なれば、暫く許し放つべし。足に任せて何処へたりとも逃げ行き随分命を助かり火も静りたらば、一人も残らず下谷のれんけい寺へ来るべし。此義理を違へず参りたらば、我身に替へても汝が命を申助くべし。若し又此約束を違へて参らざる者は、雲の原までも探し出して其身の事は申すに及ばず、一門迄も成敗すべしとありて、即ち籠の戸を開き数百の科人を許し出して放されける。科人共は手を合わせ涙を流し、かかる御恵みこそありがたけれとて思ひ思ひに逃げ行きけるが、火静りて後約束の如く皆下谷に集りけり。帯刀、大いに喜び汝等誠に義あり、たとひ重罪なればとて義を守ること者をば如何にでか殺すべきやとて、此趣きを御家老方へ申上げて科人を許し給ひけり。道ある御代のしるし直なる政事、上に正しければあまたの科人ども義を守りて命を助けられけるこそありがたけれ。此事を聞く者皆いふ、帯刀に情けあり、科人にまた義あり、御老中に仁ありて命を助け給へり。
爰に於いて国道あることは明けしとぞ感じける。其中に一人の囚人しかも至つて科の重かりしが、よき事に思ひて遠く逃げ伸び、我が故郷にかへりしを在所の人々、この者は助るまじき科人なるに逃れかへりしこそ怪しいけれとて、連れて江戸へ参りければ、奉行方大いに憎ませ給ひて殺されしとあり。
しかるにかの浅草の惣門をこころざして逃げる出る輩、貴賤上下幾千萬ともかずしれず。されども向はひろき河原なり。桝がたをだに出たらばさのみせきあふまじかりしを、如何になる天魔の業にや、籠屋の科人共らうを破りて逃げるぞや、それ逃がすな捕へよと云ふ程こそ有りけれ浅草の桝形の惣門をはたと、うちたりけり。それは思ひもよらず、諸人何れもわきまへなく跡より車をひきひき押し来る程に、伝馬町より浅草の惣門つゐぢのきは迄、其道八町四方が間、人と車長持をひしとつかへて、いささかきりを立べき程の空き地は更になし。門はたててあり、あとよりは数萬の人押しおされてせき合ひたり。門の際なる者共いかにもして、門の閂貫を引きはづさんとすれども、家財雑具をいやが上にも積み重ねたれば、これにつかへて扉更に開かれず。扨 てこそ前へ進むまんとすれば門は開けず、後ろへ返らんとすればあとより大勢せきかくる。身體ここに谷まり手を握り身を揉みて、只あきれはてたる所に、北のかたはじめ焼とまりし柳原の火起りて、せいぐわん寺前の大名小路へ押し移りて、立花左近、松浦肥前、細川帯刀、丹波式部少輔、遠藤但馬、加藤出羽守、遠江、山名、禅閣、一色、宮内少輔、都合三十五箇所、寺かたにては、日輪寺、本禅寺を始めとして、ちそんゐん、こんがうゐんに至るまで、百二十ヶ寺一同にもえたつ。右伝馬町の火と一つになりて焼けあがり、焔は空にみちみちて、風にまかせて飛ちりつつ、重なり集り押し合ひ揉み合ふ人の上に、三方より吹かけしかば数萬の男女騒ぎたち、あまりに堪へかねて或は人の肩をふまへて走る者あり。これはこれはと云ふ程こそありけれ。高さ十丈許りに切りたてたる石垣の上より堀の中へ飛入りけり。責めて命はたすかると其様にせし輩、いまだ下迄おちてつかず石にてかうべを打ち砕き、腕をつきをり半死半生になるものあり。下へ落ち着く者は腰を打損じて立あがる事を得ざる所へ、いやが上にとびかさなり、おちかさなり、ふみころされ、さしもに深き浅草の堀は死人にて埋みけり。其数二萬三千餘人、三丁四方に重なりて堀はさながら平地になる。後々にとぶ者は前の死骸をふまへて飛ぶゆゑに、その身少しもいたまずして河向にうちあがり、助かる者も多かりけりと。
かくする間に重々にかまへたる見つけの櫓に猛火もえかかり、大地にひびきて、どうと崩れ死人の上に落ちかかる。扨て人にせかれて車にさへぎられて、いまだ後に逃げおくれたる者共は向へ進んとすれば前には火すでにまはり、後よりは火の粉雨の如くに降りかかる。
諸人聲々に念仏申す事、きくにあはれを催す間に、前後の猛火にとりまかれ、一同にあつと叫ぶ聲、上は悲想のいただきに響き、下は金輪の底迄も聞ゆらんと、身の毛もよだつばかりなり。
翌日見れば、馬喰町横山町の東西南北にかさなり臥したる死人の有様、目もあてられぬ有様なり。扨夜の亥の刻(午後十時)ばかりにうつりては、悪風なほもしづまらで、海手をさして下屋敷以上九カ所一つも残らず炎上せり。此時に當って御倉のうしろに逃げ隠れたる者、七百三十人ありけるが、御倉に火かかりてつめおかれし米俵にもえつきたれば、諸人此の焔にむせび打ち倒れふしまろび或いは川中にころび入りて死す。それより前は七八町も隔てし大河を飛越え、牛島新田に至り島の在家までことごとく焼け亡びて、其夜寅の刻(午前四時)に火事は之れまでにてしづまりぬ。(一章略)
明れば十九日、江戸中に喜びをなす者嘆きをいたすもの相交りていと騒々しかりけり。焼け残りし貴賤その一族其の類火にあひしを、日頃のよしみ此時なり。いかでか見捨べきとて焼けあとにはせ集り、とやかくと駆けまはる。或はかゆを煮て持ち来たり、或酒肴をおくりつかはしなんとする処に、巳の刻(午前十時)ばかりに、小石川の伝通院表門之下、新鷹匠町大番衆与力の宿所より焼け出たり。此の煙のありさまを遠き所より見るものは、暫しが間は旋風のまき上ぐる土煙なりと云う者もあり。又昨日の焼け野の消え残りたる煙なりと云ふ者もありて、火事とはしかと見定めず。然も北風宵よりも猶はげしく吹きしかば、時刻をうつさず吉祥寺(水道橋)の学寮院院坊々もえうつり車輪ほどなる炎、黒煙りの中に飛びちりて、十町廿町が外にもえわたる事、同時に廿餘ヶ所なり。
暫しが中に水戸中納言殿さしもに造りならべ給ひし大なる御やかたに火かかり、焔と烟とをまきたてもえ上がり、大堀をへだてし本鷹匠町の森のした飯田町典壽院の御所、左右典厩公の両御殿、中の丸御殿、二の丸三の丸を初めとして、松平加賀守、同じく伊豆守、土炊遠江守、水野出羽守、本多内記、酒井摂津守、膝堂大学頭、小笠原右近太夫、安藤對馬守、土屋民部少輔、井上河内守、酒井雅楽守、松平和泉守、同じく五郎同越前守、此等の御やかた金銀珠玉をちりばめてみがき立たる、大厦高楼むねとの大名十五ヶ所、其外両奉行の御番所、中川半左、伊奈半左衛門、天野五郎太夫、御細工小屋、ともの五ヶ所、常磐橋を打合せて二十ヶ所、それより打続きて鍛冶橋の内むねとの大身には、細川越中守、松平新太郎、同じく相模守御執事酒井讃岐守、山内土佐守、有馬中務、京極丹波守、戸田左門、蜂須賀阿波守、森内記、京極主膳守、小笠原主膳正、吉良若狭守、保科弾正、松平丹波守、溝口出雲守、新庄越前守、松平但馬守、織田因幡守、松平遠江守、同出雲守、小出伊勢守、織田丹後守、杉原帯刀、松平能登守、伊丹藏人、久世三四郎、酒部三十郎、同長門守、毛利市三郎、水野下総守、山名主殿、米津内藏介、前田右近、出野甚助、中根吉兵衛、近藤石見守、同縫殿介、日根野、織部、神尾、宮内傳奏屋形、医師道三に至るまで、大名の屋形廿六ヶ所、小名の屋形十七ヶ所、伊達遠江守、奥平大膳正、完田河内守、大久保加賀守、伊井兵部、松平山城、青山大膳、九鬼大和守、堀の美作、各々数寄屋橋の内九ヶ所、南北都合七十二ヶ所、年月日比つくり並びたる屋形の善つくし美つくし磨き立たる大厦高墻の構へ、数萬間前後十五町一同にもえ上がり、黒煙天をこがし炎は雲を焼き、棟木瓦の崩れ落ちる音夥しともいふばかりなし。乾坤これがために傾き山河此故に覆すかと諸人肝を消し魂を失ふ。世界さながら猛火となる。ただこれ大の三災一時に起こりて、国土ことごとく劫火のために焼け失するかとぞおぼえし。
申の刻より(午後四時)北風西になほりていよいよ荒く吹きしかば、これにて焔を吹ききりて紅葉山西の丸は堅固に残りけるこそ危ふけれ。御馬場の近邊土手を屋ようす河岸へとびうつり、北南二十餘町一面になり町屋を指して焼出づる。之れによつて中橋京橋の町人共、昨日の火事の未ださめざるにうちそへて又今日の大火事これはそも何事ぞや、只今世界は滅却するぞやと云ふ程こそ有りけれ。大いに章周騒ぎて昨日の焼跡へのかむとて中橋を北へと志すものもあり。又風下を心がけ京橋を南へと走る人もありて、男女家も町も上を下にもてかへし、鍛冶町と長崎町の者ども前後一つになりて逃げ出しつついやが上にせきあひたり。
去年霜月の此より今日に至るまで、既に八十日ばかり雨一滴も降らで乾き切つたる家の上に火の子おちかかり、烈しき風に吹きたてられて、車輪の如くなる猛火地に変り町中に引き出し火急を逃れて打捨てたる車長持は辻小路に積み上げせきあひ、人更に心のままに通り得ず。諸人揉み合いひしめく間に、猛火さきへさきへともえわたりしかば、目の前に京橋より中橋に至るまで四方の端一度にどうと焼け落ちる。ここに於いて火の中にとりまかれたる諸人一連に南に行き北に帰り東西を足掻きめぐり聲をそろへておめき叫ぶ、既に眞近迫りてもえ来りける時、餘りに堪へ兼ね、我人を互に楯になして火をよけんとする中に、まくれかかる煙にむせびてふしまろぶものもあり。或いは五躰に火もえ付きて倒れ惑ふせきあひおし合ひける中に、煙にむせび火にやかれて打倒るれば、その後ろなるものども将棋倒しの如く一同に倒れころぶ其の上へ炎おちかかり、煙渦巻きおめき叫ぶ聲、これやこの地獄の罪人共の焦熱大焦熱の焔に焦され、獄卒の呵責をうけ叫喚大叫喚の聲を上げて悲しみ叫ぶらんもかくやと覚えてあはれなり。爰に焼け死する者およそ二萬六千餘人、南北三丁東西二丁半にかさなり臥す累々たる死骸更にあき地はなかりけり。家財雑具太刀かたな金銀米銭数を知らず、辻小路にうちすてふみつけ焼け失せる哀れと云ふも愚なり。
それより南は、新橋木挽町、東は材木町水谷町へ焼けわたり、二町あまりの川むかひ紀州大納言、尾張大納言の両御蔵屋敷より奥平美作守に至るまで、大名の蔵屋敷数十六ヶ所悉く塵灰となる。果ては鉄砲津へ吹つけてその日の酉の刻ばかりに(午後六時)、海邊にて焼けとまる。浅草川深川よりこれまで惣じて六里あまりの湊々にて舟どもの焼けること幾萬艘とも数知らず。かくてやうやう焼けしづまるかと思いひしに、申の刻ばかり(午後四時)に江戸城の西麹町五丁目の在家より別に火もえ出で松平出羽守、越後守、同じく但馬守其外数十ヶ所、さしも綺麗厳浄なる山王権現勧請之地天神の社に至るまで、惣ちに咸陽一朝の煙となり、いよいよ西風烈しくして東照権現の御社、紅葉山へ猛火しきりに吹付けしかば危ふかりける処に、権現應護の御力をや添へられけん。俄に北風となりて吹きければ、西の丸つつがなく残りけるこそめでたけれ。それより南の方大名小路へ焼け通る。伊井掃部頭、上杉弾正少輔、毛利長門守、伊達陸奥守、島津薩摩守、黒田右衛門介、鍋島信濃守、南部山城守、真田伊豆守、丹羽左京、相馬大膳、京極刑部少輔、松平伊賀守、同周防守、戸澤右京、水野美作守、水谷伊勢守、金森長門守、板倉周防守、土方河内守、相良左兵衛、浅野安芸守、同内匠、同因幡守、仙石越前守、亀井能登守、伊藤大和守、松平左京太夫、同大和守、柳生主膳正、秋田淡路守、小出大和守、大田原備前守、大関土佐守、鍋島紀伊守、究竟之屋形廿六ヶ所、小名には、兼松又四郎、高木肥前を始めとして都合二十餘ヶ所、その外御成橋の御門の中は一ヶ所も残らず忽に片時の煙となりにけり。又西の丸の下に至りて、安部豊後守、堀田上野守、水野監物、松平外記、北條出羽守、稲葉美濃守、大久保右京、酒井備後守、松平縫殿、同若狭その外一文字に桜田の町屋に焼移りて、直ぐに愛宕の下大名小路へ打ち続く、まづ大名には、有馬蔵人、大村丹後守、秋月長門守、稲葉能登守、脇坂淡路守、中川内膳、島津但馬守、一柳監物、木下伊賀守、山崎甲斐守、植村出羽守、桑山修理、青木甲斐守、分部左京、北條美濃守、松平隠岐守、大島茂兵衛、小出大隅守、織田源十郎、堀三右衛門、佐久門不干、内藤左京、能瀬小十郎、伊達政守、の中屋敷、毛利長門守の下屋敷、同吉川美濃守、の宿所をはじめとして、大名小名のやかた八十五ヶ所、同時に焼けくづれたりとて、桜田の火すでに通り町にもえ出て、海邊にて保科肥後守の下屋敷、伊達陸奥守の倉屋敷、脇坂淡路守の下屋敷、又その他に、芝の濱手には松平相模守、亀井能登守下屋かたに至るまで以上都合十八ヶ所、増上寺の中にては東照権現の社頭台徳院、同じく御臺の御、同じく本堂経蔵鐘湯五重の塔婆、三門北の裏門など恙なく相残れり。されども所化寮百十ヶ寺、おもての東門神明の本社神楽堂ごま堂、怪しのかずならぬ禿倉に至るまで、その夜の丑の刻ばかり(午前二時)に皆ことごとく炎上せり。此時分には風をだやかにゆるく吹ければ、打ち消すならばたやすかるべきに諸人ただ驚き慌てて方々に逃げ散りて、命を大事とかまへたれば人更になし。風は吹かねども火は心のままに焼けゆく程に、増上寺より南へ十一町芝口三丁目、海手に至りて火は自から消えにけり。
本郷よりこれまでその道すでに六十餘町四方十餘里、正に廣き野原となりて渺々としてほとりなし。総じて町中五百餘町、大名小路五百餘町大名のやかた五百餘宇、小名宿所六百餘ヶ所その他汎々の輩はあげて数ふべからず。御城の殿守大手の御櫓をはじめて外郭浅草の見付神田の桝形に至るまで矢ぐらの数三十餘箇、又日本橋をはじめとして、江戸中にありとあらゆる橋橋六十ヶ所、此の中浅草橋と一石橋一つ、即ち其橋もと後藤源左衛門と云うふものゝ家ばかり江戸中の名残に只ひとつ焼けのこる。土蔵の数九千餘庫その中に焼残りたるは十分が一もこれなし。代々の重寶家々の記録も此時に當りて失せぬらん。
次ぎに、堂社には神田明神、山王権現、天神の社、神明の本宮、誓願寺、知足院、日輪寺、西東両本願寺、本誓寺、薬師寺、珠見寺、願教寺、唯念寺、地蔵院,、霊岸寺、報思寺、朗泉寺、長久寺、信経寺、常連寺、増上寺の所化寮、開善寺、海安寺、常徳寺、圓應院、その他の寺院三百五十餘宇、皆ことごとく焼けほろびたり。昨日十八日の晝より焼おこり十九日のあけぼの廿日の辰の刻(午前八時)まで、晝夜四日の大火事に夥しき旋風ふきて、猛火さかりになり十町廿町を隔てて飛びこみ飛び込みもえ上りける程に、前後更に辨へなく、諸人逃げ惑ひて焔に焦がされ煙にむせび又は大名小名の家々に日頃年頃ひさうして立飼はれける馬共、いくらと云ふ数知れず。家々に火かかればすべき方なく、綱を切りて追ひはなし追いはなしせられしかば、此馬共人と火とに驚き、逸散にかけ出し、あまた群がりたる人の中にかけ込み行きとまりて人と馬と押し合い揉み合ひければ、これにふみ殺され打倒され火に焼かれ烟にむせび、あそこ、爰の堀溝に百人二百人ばかりづつ死に倒れたるを見ざる所もなし。火しづまりて後つぶさにしるしは付けたれば、凡十萬二千百余人とぞ書きたりける。一類眷属のある者は尋ね求めて寺におくりしもあり。大方は如何なる人、何處の者ともたしかならず、変わり果てたる有様それとさたかに知る事もなし。やがて此の死骸をば河原の者に仰せつけられ、武蔵と下総との境なる牛島と云う所に舟にてはこびつかはし、六十間四方に堀うづみ新しく塚をつき、増上寺より寺を建て即ち諸宗山無縁寺回向院と号し、五七日より前に諸寺の僧衆集まり千部の経を読誦して魂をとふらひ、不断念仏の道場となされけるこそ有難けれ。江戸中の老若男女袖をつらねて参詣し、声打上げてもろともに念仏回向するこそ尊とけれ。
或は老たる祖母祖父は生残りて、若くさかんなる孫子を失い、或は女房ただ独り残りて子供や夫に離れたりもあり。凡べて一家の内には五人三人又は十人余りも空しくなりて、つれなく只一人二人生残りて嘆き悲しむと云へども、さすがに身をもすてられぬは血の涙を流して泣くより他に事なし。家々は残らず焼けて江戸中廣き野原となりて取調ふべき竹の柱、菅菰づくまり、、焼土の中にうづくまり、晝はせめてもの音にまぎれよかし。夜にはいればなんとなく物凄じく、思ひめぐらせば悲しきもつらきとも言葉にはのべ難し。親におくれ夫に離れ子を失ひ妻を殺して悲しさのあまりに、五輪卒都婆を買ひ求めて回向院につかはし、無縁塚の上に立てる。ある人一家に十人餘り失ひて其為に卒都婆を十本求めけるが、此の中へ今一本を添へて給れと云う。賣手聞きていふやう、五輪卒都婆などと申ものは餘計多くはせぬ事なり。何の為に一本を添へよとは宣ふといへば此人答へて申さるるは、親類のうちに焼毒をしていたむものあり。若し死にたらばそれにもたててとらせんためなりと答へけり。いにしへ五輪を添へよと申せし話の有りて世の笑ひ種となれり。時にとつては其様の事も有りけるものかな。数多の死屍を一つの穴にうづまれし事なれば、我親類はそこもとに埋れたりとは知らねども、責めて悲しさのあまりには思ひ思ひに五輪卒都婆を塚の上に立てならべて、聖霊頓證仏果のためと回向して花をさし水をくみて跡をとふらひ、泣く泣く念仏申すありさま見聞くにつれてあはれなり。
去年の十一月より當年正月に及まで日照りして青天さやかに黄泉も乾きて、今月の廿日まで雨一滴も降らざりしに、廿一日に大雪俄に降り積みて暴はげしく寒き事いふばかりなし。かかる程に江戸中には米といふもの一粒もなく三日が間大飢饉して、其上竹木なければ仮屋をもはらず。大方皆雪霜に打たれて、寒さはさむし飢凍えて老少男女多く死にけり。一業所感の因果人とも死すべき時のさだまりけん。火を逃がれては水に溺れ、飢えては死し、凍えては死す。いづれ命は助からず無慙というも愚なり。しかる処に御城の西の方、山の手すぢわづかに残りし大名小名よりして、思思に或は日本橋或は京橋と方々に於て仮屋をたて、奉行を添へられ粥を煮て飢ゑたる者に施行せらる。又御城中よりは、内藤帯刀、松浦肥前、岩木伊予、此等の人々を御奉行として御成橋、新橋、日本橋、筋かひ橋、増上寺前に仮屋をたて粥を煮させて飢人窮民に施行し給ふに、江戸中の老若男女集まりて給はる。元より、受けて喰ふべき入れ物もなければ、焼われたる茶碗のかけ、瓦のわれにてうけて食す。それにも及ばず餘りに寒く飢たる悲しさに直ちに手にて受くるもあり。其諸人の有様或は頭のかみかた、顔なかば焼けこげたるもあり。或は小袖の前後裾までももえたるを揉み消してやうやう肩にかけ手足の焼損じたるも有り。妻子孫子に別れて泣々集まる人も有り。昔はさしもに富貴栄華なる人も、一跡皆失ひつつ手と身とになり命許りを助かりて、寒さのまゝに恥を忘れたる若き女房なんども多く集りて、小鉢の破れに粥をうけて泪と共に喰ふもあり。哀れなりける有様なり。
扨て二月の中頃には城外の在在には、それぞれに小屋を立て商賣を営む。江戸中の焼き出されは諸縁にしたがひて入込みしかば、貴賤の出し入れしげく、さしも賑ひて見ゆ。三月の此には兎角才覚をめぐらし、町屋とも形の如くの柴の庵を結び、雨風をふせぎしはそのかみにひきかへていとど物哀れなり。誠に治世安民の政道ただしき御事なれば忝けなくも公方より銀子一萬貫目を町人にくだし給はり、之れにて家を造りもとの如く商売すべしと仰せ下さる御町奉行、神尾備前、石谷将監事人承り江戸中四百町城外の邊町百余町の町人を召寄せて相渡さる。
その年の九十月には土木の巧なりて、町並み一様に六萬の棟をならべ、軒をそろへて綺麗にたて侍り、もとの大地は廣さ六間なれば往来せばしとて今はひろさ十間となり、これによって車馬道にとどまらず人のゆきかひやすらかなり。又白金町より柳原まで町屋一通り除けられ、高さ二丈四尺に石を以て東西十町餘りに土手をつかせらる。 了
( )は筆者注

柏の地の歴史を簡単に述べた。平成16年(2004年)で市政50周年であるが、記念行事は今のところ予定されていない。柏地区医師会の沿革についても纏める時期ではないでしょうか。
柏市の人口は現在、32万人で増加し続けている。一方、年間死亡者数も増えている、その数は約1,730名でその死因統計では自殺が多い事が特徴である。そして検死扱いになっているケースが300例と異常に多い。
救急対応も難しい転換期にさしかかっている。もし大災害が起これば市長の指揮下、医師団が率先して対応していかなければならない。
過去の災害を観るために明暦の大火をとりあげた。これを読むと「火事と喧嘩は江戸の華」など、決して戯言では済まないことが理解されよう。
三大江戸大火は明暦の大火(1657)、目黒行人坂の大火(1772)、文化丙寅の大火(1806)をいい、目黒行人坂は明和9年の火事で、明和九めいわくと語呂がわるいので縁起をかつぐひとはこれを嫌って行人坂の大火とよびますが、こちらの方は2月29日午の上刻(正午)目黒の大円寺というお寺へ、長五郎坊主真秀という悪者が火事場泥棒を目論見、火をつけた。火は西南の風にのって拡がり日本橋から千住まで、江戸三分の一を焼き大火事となってしまった。真秀は捕らえられ、町中引き廻しの上、浅草にて処刑された。
このように大火を招く江戸の火事に対して、幕府は江戸開府当初から消火指揮に当っていたが、寛永18年(1641)の桶町火事のあと大名16家を4組に編成、1組420名の大名火消を結成した。しかし、明暦の大火でこの火消の限界が露呈。翌、万治元年1658年、旗本を加えた定火消を設置。その後、享保3年(1718)町奉行大岡越前守忠相により町人による消防組織、町火消をさらに設置。これで大名火消、定火消、町火消と3グループが揃った。町火消は高輪門前町に本組を置き、いろは48組を江戸各所に組織。「へらひ」は語感が悪いため百千萬の字があてられた。さらに、隅田川の東には本所深川16組、計64組で、鳶人足も加わり火消にあたった。その形は火事帽子をかぶり火事半纏を着て、梯子、刺股、鳶口で延焼防止に家屋を壊していく方法をとっていた。屋根上には纏持が小旗と吹き流しの金銀、猩々緋の馬簾を持ち、組の火消しの心意気をしめす。しかし、纏飾りは2尺、60cm以内までと定められていた。放水には龍吐水というポンプ(柏本署にも保存されている)で行っていた。
牢奉行は石出帯刀というものが代々世襲していましたが、明暦の大火で伝馬町の牢屋まで火災にあった際に、町奉行の許可を取らずに、自らの独断で科人を一時解放した。これを美談として了意は記載しているが、この石出帯刀が何代目かは不明です。しかし、この明暦以降も火事のときには牢払といって同様の処置をとっていた。幕末、これを利用して逃げ通すつもりでいたのが医師高野長英です。火災では家屋の焼失のみならず、寺の仏像、経文、戸籍まで失い、恐ろしく膨大な文化損失を伴う。したがって、開府から明暦の大火までの江戸時代初期の町の様子を示す資料は少なく貴重。いわゆる江戸名所図会などは大火後に作成されたものである。現在のデジタル時代では、文化的産物の保存方法を検討しておかないと、未来永劫、デジタル時代のため資料保存されていませんということになりかねない。
武蔵鐙の掲載されている冊子はA5版の鼠色の表紙で、裏紙に東京市のマークが印刷されており、金五拾銭。東京市編纂で"明暦安政及大正の難"という題で、関東大震災の翌年に百年の計として、これを造本している。
跋文(おくがき)として当時、東京市社会教育課長の大迫元繁が『屡々斯うした大天災に出遇つて其度毎に市街の大半は焦土となつたけれども、いつもまけじ魂と根強き愛郷心とを発揮し、勇敢なる努力によって更に善き都を再建する。之れが江戸っ子、吾等東京市民の誇りであった。』とのべ、さらに、大災害では、精神の復興が要求されることを強調している。
自然相手では、へこたれてはダメ、七転八起、油断大敵なのである。