
甲申、萬物新たなる千巖春を祝う。2004年、平成16年、皇紀2664年、きのえさる、閏年。
正月早々、古物、堅物のはなしで恐縮ですが岩石です。石を床の間に、室礼として掛け軸や盆栽などと並置し、これを観賞する、いわゆる水石、銘石の妙境を観賞するのですが、ただの石ころを床の間に置いてもダメです。
水石は、鎌倉武士の時代から流行っていた書院作りでの室礼です。マンションの一室では水石は似合いません。平成の時代、和風建築の造作も少なくなり、水石の蒐集趣味の人もめずらしくなってしまいました。
一室で自然界に思いを巡らし、掛け軸、盆栽、水石を一体として観賞するのですから、この石は相当存在感のあるものでなくては釣り合いがとれません。従って石を観る目利きとしては十分鍛錬しないと野暮なインテリアになってしまいます。
江戸、明治以降にも石愛好家が所蔵していた格好の整っている銘石としては、頼山陽の加茂真黒石「大和群山」、上野寛永寺蔵の「黒髪山」、岩崎弥之助蔵の「峨眉山」、伊達家蔵の「鎌倉」、後町要氏蔵の鐘真黒の遠山石などの名石があり、小泉純一郎首相の父純也氏は石コレクターで、衆議院会館の自室は石三昧でした。
奇石、銘石など星の数ほどありますが、水石文献『盆山秘言』(江戸、明和九年1772年)によると、由緒正しき石はたった九石のみで「浅間山」、「末の松山」、「万里江山」、「廬山」、「九山八海」、「飛龍」、「残雪」、「八橋」、「夢の浮橋」が挙げられています。これらはもっとも由緒ある石で伝承石といいます。
この伝承石のうち、現存が確認されているのは「末の松山」、「残雪」、「夢の浮橋」の三石のみでした。が、しかし、この度、「廬山」が東京の茶人数奇者が所持していることが判明し、幻の石、発見、と近代盆栽03年 6月号に大きく発表されました。
平成15年のゴールデンウィーク中に上野東京国立博物館平成館での西本願寺展を観覧しました。これは西本願寺の御影堂平成大修復事業記念で、treasure の展覧です。西本願寺が所蔵している宝物 treasures には仏物以外に三十六人家集の本願寺本、石山切、尾形切、室町切があり、その豪華さは他の寺社の及ぶところではありません。
その展覧で、伝承石の「末の松山」が展示されていたのには仰天しました。それも、会場の薄暗い隅にガラス筺の中に放り込まれており、どうみても霊験灼かな名石の陳列とはいえず、札に名は書き込んでありましたが、謂われの説明などまったくない状態でした。
これをみた若い女性の団体のひとりが「なによ、この石ころ。こんなとこに並べて」といったのには、さらに仰天。見知らぬ身ではありましたが、これは水石といって盆栽などと並べて書院の床の間などに飾る石ですよ、と余計な説明をしたが "フン" と顎をしゃくり上げて行ってしまいました。他の観覧者も眼に止めることなく通り過ぎていきます。
さらに、展示されていた「末の松山」は、かつて誠文堂からの『水石の心・石の心』昭和41年に掲載されている「末の松山」と全く異なる石でしたので三度驚きました。
孰れの方角からみても違っていますし、モノクロ写真ではありますが誠心堂掲載の水石は照りのある加茂川真黒石のようで、西本願寺展示石とは全く異なっており、西本願寺の「末の松山」が本物で、誠心堂は間違って写真を掲載していたのではないかとおもっていました。ところが後日、「末の松山」の銘の水石が実は二つあることが判明しました。
『水石』村田憲司、昭和41年、木耳社によると慶長年間に安濃津城の藤堂高虎の所蔵の水石で、のちに徳川家康、紀州家が収蔵していた石にも「末の松山」と銘符してあったのです。
石など診療に何の関係があるかといわれるでしょうが、平静心を養うにはいい方法だとおもいますよ。そして小泉純也氏の父は盆栽を趣味としていましたが、これには、水、肥料、光にあてる時間がもてなくて諦め、少々重いのが難点ですが、手が掛からないのでと水石が趣味となったといいます。
皆さんの関心は低いでしょうが、趣味、戯言とせず、教養範囲で、ここに現存の四伝承石をネット上観覧して下さい。
盆石と水石は違います。盆石は黒盆に白砂で畫を描くもので藤原流が有名です。水石はそのままか、もしくは水盤に砂をはって、その上に石を置き、観賞するものです。
名石が発見される場所は、和歌山の古谷など決っていて、古い物ほどよく、石肌が柔らかく、
小さくても写真など撮ってみると大きく見えるのが名石の条件です。また、奇石、菊花石なども面白く、日本での河川上流で気にいったものを探し求めているマニアは多い。
江戸時代には、古谷などでの石窟は御法度でした。今は国立公園以外であれば大丈夫。しかし、石窟しても持ち出すのに重いので一苦労。そして、設置は自然のままで、石を加工してはダメです。自然のままを上品とします。ジャンボ尾崎氏が富士山の姿をした見事な水石を所持しています。
さらに、西本願寺展で出典されていた「一文字」という有名な茶器について説明をくわえておきます。

現存している四つの石をネット発表します。
「末の松山」
高 8.9cm、口径 13.4cm、高台径 5.8cm朝鮮16世紀ころの器とおもわれる。高麗茶碗の一種で大きめの高台と胴のふくらみが特徴で呉器とおもわれる。
もともと呉器は飯碗でしたが、これには大徳寺、紅葉、翠、番匠、尼の5種類があり、一文字は器の色合いからみて紅葉呉器とみられる。腰が丸く張った碗形で、高台が高く、裾広がりで一箇所を切り欠いてあり、高台内は深く削り込まれて、兜巾状(ときん)になっている。
一文字の名は胴にある一筋の凸帯に由来する。これは碗を積み重ねて焼成した際に、下にあった茶碗の口縁が付着してしまったもので、作為ではなく偶然の所産である。従って、古来より一文字呉器あるいは一文字茶碗とよばれているのは、この茶碗の種類をいうものではなく、この茶碗の固有名詞です。
さらに器形でみられる特徴は、釉色が赤味を帯びており、これらから紅葉呉器と呼ばれている一群の高麗茶碗とみる。
また見込みには仄かに赤紫色の緋色があらわれている。口縁、高台の釉が溜った部分は青灰色を帯びている。腰の部分には面取りのような粗い削り痕が遺されており、高台および腰の数カ所には施釉の際についた陶工の指痕が見られる。雅味に富み、豊かな表情をそなえた名茶碗である。
この茶碗は大坂城ちかくにあった石山本願寺の顕如に織田信長が和睦のしるしに贈った一品と伝えられ、その後、京都に移った西本願寺の重宝となっている。
この伝承に従えば、天正十八年、1580年以前にすでに名物茶碗としての評価を得ていたことになる。以上、四伝承石のうち末の松山、残雪と国宝級の西本願寺が所持している一文字茶碗を紹介した。
それにしても、ここでもまた、織田信長の目利き、眼力の強烈さを再認識させられた次第である。

本願寺は鎌倉時代に浄土真宗を開いた親鸞の墓所から発展した寺である。本願寺を理解するためには平安末期からの日本佛教の流れと親鸞を知っておかなければならない。また、日本の佛教の歴史を概観するには法然以前、法然以後にわけてみると理解しやすいというのが『法然の哀しみ』小学館、2000年の梅原猛氏の意見で、私もまったく同感で、真宗の金子大榮先生も、このように考えられて、『日本佛教史観』岩波書店、昭和15年で、日本の「佛道の分水嶺」と表現されている。
平安末期の佛教は末法思想を反映して、源信(942-1017)による南無阿彌陀仏と念ずれば極楽浄土に導かれるという教えが隆盛していた。
後一条天皇の御代、太政大臣、藤原道長(966-1027)は月の虧けることのない権力を独占した生活をおくり、源信の浄土教に帰依していたが、糖尿病性腎症の尿毒症で61歳で死亡。
内道場供奉(ないどうじょうぐぶ)が命じられ、多くの祈祷僧により大がかりな読経、祈念がはじめられる。臨終の際、阿弥陀堂の阿弥陀仏像と自分の手を五色の糸でむすび、目には仏の姿より外は見ず、耳には仏法より外の声を聞かず、こころにもっぱら浄土を念じつつ生涯を終えた。不老不死の妙薬「金液丹」の効能も無く、南無阿彌陀仏の念仏も不死、病には無効で、既成魄。旁死魄。日月並缺天度別。(きせいはく。ぼうしはく。日月並び缺けて天度わかる。
;頼山陽日本楽府18)
現代医療ではインシュリンと透析で少しは延命できるが、死の恐怖へのケアーはむしろ平安時代のほうがよかったのかもしれない。
その子、摂政、頼通(990-1074)も宇治の別荘に平等院鳳凰堂を造作し、阿弥陀仏を本尊とした寺を建立、浄土教に帰依した。皇室、藤原一族はみな佛教、浄土教にどっぷり浸っていたのである。精神的救いは浄土教、佛教のみの時代になっていた。
藤原家の系図は32家156派にわかれているので完全に把握するのは難しいが、北家の藤原家宗(817-877)の家系で、この五代あとの藤原資業(すけなり)は京都東南の日野に法界寺を造作していたことから、名を日野に改めていた。
親鸞(1173-1262;90歳、天親、曇鸞から一字づつとった名)は、この一族の日野有範(ありのり)の子である。9歳の時、慈円(1155-1225)のもとで出家し、仏門に入っている。そして20年にわたり比叡山で修行する。しかし天台宗に行き詰まりを感じていた。
時代は清盛。彼によって藤原頼長、成親、俊寛らを鬼ケ島に流罪とするが、源義経の出現により平家都落ちし、わずか5歳で入水し安徳天皇(1180-1185)は崩御。ついに、1192年、後鳥羽天皇の御代に将軍源頼朝により、幕府が開かれ中世、鎌倉時代がはじまる。その頼朝も1199年死亡、1203年土御門天皇の御代に実朝が将軍となったが、1219年に公暁により暗殺される。
平安末期から鎌倉時代と時代背景にともない、日本の佛教解釈も大きく変化し、念仏、浄土、本願が焦点となっていく。
親鸞は、この1201年、28歳で叡山を下り、法然(1133-1212)の弟子となる。
関東武士の勇将熊谷直実も蓮生として法然のもとにはしり敦盛の霊を弔い一生を終えている。自殺したともいわれているが不明な点が多い。これらについては『法然讃歌』寺内大吉、中公新書、平成12年、2000年にくわしい。
法然自身は阿弥陀仏と称えれば、すなわち念仏に専修すれば、浄土に行けるとする口称専修念仏を説いており、『観無量寿経疏』、『選択本願念仏集』を著していた。とくに『選択本願念仏集』は慈円の兄、九条兼実の要請で書き上げられている。
念仏をとなえてさえいれば浄土に行けるのが阿弥陀の本願であるとする専修念仏。これは仏法の聖道に反する考え方で、さらに、仏法の理念である菩提心そのものを否定するような法然の佛教の解釈には猛烈な反対者が多く、興福寺、比叡山や日蓮、栂尾の明恵(1173-1232)などの批判は手厳しいもので、危険思想、危険新宗教とされた。
菩提心とは、悟りをめざして修行しようとする心をいうわけであるから、法然自身は専修念仏は自力浄土であると説明しており、念仏をとなえること自体が悟りをもとめる心、菩提心であるとしている。にもかかわらず、批判者は念仏を称えさえすればよいというのは他力浄土で、阿弥陀にすがり、信者は念仏だけとなえ、信者、僧自らは修行を無用と考えてしまう。これは佛教の菩提心を根本から無視した宗教を立宗していることになると非難している。
法然か明恵か、については最近の論者で『法然と明恵』袴谷憲昭(現駒沢短期大学教授)、
1998年、大蔵出版、が日本の佛教を明恵の「一つの佛教」、法然の「いま一つの佛教−往生の教」に分けて論じているが、いずれも阿弥陀に直接聞くことはできない仏法であるので、あの人(釈迦)は生きていれば、念仏についてどういうだろうね、こういうかね、そうはいわないだろうという範囲の論争になってしまい、仏法論争には成らないと思う。仏法の根本は紀元前の時点で人間の大脳生理、とくに前頭葉の発達した動物、人間の思想のありかたを説いていることにあるわけですから、どのように解釈してもかまわないよと仏陀はいうに違いないと私はかんがえます。
しかし、「一つの佛教」から抜けだした理念として、末法思想を払拭する「往生の教」を説いた法然はさすがだなあと思いますし、仏法の学究のみならず、修行を最後まで怠らなかった実践の学僧明恵の華厳宗、仏典を守り抜く気概にも驚異と畏敬と共感を覚えます。
しかし、貞慶が『興福寺奏状』の冒頭で、夫佛法東漸次後、我朝有八宗、とのべているように、この時代では佛教は八宗(古京六宗+2;倶舎宗、成実宗、律宗、法相宗、三論宗、華厳宗、天台宗、真言宗)あり、浄土宗は新興宗教である。これを社会がうけいれるか否かが問題で、いつの時代にも新しいものの台頭には苦難をともなう。
華厳宗の明恵(高弁)ですら、法然の死後になっているが、ざいじゃりん『摧邪輪』で『選択本願念仏集』は釈迦の基本理念である菩提心を無視し、自力行としていることは佛法そのものを無視しているに等しく、法然は「仏法の怨敵」であるとしている。また、聖道門の否定であり、火宅(迷いの世界)から悟りへの道は念仏のみで達せられるとする法然の意見に真っ向から反発しているが、法然はすでにこの世から消えている。親鸞などの門弟の反応もない。
ついに、古京六宗の一つである法相宗の興福寺の貞慶が『興福寺奏状』において法然の浄土宗が佛教として九つの失(失敗)があり、危険宗教であることを上皇に訴状したこと、さらに、1207年、承元元年に後鳥羽上皇の侍女たちが、上皇が熊野詣での留守中に、法然の弟子、安楽と住蓮らが主催する鹿ヶ谷の六時礼讃(昼夜六時に弥陀を礼讃する偈頌を称える)の興行に招かれ、専修念仏の教えをうけてしまった。
そして彼女たちは、法然のもとに無断で出家したことで、上皇の逆鱗に触れ、専修念仏は停止され、善綾、性願、住蓮、安楽らは死罪、法然は土佐へ、親鸞は34歳のとき、越後に流罪となる。その他の弟子も全国に流罪となった(建永の法難)。
しかし、これが逆に浄土真宗の信者を全国津々浦々に極度に増やす土壌を天皇自らが作り出すという皮肉な結果となる。日蓮は『撰時抄』で、源信によって日本人の三分の一は念仏に帰し、永観(1033-1111ようかん;東大寺別当)によって三分の二が念仏に帰し、法然によって日本人全部が念仏に帰したと、日本の宗教的状況は念仏にのみ偏ってしまっていることを述べている。
法然は5年後に帰京し、翌年死亡、世寿八十。その22年後、文暦元年1234年、源智により知恩院が建立され、東山天皇より円光大師の諡を賜る。
全国の浄土宗の寺に法然の御影、像は多いが、その中でも西山派本山粟生光明寺には法然の「張子の御影」がある。これは弟子の耽空によってつくられた彫像で、法然の遺言で、母からの手紙を張り、漆でかためられた法然像である。
余談であるが、2000年、平成12年の5月、京都大原寂光院が火災にあった。この時、建礼門院の像は焼失してしまった。この像も彼女にきた手紙でつくられた像である。さらに地蔵菩薩像も真っ黒に焦げてしまった。この体内に壇ノ浦で恨みをのんで死んだ何万という平家武士の鎮魂をこめた小さい地蔵菩薩が入っており、こちらの方は無事であったとのこと。このことは『シギと法然−思うままに』梅原猛、2000年文藝春秋社「寂光院の火事」で語られている。
親鸞は帰京の動きをみせるが、法然の死のこともあり、1217年、44歳の時に越後から関東笠間郡稲田に移りすむ。以後当地での布教、『教行信証』の述作が20年間続く。ついで1231年に58歳で下野國佐貫、高田にうつり、1232年に帰洛につく。30年間の行化(ぎょうげ;修行と教化)、1262年親鸞入寂。
この12年後の1274年に蒙古来、元寇の来襲である。日蓮の活躍めざましく、鎌倉執権北條時宗、膽甕(たんかめ)の如し。
そして、本願寺の歴史は親鸞入寂後からはじまる。
親鸞の墓所は京都東山の大谷にあり、大谷廟堂(おおたにびょうどう)といわれる墓所を、当初、親鸞の末女覚信尼が留守職として守護していた。しかし、木册で囲まれた粗末な墓所であったため、信者によって、より拡充されていき、現在の七条烏丸の真宗本廟となっている。
この本廟の西に浄土真宗本願寺派本願寺があり、これを西本願寺といい、東に通称東本願寺(信浄院本願寺)があります。なぜ本願寺が二分されているかは後でのべます。
親鸞入寂後、本願寺の門主は、如信、覚如、蓮如、実如、証如、顕如と受け継がれる。
如信は親鸞の孫にあたる。その子、覚如(1270-1351)の時、御堂を専修寺という名にしようとするが、比叡山から「専修念仏停止以来、専修という言葉は使ってはならない」との抗議が入り、これを本願寺としたのである。
8代、蓮如(1415-1499)のとき、浄土真宗も天台化がすすみ、これを本来の姿にもどすため、礼拝の方式などを改善し、真宗は再度隆盛する。しかし、『シギと法然−思うままに』梅原猛、2000年文藝春秋社の「蓮如に学ぶもの」に、蓮如は親鸞の弟子唯円が記録した『歎異抄』を危険書物として隠してしまった。
明治になって清沢満之らが、『歎異抄』を再発見し、蓮如を親鸞の思想に刃向かう者としてあつかっているとしている。清沢満之らは蓮如を理解していない。蓮如ほど親鸞の著書を精読していた人はいず、彼は親鸞思想を『歎異抄』の悪人正機説におかず、浄土の二種廻向と考えていた。
親鸞のいう二種廻向とは住相廻向と還相廻向をいう。ここでいう廻向は人間の廻向ではなく阿弥陀の廻向で、阿弥陀仏は難行の結果得られた功徳をまわして、どんな人間でも、口で南無阿彌陀仏を唱えれば、極楽浄土へ往生することができるように仕向け給うた。これが往相廻向であり、さらに、いったん極楽浄土に往生した念仏行者はいつまでもそこにとどまらず、人間救済のために、またこの世に還ってくるようにし向け給うた。これが還相廻向である。
蓮如は真宗の中興の祖であることには間違いないのであるが、またまた、比叡山が、蓮如の真宗に、無碍光流の念仏は邪教、十字名号(帰命尽十方無碍光如来)は邪義と非難する。蓮如は1465年には本願寺を破却し、近畿各地を転々とし、1480年に山科で本願寺再興する。
蓮如のあとの実如、証如、顕如は戦国時代にはいる。証如の時、細川晴元により山科本願寺は焼き払われたため、1532年、大阪の石山本願寺にうつる。そして顕如(1543-1592)の時代には公家武家庶民の絶大なる寄進をうけ、三十六家集、栄花物語、鷹手本など金かわりに美術品を頂戴し、その潜在力は強力なものとなる。この仏寺と公家と武家の間の取り纏め役として、殺生関白豊臣秀次(1568-1596)の存在は無視できない。因みに紫式部(973-1016)の源氏物語の絵巻のほうは現在、徳川美術館にのこっている。
織田信長の援助で将軍になれた足利義昭は、恩を仇でかえす。比叡山、本願寺を見方に天下統一の野望者信長を滅ぼすつもりであったのを信長は見抜き、義昭失脚。比叡山は焼き討ち、石山本願寺(大阪)攻めをうける。顕如の時代1570年で、完全制覇するまで11年かかっている。
顕如には准如、教如の子があったが、1580年、ついに顕如は退城する。しかし、子、教如は籠城をきめこむ。顕如は教如を義絶する。
秀吉は准如に寺務をわたすように教如に提案するが、教如は拒否。本願寺の北方にいすわった。教如は徳川家康に早くから親近していたのである。
家康の時代になっても信者、僧の強力な本願寺の力はおとろえず、家康は、その処分と本願寺内紛分裂状態について悩んでいた。家康自身は教如の門主を支持していたが、本多正信が、一石二鳥の妙案をだした。それは本願寺の力を減弱させる目的と、教如と准如ともに門主とさせるために東と西にわけるとする妙案を献策した。
こうして1602年、今から400年前に西本願寺に准如が、東本願寺に教如が門主につき、現在に至っているのである。
一体、本願寺の歴史を知悉することは、取りも直さず、聖徳太子、日本の南都六宗(古京六宗)以降の最澄、空海、法然、日蓮、道元、親鸞の立宗、行化の意義をしることになり、日本人の中世から近世、現代までの佛教の解釈、例えば念仏、浄土思想などに対する日本人の思いを観ることができるのである。
そして現在の、光明主義的、大我的、頭脳思考世界を喪失した、精神的心柱を失った、機械文明のみに追従する日本人の現実を、惨めな頭脳世界を、みなおすには良い方である。
しかし、決して、宗教が必要というのではない。頭脳、大脳、前頭葉を使った日本人思考の復活をいうのである。
水石美の原則として、名石の規準を北宋時代の愛石家米元章は「石の四則」あげている。それは、「透」、「皴」、「秀」、「痩」、で、透徹、シワ、気韻俊秀、痩骨痩古をいうのではなかろうか。村田憲司氏は「姿」、「質」、「色」の三点をあげているが、基準をあげていくのは難しい。
村田圭司はこれらを踏まえて、客観的条件として形、線、色、質、肌の五点、主観的条件として、迫力、平安、品格、古色の四点をあげている。
水石を詠んだ歌は極めて数少ないが、明治の歌人、正岡子規の第一弟子岡麓氏の二首を挙げておく。
鉢の石、見つつしあれば山水(やまみず)の
清きところにあるおもひすも
石を見て何に似たりというなかれ
自然(おのずから)こそ常(とこ)めずらしき
以上、蒐集趣味の一つ、水石を紹介しました。石は医師に通じ、マニアはやはり医師に多い。これからは銘石といわれるような姿の石を川辺で見つけてください。これに名をつけ、漢詩をそえれば完璧ですが、そう簡単にはいきません。
茶器のほうは、これも奥が深く、天目や織部、志野などが好みなのですが、高価すぎて、手が出ません。手元にある茶器はママゴトにつかう程度のものしかありません。
今後も、目利きに磨きをかけて、これぞというものを手にしたいものと考えています。
ただ、毎年干支の香合だけは、作家物を買い込んでいますので、これも年数がたてば披露できるかもしれません。
冀(こいねが)わくば医神、2004年、甲申、本年こそ、我らに幸をあたえよ。