甲申、萬物新たなる千巖春を祝う。2004年、平成16年、皇紀2664年、きのえさる、閏年。
 正月早々、古物、堅物のはなしで恐縮ですが岩石です。石を床の間に、室礼として掛け軸や盆栽などと並置し、これを観賞する、いわゆる水石、銘石の妙境を観賞するのですが、ただの石ころを床の間に置いてもダメです。

 水石は、鎌倉武士の時代から流行っていた書院作りでの室礼です。マンションの一室では水石は似合いません。平成の時代、和風建築の造作も少なくなり、水石の蒐集趣味の人もめずらしくなってしまいました。
 一室で自然界に思いを巡らし、掛け軸、盆栽、水石を一体として観賞するのですから、この石は相当存在感のあるものでなくては釣り合いがとれません。従って石を観る目利きとしては十分鍛錬しないと野暮なインテリアになってしまいます。

 江戸、明治以降にも石愛好家が所蔵していた格好の整っている銘石としては、頼山陽の加茂真黒石「大和群山」、上野寛永寺蔵の「黒髪山」、岩崎弥之助蔵の「峨眉山」、伊達家蔵の「鎌倉」、後町要氏蔵の鐘真黒の遠山石などの名石があり、小泉純一郎首相の父純也氏は石コレクターで、衆議院会館の自室は石三昧でした。
 奇石、銘石など星の数ほどありますが、水石文献『盆山秘言』(江戸、明和九年1772年)によると、由緒正しき石はたった九石のみで「浅間山」、「末の松山」、「万里江山」、「廬山」、「九山八海」、「飛龍」、「残雪」、「八橋」、「夢の浮橋」が挙げられています。これらはもっとも由緒ある石で伝承石といいます。

 この伝承石のうち、現存が確認されているのは「末の松山」、「残雪」、「夢の浮橋」の三石のみでした。が、しかし、この度、「廬山」が東京の茶人数奇者が所持していることが判明し、幻の石、発見、と近代盆栽03年 6月号に大きく発表されました。
 平成15年のゴールデンウィーク中に上野東京国立博物館平成館での西本願寺展を観覧しました。これは西本願寺の御影堂平成大修復事業記念で、treasure の展覧です。西本願寺が所蔵している宝物 treasures には仏物以外に三十六人家集の本願寺本、石山切、尾形切、室町切があり、その豪華さは他の寺社の及ぶところではありません。

 その展覧で、伝承石の「末の松山」が展示されていたのには仰天しました。それも、会場の薄暗い隅にガラス筺の中に放り込まれており、どうみても霊験灼かな名石の陳列とはいえず、札に名は書き込んでありましたが、謂われの説明などまったくない状態でした。
 これをみた若い女性の団体のひとりが「なによ、この石ころ。こんなとこに並べて」といったのには、さらに仰天。見知らぬ身ではありましたが、これは水石といって盆栽などと並べて書院の床の間などに飾る石ですよ、と余計な説明をしたが "フン" と顎をしゃくり上げて行ってしまいました。他の観覧者も眼に止めることなく通り過ぎていきます。

 さらに、展示されていた「末の松山」は、かつて誠文堂からの『水石の心・石の心』昭和41年に掲載されている「末の松山」と全く異なる石でしたので三度驚きました。
 孰れの方角からみても違っていますし、モノクロ写真ではありますが誠心堂掲載の水石は照りのある加茂川真黒石のようで、西本願寺展示石とは全く異なっており、西本願寺の「末の松山」が本物で、誠心堂は間違って写真を掲載していたのではないかとおもっていました。ところが後日、「末の松山」の銘の水石が実は二つあることが判明しました。
 『水石』村田憲司、昭和41年、木耳社によると慶長年間に安濃津城の藤堂高虎の所蔵の水石で、のちに徳川家康、紀州家が収蔵していた石にも「末の松山」と銘符してあったのです。
 石など診療に何の関係があるかといわれるでしょうが、平静心を養うにはいい方法だとおもいますよ。そして小泉純也氏の父は盆栽を趣味としていましたが、これには、水、肥料、光にあてる時間がもてなくて諦め、少々重いのが難点ですが、手が掛からないのでと水石が趣味となったといいます。
 皆さんの関心は低いでしょうが、趣味、戯言とせず、教養範囲で、ここに現存の四伝承石をネット上観覧して下さい。

 盆石と水石は違います。盆石は黒盆に白砂で畫を描くもので藤原流が有名です。水石はそのままか、もしくは水盤に砂をはって、その上に石を置き、観賞するものです。
 名石が発見される場所は、和歌山の古谷など決っていて、古い物ほどよく、石肌が柔らかく、
小さくても写真など撮ってみると大きく見えるのが名石の条件です。また、奇石、菊花石なども面白く、日本での河川上流で気にいったものを探し求めているマニアは多い。
 江戸時代には、古谷などでの石窟は御法度でした。今は国立公園以外であれば大丈夫。しかし、石窟しても持ち出すのに重いので一苦労。そして、設置は自然のままで、石を加工してはダメです。自然のままを上品とします。ジャンボ尾崎氏が富士山の姿をした見事な水石を所持しています。
 さらに、西本願寺展で出典されていた「一文字」という有名な茶器について説明をくわえておきます。

現存している四つの石をネット発表します。

   

「末の松山」

 奥 11.8cm、間口 27cm、盆の大きさ40.6cm 明時代15世紀のものと思われる。
 西本願寺展(御影堂平成大修復事業記念)東京国立博物館展示での資料には盆石となっていたが誤り。水石です。盆がついていますので、これに砂繪を描いて盆石にしていたのかもしれません。室町時代には水石は「室礼」として書院飾り必須のアイテムで珍重されていた。

 末の松山は東山御物と伝えられ、室町時代後期の茶人、塩屋宗悦の所持で、後に本願寺に伝来した。この経緯は不明。ただ藤村庸軒(ふじむらようけん;1613-1699)の弟子、久須見軒疎庵の庸軒茶話指月集に、ある人が中国に渡り、杭州径山寺(きんざんじ)の岩角を切取って持ち帰ったものと記されている。
 皿は鯨の骨でできていて内側の表面は明の萬暦年間の織物でできている。本願寺18代門主文如(現在25代)が「幾千代の契をこめて朝夕に雪をいただく末の松山」という歌一首を添えている。

   

「残雪」

 奥 8.5cm、間口 23.5cm、明時代15世紀。切り立った崖からなる孤島のような形で、岩肌は暗緑色で、頂上に白い石肌が現れている。これを残雪とみた。
 大坂天満に伽藍を増設中の本願寺に豊臣秀吉が訪問した際に、この石をみせて持て成したことが貝塚御座所日記に記されている。さらに顕如が死亡したとき遺品として秀吉に贈られたが、その後、元和三年、1617年の本願寺火災被害に、北政所から本願寺への見舞い品として戻され、現在に至る。

   

「夢の浮橋」

 徳川美術館蔵。後醍醐天皇が笠置、吉野へ遷幸された際にも常にこれを懐中にしておられたと伝えられる名石中の名石。石底には朱漆で後醍醐天皇宸筆があり、夢の浮橋とその銘が書かれている。中国江蘇省江寧山の霊石と伝えられている。底面には短い足があり両側が支えられ、
全体が僅かに浮き上がっている。

   

「廬山」

 和歌山の古谷石であろう。今回、存在が確認された名水石。奥 13cm、間口 20cm、高 16cmで小さいが堂々としており、剣峰が連なる様は中国潯陽の南にある廬山を思わせるので、この名が付いている。この石の所持経歴は不明です。
 廬山は標高1,400mの名山で、峰が多い。北に長江が流れ、東にハ陽湖(はようこ)をひかえた景勝地で、1996年に世界文化遺産に指定登録されている。
 李白(701-762)の昔から、廬山を詠った漢詩があり、これらの三首を紹介して
おく。

「望廬山瀑布」  第一首  (五言古詩)
  西登香爐峯  西のかた香炉峰に登り
  南見瀑布水  南のかた瀑布の水を見る
  挂流三百丈  流れ挂(ひ)く三百丈
  噴壑数十里  壑(たに)に噴く数十里
  
如飛電来  (くつ)として飛電来る如し
  隠若白虹起  隠として白虹の起つが若
  初驚河漢落  初めて驚く河漢の落ちて
  半灑雲天裏  半ば雲天の裏に灑(そそ)ぐかと
  仰観勢転雄  仰ぎ観れば勢い転(うた)に雄な
  壮哉造化功  壮なる哉、造化の功
  海風吹不断  海風吹き断たず
  江月照還空  江月照らすもまた空し
  空中乱
射  空中乱れて射(そうせき)し
  左右洗青壁  左右青壁を洗う
  飛珠散軽霞  飛珠軽霞を散じ
  流沫沸穹石  流沫穹石(きゅうせき)に沸く
  而我楽名山  而して我名山に楽しみ
  対之心益
  之に対し心益々なり
  無論漱瓊液  論ずる無かれ瓊液(けいえき)に漱(すす)ぐ
  還得洗塵顔  また得たり塵顔を洗うを
  且諧宿所好  且(か)つ諧(うた)うもとより好む所
  永願辭人間  永く願う人間を辞するを

「望廬山瀑布」  第二首 (七言絶句)
  日照香爐生紫煙  火は香炉を照らし紫煙を生ず
  遙看瀑布挂前川  遙かに看る瀑布の前川を挂くるを
  飛流直下三千尺  飛流 直下 三千尺
  疑是銀河落久天  疑うらくは是れ銀河の九天より落つるかと

「望廬山五老峰」     (七言絶句)
  廬山東南五老峰  廬山東南の五老峰
  青天削出金芙蓉  青天削りだす金芙蓉
  九江秀色可攪結  九江の秀色攪結すべし
  吾将此地巣雲松  吾将に此の地にて雲松に巣くわんとす

李白全詩集下巻(日本図書)

   

「厳美」

 ついでに私蔵の石を紹介しておきます。奥 7cm、間口 11.5cm、高さ 6.5cm。
 北海道の旭川、神居古澤、カムイコタンで採取された石で、京都の横山医師から購入した水石。茶色の石肌からみて400年以上はたっている。
 岩手の一の関の厳美渓にみられる巨大な自然石に似ていて段石になっており「厳美」と名づけました。夏には診療室の入り口に展示しています。

   

 次いで、一文字という茶器を見て頂くために、茶碗について述べておかなければなりません。
 まず、茶碗の構造とその種類を簡単に纏めます。茶碗は茶道に使用する最も重要な器です。

 茶碗の構造というか、部分名称について、上から、口作り(口縁)、そとは胴、腰、高台、高台内にわけ、中を茶巾摺り(ちゃきんずり)、茶筅摺り、見込み(のぞき)、茶溜まりにわける。全体に釉薬うわぐすりがぬられ、焼かれている。高台には一般には釉(うわぐすり;ゆう)はかかっていない。
 その種類は唐物中国、高麗物朝鮮、和物日本のものとに分けられるが、重要で上品は高麗ものとされています。

 中国では宋青磁、唐三彩、油滴天目はきわめて高価で、高麗茶碗では井戸、三島、斗々や、粉引き、刷毛目、熊川、釘彫伊羅保、呉器(五器、御器)などがあり、和物では京都の楽という茶碗が有名です。聚楽第の楽をとって命名したとされており、長次郎が始めた京焼で、店先には楽焼おちゃわん屋の本阿弥光悦の筆になる暖簾が今もかかっています。その他、志野、瀬戸天目、刷毛目、粉引き、萩、唐津などで、珍重されている茶碗を一井戸、二楽、三唐津や、一楽、二萩、三唐津、と申します。
 これらの特徴を文章にすると難しいので百聞は一見に如かず。よく何回もみること。できれば触れてみること、肌触りも大切ですし、手の中での収まり具合を診ておきたい。そして、茶をいただくこと。口縁の当りと茶溜まりの具合を確認する。ピロリー菌がいるかもしれませんので、念のため一度熱湯処理した方がよい。井戸水にも注意した方がよいでしょう。

 それでは、さっそく西本願寺所持の一文字の景色を拝見いたしましょう。

   

「一文字」

 高 8.9cm、口径 13.4cm、高台径 5.8cm朝鮮16世紀ころの器とおもわれる。高麗茶碗の一種で大きめの高台と胴のふくらみが特徴で呉器とおもわれる。
 もともと呉器は飯碗でしたが、これには大徳寺、紅葉、翠、番匠、尼の5種類があり、一文字は器の色合いからみて紅葉呉器とみられる。腰が丸く張った碗形で、高台が高く、裾広がりで一箇所を切り欠いてあり、高台内は深く削り込まれて、兜巾状(ときん)になっている。

 一文字の名は胴にある一筋の凸帯に由来する。これは碗を積み重ねて焼成した際に、下にあった茶碗の口縁が付着してしまったもので、作為ではなく偶然の所産である。従って、古来より一文字呉器あるいは一文字茶碗とよばれているのは、この茶碗の種類をいうものではなく、この茶碗の固有名詞です。
 さらに器形でみられる特徴は、釉色が赤味を帯びており、これらから紅葉呉器と呼ばれている一群の高麗茶碗とみる。

 また見込みには仄かに赤紫色の緋色があらわれている。口縁、高台の釉が溜った部分は青灰色を帯びている。腰の部分には面取りのような粗い削り痕が遺されており、高台および腰の数カ所には施釉の際についた陶工の指痕が見られる。雅味に富み、豊かな表情をそなえた名茶碗である。
 この茶碗は大坂城ちかくにあった石山本願寺の顕如に織田信長が和睦のしるしに贈った一品と伝えられ、その後、京都に移った西本願寺の重宝となっている。

 この伝承に従えば、天正十八年、1580年以前にすでに名物茶碗としての評価を得ていたことになる。以上、四伝承石のうち末の松山、残雪と国宝級の西本願寺が所持している一文字茶碗を紹介した。
 それにしても、ここでもまた、織田信長の目利き、眼力の強烈さを再認識させられた次第である。

   

 本願寺は鎌倉時代に浄土真宗を開いた親鸞の墓所から発展した寺である。本願寺を理解するためには平安末期からの日本佛教の流れと親鸞を知っておかなければならない。また、日本の佛教の歴史を概観するには法然以前、法然以後にわけてみると理解しやすいというのが『法然の哀しみ』小学館、2000年の梅原猛氏の意見で、私もまったく同感で、真宗の金子大榮先生も、このように考えられて、『日本佛教史観』岩波書店、昭和15年で、日本の「佛道の分水嶺」と表現されている。
 平安末期の佛教は末法思想を反映して、源信(942-1017)による南無阿彌陀仏と念ずれば極楽浄土に導かれるという教えが隆盛していた。

 後一条天皇の御代、太政大臣、藤原道長(966-1027)は月の虧けることのない権力を独占した生活をおくり、源信の浄土教に帰依していたが、糖尿病性腎症の尿毒症で61歳で死亡。
 内道場供奉(ないどうじょうぐぶ)が命じられ、多くの祈祷僧により大がかりな読経、祈念がはじめられる。臨終の際、阿弥陀堂の阿弥陀仏像と自分の手を五色の糸でむすび、目には仏の姿より外は見ず、耳には仏法より外の声を聞かず、こころにもっぱら浄土を念じつつ生涯を終えた。不老不死の妙薬「金液丹」の効能も無く、南無阿彌陀仏の念仏も不死、病には無効で、既成魄。旁死魄。日月並缺天度別。(きせいはく。ぼうしはく。日月並び缺けて天度わかる。
;頼山陽日本楽府18)
 現代医療ではインシュリンと透析で少しは延命できるが、死の恐怖へのケアーはむしろ平安時代のほうがよかったのかもしれない。

 その子、摂政、頼通(990-1074)も宇治の別荘に平等院鳳凰堂を造作し、阿弥陀仏を本尊とした寺を建立、浄土教に帰依した。皇室、藤原一族はみな佛教、浄土教にどっぷり浸っていたのである。精神的救いは浄土教、佛教のみの時代になっていた。
 藤原家の系図は32家156派にわかれているので完全に把握するのは難しいが、北家の藤原家宗(817-877)の家系で、この五代あとの藤原資業(すけなり)は京都東南の日野に法界寺を造作していたことから、名を日野に改めていた。

 親鸞(1173-1262;90歳、天親、曇鸞から一字づつとった名)は、この一族の日野有範(ありのり)の子である。9歳の時、慈円(1155-1225)のもとで出家し、仏門に入っている。そして20年にわたり比叡山で修行する。しかし天台宗に行き詰まりを感じていた。
 時代は清盛。彼によって藤原頼長、成親、俊寛らを鬼ケ島に流罪とするが、源義経の出現により平家都落ちし、わずか5歳で入水し安徳天皇(1180-1185)は崩御。ついに、1192年、後鳥羽天皇の御代に将軍源頼朝により、幕府が開かれ中世、鎌倉時代がはじまる。その頼朝も1199年死亡、1203年土御門天皇の御代に実朝が将軍となったが、1219年に公暁により暗殺される。
 平安末期から鎌倉時代と時代背景にともない、日本の佛教解釈も大きく変化し、念仏、浄土、本願が焦点となっていく。

 親鸞は、この1201年、28歳で叡山を下り、法然(1133-1212)の弟子となる。
 関東武士の勇将熊谷直実も蓮生として法然のもとにはしり敦盛の霊を弔い一生を終えている。自殺したともいわれているが不明な点が多い。これらについては『法然讃歌』寺内大吉、中公新書、平成12年、2000年にくわしい。
 法然自身は阿弥陀仏と称えれば、すなわち念仏に専修すれば、浄土に行けるとする口称専修念仏を説いており、『観無量寿経疏』、『選択本願念仏集』を著していた。とくに『選択本願念仏集』は慈円の兄、九条兼実の要請で書き上げられている。

 念仏をとなえてさえいれば浄土に行けるのが阿弥陀の本願であるとする専修念仏。これは仏法の聖道に反する考え方で、さらに、仏法の理念である菩提心そのものを否定するような法然の佛教の解釈には猛烈な反対者が多く、興福寺、比叡山や日蓮、栂尾の明恵(1173-1232)などの批判は手厳しいもので、危険思想、危険新宗教とされた。
 菩提心とは、悟りをめざして修行しようとする心をいうわけであるから、法然自身は専修念仏は自力浄土であると説明しており、念仏をとなえること自体が悟りをもとめる心、菩提心であるとしている。にもかかわらず、批判者は念仏を称えさえすればよいというのは他力浄土で、阿弥陀にすがり、信者は念仏だけとなえ、信者、僧自らは修行を無用と考えてしまう。これは佛教の菩提心を根本から無視した宗教を立宗していることになると非難している。

 法然か明恵か、については最近の論者で『法然と明恵』袴谷憲昭(現駒沢短期大学教授)、
1998年、大蔵出版、が日本の佛教を明恵の「一つの佛教」、法然の「いま一つの佛教−往生の教」に分けて論じているが、いずれも阿弥陀に直接聞くことはできない仏法であるので、あの人(釈迦)は生きていれば、念仏についてどういうだろうね、こういうかね、そうはいわないだろうという範囲の論争になってしまい、仏法論争には成らないと思う。仏法の根本は紀元前の時点で人間の大脳生理、とくに前頭葉の発達した動物、人間の思想のありかたを説いていることにあるわけですから、どのように解釈してもかまわないよと仏陀はいうに違いないと私はかんがえます。
 しかし、「一つの佛教」から抜けだした理念として、末法思想を払拭する「往生の教」を説いた法然はさすがだなあと思いますし、仏法の学究のみならず、修行を最後まで怠らなかった実践の学僧明恵の華厳宗、仏典を守り抜く気概にも驚異と畏敬と共感を覚えます。

 しかし、貞慶が『興福寺奏状』の冒頭で、夫佛法東漸次後、我朝有八宗、とのべているように、この時代では佛教は八宗(古京六宗+2;倶舎宗、成実宗、律宗、法相宗、三論宗、華厳宗、天台宗、真言宗)あり、浄土宗は新興宗教である。これを社会がうけいれるか否かが問題で、いつの時代にも新しいものの台頭には苦難をともなう。
 華厳宗の明恵(高弁)ですら、法然の死後になっているが、ざいじゃりん『摧邪輪』で『選択本願念仏集』は釈迦の基本理念である菩提心を無視し、自力行としていることは佛法そのものを無視しているに等しく、法然は「仏法の怨敵」であるとしている。また、聖道門の否定であり、火宅(迷いの世界)から悟りへの道は念仏のみで達せられるとする法然の意見に真っ向から反発しているが、法然はすでにこの世から消えている。親鸞などの門弟の反応もない。

 ついに、古京六宗の一つである法相宗の興福寺の貞慶が『興福寺奏状』において法然の浄土宗が佛教として九つの失(失敗)があり、危険宗教であることを上皇に訴状したこと、さらに、1207年、承元元年に後鳥羽上皇の侍女たちが、上皇が熊野詣での留守中に、法然の弟子、安楽と住蓮らが主催する鹿ヶ谷の六時礼讃(昼夜六時に弥陀を礼讃する偈頌を称える)の興行に招かれ、専修念仏の教えをうけてしまった。
 そして彼女たちは、法然のもとに無断で出家したことで、上皇の逆鱗に触れ、専修念仏は停止され、善綾、性願、住蓮、安楽らは死罪、法然は土佐へ、親鸞は34歳のとき、越後に流罪となる。その他の弟子も全国に流罪となった(建永の法難)。

 しかし、これが逆に浄土真宗の信者を全国津々浦々に極度に増やす土壌を天皇自らが作り出すという皮肉な結果となる。日蓮は『撰時抄』で、源信によって日本人の三分の一は念仏に帰し、永観(1033-1111ようかん;東大寺別当)によって三分の二が念仏に帰し、法然によって日本人全部が念仏に帰したと、日本の宗教的状況は念仏にのみ偏ってしまっていることを述べている。
 法然は5年後に帰京し、翌年死亡、世寿八十。その22年後、文暦元年1234年、源智により知恩院が建立され、東山天皇より円光大師の諡を賜る。
 全国の浄土宗の寺に法然の御影、像は多いが、その中でも西山派本山粟生光明寺には法然の「張子の御影」がある。これは弟子の耽空によってつくられた彫像で、法然の遺言で、母からの手紙を張り、漆でかためられた法然像である。

 余談であるが、2000年、平成12年の5月、京都大原寂光院が火災にあった。この時、建礼門院の像は焼失してしまった。この像も彼女にきた手紙でつくられた像である。さらに地蔵菩薩像も真っ黒に焦げてしまった。この体内に壇ノ浦で恨みをのんで死んだ何万という平家武士の鎮魂をこめた小さい地蔵菩薩が入っており、こちらの方は無事であったとのこと。このことは『シギと法然−思うままに』梅原猛、2000年文藝春秋社「寂光院の火事」で語られている。
 親鸞は帰京の動きをみせるが、法然の死のこともあり、1217年、44歳の時に越後から関東笠間郡稲田に移りすむ。以後当地での布教、『教行信証』の述作が20年間続く。ついで1231年に58歳で下野國佐貫、高田にうつり、1232年に帰洛につく。30年間の行化(ぎょうげ;修行と教化)、1262年親鸞入寂。
 この12年後の1274年に蒙古来、元寇の来襲である。日蓮の活躍めざましく、鎌倉執権北條時宗、膽甕(たんかめ)の如し。
 そして、本願寺の歴史は親鸞入寂後からはじまる。

 親鸞の墓所は京都東山の大谷にあり、大谷廟堂(おおたにびょうどう)といわれる墓所を、当初、親鸞の末女覚信尼が留守職として守護していた。しかし、木册で囲まれた粗末な墓所であったため、信者によって、より拡充されていき、現在の七条烏丸の真宗本廟となっている。
 この本廟の西に浄土真宗本願寺派本願寺があり、これを西本願寺といい、東に通称東本願寺(信浄院本願寺)があります。なぜ本願寺が二分されているかは後でのべます。
 親鸞入寂後、本願寺の門主は、如信、覚如、蓮如、実如、証如、顕如と受け継がれる。
 如信は親鸞の孫にあたる。その子、覚如(1270-1351)の時、御堂を専修寺という名にしようとするが、比叡山から「専修念仏停止以来、専修という言葉は使ってはならない」との抗議が入り、これを本願寺としたのである。

 8代、蓮如(1415-1499)のとき、浄土真宗も天台化がすすみ、これを本来の姿にもどすため、礼拝の方式などを改善し、真宗は再度隆盛する。しかし、『シギと法然−思うままに』梅原猛、2000年文藝春秋社の「蓮如に学ぶもの」に、蓮如は親鸞の弟子唯円が記録した『歎異抄』を危険書物として隠してしまった。
 明治になって清沢満之らが、『歎異抄』を再発見し、蓮如を親鸞の思想に刃向かう者としてあつかっているとしている。清沢満之らは蓮如を理解していない。蓮如ほど親鸞の著書を精読していた人はいず、彼は親鸞思想を『歎異抄』の悪人正機説におかず、浄土の二種廻向と考えていた。

 親鸞のいう二種廻向とは住相廻向と還相廻向をいう。ここでいう廻向は人間の廻向ではなく阿弥陀の廻向で、阿弥陀仏は難行の結果得られた功徳をまわして、どんな人間でも、口で南無阿彌陀仏を唱えれば、極楽浄土へ往生することができるように仕向け給うた。これが往相廻向であり、さらに、いったん極楽浄土に往生した念仏行者はいつまでもそこにとどまらず、人間救済のために、またこの世に還ってくるようにし向け給うた。これが還相廻向である。
 蓮如は真宗の中興の祖であることには間違いないのであるが、またまた、比叡山が、蓮如の真宗に、無碍光流の念仏は邪教、十字名号(帰命尽十方無碍光如来)は邪義と非難する。蓮如は1465年には本願寺を破却し、近畿各地を転々とし、1480年に山科で本願寺再興する。

 蓮如のあとの実如、証如、顕如は戦国時代にはいる。証如の時、細川晴元により山科本願寺は焼き払われたため、1532年、大阪の石山本願寺にうつる。そして顕如(1543-1592)の時代には公家武家庶民の絶大なる寄進をうけ、三十六家集、栄花物語、鷹手本など金かわりに美術品を頂戴し、その潜在力は強力なものとなる。この仏寺と公家と武家の間の取り纏め役として、殺生関白豊臣秀次(1568-1596)の存在は無視できない。因みに紫式部(973-1016)の源氏物語の絵巻のほうは現在、徳川美術館にのこっている。
 織田信長の援助で将軍になれた足利義昭は、恩を仇でかえす。比叡山、本願寺を見方に天下統一の野望者信長を滅ぼすつもりであったのを信長は見抜き、義昭失脚。比叡山は焼き討ち、石山本願寺(大阪)攻めをうける。顕如の時代1570年で、完全制覇するまで11年かかっている。

 顕如には准如、教如の子があったが、1580年、ついに顕如は退城する。しかし、子、教如は籠城をきめこむ。顕如は教如を義絶する。
 秀吉は准如に寺務をわたすように教如に提案するが、教如は拒否。本願寺の北方にいすわった。教如は徳川家康に早くから親近していたのである。
 家康の時代になっても信者、僧の強力な本願寺の力はおとろえず、家康は、その処分と本願寺内紛分裂状態について悩んでいた。家康自身は教如の門主を支持していたが、本多正信が、一石二鳥の妙案をだした。それは本願寺の力を減弱させる目的と、教如と准如ともに門主とさせるために東と西にわけるとする妙案を献策した。

 こうして1602年、今から400年前に西本願寺に准如が、東本願寺に教如が門主につき、現在に至っているのである。
 一体、本願寺の歴史を知悉することは、取りも直さず、聖徳太子、日本の南都六宗(古京六宗)以降の最澄、空海、法然、日蓮、道元、親鸞の立宗、行化の意義をしることになり、日本人の中世から近世、現代までの佛教の解釈、例えば念仏、浄土思想などに対する日本人の思いを観ることができるのである。

 そして現在の、光明主義的、大我的、頭脳思考世界を喪失した、精神的心柱を失った、機械文明のみに追従する日本人の現実を、惨めな頭脳世界を、みなおすには良い方である。
 しかし、決して、宗教が必要というのではない。頭脳、大脳、前頭葉を使った日本人思考の復活をいうのである。

 水石美の原則として、名石の規準を北宋時代の愛石家米元章は「石の四則」あげている。それは、「透」、「皴」、「秀」、「痩」、で、透徹、シワ、気韻俊秀、痩骨痩古をいうのではなかろうか。村田憲司氏は「姿」、「質」、「色」の三点をあげているが、基準をあげていくのは難しい。
村田圭司はこれらを踏まえて、客観的条件として形、線、色、質、肌の五点、主観的条件として、迫力、平安、品格、古色の四点をあげている。
 水石を詠んだ歌は極めて数少ないが、明治の歌人、正岡子規の第一弟子岡麓氏の二首を挙げておく。

鉢の石、見つつしあれば山水(やまみず)の
     清きところにあるおもひすも
石を見て何に似たりというなかれ
     自然(おのずから)こそ常(とこ)めずらしき

 以上、蒐集趣味の一つ、水石を紹介しました。石は医師に通じ、マニアはやはり医師に多い。これからは銘石といわれるような姿の石を川辺で見つけてください。これに名をつけ、漢詩をそえれば完璧ですが、そう簡単にはいきません。
 茶器のほうは、これも奥が深く、天目や織部、志野などが好みなのですが、高価すぎて、手が出ません。手元にある茶器はママゴトにつかう程度のものしかありません。

 今後も、目利きに磨きをかけて、これぞというものを手にしたいものと考えています。
ただ、毎年干支の香合だけは、作家物を買い込んでいますので、これも年数がたてば披露できるかもしれません。
 冀(こいねが)わくば医神、2004年、甲申、本年こそ、我らに幸をあたえよ。

   

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