
紫陽花の季節を迎えるにあたって、五月も終盤、私の五十四度目の誕生日は朝から冷雨。夕方、診療後「四恩、新村出さん」の話になって、その後「こども教育でコンピューターがどこまで必要か」の話題になり、そのあと「最近の国語辞典で新明解さんの謎」の話になった。これではなんのことかサッパリ判らないので、追々説明していきますが、硬い話から柔らかい話へ移っていきますので、我慢して、忍耐強く読破していただきたい。
また、国語辞典の話なのに横書きで読み辛いかも、ご容赦ねがいます。四恩については、日本の侵略戦争思想を抱懐させる危惧もありますが、今般は死語となってしまった道徳問題の言語として取り上げました。

辞書もパソコンの中に内蔵されていたり、CD辞書をインストールしパソコン内で使用できるなど非常に便利になっているが、辞書内容が貧弱なため、一寸古い冊子を読むときにはかなり不便である。
また、死語があまりにも多くなり過ぎている。濫造する新語は、直ぐに死語となる。その回転は極めて速く、たとえばヤマンバは2年前には頻繁に使用されていたが、平成十五年には全く使用されていない。日本人一億総痴呆傾向が確実に進んでいることに鬼胎を抱く。
さーて、古い広辞苑があれば出してきて見て頂きたい。第一版です。第二版以降はダメ。私蔵の広辞苑は昭和四十年第十五刷で、A5縮小版、厚さ8cm3mmと分厚く、肩に新村出編、広辞苑、岩波書店とある。装幀は画家安井曽太郎で、筆書きで波線に縦線八本、各縦線に二、三本の横線を書き入れただけで、山に木立を描いたシンプルなもの。これだけで装幀代が支払われていたのか! 私にも此ぐらいならば二十八秒で書けるなぁ。
今度は最後の奥付。岩波書店 岩波雄二郎発行、昭和三十年五月二十五日に第一刷、昭和四十年一月十日第十五刷の辞典で、定価2,500円である。
憶えは全くないが、おそらく神戸高校時代に購入したようにおもう。
早速、前に返って自序である。広辞苑を最初から読んだのは、この辞書を購入してから三十八年目にして初めて。そこには新村出の世界が溢れていた。
新村 出を シンムラ イズル と詠ませるが、明治中期の国文学者で国語辞典広辞苑の編者である。戦後教育を受けた団塊の世代のもの皆、この名前は無意識に、その眼底網膜に焼き付いている筈であるが、さて誰でしょうといわれるとサッパリ。大脳記憶野の抽匣(ひきはこ)からでてこない。
そこで説明しておきますが、新村出は山口県山口町道場門前町に明治9年(1876)生まれる。三潴県(みずま;久留米、柳川、三池の県、議事堂前の憲政記念館で調べて頂いた。国史大事典335頁)参事、山形県参事をしていた当時山口県令の父関口虎吉、母静子の次男。4歳で山口県師範学校附属小学校入学。明治14年(1881)、5歳のとき父が元老院議官に任ぜられたため東京の向島本町小学校に転入。
8歳の時、中村知常のすすめで下総国佐原に下り、常照寺内栗本義喬の蜻蛉塾で漢学を修める。11歳で父静岡県知事となり静岡尋常小学校に転入。13歳で父が列車衝突事故で明治22年5月に死去、関口家をでて新村家に養子に入る。新村家は一橋家の家臣。16歳で静岡から一高に入学。18歳で上田万年を聴講。20歳東大入学。
23歳、文科大学博言学科卒業。24歳で荒川重臣長女豊子と結婚、26歳で東京高等師範学校教授となる。28歳、東大文化科助教授。31歳、明治40年(1907)京都大学助教授、ベルリン、パリ留学、明治42年(1909)京都大学教授。
80歳、昭和31年(1956)文化勲章受章。1967年、昭和42年8月17日、91歳で永逝。
著書は200冊以上に及び、年に3冊は発行していたことになる。新村出全集15巻が昭和60年に岩波書店から出版されているが、最近、”本物の衝撃”、”文学の復権”のキャッチフレーズで講談社の文芸文庫に一部復刻されている。

広辞苑の『自序』をみてみよう。内容は十項目に分けられよう。
「いまさら辞典懐古の自叙でもないが」、から始まる。以下自序を要約する。
明治時代下半期に国語学言語学を修め、恩沢を被りつつある恩師上田万年先生はじめ、藤岡勝二、上田敏両先進の論文に啓発され、さらに柳村上田の編、新英大辞典の偉業に感銘し、あんなに整った辞典を編んでみたいと夢にみた。
かくて、英米独仏の大辞書の完備に羨望の情が動き、大学卒業後、諸先覚からの資益を得、また大槻博士の大言海の編集を見学し、自分は語源、語史、語誌、語釈の分解的、根本的、本質的考究に力を注ぐ辞書編纂のつもりであったが、広辞苑では分解を主とし、綜合に疎(うと)くなってしまった。
できあがっても完全ではなく、改訂、簡約の仕事には次男猛氏の協力があり、自らが語史にのみ傾倒せる粗漫を補佐し、現代の国語に対する智識と感覚を補足してくれたことに感謝している。完成し、この序が記載できるときの感激は、グリム兄弟の場合とは、全く違った情味である(グリム兄はドイツ語辞典の編纂事業を興したが、完成前に逝去したことを指す)。
その後は、昭和二十三年九月より市村宏氏が編集主任となり、校正および修治の業は完成し、欣懐である。抱負と実行、理想と現実の狭間で、老境の身にて、事志と趣が異なり自省してやまないが、簡明にして平易、広汎にして周到、雅語漢語、古語新語、慣用語新造語、日用語と専門語、旧外来語と新外来語、新国語と流行語とみなつとめて博載を期し、特に発音の正確と語法は他の規範となることを目指
した。
専門用語についても哲学・史学・文学・科学の碩学者の協力で指示を受けたが、ゲーテの箴言にもあるがごとく、過まるは人のつね、容(ゆ)るすは神のみち、とやら申され、遁辞する思惑はないが、周密な眼光をもって徹底的に過誤なきを期した許(ばか)りである。小辞典への利用、簡短(ショーター)、要略(コンサイス)作成予定であったが、早計であった。改訂についても新語の粗製濫造のなか、明達懇篤な新進諸学人の内外一和、衆力一致の補翼に由り、辞典編纂は完遂された。
曾(かつ)て、「私の信条」として書いた如く、老至って、益々、四恩のありがたきを感じるのみである。
昭和三十年1955年、一月一日 京都 新村出
と記載されている。
つづいて、凡例には、この辞書の編纂方針について、中辞典であることが明記されている。また項目は上古、中古、近古、近世、現代における国語をひろく蒐集し重要性、永久性、頻度数などから考察して収載決定した、となっている。
『後記』には、広辞苑の編纂記録の苦労が述べられており、57回プロジェクトX(2001年6月19日NHK総合にて放映)にすでに紹介されているが、その感動を中島みゆきの「地上の星」に乗って、再録して頂きたい気分になる。まとめると、
戦前昭和十年から粒々の辛苦を積んで、完成を急ぎつつあった原稿が、昭和二十年四月二十九日の戦火に跡形もなく焼け失せ、茫然たる編者には一束の校正刷のみが残る。如何に辞典に妄執を抱く編者を以てしても、直ちに復興を企図し得べき底のものではなく、日本国、焦土の余熱は、容易には冷ゆべくもなかった。
然るに倖なる哉、昭和二十年十二月、岩波茂雄氏が一陽来復、辞苑の編集の再開に欣快す。しかし、国内情勢は開闢以来最悪の事態に、餓苧(がひょう)、路に横(よこたわ)り、怨嗟の声巷に満つるを見聞しては、辞典改修のごとき迂遠なる事業の、未だその時機に非ざるを観念せざるを得なかった。更に岩波茂雄氏の二十一年四月突如たる訃音に接し、頓挫。
昭和二十三年季春、継承岩波雄二郎氏から再建途ありとて、新編集部を開設し、危く烏有(うゆう)をまぬかれた校正印刷を唯一のたよりとして辞典発刊の事業を進めたが、その予想は実に甚だ甘かった。戦塵の鎮まりゆくにつれて、日本は一大転換を開始して居たのである。即ち昨日まで国を動かす大きな原動力であった陸海軍は廃止。日本国憲法が公布。法律は勿論、文物制度あらゆるものが、めまぐるしく改廃されるなか、編集はやりなおし。例えば兵を廃した国に警備予備隊ができ、これが忽(たちまち)ちにして保安隊に変り、三転して自衛隊となる有様。編集はその都度、前稿を捨てて新稿を草するのである。
かかる現象から被る編纂上の困難は当初の予想を裏切ってこれを数倍化した。困難はそれのみには止まらなかった。新事項は遠慮なく発生するが、これを正確に解説する資料とすべきものが入手不能。新聞が入手できない、紙がない、鉛がない、資材の欠乏が情報入手を拒む。重い兵隊靴を履いた部員が役所や新聞社に直接訪ねて聞いて回る有様。信憑すべき資料がぼつぼつ出てきたのは昭和二十六、七年頃からである。そして、昭和二十八年三月、六年におよんだ編集事業が終わった時、編者は八十の春光に浴する。
この辞典が昭代の文化遺産として後に伝存するに足るべきか否かは大方の批判を仰ぎ、時の篩(ふるい)に俟(ま)つ外はないが、少なくとも現在最も新しく、当用を弁ずるに甚だ好適な辞書たらしめ得たことの自負を持つ。
更に、甫(はじめ)に記した、我、洋画壇の巨壁、安井曾太郎画伯の労を執られ、巧みに広辞苑の書格を表現せられたことに深い感銘を禁じ難い。そのほか、協力者の尽瘁を労(ねぎら)い、思うて、ここに至れば、四恩の広大にして無辺際なる早春の陽光と共に、老身を包むの感を覚えるのである。
昭和三十年1955年三月編者とある。

国語辞典を編纂することはいかに難行であるか。広辞苑では20万語を扱っており、今は編集、改訂の仕事はパソコンで処理できるようになっているものの、その訂正部を探すのも苦労であろう。
上記にみた広辞苑の自序および後記に二度にわたり四恩の字句がでてくる。
気になるので、実際に広辞苑で「しおん」を引いてみた。子音、四恩、至恩、私恩、師恩、歯音、紫苑が掲載されている。
このうち四恩は(仏)衆生がこの世で受ける四種の恩。天地(または三宝)・国王・父母・衆生の恩。→二恩となっている。
四恩は新村出の好む言語であるが、これを彼の得意とする博引傍証、精緻考証、分解的考究をもって、随筆集「橿」に詳しく解説されている。
随筆集「橿」(カシとよむカシハラジングウのかし)は昭和十五年五月、靖文社から発行出版され、四十三の随筆から構成されている。初版本の装幀は渋く、橿の一文字が浮び上って見える品格のあるデザイン。そして、和紙で作られた土塀風、檜皮色の函に納められている。
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紫苑(しおん)
キク科
平安時代女官の秋の衣服が紫苑色で、源氏物語六条院の秋好む中宮の庭を彩る。九月に直径3センチほどの花をつける。
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四恩については「四恩の感想」という題で、その210頁からはじまる。
新村出の文は、言語学者のため、一般人が近づき固い印象があるが、詩藻豊かで平易、愛情に包まれており、その才筆、博学宏識は一世に鳴る、創見悉(ことごと)く他の追随を許さない。支那学の神田喜一郎と近似し、その赴(おもむ)くところ数式のような無味乾燥は皆無で、言語学よりむしろ人間考証学の白眉とみる。
次に、随筆集「橿」の「四恩の感想」を完全復刻する。新村出のいう四恩の考察は、氏独特の語史分解により詳細な内容で、多々、頷けるところがあったので全文を紹介する。

本年の新春には、四つの恩についての感想を記るしてみたい。餘計な前置きながら、元禄時代のこと、其角の撰にかかる「たれが家」の俳諧集がある。其角、嵐雪、才麿、擧白の四人で試みた百韻三巻であるが、その第一の巻の中に、かういふ連句がある。
小田の秋しれ飯(めし)こぼす人 其角
蝶花のありたきままも四つの恩 擧白
九十九なれや久かたの春 才麿
おめでたい文句も上の中に存するから、ここに引いておくのである。
さて四恩ということは、私の少年時代に、平家物語、源平盛衰記で読んで、難有い尊い文句だと思って、時々思出したり引用したりしたこともあったのであるが、老境に入ってからは、殊(こと)に還暦のとき、四恩といふことを痛切に感ぜずにはゐられなかった。平家では巻二に重盛教訓の事のうちに
かたがた恐れゐる申し事にて候へ共、心の底に旨趣を残すべきにも候はず、まづ世に四恩の候、天地の恩、国王の恩、父母の恩、衆生(しゅじょう)の恩、これなり、その中の最も重きは朝恩なり、普天の下王地にあらずといふ事なし
とある。
盛衰記の方を見ると、巻六、小松殿父に教訓の事の章にもつと精しく次のやうに叙してある。
先づ世には四恩と云ふ事あり、諸経の説相同じからざるに内外の存知名別なりといへども、且つ心地觀經を見候に、一には天地の恩、二には国土の恩、三には父母の恩、四には衆生の恩これなり、これを知るを以て人倫とし、知らざるを以て鬼畜とす、其中に尤も重きは朝恩なり。
ここに第二の国土の恩とあるのは国王の恩の誤寫に基くと思ふが、国土の恩でもむろん通ずる。平家物語の長門本の方に於ては、大體は盛衰記とおなじであつて、三には師長父母の恩となつてゐるのが少し違うばかりである。
延慶本の平家物語には、心地觀經の巻八に由ると断わつて、三つには師長の恩、と特に師長を挙げて父母の二字を削つてあるのは、如何かと思はれるが、長門本の方に、父母と師長との両方を挙げてあるのが、むしろ妥当とすべきであらう。
さて右二三の書に引いてある心地觀經、精しく言へば、大乗本生心地觀經を調べてみると、その巻第二、報恩品第二之上に、
爾時佛告五百長者・・・・世出世恩有其四種、(一)父母恩、(二)衆生恩、(三)国王恩、(四)三寶恩、是如四恩、一切衆生平等荷負
とあって、順序や名目が平家や盛衰記とはかなり違ふ。三寶の恩といふ一個條が国書の方には除いてあるのも、興味ある所かと思ふ。
心地觀經は唐初の貞元年中に有名な般若三蔵の翻訳にかかるものであるが、梵文の方には如何になつてゐるか。原本の存否も私には判らない程であるが、その邊よろしく識者の教を乞ひたい。そこで四恩の名目も順序も佛經には諸書に散見するが如く甚だ区々たる様であるが、ここには一々それらの出典を列挙するの煩を避けよう。ただ北宋の時に出来た釋氏要覧を参考するに、巻中、恩孝篇の恩の字の條に、一、父母恩、二、師長恩、三、国王恩、四、施主恩となつてをり、而して其次に心地觀經の所説を引いてゐる。
平家物語や源平盛衰記の出来た鎌倉時代より以前の文献には、未だ四恩の名目を見かけないが、鎌倉以後には、四恩の思想は相當に普及したらしく思はれる。殊に日蓮上人の書かれたものに、多く見受けるのは、或は私の家の宗旨の為かも知れない。
弘長二年の船守鈔一名四恩鈔にも、心地觀經を引いて四恩を説き、又梵網經をも引いてある。建治二年の報恩鈔にも「何ぞ況や佛教を習はん者は、父母、師匠、国恩を忘るべしや」と見えてゐるのは、四恩全部をこそ列挙してないけれども、師匠を挙げてゐるのが眼につくのである。
弘安元年の千日尼御前語返事の中には、「其恩徳を思へば、父母の恩、国王の恩、一切衆生の恩也」と見えてゐて、少し違ってゐる。その他にも尚ほ現はれてゐるが、省いておく。浄土宗のものや真宗のものにも、必ず見えてゐるであろうが自分は未だ一々眼を通さぬから何とも云へない。
存覺の報恩記には、父母・師長の恩を並挙してあり、近世には分略四恩論などという大部の本がある位であるから、真宗の方には、定めし四恩の考が古くから普く行はれてゐるに違いない。浄土宗の方にも現に四恩報答会とか、四恩学園とか、云ふやうな団体がきこえてゐる所から察すると、亦この思想の行はれてゐる由来は古いことであるに違ひない。
明治以降の国語の辞書および佛教辞書などに、四恩のことが詳略いろいろに出てゐることは申すまでもないことで、徳川時代には、元禄時代の和漢名数、化政時代の俚言集覧などに載ってゐる外、たとへば書言字考の如き通俗大字書に挙げてないのは、少し不思議である。却て徳川初期に刊行された易林本の節用集や長崎吉利支丹版の日葡(ポルトガル)辞書などに揚げるてあるやうな意想外なことがある。
前者には四恩として、王寶の恩、国土の恩、父母の恩、衆生の恩とある。王寶は必ず三寶のあやまり、国土は国王のあやまりかも知れない。俚言集覧は全くこれに由つた。日葡辞書には、四恩を略説して、父や師や君や等の恩をいふと書いてある。室町時代には、文安の下学集には四恩を天地恩国王恩父母恩衆生恩と列挙し、文明に温故知新書には、君・父母・天地・衆生、この四つとしてある。天文の運歩色葉集には天地・父母・国王・衆生の四つを録し、順序がほんの少し変わってゐるが大體平家物語との名目は同じである。
かういふ按配に、我国でも鎌倉時代このかた四恩の思想が、佛教界より通俗界に普及してゐるのであるが、いづれの順序、いづれの四種が、歴史的に最も正しいのであるか。即ち配列の順序が無差別でないとして、いづれの順位が正しいのであらうか。又日本にその四恩思想を適用するとしたら、いづれの四種を選定すべきか、それには一考を要するであらうと思ふ。
平家物語の所説のごとく、「その中に最も重きは朝恩なり云々」とあるを採るべきであるが、国君・国土・父母・師長とすべきか父母の次に、衆生なり三寶なりを一つ加ふべきか。また三寶も亦師長と同じたぐひと見て、二者いづれを挙げても同一だと見てよいであらうが、その一つと衆生とのいづれを採るべきか、大に迷ふ。
国土と天地と、全く同一とはみなされぬやうに、三寶と師長とは違ふと言へば言はれもしよう。衆生の恩とは社会の恩と言つてもよからうが、国君・国土・父母の次に、衆生が配せらるべきか、師長が置かるべきか、その点は考へさせられる。一般には衆生を取る方がよいのであろう。特殊の場合には、もし師長を取りたいと思ふ人もあるに違ひない。また天地も国土も衆生も、みな同一の根本概念であるとすれば、むしろ国君・国土・父母・師長としてしまつてよいのではなからうか。
私の場合、この四つを採りたいやうな気持がする。或はこれを一般に言ふのは不可であるかも知らない。
以上、詳細な解説で、新村博士の国語の分解で最も得意な所であることがよく理解されたと思う。
このように、明治生まれの人々は古きを温ね新しき知ることに貪欲で、内容が深く、学ぶのに強烈なエナジーを使ってきたことが知れる。これに感銘し、作家、学者を目指す人種は多いが、到底、到達できない域であることを痛感するのである。

赤瀬川原平(昭和12年生まれ、「父消えた」で芥川賞)の「新解さんの謎」という奇冊が文春文庫からでている。冊子の内容は、すでに平成四年に文藝春秋に掲載されていた。したがって、この噺は、古くなってしまっているが、ご存じの方は今更とシラケムードでしょうが、はじめての方はハマルと思いますよ。実際に3、4、5版と新明解国語辞典を購入し続けている先生がいました。
この新明解国語辞典は三省堂からの出版で、初版は金田一京助編で1972年1月24日となっている。現在は山田忠雄氏が編集主幹で、第五版まで発行されている。広辞苑や大言海に比べて使い易さから、かなり売れている辞書です。これが最近、内容が可笑しい、奇妙なのである。まじめに編集されているとはおもうが、説明内容は落語や小咄になりそうな状況なので、鵜のみにはできない辞書の登場で戸惑っている。ちなみに平成十四年の五版でも傾向は変っていない。
まず、四恩(しおん)については、仏教で人が生きて行く上に受ける四つの恩。天地(または三宝)・国土・父母・衆生(シュジョウ)の恩。となっている。
広辞苑とほぼ同じとみたいだが違う。どこが?
生きて行く上に受けるという具体的行動が記載されているのである。
ここに、赤瀬川氏の手法を真似て、第五版のあまりにも個性的辞典の内容を公開する。先ず恋愛。
れんあい【恋愛】−する
特定の異性に特別の愛情をいだき、高揚した気分で、二人だけで、一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、出来るなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと。「−−結婚」「−−関係」
これが実際に五版の掲載文です。このように小咄風の解説が入るのが特徴。
ばか【馬〈鹿】〔雅語形容詞「はかなし」の語根の強調形片〕一な
記憶力・理解力の鈍さが常識を超える様子。また、そうとしか言いようの無い人。〔人をののしる時に最も普通に使うが、公の席で使うと刺激が強過ぎることがある〕−−《=女性語で、相手に甘える時の言い方》
御親切に公での注意事項まで書かれている。女性の色っぽい表現「ばっか〜ん」の解釈つき。
ごきぶり【御器《=椀》かぶり《=齧かじり》の変化】
台所を初め、住宅のあらゆる部分にすむ、油色の平たい害虫。さわると臭い。
さわったんだ。害虫を! そして臭いを嗅いだんだ。
いえで【家出】−する
帰らないつもりで自分の家をそっと出て、どこかへ行ってしまうこと。
つもりで、そっとの表現が意地らしい。
ぞっこん(副)
その者の魅力にしんそこから引きつけられていることを表す。
「私は、雪子の美貌と気性に−−引きつけられていたが」
しんそこはひらがなで記載されている。例文の雪子は編集者の女房の名前か、飲み屋の姐さんに雪子さんという人でもいたのかな?何故「雪子」なの。その謎を知りたくなる。
どくしょ【読書】−する
研究調査や受験勉強の時などと違って一時現実の世界を離れ、精神を未知の世界に遊ばせたり、人生観を確固不動のものたらしめたりするために時間の束縛を受ける事無く本を読むこと。
寝転がって漫画本を見たり電車の中で週刊誌を読んだりすることは、勝義の読書には含まれない。
真面目に本をよむことのみが読書という。本の読み方まで示してあり、姿勢正しく、漫画は見るもので読むものではないとされている。たしかに漫画本、週刊誌を読書しましたとは言わないが。
勝義(しょうぎ)=その言葉の持つ、本質的な意味・用法。の意。
キリがないのでやめますが、新明解国語辞典はこのような内容になっています。時間が余った時は楽しめますヨ。診療中や当直勤務では、この小辞典さえあればテレビを見るよりよっぽどおもしろい。しかし、横になって読書してはいけません。辞書を引くときは姿勢を正すのが礼儀です。眼鏡をはずす動作が加わる人が多いでしょうが、引き終わって語彙の意味を理解したならば、四恩を念ずること。
第42回柏市学校保健総会が5月15日に開催され、講演は70歳は越えて居られる村田光範先生の「子どもとコンピュータ」で、7歳未満のこどもにパソコンを与えるというのは日本語を憶える学習に弊害あり、とのことでした。言語は生き物といっても、その変動は常動で、きわめて急速になっています。日本の子供に対する教育はどうなっていくのでしょうか。大人はいま考えている3倍以上のエネルギーを躾、教育に費やさないかぎり、日本の輝かしい未来は望めません。
最近、とくに20代、30代の若い患者の受診態度が悪くなっています。医師を頭から犯罪者扱いしている傾向がみられ、毎日、不快な診療が続いているために起稿しました。