2002年の夏は驚異的な猛暑で閉口しましたが、初夏の頃には小さなアカバナ(赤花)を駐車場でみつけ、鉢に植えかえて診療室で1ケ月も観賞できたし、藪蘭もすくすくと育って小さな紫の花をつけ、草木花にはよい夏でした。
ヤブランは万葉では山菅(やますげ)といい、「山菅の 乱れ恋ひのみ せしめつつ 逢わぬ妹かも 年は経つつ」(巻11−2474)と詠まれた句があり、患者の訪れもめっきり少なく恋人を待つような気分の夏でした。一方、百日紅は、このぐらいの暑さにはなんのそのと、びくともしないで珊瑚色の花をつけて長期間咲き誇っていた。しかし、半日でも水やりを怠ると危険で、クリニックのそばの沙羅の木が1本、水あげが悪く枯れてしまったのが残念でした。
さて今回はクラシック音楽以外の話で、あのオランダ商館医師シーボルトと盆栽園芸業で増尾に在る柏芳園から今、学ぶことを述べます。
まず、シーボルトは医師としてのみ日本にやってきたのではなくて、むしろ園芸で生計をたてるために来訪したふしがあり、最近さかんにこの件に関する書籍が多く出版されている。
シーボルトに関する書籍は呉秀三(精神科;松沢病院長)が1926年(昭和1年)に「シーボルト先生、其生涯及功績」を上梓し、1967年に平凡社から再録されているので読まれた方もおられるとおもう。
1996年はシーボルト生誕200年で、記念切手がドイツ、日本で発行になっており、シーボルトの鳴滝塾の精神をひく学問の場として、平成11年4月に県立長崎シーボルト大学が出来、この大学と附属図書館がホームページで閲覧できる。
また、オランダは日本と国交をもったのが1600年4月1日、慶長6年関ヶ原の戦いの時代で、九州臼杵湾に息も絶え絶えにデ・リーフデ号が漂着したのが日蘭交流のはじまりである。
2000年には日本とオランダの修好400年の記念行事が各地で盛大におこなわれた。今こそ、シーボルトの全行動を理解し、彼から何を学ぶかを考えてみたい。

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトはドイツのヴュルツブルグの出身で1796年2月17日に生まれている。バイエルン王国ヴュルツブルグはフランクフルトとバンベルグの中間に位置する都市で、中央にライン川の支流マイン川がながれている学都である。
父親クリストフ・シーボルトは大学外科系教授で一流の家柄。ちなみに親戚に1835年生まれのアガーテがいた。彼女は知的美人の声楽家で、あのブラームスが恋心を抱き、弦楽六重奏第2番作品36アガーテ streichsextettG major Op36 Agathe を作曲している。特に2楽章スケルツォのメロディーがすばらしい。當のシーボルト本人もピアノ曲を作曲しており、最近CD化されている。カッポレが含まれているが内容は平凡。使用していたピアノは、資金調達していた萩藩商人四代熊谷五右衛門義比に贈られ、現在も萩の熊谷美術館に保存されている。
イギリスのRolf & Sons の製作で、箱形スクエア・ピアノ(ターフェルピアノ:クラヴィコードにピアノアクションを組み込んだもの)である。江戸参府にも持参し演奏を披露した模様で、当時ベートーヴェン、シューベルトが健在の時代であった。
ヴュルツブルグ大学を卒業後2年間開業していたが、叔父の奨めでオランダ領東インドで軍医として勤務し、ジャワ島のパタヴィア(今のインドネシアのジャカルタ)に赴任している。このとき風土病で1ヶ月間静養中、オランダ政府のカペレン男爵から日本赴任を奨められている。そして自然科学を修め、医者、植物学者、博物学者として、日本の自然に関するすべての資料を男爵およびオランダ政府に送ることの契約をおこなっている。
ここで長崎行きが決定され、親日家シーボルト、ヨーロッパへの不思議の国日本の紹介者としての人生がはじまった。肩書きは「日本における学術調査の使命を帯びた外科少佐ドクトル フォン・シボールト:De Chirungijin Majoor belast met het Naturkundig onderzoek Dr. von Siebold 」。このマルチ人間はカペレン男爵の指導でなされたもので、もし男爵の奨めがなければ鎖国日本での近代医学の嚆矢は、かなり遅れることになっていたであろう。
彼が長崎出島に医官として赴任したのは26歳のときで、江戸の後期、文政6年(1823年)8月11日、徳川11代将軍家斎の時代である。天保元年1830年の1月1日シーボルト事件で日本御構、国外追放まで、わずか6年間の来日であった。しかし、この6年間に膨大な日本の自然科学資料を蒐集し、オランダに情報を送っている。
出島に到着し直ぐに診察をおこない、外科手術を週1回程度でおこない、救急医療も出島内でおこなわれており、長崎市内までの往診診療はない。そのほか種痘、白内障手術、兎唇の手術まで手がけている。週3回の塾、講義をおこない、同時に植物採集、動物の剥製つくりまでてがけている。
最初の弟子として美馬順三、高良斎、吉雄幸載、平井海蔵、湊長安、岡研介6名がいた。
彼らに診断法、臨床観察、検死所見、種痘の基礎を教授し、その他に植物、動物の蒐集には各人からレポート報告、オランダ語の学位論文と納品を義務付けている。この方法でシーボルト自身は出島から出ずに多数の情報を蒐集したわけである。
来日3ヶ月後には「日本博物誌」を発表している。1年で出島での植物園には2,000種の草木花があつめられている。シーボルトの身の回りの世話をしていた16歳の滝がアジサイを福済寺からもってきてシーボルトを慰めている。シーボルトはこの花木に Hydrangea Otaksa と学術名に楠本滝の名前を織り込んでヨーロッパに紹介している。
お滝さんを彼の耳には「おたくさ」と聞こえていたようだ。この事実を発見したのは箱根底倉の蔦屋旅館沢田武次郎氏といわれている。10月に結婚し滝とのあいだに1826年に出来た子供の名をイネといい日本初の女医であることは先刻ご存じ。
1年後、文政7年1824年には出島での塾生が多数のため長崎奉行高橋越前守重賢の計らいで、ヨーロッパ人による、はじめての私立学校として長崎市北東の鳴滝に塾をひらいている。
美馬は宇和島藩の蘭学者で、鳴滝塾初代塾長であり、つる篭などに使用するミツバアケビを金峰山で蒐集し報告しているが、1年目にして文政8年(1825年)31歳でコレラにて死亡してしまった。
19世紀に入って貿易が盛んになり、コレラは世界的流行(パンデミー)し、その第1波が文政5年(1822年)にインドのベンガルから日本に上陸した。この余波で秀才美馬は死亡。コレラはその後大坂、京都の西日本で猛威を振るい三日コロリとして恐れられたが、この時は箱根をこえていない。
しかし、第3波は強烈で、36年後の安政5年(1858年)江戸でのコレラによる死者は26万人に及んだ。この年の翌年、シーボルトの第2回目の来日の年に当たるが、将軍も罹患し外国医師が必要になったため、徳川幕府の崩壊が早められたといわれる。コレラ菌がコッホにより発見されたのは1883年のことである。
高は蘭方医で眼科を専門とし、江戸参府にも同行しており、彼の論文には「生理問答」、「日本疾病志」、「シナ原産樹木絢爛の記述」、「日本における顔料の調合」などがあり、また多くの眼科書の訳書を提出している。その後明石藩に召し抱えられていたが弘化3年(1846年)死亡。2度目のシーボルト来日には再会することは叶わなかった。
2年後、文政8年1825年にはシーボルトが日本茶の種子をジャワまでおくり当地で栽培可能になっている。採集した有名な植物として椿、連翹、珍しいものはキシミ、ミツバアケビ、アサガラなど栽培され、植物研究助手のフィレネーフェや川原慶賀が図版にしているが、これらはオランダのライデン大学で整理保存されている。
その他、カノコユリ、ケシ、アカバナ、エゾオオバコ、レンゲショウマ、ナデシコ、エゴ、シュンギク、キキョウ、ヤグルマソウ、ノツハゼ、ソテツ、リョウブ、ハマナシ、シャラ、イワカガミなど蒐集し、膨大で枚挙にいとまがない植物の蒐集で、これを枚挙生物学と称する。
最終的には6年間で12,000点の植物を蒐集している。年平均2,000点、月170点、25点日々蒐集したことになる。驚異的な数でこのほか動物、魚、生活品など徹底した膨大な蒐集である。
コレクションに何の意味があるのか?との疑問があろうが、医学生時代に恩師南名誉教授から教わったことであるが、学とは知識の網羅羅列ではなく、系統、体系だてられた知識をいう。知識がsystematicに系統たてられ構築されてこそ学問という。
とくに科学、医学では学問の目的が合目的的で真理探究のための知識でなければならない。このことを教わったことが昨日のことのように思い出される。徹底した知識の収集がおこなわれても、これを整理し学問として再構築するのは難しい。この点で私も五十路をすぎても系統だてられた知識はまだナイ。学成り難し。
シーボルト以降日本の過去の事象で、日本の美を再発見しているのは遺跡のモース、仏画のフェノロサのように米国人で、日本人は他国人から指摘されなければ自らの文化美には目覚めない人種のようである。
宗教や日常的慣習から美の文化を発見するのはむずかしいが、とくに日本人は自らの文化を美学として認識してイナイ民族である。骨董品で最近、古伊万里が流行っているが、これも当時は日常雑貨品であるものが、300年たつと骨董価値がでてくるわけである。
ついでの話であるがジャポニズム、コレクターで香合を蒐集していた人物をご存じか。
第一次世界大戦時の強面、巨漢フランス首相ジョルジュ=クレマンソーは日本の小さな香合のコレクターで、その膨大なコレクションは彼の死後(1929年)行方不明になっていたが、これが1976年、蓑豊研究員がカナダのモントリオール博物館に3,500のkojoとして登録保存されているのを偶然発見した。2000年に日本への里帰りで名古屋、高崎で公開されている。
kogoとして保存されていれば、早めに整理公開されていたであろう。これも、たまたまモントリオール博物館を訪れたボストン美術館長ヤン・ホンテン氏から蓑はクレマンソーの収集品であることを指摘されている。日本各地の陶窯の焼き物で野々村仁清、尾形乾山の作も含まれた豪華な収集である。
さて、文政の江戸では園芸が大流行しており盆栽が高値で取引きされ、金生樹(かねなるき)とうたわれ本まで発刊されていた。寛政の松平定信は隠居後楽翁と称し、築地の下屋敷に広大な庭園浴恩園をもうけていたし、各大名屋敷の庭ではガーデニングが大流行しており、園芸の爛熟期にあたる。
庶民のなかでも南総里見八犬伝の著者、滝沢馬琴は文政7年(1824年)神田神明町に移り住んで庭作りで、医者の息子のために狭い庭を薬草園に仕立てている。
当時江戸で活躍していた人物は、伊能忠敬、十辺舎一九、小林一茶、歌川豊国、葛飾北斎。司馬江漢(1747−1818)はすでにいない、医学書としての「養生訓」の貝原益軒も正徳4年(1714年)に84歳で死亡。子供がいなかったが22歳年下の妻東軒と仲むつまじく、「愛敬」の辞世の句を博多の金龍寺に奉納している。
解体新書ができたのは、安永3年(1774年)で、文政の50年前。その杉田玄白はすでに文化14年(1817年)に84歳の生涯を終えている。
思想家、日本国家論者では本居宣長(1730−1801)の死後、儒教学者として小野蘭山(1729−1810)や井岡桜仙(1778−1837)らがいるが、蘭学洋学にとってかわっている。新井白石(1657ー1725)は初期、平賀源内(1728−1779)が活躍したのは江戸中期である。
ついでに、文学方面で辞世の句を紹介しておく。
芭蕉
元禄7年(1694年)10月12日、51歳腸結核で死亡。
旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る
蕪村
天明3年(1783年)卒中、67歳で死亡。
白梅に 明くる夜ばかりに なりにけり
一茶
文政10年(1829年)胃癌、65歳死亡。
もどかしや 雁は自由に 友をよぶ
良寛
新潟寺泊で天保2年(1831年)、直腸癌で74歳で死亡。
うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ
話しをシーボルトにもどし、ついに3年後、4年目文政9年(1826年)にして江戸参府をおこなっている。
2月15日、長崎出立。途中、名古屋で伊藤圭介にあい、鳴滝まで来て学ぶこととなり、シーボルトの植物標本の整理日本名の記入を手伝っている。伊藤圭介はシーボルト帰国後、リンネの植物分類体系を泰西本草名疏として著し、明治に東京大学教授となり、日本で最初の理学博士となっている。
江戸参府の4月6日、富士山の高さを測定しているが、さほど驚いた様子もなく、景観も記載していない。ところが人々の歓迎接待ぶりを、やさしき日本の情なりと、その旅情の慰めでの款待を絶賛している。人間の観察に興味あるところは医師らしきところか。しかし、富士の裾野に有名な原の植物園があると聞き、いそいそと出かけている。
そこは植木屋植松与右衛門七代目季英の大庭園で、シーボルトの江戸参府日記には
『日本風につくられ、今迄日本にて見しものの中にて最も美しく又観賞植物に最も豊かなるものなりし。入口には木の階段ありて、そこに岩をあしらひ、鉢に植えたる松の樹は人工に枝振を作りたり。人の観賞する桃、桜、梨、ズミ、細辛、蘭の属は列をなして栽培せられ、ここには杜鵑花(さつき)、羊躑躅(つつじ)あり、かしこには椿、山茶花あり、小さく石の穿ちし池は、梔子、羊歯に囲まれて、かはり鯉に生気を添へたり。
人々の最好む庭樹、飾樹として別の植木床に培われたるは、牡丹、百合、桜草、菊、仙翁花などなり。楓の数はいと多く、サラサドウダン、南天竹,椰(なぎ)等の花樹を繞らし植ゑたり。温室もしつらへて、万両、細辛、琉球産の草樹を容れてて冬の凍り、春の寒さを防ぎたり、他の一方には柏、櫟(イチイ)、檜(ケヤキ)、桜桃の逍遥林あり。』
と植物観察はかなり詳しい。
その後、4月10日品川に到着。江戸で頸を長くして待てない桂川甫賢、宇田川榕菴が品川まで迎えにきている。
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4月11日 |
江戸では日本橋本石町三丁目長崎屋源右衛門方に泊まり、この時大槻玄沢に会って儀礼の挨拶をおこなっている。 |
| 4月12日 |
荷物整理しているとき薩摩藩から鉢植えの桜30鉢もらうが、金をわたし、品物は長崎におくってもらうように手配している。 |
| 4月13日 |
多数の医師来訪し、医師の位につき医師、法眼、法橋の順であることを教わる。 |
| 4月14日 |
3人の成人を診察している。診療内容は不明 |
| 4月15日 |
難産の治療法を島津斉昭に教授。 |
| 4月16日 |
最上徳内が蝦夷樺太地図を持参。犬そりの話を聞く。 |
| 4月18日 |
天文方高橋作左衛門景保きたる。この時地図をもらいうけたか否かは日記には記載なし。 |
| 4月19日 |
桂川と江戸滞在期間延長の話しあり。このときはよい返事を聞く。 |
| 4月20日 |
眼科医をあつめ眼の解剖、豚で眼手術を教授。 |
| 4月21日 |
徳川家斉の13子15歳で死亡の為謁見は延期。 |
| 4月22日 |
最上から蝦夷の情報を聞く。 |
| 4月23日 |
種痘の説明会を開く。 |
| 4月24日 |
来客多し。 |
| 4月25日 |
かべ姫診察。だれのことか不明。4月26日、初生児に兎唇手術し、3名に種痘す。 |
| 4月27日 |
2名種痘す。 |
| 4月28日 |
ラッコの皮を小判70枚で買う。 |
| 4月29日 |
幕府天文方大勢で来訪。 |
| 4月30日 |
滞在延期を幕府に申請したと。 |
| 5月1日 |
午前6時将軍家斉世継ぎ家慶に謁見 |
| 5月2日 |
頭痛のためよこになる。宇田川榕菴、桂川甫賢、土生玄硯らあう。周囲の江戸人はシーボルトの長期滞在を希望し、本人も植物採集のために長期滞在を望むが、漢方医輩が反対し拒否され わずか1ケ月で江戸からひきあげることとなった。 |
| 5月18日 |
江戸出立し、途中で再度原園を訪れている。 |
| 7月7日 |
長崎に戻る。年末まで整理で追われている。 |
そして4年後、5年目文政10年(1827年)には小旅行を計画し小瀬戸、岩屋山、西山御薬園で植物採集している。
日本におとずれた植物学者で17世紀のケンペルと、18世紀のツュンベルクの記念碑を出島に立てている。この碑の裏にローマの詩人ウェルギリウスの「わざによりて生を高めることこそ美徳なれ」を刻んでいる。この名言は医学ではヒポクラテスの「医はアートである」に優り、医学、生物学、自然科学の就学の目的はこの言葉に集約されていると考える。
その後、5年後の6年目文政11年(1828年)事件発生。
江戸から帰ってきて1年後にシーボルト事件がおこっている。事件の真相は不明であるが、江戸であった間宮林蔵に蝦夷地で採取した押し葉標本と蝦夷地図が欲しく間宮宛に手紙を1827年7月におくっている。これを幕府天文方高橋景保が押収しようとしたか、中身を確認したか不明であるが、間宮が幕府に直接届けたため、手紙がそのままシーボルトに返送されてきた。
幕府は国家機密書類あつかいの伊能忠敬蝦夷地地図を外国人に手渡していたことが発覚し、シーボルトから書類地図没収、高橋景保は獄門中病死している。
したがって、間宮からの密告で幕府はシーボルトをスパイと判定し、地図没収、日本追放になったのが事件の実態と考えられている。
目的は樺太の戦争防衛にかかわっていたのではないかとの見方であるが、シーボルト事件と拘わりたくないため、日本側の資料がほとんど破棄処分されており真実解明はむずかしい。後日イネの証言では、シーボルトは小通詞助吉雄忠次郎から長崎奉行の取り調べがある話を1828年12月17日に突然聞き、この夜、飼っている猿の箱底にかくしていた地図を徹夜で写していたという。
ついに1年間鳴滝から出島に移され審議の結果、文政12年(1829年)10月22日に追放が決定した。ただちに船に文学的、民俗学的コレクション5,000のほか、200の哺乳類標本、900の鳥標本、750の魚類標本、170の爬虫類標本、5,000の無脊椎動物(海老、蟹)標本、12,000の植物標本を積み込み、おたき、いねと別れを告げ、1830年1月1日に長崎を出航している。
1830年7月7日オランダ、ライデンに到着。その後、医療に従事することなく日本から持ち帰った資料の整理にあけくれ、三部作「日本」、「ファウナ・ヤポニカ」、「フロラ・ヤポニカ」を執筆刊行している。黒船のペリーはこのシーボルトの「日本」を読んで日本を研究し来航している。
オランダ王立園芸振興会が設立され1845年には花の種の通信販売を開始している。とくにカノコユリ、テッポウユリが爆発的な売れ行きで、現在ではカサブランカまで変種がつくられるようになっている。
結局シーボルトがヨーロッパに導入した日本の代表的な植物はアジサイ、ガクアジサイ、レンギョウ、ツバキ、サザンカ、ボタン、樹木ではシキミ、コウヤマキ、キリ、ウメなどである。このなかで、ヨーロッパで驚異的に売れたのはテッポウユリとツバキであった。その後も日本との園芸業の貿易は明治23年(1890年)の横浜植木商会による園芸産業が設立されるまで続いていた。
シーボルトはこの1845年7月、49歳でヘレーネ・ガーゲルンとベルリンで再婚、3男2女を授かっている。
この後も再三日本訪問の機会をねらっていたが、ついに第2回目来日となった。時は安政6年(1859年)から文久2年(1862年)の3年間で、15歳の長男アレキサンダーを同行させている。このときはシーボルトは63歳である。
英仏の対馬占領の件と貨幣換金、為替の件で江戸にうつり幕府顧問として事情聴取されている。
文久元年(1861年)5月28日、英公使2名が水戸藩士に襲撃され死亡。この東禅寺事件では負傷した浪人を手当し、無意味な殺傷は中止するように強く幕府に意見を述べている。しかし、幕府寄りの指導に、こんどはオランダをふくめた米英仏露の西洋諸国の反発を買い、オランダ領事館から解雇処分をうけ、文久2年(1862年)3月12日に失意のうちにライデンに帰国している。
英人医師ウイリアム・ウィルスが文久2年(1862年)5月12日に長崎に到着し、グラバー邸にとまり6月12日に横浜に移っていた。そして、今度は生麦事件が文久2年8月21日に発生している。この時すでにシーボルトは帰国しており、長男がイギリスの通訳アーネストサトウ、医師ウィルスとともに事件の対応をおこなっている。
騎乗イギリス人2人が神奈川生麦で薩摩藩行列乱入により刃傷された事件で、この後、補償問題が幕府の存在を大きく揺さぶられ江戸崩壊となる。もし、シーボルトが6ヶ月日本滞在が延びていれば適切な創傷処置がおこなわれ、幕府の損害も縮小され、江戸ももう少し延期されていたかもしれないのである。
シーボルトはこの2回目の来日にもオランダに植物を送っているが、1,200種でこのうち活きたまま到着したのは282種と6分の1であった。このうちの54種が気候馴化園で花を咲かしている。そのリストはイロハモミジ、ハウチカエデ、ツルマサキ、オニグルミ、トチノキ、ヤブデアリ、ヤブウツギ、キズタ、シロヤブキ、タラノキ、チョウセンマキ、ナギ、コウヤマキ、アスナロ、ギボウシ、コンニャクなどである。
帰国後はオランダ在住が困難となり、ミュンヘンに移り住んでいる。しかし4年後1866年10月18日ミュンヘンで70歳で生涯を閉じている。死因は肺炎からの敗血症とされている。この年は日本は慶應2年で徳川幕府の最終年で明治の2年前である。滝は追うように1869年62歳で死亡。ガーゲルン夫人は1877年57歳で死亡している。
彼の死後、植物資料はロシアアカデミーがすべて買い取っている。その他、子息の嫁ぎ先の家に日記などの関連資料が保存されており、これらがブランデンシュタイン・ツェッペリン家文書といわれるものである。
ブランデンシュタイン・ツェッペリン家文書とはシーボルトの次女、マティルデがブランデンシュタイン家に嫁いで産んだ息子が飛行船で有名なツェッペリンの娘と結婚しているのでシーボルト家の文書資料がこの両家に残っている。これを最近読み直してシーボルト研究がおこなわれているわけである。日本側の資料はシーボルト事件の発生にともない内容を変更してあったり、消却処分した文書が多いため精確な情報採集は困難になっている。

宇田川榕菴は江戸と津山藩の御典医で1798年生まれでシーボルトの2歳年下。大垣藩の医官江沢養樹の長男として江戸で生まれたが13歳の時津山藩の侍医、宇田川玄真の養子に入る。
父玄真自身は杉田玄白の養子にはいり、その後娘と結婚していたが、本人の放蕩生活のため離縁され、その後改心し、宇田川玄随の養子になっている。榕菴は14歳から玄真から漢方医学、儒学を学び18歳から蘭学を馬場佐十郎から学んでいる。
この年にすでに哥非乙説(コヒイ)コーヒーの紹介文を刊行しており、24歳1822年に植物学書「菩多尼下訶経」を漢文で経文風に書いている。ボタニカとはオランダ語でBotanica(植物)のことである。その1年間後にはシーボルトが長崎に到着し、すぐに連絡を取っている。
1825年にはアキタブキの拓本をおくっている。直径1mにおよぶフキでこれが掛け軸となってのこっている。
シーボルトの「日本博物誌」の植物一覧は447種もの日本植物が紹介されており、この中に1種のみ学名に日本人名がはいっている。これはツクバネ(衝羽根)でシーボルトの命名で榕菴から譲り受けたためカリュコプテリス・ヨーアンとしてオランダに紹介されている。その後学術名は変更されているので榕菴の名はのこっていない。
シーボルトが江戸参府の際、鍛冶橋の自宅から毎日日本橋の長崎家にかよい植物学の解釈を意見交換している。その後も長崎シーボルトと文交換をさかんに行い、そのことが榕菴自身のキリシタン疑いやシーボルト事件の関与疑惑を賭けられている。
榕菴は自力で1837年にヘンリの化学の概説の訳本で日本初の化学書「舎密開宗」セミカイソを刊行している。ここで彼は漢学の知識を充分発揮し酸素や窒素という素の字を使い始めた。それ以前は、酸質や窒質と質の字が使われていた。
例えばgrondstofは元素、waterstofは水素、koolstofは炭素というように訳している。セミカイソはラボアジェの化学体系を完全に消化しており、試薬という字を使用したのも榕菴である。デジタルで画素の字句もこれに習ったものである。
その後、シーボルトから譲り受けていたドイツ語のシュプレンゲルの植物学入門書全3巻を1839年「百網全譜」全4巻として発刊している。
この末尾にかれの生き方が記載されており「病身ニシテ臥遊、泛舟ノ餘祗小説ヲ読ミ、月琴ヲ弾ズル而己」と記している。臥遊とは仮想旅行のことでおそらくヨーロッパの地図を見ながら夢ごこちで旅行し、船遊びし、本をよみ、音楽をたのしんでいたもので、シーボルトが日本の学術的発見者なら、榕菴はヨーロッパの学術的発見者で、日本最初の近代人であり、きわめて有能な人物であったが弘化3年(1846年)8月13日48歳で死亡している。彼もシーボルトの2度目の来日には遠く及ばなかった。
賀来飛霞(かくひか;1816−1894年)は大分の人で幕末の3大本草家である(伊藤圭介、飯沼慾斎)。伊藤圭介の門下生で文化13年1816年生まれで、兄の佐之がシーボルトから直接西洋医学を学んでおり、シーボルトの孫弟子にあたる。
飛霞自身は小石川植物園で所長をしており、その植物図譜は画技がみごとでデッサンは芸術的である。現在みても花名が即座にわかるほど写実的である。
このようにみるとシーボルトの鉈(なた)ではったような激しく破天荒な生き方と、冷徹なまでの見解による実践と、植物を愛でる優しい心遣いが共存する存在は、生命を探求する医師として孤高で澄んでいる。そして日本人への影響力は比類なく大きい。

さて話は現代にうつりますが、老鴉柿ロウロカキ(鴉;からす)という小さな柿の木があり、これを18年前昭和59年(1984年)に中国浙江省から数千本もち帰ってきた人がいる。
3割は枯れて、実をつけたのは7割のみで、それも5年かかっている。この人がなんと8年前になくなられた山口医院、山口安巳先生の次男の安久さんである。
増尾の柏芳園で姫柿と名を変え園内にところ狭しと育成されており、全国から注目されている園芸家で、横浜そごうの屋上にも園芸コーナーがもうけられている。興味のあるかたは是非立ち寄られて利用していただきたい。
全国の盆栽ファンは今、柏の増尾をめざしている。大袈裟ではない。柏の増尾まで盆栽姫柿を買い付けに来る人が絶えず、さらに姫柿に長寿鳳となずけられた苗木は祝い物の進呈物として売れているとのこと。名前をつけていないときは売れなかったが、長寿鳳と命名して急激に売れ始めたとのこと。命名は大切です。
また今年の4月から10月までオランダのハールレマミーアで10年に1度開催される国際園芸博覧会フロリアード2002年に日本代表としてこの姫柿が出品されている。日本代表ですぞ。
また奥様の山口みなさんは、ミニ盆栽の名手でNHKのガーデニング番組に出演され、BONSAIの本を出版されたりかなり忙しそうである。
たかが盆栽という事なかれ。盆栽でもっとも育成が困難といわれている瑠璃瓢箪は柏の手塚祐四郎氏が大宮盆栽町の竹山房造芙蓉園の高橋さんから昭和55年にゆずりうけ、これを山口さんが丹精込めて育てておられる。いまや柏は山口さんのおかげで全国の盆栽中心地になっているのである。
宇宙規模での地球温暖化のなか、地域で環境改善、CO2問題を解決していく時代である。身近なところでは全国で最悪汚染沼手賀沼がある。生活排水の処理方法ばかりでなく、水草を育成したり、雑草をかりこむなど人間の手がはいった自然保護、いわゆるビオトープを施す環境改善が必要なのである。野放しの自然環境は自然崩壊をまねく。園芸についても山口氏が苦労されてここまで育てられている。
柏は自然が少ない街ですが園芸は盛んなほうで、おそらく全国でも有数の園芸市ではないでしょうか。町中をみても路地栽培がみうけられ、歴代の古い家屋の庭には立派な欅が林立している。


紫陽花の花に さみだれふりそそぎ 枝ことく前のめりしぬ
(岡麓;明治10年−昭和26年)
アジサイが、日本の梅雨時期に存在しなかったら、じめじめした1ケ月の鬱陶しい気分がさらに不快感の強い季節となる。紫陽花が観賞できるだけで、私は大好きな季節で、とくに愛用の油臭い番傘を手に、パタパタと雨音のリズムのなかで紫陽花を観賞するのは心地よい。
シーボルトも滝からのプレゼントをうけとることがなく、ヨーロッパに紫陽花を紹介しなければ、心晴れやかな夏を迎えられなかったであろう。上の句はアララギの歌詠みで自ら書をしたためた岡麓の短歌。彼の書は品格、筆力、字形ともに素晴らしい。聖心女子の習字の先生をしていた関係で遺墨集が出版されている。世に歌人は多いが、書家として一家をなした人は近年少ない。
とくに、筆力が初めの一筆から終筆までかわらず、かすれがないのが特徴である。パソコン時代に再評価して頂きたい、忘れられた、隠れた巨匠である。今回、シーボルトー紫陽花の関連から知った。和辻哲郎が「埋もれた日本」のなかで「歌集涌井を読む」で紹介している。
シーボルトの業績は日本の医学でも植物学、動物学、自然科学全般で機会ある毎に見直されている。それは彼の物の本質を見抜く観察力の鋭さと生命の本質を見抜こうとした様々な挑戦から、後人が何かを学び取ろうとしてきた為であろう。
シーボルトにとって希望のある、生き甲斐のある生活とはなんであったのか?
19世紀にはヨーロッパでは余裕と余暇がうまれ東洋ブームがおこっているが、シーボルト本人は園芸にもジャポニズムやシノワズリーを育む可能性を充分感じていた。自宅に多様な植物を植えて観賞する庭園趣味や園芸趣味におけるジャポニズムやシノワズリー。また公共の庭園である公園が設けられ市民の憩いの場として受け入れられる園芸。これにいち早く着目していた。
絵画でのジャポニズムはゴッホが傾倒した1886年頃のパリにおこっており、シーボルト死後20年のことで、園芸より少し遅れている。日本の時代は明治19年になっていた。
現在日本に眼をむけると、戦後の社会経済の行き詰まり、地球の2分極化の崩壊、昨年のニューヨークテロ事件が日本経済に強く影響し、政治家の建て直し政策も矛盾だらけで、先行きは真っ暗である。医療関係の会社やサービス業者のホテルなどの倒産が相次ぎ、今年後半からは生き残りに賭ける年になりそうである。
さらに、不況に追い打ちをかけるかのように、9月17日に小泉首相が北朝鮮を突然訪れ、拉致された11名のうち8名はすでに死亡という痛ましい結果を金正日から報告をうけ、愕然とし顔面硬直していた。日本人の国際感覚もバランスがとれていない。これからの日本は外交でも難しい局面が多くなる。
かつての日本の心はどこにいってしまったのか。庭先のねじ花をみて福井藩の文人橘曙寛(1812年文化9年〜1868年慶応4年)は、
たのしみは 朝おきいでて 昨日まで無りし花の 咲けるをみるとき
と余裕とゆとりの心を詠んだとクリントン米大統領が指摘している。平成の時代からは、ヨーロッパが憧れた江戸のくらしは遠い幻影になってしまった。
しかし、バブル崩壊後も園芸ブームはのこっている。医療癒し系での芳香治療アロマテラピーや園芸治療ホーティカルチュラルセラピーが実践されつつあり、柏芳園の山口さんから、園芸、盆栽の楽しみが人生を色濃くかえることを知り、山も海もない柏という一地方都市を暮らしやすい街にするための一案が、ガーデニングにかくされていることをシーボルトから学んだ。
市の財源不足の策を練らなければならなくなっている現在、千葉市ではすでにアピールしていることであるが、園芸による町おこしを考えてはどうだろうか。フローラ柏市をめざして。高齢者にも手伝える仕事でもあるし、介護保険料もまかなえるかもしれない。そう、夢想している。
今年の暑い夏は花の名前を覚えることと、自分で鉢植えができるようになったこと、自作のつる篭も増え、忙しい充実した夏であった。園芸を楽しむためには毎日、水をやり、季節の温度に気を配り、肥料を与えるタイミングを考えるなどかなりの労力が必要であることを実感した夏でもあった。清貧の生活を楽しみましょう。